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2002年5月7日~2002年9月16日

(02/9/16)
キャプテン会長
川淵JFA会長の呼び名はキャプテンということになったそうですが、第4代会長野津謙もキャプテン会長と呼ばれていました(『野津謙の世界 その素晴らしき仲間たち』(国際企画,1979)参照)。その意味は、単なる名誉職ではなく実際にリーダーシップを発揮した会長ということで、野津の場合はJFA内部の反対を押しきってクラマー氏を招聘したことが最大の功績です。この結果が日本サッカー史に残る大成功だったことはいうまでもありません。川淵氏が世代から考えて野津がキャプテン会長と呼ばれていたことを知らないはずはなく、ジーコを独断?で招聘したのも、野津のひそみに倣ったんでしょうか。


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(02/9/11)
追加しました
『サッカー部創部20周年のあゆみ』(津山市役所サッカー部,1988)を追加しました。


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(02/9/9)
追加しました
『サッカー年鑑 1985』(山形県サッカー協会,1986)、『山形県サッカー年鑑 1986』(山形県サッカー協会,1987)を追加しました。


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(02/9/6)
日本最初のサッカー・リーグ
は成立年がはっきりしないのですが、原島好文「ソッカー十年の思ひ出」(『運動界』10巻4号1929年4月収載)によれば、 1917年の東京蹴球団創立直後、

 その頃英国大使館員だったヘーグさんが司会者となって、英大使トロフィー争奪のリーグ戦を始めた。加盟ティームは、東京 フットボールクラブ、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の七つで、規約は今のカレッヂ リーグのそれと異なるところがない。

東京フットボールクラブはイギリス大使館のチームで芝浦にグランドがあり、試合後はビールを出してくれたとのこと。 英訳名が東京蹴球団と同じになってしまうので、それぞれ上に国名をつけることにし、東京蹴球団は大日本(東京)蹴球団と 自称するようになった。原島は「誰かが何時だったか、大日本蹴球団は芦原将軍が名付け親かと云ったが、その由来は如斯である。」 と述べています。東京コスモポリタン・リーグと名づけたくなるようなインターナショナルな顔ぶれですね。


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(02/8/29)
ベッカムの生涯を辿る旅
というのがオンライン版ガ-ディアン紙の旅行欄 に出ています。ベッカム人気ここに極まれりですね。もちろんブルックリンも...(笑)。


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(02/8/19)
宇都宮徹壱著『ディナモ・フットボール』(みすず書房,2002)
副書名は「国家権力とロシア・東欧のサッカー」。ディナモ・モスクワがKGB直系のクラブであったように、旧ソ連とその衛星国の首都のディナモと名のつくクラブは、共産圏崩壊以前、各国秘密警察の特別の庇護を受け、リーグ戦で連続優勝回数を誇っていた。著者によれば、共産圏崩壊以前においても、「ディナモ」に対抗する「民衆のクラブ」(例:スパルタク・モスクワ)があり、公然と反体制を標榜できない民衆はそれらのクラブを支持することによって、反権力を意思表示していた。本書は2000年から2001年にかけて、ベルリン、キエフ、モスクワ、トビリシ(グルジア)、ブカレスト、ザグレブのディナモとそのライヴァル・クラブの現状をルポしたもの。
日本人が書いたサッカー本としては出色だとは思うが、サイモン・クーパー著『サッカーの敵』(白水社,2001)(原書は1994年刊行)の第1章「東欧フットボール」がやはり「ディナモ」をテーマにしているのに、参考文献(掲げてあるだけマシか?)に『サッカーの敵』がないのは不可解。著者(1966年生まれ)がどうやって「ディナモ」の存在を知ったか、何も書かれていない。文章もこなれていて、写真も良い(著者の本業は写真家)のに残念。
『サッカーの敵』は完訳ではなく、以下の3章が省略されているとのこと。
"Gazza, Europe, and the Fall of Margaret Thatcher"(ガスコイン、ヨーロッパ、マーガレット・サッチャーの没落)
"A Day with Helenio Herrera"(エレニオ・エレラとの一日)
"Dutch and English : Why Bobby Robson Failed in Holland"(オランダ人とイギリス人:ボビー・ロブソンはなぜオランダで失敗したか)
いずれも面白そうですが、多分完訳すると分厚くなりすぎたんでしょうね。


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(02/8/2)
『穆清サッカースポーツ少年団15周年記念誌』(1989)
を追加しました。


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(02/8/1)
イングランドに勝った最初の大陸のナショナル・チーム
すなわち、英国諸島(スコットランドなどを含む)外で初めてイングランドに勝ったのはスペインで、1928年マドリッドのメトロポリタノ競技場。1931年ロンドンのハイベリーでリターンマッチが行われ、イングランドが7-1で大勝し、リヴェンジを果たしています。このロンドンの国際試合は斎藤才三(関学OB、毎日新聞記者)が観戦しており、『蹴球』no.7 1933.12に観戦記を書いています。これがヨーロッパの国際試合レポートの嚆矢でしょう。


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(02/7/31)
フィル・ボール著『バルサとレアル スペイン・サッカー物語』(日本放送出版協会,2002)
原題は『Morbo : the story of Spanish football』。著者によれば“morbo”がスペイン・サッカーのキーワードで、あえて訳せば“病気”だが、手ごろな英語の類義語はないとのこと。西和辞典を引いても“病気”、“疾病”になっています。一昔前流行った“ビョーキ” のニュアンスか? 著者はバスク在住の英語教師。
副題が示すようなスペイン・サッカー史ですが、章立ては、
1.モルボ
2.勇猛果敢-スペイン・サッカー発祥の地ウェルバ
3.石切り工-アスレティック・ビルバオとバスク地方の政治
4.光と影-バルセロナをめぐる曖昧な真実
5.ホワイトノイズ-マドリードとフランコの遺産
6.五台のタクシー-セビリアの健全なライバル関係
7.田舎者、キュウリ、マットレスメーカーズ-スペインのクラブカルチャー
8.ダークホース-代表チームの不可解な失態
9.失われた序列
と、アンダルシア、バスク、カタルーニャ、カスティリア各地方のサッカー史から成っています。国全体の通史を記述するというのは不可能なんでしょうね。
スペイン・サッカー発祥の地は、イングランドに近い最東北部のバスクではなく、最西南部のアンダルシアの鉱山、レアルの創立者はカタルーニャ人...など意外な事実が記されています。スペイン代表の成績がいまひとつなのは、1920年のアントワープ・オリンピックで銀メダルという意外な好成績を残したのがその後過大な期待につながり、尾を引いたとのこと。内乱に先立つこと十数年前のこのオリンピックでも、多数を占めるバスク出身者がイレブン全員をバスク人で固めるよう監督に要求しています。
カタルーニャにおけるクライフの位置を、以下の記述が雄弁に物語っています。

 ヨハン・クライフ自身、カタルーニャ語はおぼえなかったが、一九七四年に息子にジョルディという洗礼名を(イングランドではセント・ジョージと呼ばれる地元の守護聖人にちなんで)つけたと宣言した。カタルーニャ語の名前がまだ憲法で禁止されていたころのことである。クライフは以来、名前の響きが気に入ったまでだと言いつづけているが、末期フランコ政権のもとで、公式には依然として口を封じられていた地元住民から、この洗礼名は過激で感謝のこもった行為と受け取られた。さらに、当初は住民登録を拒んだ当局を(ジョルディはオランダで生まれた)、断固たる主張で屈服させたことで、クライフは彼らの目になおさら偉大な英雄として映るようになった。(p.111)


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(02/7/30)
賀川浩氏
の著作がFC JAPANというサイトで以前から読めましたが、最近『グラン』(未見だがグランパス関係の雑誌)に連載されているエッセイがこのサイトにも転載されています。 Kagawa soccer library - stories 竹腰重丸や田辺五兵衛の小伝など、日本サッカー史に関心のある人は必見。


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(02/7/29)
サッカーと宗教
レンジャーズ対セルティックのグラスゴー・ダービーは、プロテスタント対カトリックという宗教的対立を背景にしていて、世界で最も熱いダービー・マッチとして著名です。ファーガソン家は祖父と母と妻がカトリック、祖母と父と彼自身がプロテスタントと3代続けて異なる宗教同士で婚姻しています。彼自身がプロテスタントになったのは信仰心よりも将来の就職を慮ってのことだそうです。

当時、この地域では仕事の面接で「出身校はどこですか?」と訊かれるのがふつうだった。カトリック系の学校だと答えようものなら就職のチャンスは激減する、いや、往々にして消え去る。こうした偏見は特に造船業界にはびこり、クライドで工場が閉鎖される最後の20年間にようやく薄れた。(p.20-21)

グラスゴー生まれで子供の頃からレンジャーズ・ファンだったファーガソンはあこがれのレンジャーズに入団しますが、「妻のキャシーがカトリック」というだけでチーム内で嫌がらせを受けます。

レンジャーズの失敗はマスコミに格好のネタを与え、かなりの数の評論家が私に噛み付いた。しかし、それよりはるかに深刻だったのが、キャシーの信仰をめぐる悪意のこもった噂話がアイブロックスやサポーターたちの集まる場所で渦巻いていることだった。中傷を広めた主犯はウィリー・アリスンだとわかっていた。彼は宗教的な偏見に凝り固まった広報担当で、カトリック信者と結婚するような人間はレンジャーズでプレーするにふさわしくないと、明らかに思っていた。後に、私たちに長男が生まれると、アリスンはマークがカトリック教会で洗礼を受けたという話を広めた。(p。118-119)

監督としてアバディーンで大成功を収めたファーガソンはレンジャーズからオファーを受けますが、

私が選手時代にアイブロックスで直面した偏狭さに、再び家族をさらすことになるような招聘には応じる気になれない、というのが私の本心だった。スコット・サイモンの忠告がなくても、キャシーの信仰する宗教はそれ自体、レンジャーズに戻るのはよいことではないと考える要因として十分だった。(p.256)

と断り、マンチェスターに行くことになります。ナイトを叙勲され、サーの称号がつくようになった人物の自伝であれば、日本だときれいごとばかり(例:日経の『私の履歴書』)という例が多いのですが、本書は以上のような「思い出したくないこと」が実名入りでたくさんでてきます。もちろん、「監督」の自伝なので、ベンチや2軍でくすぶっていたのを抜擢してやっと一人前にしたら、他チームからオファーを受けてさっさと出て行った例(当然実名入り)も豊富。2日前に記したように、選手に禁酒を命じた本人が以前は酒場経営者だったことを正直に書いていたりもします。


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(02/7/27)
監督の副業
アレックス・ファーガソンの自伝『マネージング・マイ・ライフ』(日刊スポーツ出版社,1999)によれば、マンU監督に就任直後、飲酒癖のある選手対策にさんざん苦労したことが述べられています。ところが、彼自身スコットランドで現役引退後、監督として最初のキャリアを積み始める頃グラスゴーで副業として「ファーギーズ」というパブを経営していて、サーバーからビールを注いでいる彼の写真も掲載されています。店は波止場近くにあって客層はあまり良くなかったようで、

 カクテルグラスを大量に注文すればファーギーズを徐々に高級な店に変えられるだろうなどと、いささか陳腐な考えを私が抱いていた頃、痛い目にあうぞとよく言われたものだ。カクテルグラスを使いはじめて最初の土曜の夜が過ぎると、その80パーセントが消えていた。(p.156)

パブは自己資金が少なくてもビール会社の融資で開店できたようで、ファーギーズが好調でショーズという店を開店したときは、総額2万2千ポンドのうちファーガソンと共同経営者が2千ポンドづつ負担し、残りの1万8千ポンドはドライブルーというビール会社から借入しています。
本書はトヨタ・カップでマンUの来日に合わせて刊行された。


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(02/7/19)
サッカー研究所
クレイグ・マクギル著『サッカー株式会社』(文藝春秋, 2002)に「ノーマン・チェスター卿サッカー研究所による調査 」が引用されています(p.15他)。ライセスター大学社会学部の Sir Norman Chester Centre for Football Research が正式名称。3人の専任研究者がいます。プレミア・リーグ、選手会、などから研究助成を受けて、プロ・サッカー・リーグのファン調査、女性とサッカー、サッカーと人種問題、イギリス・サッカーの変容といった研究テーマでリサーチを行っています。Norman Daniel Chesterは『Who's who 1980』によれば、1907年マンチェスター生まれ、マンチェスター大学、オックスフォード大学大学院卒業、母校で教鞭をとった政治(行政)学者。フーズ・フーの簡略な記述ではどういう因縁でサッカーとかかわりあうことになったのかわかりませんが、1966~68年Comittee on Association Football、1975年~Football Grounds Improvement Trustのメンバーになっています。政府のサッカー行政に関係していた人物のようです。重要な政策決定は必ずリサーチに基づいてなされるお国柄なので、このときに彼がサッカーに関するリサーチの必要性を提言したのかもしれません。オックスフォード大学にやはり彼の名を冠する政治学関係の奨学金があります。


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(02/7/16)
フーリガニズムの起源
小林章夫著『ブックエンド イギリス史の散歩道』(研究社出版,1992)には「キャットコール」という一節があって、17、8世紀イギリス演劇のハチャメチャぶりが伝えられています。「キャットコール」とは一種の笛で、役者へのブーイングに使用されたとのこと。一時ホーンがサッカー観戦の必需品だった時代もありましたが、それと同様に使用されたんでしょうか。天井桟敷から舞台にオレンジ、りんご、ジャガイモが投げつけられ、平土間席に酒ビンが飛んできたこともあったらしい。

 一七五九年一〇月の『ロンドン・クロニクル』によると、ドルーリー・レイン劇場である喜劇が上演されている途中、天井桟敷から平土間へ花火が投げこまれて大混乱、女性のなかには失神するものまで出たという。(同書p.27)

そうな。また、昔のイギリスでは公開処刑は、当日は徒弟奉公人の仕事は休みになるような祝祭的イベントで大観衆を集めたとのこと。

一八〇七年二月二十三日におこなわれた処刑では、ニューゲイト前の空き地におよそ四万人の人間がつめかけたためパニック状態となり、処刑終了後に調べてみると死者三〇名、意識不明の重体が七〇人あまり、路上に横たわっていた。死因は「圧死」。大群衆におしつぶされたわけである。(同書p.104-105)

こういう文献を読むと、フーリガンは現代特有の現象ではなく、昔なら公開処刑に熱狂し、天井桟敷で乱暴狼藉してた連中がサッカー場に来ただけのことではないかと。


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(02/7/11)
チャールズ・バカン
Charles Buchanは日本では戦前サッカー参考図書の著者として有名でした。1910年代から20年代にかけて活躍したイングランド代表選手なのですが、どんな選手かまではわかりませんでした。最近読んだブライアン・グランヴィル著『決定版ワールドカップ全史』(草思社,1998)中に以下の記述を見つけました。

 その点、ホドルに関する問題は、イングランドのサッカー史において古典的な事例だった。才気にあふれ、凡庸を嫌う異端派 - つまりホドルはチャーリー・バカン、レン・シャックルトン、スタンリー・マシューズらと同じ系譜に連なるプレーヤーだった。(同書p.316)

グレン・ホドルのようなタイプの創造性あふれるプレーヤーだったようです。イギリスでは「異端」なんですね(笑)。
彼の著書『Football aids』(Daily News, 1929)は、堀江忠男が浜松一中時代座右の書としていたそうです。昭和10(1935)年ころの『蹴球』誌に翻訳(岩崎玄訳)が連載されています。Peter J. Seddon編『Football compendium. 2nd ed.』(British Library, 1999)の解題は、

Buchan was a fine inside-foward who made a most effective contribution to the so-called "Lucky Arsenal" side created by Herbert Chapman in the late 1920s. This manual was written during his Highbury days.

著者がアーセナルの現役時代に書かれた本とのこと。本日誌01/10/7に記したように、チャップマンにCHを相手CFのマン・マークにつける(ストッパーにする)というアイデアを進言したのはバカンだったとのこと。


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(02/7/10)
ベッケンバウアーをスパイにした男
ゼップ・マイヤーといえば、オリバー・カーンの幼いころのアイドルで、バイエルン・ミュンヘンとドイツ代表のGKの先輩です。『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』(講談社,1976)に興味深いエピソードが記されています。14歳でアリアンツ保険会社の見習い社員になったベッケンバウアーは、同時にバイエルンのユース・チームでもプレイしていました。ユース・チームのGKマイヤーは既婚で、ベッケンバウアーによれば、

 ゴールキーパーのマイヤーの夫人は、わたしと同じ保険会社で働いていたので、勤務ぶりやほかの男と浮気しているかどうかなど、くわしく彼に報告しなければならなかった。もっとも浮気をしている事実はなかったが・・・。(同書p.48)

「皇帝」を興信所がわりに使ったマイヤーっていう奴は...


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(02/7/9)
戦前の「朝鮮代表」評
1936年のベルリン・オリンピック代表選考をめぐって、関東対関西、朝鮮対内地でゴタゴタしたので、その反省から3地域の交流試合が活発化します。1937年から朝日招待(関東1位対関西2位、関西1位対関東2位のタスキガケ)が始まり、翌1938-9年には関東、関西、朝鮮の3地域対抗戦が開催されます。1938年12月23日南甲子園運動場(全朝鮮3-1全関西)、12月25日同所(全朝鮮3-0全関東)、1939年2月5日神宮(全関東3-2全関西)で、アウェーで中1日のインターヴァルにもかかわらず、全朝鮮の完勝に終わっています。以下に『アサヒスポーツ』1939年1月第2号p.17に掲載された奥野幸治「三地域対抗蹴球の印象 -全鮮軍の勝因は優秀な体力と走力」から朝鮮チームの評を紹介します。

 試合後静かにこのチームの持つ特質を考察した時、先づ第一に頭に浮んだことは朝鮮軍の持つ頑健な身体と優秀な走力とであった。戦前やかましく論ぜられた個人技の優秀といふことは、優秀選手の集まりである本大会においては大した差異の有るものではなく、技量は大体において平均を保つものと見て間違ひないものである。よし差異があるとしてもそれは僅少な差異で、決して技量の差が決定的に試合を圧迫し左右し終せるほどの差に開きの有るものではないものである。今次三地域蹴球大会において朝鮮チームが関西、関東を押へた勝因のほとんどは彼等の体格が両チームの選手より重量があったことと、全員が揃って快足の持主だったことに依るものである。参考のために両日出場した全朝鮮チームの体重と身長を挙げて見よう。
 彼等の体格は身長とともに幅を備へてゐた。入場式に並んだ三軍選手を後から見て関西、関東の選手には身長があっても幅のないキャシャな身体の所有者の多いのに比較して、隣に並んで居た黒と黄の立縞のユニホームに身を包んだ全朝鮮選手の体格は実に立派なものだった。
 彼等はこの体格をよく活用して、攻めては敵バックスを身体を利かせて球に近づかしめず、守っては敵ドリブラーに体当りを試み、完全に相手をアウトオブボールにして球を奪取、その長身を利してのヘッディングは殆んど自軍で制するといふ優秀さを示した。又走力の優秀點(ママ)で、守っては敵FWの進出に容易に追付き、十分な余裕を持って絶えず敵より速く球にくっつくといふ優勢さで、攻めては敵バックスを振り切って敵の追従を許さないといふ状態で、絶えず球を保持し得る最大の原因を作ってゐた。その上体力の旺盛さは九十分間をキックオフの時と同様のスピードを以て走り切るといふ - 実に羨しいくらゐに余裕あるエネルギーの所有者であった。
 かかる根本的な問題は別としてそのプレイ振りを検討して見るに関東、関西両軍が球を大体平面的に運んでゐたに対して、彼らは高低双方を巧みに按配して時宜に応じた処置を採り、蹴球ゲームとして少くとも相手方より多面的にプレイするといふ特質を持ってゐたことは、われわれが再考する価値のあるところだと考へられた。しかしながら朝鮮チームの攻撃法の根幹は一体如何なるものだったかと考へる時、われわれには何物も浮んで来ないことを奇妙に思ふ。彼らの攻法がそれほど変化のあるものだったかも知れないが、それにしてもあまりに印象のないことを残念に思ふものである。九十分間の大半を自軍の足許に球を保持しながら、その得点量の僅少だったことは勿論相手チームバックの守備堅固を物語るものにしても、何らか考へるべきところがあるのではないだろうかとも思はれた。

京城蹴球団のような単独チームが内地の単独チームと試合したことはありますが、朝鮮「代表」が内地の地域代表(全関東は実質的には「日本代表」)と対戦するのはこれが初めて。2年前のオリンピック代表は全関東+金容植(全朝鮮のLIで参加)だったことを考えれば、「朝鮮代表」は極東大会はもちろん、オリンピックでも好勝負できたレベルのチームだったようです。戦後の日韓戦と同様、当たりの強さ、スピード、スタミナに勝っているだけでなく、パスの出し方にも工夫があったようですが、戦術面には疑問が呈されています。「名将」が指揮していればさらに爆発的な力を発揮していたかも(笑)。 この評のかなりの部分は今回W杯の韓国チーム評と共通しているようです。現韓国代表のエンブレムは虎ですが、「黒と黄の立縞のユニホーム」もやはり虎をイメージしてたんでしょうか?


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(02/7/8)
ベルリン・オリンピック代表立原元夫
の父は、下記の堀江の回想によれば、花井卓蔵とのこと。花井は明治、大正、昭和にわたって活躍した刑事弁護士の第一人者。足尾鉱毒事件、大逆事件など約1万件の弁護を担当した。政治家でもあり、衆議院、貴族院議員も務めている。星新一著『明治の人物誌』(新潮社, 1978。1998に新潮文庫で再刊)に花井の伝記あり。星の父一もあやうく冤罪になるところを、花井の弁護で無罪になったとのこと。花井は明治元年三原藩士立原家の四男に生まれたが、当時の兵役では相続人を徴兵しなかったので花井家に入籍した。陪審制度の導入に尽力し、一時的ながら実施されたこともあったそうです。 


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(02/7/5)
ベルリン・オリンピック代表堀江忠男の回想
「都の西北 - わが早稲田の青春」が『知識』1988年1~12月号に掲載されているのを見つけました。『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)と内容的にはかなり重複しています。掲載時著者は早稲田大学名誉教授にしてア式蹴球部監督。大不況を目の当たりにした著者は兄正規(マルクス経済学者)とともに、左翼思想の影響を受けます。

 当時、兄正規と私は市谷に借家して自炊をしていた。この家はコップ(日本プロレタリア文化連盟)のアジトに使用され、蔵原惟人、宮本顕治、中条(のち宮本)百合子などが出入りしていた。そのうちコップの首脳部が一斉検挙され、アジトが危なくなったので、借家をたたんで、池袋に住んでいた伯父近藤圭(私に経済学をやれとすすめてくれた)の家に居候をしていた。間もなくそこまで検挙の手が伸びて、戸塚暑に拘留された。(『知識』1988年2月号p.282)

とのこと。もちろん無事釈放され、オリンピックに出場できたわけです。


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(02/7/1)
『The complete association footballer』(Methuen, 1912)
はBertram Saxellye EversとEdward Hughes Daviesの共著。竹腰重丸は本書を筆写したノートを持っていたそうです。原書は前付け10p、本文230p。大正期に最も重要視された洋書のようです。Peter J. Seddon編『Football compendium. 2nd ed.』(British Library, 1999) の解題では、

This is the earliest truly comprehensive study of how to play the game - a weightly volume which may usefully be consulted by historians for an insight into the game in the early part of the century.

となっています。イギリスでもサッカー史上重要な文献のようです。


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(02/6/26)
ドイツvsブラジル
ですか。32年前に観たかったなあ。


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(02/6/24)
Otto Nerz著『Fussball』(Weidmann, 1926)
は昭和3(1928)年頃慶応主将の濱田諭吉が入手し、部員が手分けして翻訳したそうです。ドイツ語を習い始めた予科生が翻訳したので、『蘭学事始』状態だったとのこと。ネルツはドイツ代表初代監督(専任化後)、ショート・パス戦法を主とするオーストリアの流れをくむ内容だったようです。島田晋著『アソシエーション・フットボール』(1931)は本書に依拠しているとのこと。1925年にオフサイド・ルールの改正があり、本場でもそれ以前のサッカー指導書が陳腐化してしまい、新しい指導書がもとめられていたのではないかと考えられます。

ドイツは代表監督の在任期間の長い国で、ネルツ(1923~36)、ヘルベルガー(36~64)、シェーン(64~78)、デアバル(78~84)、ベッケンバウアー(84~90)、フォクツ(90~98)、リベック(98~00)、フェラー(00~  )と80年間で8人、1人平均10年在任しています。フェラーも今回のW杯で地位を磐石にし、次のユーロがよほどの不成績でなければ、2006年までは在任しそうですね。

ユーロといえば今秋には予選ラウンドがはじまりますが、今回W杯で最悪の籤運だったイングランド(予選でドイツと同じ組、本大会は「死のF組」、準々決勝でブラジルとあたった)は、予選リーグでトルコと同じ組に入っています。ユーロ予選第7組の今回W杯8強の2国の他はマケドニア、リヒテンシュタイン、スロバキア。1位は本大会出場、2位は他の組の2位とプレイ・オフなので、イングランドvsトルコはガチンコ必至。ユーロ予選の組み分け段階でトルコがここまでやるとは誰も思っていなかったのでしょうが。


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(02/6/19)
イングランド代表のエンブレム「スリー・ライオンズ」
は王家の紋章で12世紀末リチャード一世(獅子心王)が採用。獅子はプランタジネット家の家紋だったらしく、リチャードの父ヘンリー二世(プランタジネット朝の開祖)が獅子の紋章を使用していましたが、その数は1匹ないし2匹でした。なぜ「3匹の獅子」になったかというと、リチャードの弟ジョン(後の欠地王、イギリス史上最低の王といわれ、王権を制限するマグナ・カルタを承認させられる)が2匹の獅子の紋章を使用していたので、それと混同されるのを避けるため3匹にしたとのこと。というわけで、「3」という数字に特別な意味はないようです。The Royal Arms of England参照

ヘンリー二世の家庭はイギリスのロイヤル・ファミリーらしく(?)、夫妻、父子、そして息子同士で反目しあっており、『冬のライオン』(1968)はそれを題材にした映画です。ヘンリー役はピーター・オトゥール。ヘンリーの后エリノア役はキャサリン・ヘプバーンが貫禄十分に演じてオスカー獲得。リチャード役は映画初出演のアンソニー・ホプキンス。ハンニバル・レクター博士の映画デビューはキャサリン・ヘプバーンの息子役でした。


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(02/6/17)
標高とサッカー
クリス・テイラー著『南米蹴球紀行』(勁文社,2001)によれば、FIFAは1995年標高3千メートル以上のサッカー試合を健康上の理由で禁止しようとしたとのこと。ボリヴィアの首都ラパスは標高3600メートル、エクアドルのキトは2800メートル、2回W杯を開催したメキシコ・シティーは2200メートル。1994年W杯南米予選でブラジルが史上初の敗戦を喫したのがアウェーでのボリヴィア戦(0-2)。ボリヴィアは本大会初出場するも3戦全敗で1次リーグ敗退。ボリヴィア人は、サッカー大国による政治的な「高地差別」だと受け止め、猛烈に反対し、この提案は結局却下されることに。今大会もエクアドルが高地の利を生かして初出場しましたが、クロアチアに勝ってW杯本大会初勝利を挙げていますね。
ところでアジアではネパールのカトマンズで1300メートルと案外高地国家がないのですが、チベットが独立すればラサは3650メートル、強敵になりそうです。


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(02/6/9)
日本サッカー史の転換点
でしたね、本日は。本サイトは日本サッカー史のサイトなので、日本サッカー史そのものが転換する時点に臨めて、これ以上の幸せはないです。本日の試合は1936年ベルリン、1968年メキシコの両オリンピック以上の価値があると。ここまできたら1次リーグ突破を!!


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(02/5/27)
日本代表のエンブレム八咫烏について
ご質問がありましたが、『日本サッカーの歩み』p.102に説明があります。 1931年6月3日正式採用。東京高師の内野台嶺を中心とする人たちの発案を 図案界の雄、日奈子実三がまとめたもの。 3本足の烏は日の神太陽を表わす。

 中国の古典、『淮南子』という本と『芸文類聚』という本との2箇所に、 太陽の中に3本足の烏がいるとみえていること、また日本の神話の中にも、 神武天皇が大和国へ入られるとき八咫烏が険阻な山路をご先導をした ということをあわせ、ここから光が輝いて四方八方を照らすことを意味して いる。ボールを押さえているのは、われらのボールゲーム、サッカーを 統制・指導し、正しく発達し、栄光を世界に輝かせることを意味している。  旗の色、黄色は公正・フェアを示し、青色は青春・若さを表し、全体と してはつらつとした若さ、青春の意気に包まれたわれら日本のフットボーラー の、フェアかつ偉大な心構えを表現しているのである。

とのことです。 和歌山県那智勝浦町のHP では同町出身で日本最初のサッカー本『アッソシエーションフットボール』(明治36年)の実質上の著者、中村覚之助がなんらかの影響を与えて内野に熊野のシンボル八咫烏を採用せしめたのではないか、という可能性を探っていますが、確証は得られなかったようです。 朝日新聞記事 では、JFA名誉会長長沼健氏が熊野由来であるとのお墨付きを与えたとのことですが...


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(02/5/20)
侍の孫の世代
以前『日本サッカーのあゆみ』編纂の中心だった新田純興氏の祖父が将軍家直参だったことを記しましたが、1938年W杯フランス大会を観戦して観戦記を残した野村正二郎氏の祖父維章氏は、土佐脱藩の海援隊士だったとのこと。維新史料編纂会編『華族譜要』(1976、昭和4年版の複製)によれば、正二郎氏(自身も杉村家からの養子)の父は伍代(友厚)家からの養子とのことですが、土佐藩士の養子がなぜ薩摩からというのは、海援隊人脈だったのですね。野村正二郎氏が大日本蹴球協会主事だったころの会長は深尾隆太郎氏ですが、深尾氏の祖父は土佐藩国家老。野村、深尾両氏とも同藩出身で男爵なのですが、こういうつながりが野村氏のFIFA派遣や主事就任とどう関係しているのか、戦前の華族同士の交際など想像もつきません。


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(02/5/7)
新刊サッカー本のサイト
新刊サッカー本を紹介するサイト From Backstandを発見。新刊書の洪水の中を、オンディマンド出版のものまで紹介しています。

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