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『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会(第1、2回)

『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)は戦前同校の第二期黄金時代に編纂された部史で、事実上の編纂者は河本春男。座談会はp.161-199に収録。


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昭和九年八月十二日 第一回座談会並びに第一回後援会創設相談会

座談会出席者
池田多助 平山誠 範多龍平 山岡健太郎 緒方温光 赤川公一 長谷川耕一 永野武 奥山豊 右近徳太郎 石井奣 磯野孝 加藤元信 吉田三郎 大屋宏 小野禮年 戸田光温 大谷一三(ママ) 前川有三 柴田淑彦 永津勝夫 小橋信吉 加藤正信 加藤勝郎 河本春男


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座談会要綱

校長先生の挨拶:河本君が考へて居る蹴球部史は非常に必要だから是非やり度いと思ふ。一中の校友会誌にも書いてあるが、大体の盛衰が判るのみで詳細は不明である。此の点を河本君が考慮して各時代別に当時の人々の話を聞いて纏めて頂き度い。来年五月一日の創立四十周年記念日迄には是非完成し度い。

河本:初めに創設時代(大正三年から始まって居ますが)の学校の態度とかチームの組織とか、父兄の態度とか、大衆の様子とか、対抗試合の状況、校内校外試合の戦況、部員の戦術上の苦心等に就いて各方面より話して頂き度いと思ひます。

山岡氏:大正八年。当時は野球部に隷属し、部費三十円で僅かにボール四個を購入し得るといふ世帯であった。溝にボールが落ちて脹れて大きくなり、又時には柵外に飛び出して紛失したりして、親爺に頼んで買って貰ったりして、辛じてやってゐた。当時は野球部の全盛時代で、校内は野球万能であった為め、往々専横でよくもめあったものだ。チーム作成には柔道部の一員を借りて来ました。

範多氏:二中との定期試合がなかったかなあ。

山岡氏:まだ行はれてゐなかった様に思ふ。
試合は重に高商、関学、御影師範等が相手であったが御影とは大会の時のみであった。

範多氏:選手はフットボールの好きな者が寄り集ることに依ってチームが作製された。従って野球もやればフットボールもやるといふ者が多く、中には野球の選手として是非共出場せねばならぬ程の者もあった(久保田等は其の一人である)
部員の中には当時の野球部は実に旺盛で練習が辛く、勉強も出来ない程なので、堪へ兼ねてフリーな蹴球をやらうと云ふ者が多かった。従て部の気分は爽かでよく気が合ひ、互に文句など起らず非常に愉快な部であった。目標は遊園地の外人をやッつけるにあった。
どうしても勝てなかったのは御影師範で、技量で負けたのでなくて乱暴なので、憤慨して棄権して負けた事が多かった。当時の応援は実に無茶苦茶で、殊に御影師範の運動場に行く時は棒を持って行ったもので、御影の応援は柔道剣道の選手とか仲々凄いのが多く、太い棒に厚歯の下駄と云ふいで立ちで「撲れ」「殺せ」「蹴れ」は御師が叫んだ常套語であった。
其の当時に於て「おれんとこは綺麗にやらう」といふのが吾々の主眼だった。当時は広島が大変強い時で、遠征して来た事があった。
(註)此の伝統的気風が今日一中蹴球部の純真なフェヤープレーの精神の基礎となったものと思ふ。

緒方氏:チェッコとの対戦は印象の深いものだね、あの時の写真があるから差上げませう。それから外の写真も。

河本:是非頂き度いですね。

緒方氏:チェッコとの試合は多分大正八年の秋で講和条約の済んだ後本国が認められたので、シベリヤから帰国の途中神戸に寄港したのと試合したのであった。大層大きな男ばかりで股の下をくぐって喝采を博した等記憶してゐる。

範多氏:当時の戦法に就て
此の試合には種々新らしいプレーを習得して、我が蹴球部発展の為大いに役立った。野球のスライディングに暗示を得て頭の方からのタックルを発明した。これはR、Bの松浦といふ男が仲々功を奏したものだ。
其の当時は連絡と云ふことに重きを置かず、ウイング一人で持って行くことが多く、インナー等は余り重視せず、従て傭兵が多かった。又手を使はないで背負投げを喰はせたものだ。要するに今の様に速いパスは全然なく、一人で完全にゴールまで持って行く戦法であった。広島とした時に、敵の脚を折った事がある、其の人が後に慶應へ来て一緒になり、今でも懇意にしてゐるが妙な縁だ。

緒方氏:大正十年の正月、僕が五年生の時、全国大会が豊中グラウンドで行はれたが、優勝戦の時真暗くなったので試合をやめてくれとレフェリーに交渉したが、レフェリーが聞いてくれず皆んなで交渉を続けてゐる中に御影の連中が点を入れた。之れを得点と認めたので憤慨して棄権して負けた。翌年も暗くなって翌日に延ばし延長戦で負けた。

範多氏:当時は得点の等しい時にはコーナーキックの数で、コーナーの等しい時にはゴールキックの数で勝負を決めたものだった。(このルールは大部後まで行はれてゐた)
大正十一年頃より大部蹴球部も進歩して来た。
大正十二年の豊田棟さんの時に強くなった。
大正十三年の西村(現在赤川)の時に一層進歩したなあ!!

赤川氏(旧西村):チョーデンなるビルマ人が来て早大の指導をしたがその人に一日宝塚で教へて貰ってそれを研究して一層強くなった。
サイドキック、インステップキック等も当時から始った、ショートパスを使ひ出したのも此の時からである即ち意識して蹴る様になった。

平山先生:トライアングル、パスをよく使ったなあ、部が独立したのは何時頃だったか知る必要があるね多分昭和三年か四年頃だった、大谷の頃はどうだった。

大谷氏:僕等の頃はもう独立した部になってゐた。

平山先生:学校が運動部をどう考へてゐたかに就いては、まあ成り行きにまかせて居たと言ふてよからう。現在の様にこちらから指導的態度を取る様になったのは池田校長の時からだらう。

河本:神中クラブは何時頃から出来たのかね。

赤川氏:小畠さんが音頭を取った。

永野氏:対外試合をしたのは神宮の第一回大会を最初とし、それまでは後輩を指導するのが目的であった。大正十五年の上海行オリンピック予選の時、多分七月二十日頃だったと思ふが、面白い試合をしたね。明治神宮で優勝したのは昭和二年だったと思ふ。

赤川氏:当時選手をしてゐた者は殆ど附属小学校出身の者ばかりで、附属に関係がない者で入部したのは僕を以て嚆矢とするね。三年生の冬から永野氏と一緒に入部した。

永野氏:其の後段々附属に関係のない者が入部した。

赤川氏:僕の時はこう云ふと仰山に言ふ様だが、仲々多方面で一口には云へぬ、何か云ってよいか判らぬ。

平山先生:大正八年頃は観衆は殆どなかった。生徒が行く位いで、それも今日の様に多くはなかった。世人や生徒が強い関心を持つ様になったのは一中が全国で優勝(大正十四年一月若林主将)してからで、一中に関心を持たんが為めに蹴球を理解して行ったと言ってもよい。
今日(昭和九年八月十二日関学主催の決勝戦)等は二千人もの観衆が居た様だが驚くべき発展だ。

範多氏:でも最初から何時も強かったね。

平山先生:「何時も強かったが断然強くなって嬉し泣きに泣いたと言ふのは西村の時からだらうな。」

河本:大正十五年七月から昭和四年七月(会誌記録に依る)までは一中の蹴球としては弱かった、一度も勝った事がない様だがどうしたのでせう。

平山先生:(暫く考へてゐて)ああその時は部員の気分が弛んで居たことが最も大きな原因をなして頭が上らなかったのだ。

永野氏:一つは先輩との交渉が少なかった事もあらう。

平山先生:相当強くはあったが部内の空気がだれてゐた。或る個人(田中は仲々の奴だった)が特に悪かった(あれは死にましたねと誰かが感慨深そうに言ふ)明朗でない奴が居て気分がしっくりしなかった。

永野氏:一時絶えて居た先輩との交渉が昭和三年頃から又よく行はれ、沢山先輩が出て来る様になったのが、其の後の発展を来した一つの有力なる力だと思ふ。長谷川氏宅に行って碁石で策戦したこともあった。

平山先生:蹴球部で見遁す事の出来ないのは、先輩が生徒同様、否、それ以上走り廻ってやって呉れる事でこんな事を言って悪いが、野球部の先輩がトンネルしてこれでも俺は昔は上手かったのだと云ふ様な顔をしてゐるのとは問題にならない。此の点実に恵まれて居た。

河本:特に雨降りの試合後に先輩が下級生と一緒になって泥靴を洗ったり、ユニホームを洗濯したりしてくれるのを見ると涙が出る程だね。

永野氏:古い人では高山・小畠さん等よくやってくれましたね。

河本:種々参考になるお話しを承りまして有難う御座いました。

吉田三郎氏筆記・河本修正補足


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昭和九年九月一日 於範多龍平氏邸 神戸一中蹴球倶楽部第二回創立集会に於ける記録

出席者
野田信三 永野武 茂恒夫 米谷富熈 平林俊夫 大谷一二 秋山大輔 三宅弘起 山岡健太郎 範多龍平 緒方温光 前田和一郎 藤井慎一 加藤勝郎 豊田善右衛門


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範多氏:どうも昔の古い記録がございませんのでそれで皆様に思ひ出して頂いてそれを書留めて行きたいといふのがこの部誌を拵へやうとして居る一つの意味でございます、全部一緒に話が出来ないものでございますから、矢張りお一人お一人、大抵先程からお考へも出て居りませうし、思ひ出されたこともおありになるやうでございますから順々にお話願ひたいと思ひます、先づ前田さん、古いことを―

前田氏:二十年になるので、大分忘れて居るでせうがね。

茂氏:二十年以上でせう。

前田氏:恰度今年で二十年です。

野田氏:出られましたのは。

前田氏:大正三年に出たのですからね。

野田氏:校舎の建ったのは大正三年でせう。

範多氏:前田さんが五年生だったのは何年でしたか。

前田氏:大正二年に五年になったのです、ボールを蹴り始めたのは二年の冬だから二学期ですね。

茂氏:私の記憶して居る所では対外的には試合がなかった、さうして五年のチームと三宅さんの四年のチームが試合をして居られた、さう云ふやうに覚えて居りますがね。

前田氏:孰れにしても話は古くなるね、私が這入った時は今の校舎の所が運動場で、運動場が校舎だった、それから私の這入った時に初めて、カーキ色になって、二年の時にゲートルを巻いて三年で襟章を附けて、一番初めに出来たのが博物教室、それからボチボチ改装工事が出来て、我々が三年の時には両方に校舎があったので運動会が出来なかったことがあります。五年生の時に落成したので、その為に我々は運動会が出来ず、それから寄宿舎がありましたが、廃止になったと同時にボート部が廃止され、野球にテニス位をやって居りましたが一般のものは脾肉の歎に堪えなかった。そこへアーガル先生が英国のフートボールの話をせられて、オッチョコチョイの連中がやって見たいと云ふてボチボチ始めたのが抑々蹴球の始めなのです。

茂氏:当時やってゐたのは兵庫県では御影師範だけでしたね。

前田氏:クリケット倶楽部は勿論やって居た、その当時神戸のクリケット倶楽部と横濱のアマチュア倶楽部が神戸に遠征して来て試合をしたのを我々はよく見に行ったものであります。恰度大正二年の暮だったか大正三年の初だったか、上海の西洋人が神戸に試合に来たことがあります、とてもファインプレーをやってその時初めてウイングからセンターにボールを返すと云ふことを我々は見たのです、その当時は我々のボールと云ふものは一つしか無かったから雨が降ったりするとボタボタの奴をけって居った、上海の西洋人のカンカン音のするやうなのを見て羨しく思って帰ったことがあります。さう云ふボコボコの奴をを二つ三つ出してポンポン蹴った。勿論皆短靴を履いて居ったが、ボテさんが兄さんのお古の靴を履いてゐた外は皆普通ので、ズボンもカーキ色のを半分に切って、白い靴下を履いて、上はメリヤスのシャツか何だか本当に訳も分らず、オフサイドの説明はどうしても判らなかった。その時分のことは浅井君に書かすと文章が旨いから上手に書くだらうと思ひます。浅井君に頼まれたらどうですか。

範多氏:頼んでありますがね。

豊田氏:その当時のメンバーは判ってゐますか。

前田氏:判って居ります、フルバックが矢野さんに佐多軍平、それからフォワードが武藤、浅井、関口、吉田、河原、西村昌、ゴールキーパーが松森。

茂氏:学校の真中に柳の木がありましたね、よう伐って呉れたことや。

野田氏:僕等這入った時新校舎が出来て居ました。

平林氏:その時分アーガル先生はお達者でしたか。

前田氏:パンツを穿いて一緒になってドリブルをやったりして居られました。

平林氏:私等の二年か三年の時にアガール先生は辞められまして、英国に帰られて、それから二年程して来られましてまた学校の教鞭を執って居られない時に先生を引張って来て、コーチして貰はうぢゃないかと云って・・・その時分先生は半分程頭が禿げて居りました。殆んど力もなくてボールをかうして押して行く様にして居られました。

野田氏:キットの磨きたての靴を我々の足で踏みまして大変お気毒をしたことがありました。

前田氏:我々の時は全然しらん者ばかりだから先に立ってやられたのです。

茂氏:さうしますと初めて対外試合をやったのは三宅さんの時ですか。

野田氏:対外試合をした時のメンバーは大体これです(写真参照、巻頭大正三年)

三宅氏:一番初に蹴球をやりましたのは、毎日昼の時間にポカンと遊んで居っても仕方がない、フットボールをやらうぢゃないかと云ふので蹴出したのが大正元年位でした。その時には唯上に蹴るだけです、両方から上に蹴って居たのです、そこへ岩田、アガール先生がやって来て教へて呉れた、クラスの試合は度々やった。大正三年になって初めてピックアップチームが出来た。全級から三年の人も入れ、四年、五年を混ぜてやったのです、対外試合は一番初めにやりましたのが確かクリケット倶楽部の第二選手だったと思ひます、大きなスコーアで負けました。エリオンに教へて貰ったのが信用し得るやうなコーチの初です。その頃他所と試合の出来るのは兵庫県下では御影師範一校、大阪では明星商業が相当強いと云ふ話でした。外では広島一中。御影師範は馬鹿に強いと云ふのでやって見たのですがその時のメンバーは大体その写真の通りです。確かゴールキーパーが白洲、フルバックが三輪、若林喜代夫、ハーフバックが三宅、梶有馬、フォワードが武藤、町田、相川、若林(野田)、浅村、河野でしたか、右のウイングが森本か小田。さう云ふメンバーで御影師範と試合した、その中で私が覚えてゐる面白いことは、兆度センターラインの上で腰投をやったことがあります、余り乱暴で負けたのですが。

野田氏:二対一で敗けたのですが、それで上々の成績でした(笑声)向ふは歴史のある御影師範ですからね。

三宅氏:大正四年のチームは何処ともしなかったでせう。

野田氏:やりましたよ。

範多氏:一年やらなかったでせう。

野田氏:イヤ、やりました。

三宅氏:服装は、靴の裏に桟を打ってあった、それが一番ハイカラだったのです、白洲君が手袋を使った。

範多氏:ゴールキーパーが手袋を使ったと云ふのがあの時分のハイカラだった。

茂氏:野球部が出勤簿を採ってやって居ましたが、野球大会が済むとフットボールが代って出欠を採ってやった訳です。

三宅氏:戦術はウイニング(ママ)が真中に蹴込んでやって。

野田氏:ボールをゴールから遠くへ離す事を第一義としたものだ。

範多氏:練習は。

三宅氏:練習はやったと云っても円くなって蹴ったり、フォワードのドリブルをやった位です、それでシュートとかヘディングとかはやらなかった。

範多氏:ヘッディングをやって中学の帽子の徽章の金で額を怪我したことがあります。

茂氏:その次は野田さんですね。

範多氏:野田さんその次の話をどうぞ。

野田氏:まあ先程お話のあったやうに蹴球部と云ふものが出来て愈々事実上独立したと云ふのは大正四年でした。それ迄は野球部の部屋の隅っこにあったのでありまして、岩田先生からボールを貰って来るのだった。

範多氏:僕等の時も野球部の一部を使はして貰ってをった。

野田氏:初めて蹴球部用の道具を治め込む箱を作りまして、小使部屋の裏に納屋がありまして炭小屋です其所に蹴球道具を仕舞ひ込んだものです。而も箱に錠があって掛ける様になってゐて、その鍵を保管してゐた訳です、道具と云ひましても、その当時は--初めはボールに空気を入れるのに口でやったものでお前やれとかお前やれとか云って汚い時には人に譲ったり、呼吸の強い人は思ひ切り膨らしてやったものです、所がその時初めて空気ポンプと云ふものが出来た。それで空気を入れて、同時に締皮を綴るピンと云ふやうなものを買って貰った。大体に於て野球部から独立して、さう云ふ球とか、エアポンプ、これの綴器と云ふやうなもの[ママ] 岩田さんから頂いてやった訳です、だから其の当時は球が試合用のボールと練習用のボールの予備が二つ三つあった訳です、そして平常の練習の時には悪いのを使ふとか、或ひは朝とか昼とか一般の校内、又は下級生の人は使ひ古したのを蹴ったやうな訳です。選手のメンバー辺りもその時分になって稍々全般的になりました。選手は勿論技術の優秀な人を選って、二、三、四、五年-勿論蹴球は体力を要するものですから、三、四、五年の人が大概メンバーになって、その当時のメンバーはGKが浅村、FBが有村、大村。

茂氏:大村は四年から、鈴木重郎さんやった、姫路師範の時には重郎さんが出たよ。

野田氏:いや、偶にしかやらなかった。

米谷氏:松下の渾名は。

茂氏:エッチンや。

米谷氏:矢野と違ひますか。

茂氏:イヤ、ハーフバックが野田、井口、別所、吉岡、フォワードがフーヤン、左ウイングが米谷、宮崎がフォワードセンター、右ウイングが僕、浅村。

野田氏:その時に責任者、主将と云ふものが出来た訳です、さうして蹴球部の形態を作った訳です。

範多氏:野球部から補助を貰って居った。幾らでしたか。

米谷氏:三拾円位でした。

三宅氏:私等の方は先生が適当にやったらしいです。

野田氏:大正四、五年にかけまして練習の結果、所謂蹴球技術の研究が盛になって来ましてね、フォワード、センター及びフルバックの任務、ゴールキーパーの職務と云ふものが稍々判然として来た訳です。参考にしたのは多く[ママ]クリケット倶楽部の戦法でした、同時に蹴球のルールがハッキリしまして、これは東京高師のルールを適用した訳です、然し現在の蹴球技術に比較しますと雲泥の差がありまして、第一、ロングキックと云ふものに非常に重きを置いた訳で、コンビネーションとか何とか云ふものの戦法はやや欠けてゐた様に思ひます、最近の蹴球戦なんか見ますと、その技術なんかは全く雲泥の差があるやうに存じます。

山岡氏:対外試合はどうでした。

野田氏:対外試合は三宅さんの時代から御影師範と試合をしましたが、私の時代になりまして姫路師範と神戸二中の校庭で一回、広島一中と東遊園地で一回、関西学院高等部と一回やった記憶があります。皆全勝した記録を持って居ります。

米谷氏:姫路師範とは。

茂氏:東遊園地でやったのです、あれは三対〇で勝ったのです、最初の一点は確か私が入れたのです、それで忘れないんです、宮崎がヘッディングして服部さんが入れた。

野田氏:全校的のチームが出来て最初の試合で勝ったのが広島一中とやった時です。

茂氏:鯉城中学と云ふのですかね、二対幾つかで勝った。

野田氏:関西学院の高等部とも一中の校庭でやりました。

範多氏:広島一中とやったのは僕等が五年の時ぢゃないか? あの時は此方から行ったんやないか。

茂氏:あの時に後継者がないといかんと云ふんで四年からアンゼンさんを一人出した訳です。

野田氏:初めてその時正式の蹴球専用の靴を用ひ出したですね。それが正式の蹴球用の靴を履いた嚆矢とする訳です。

(この時前田氏退場)

茂氏:その時分にはゲームをすると云ふにも、挨拶をするんぢゃなし、メンバーを聞くんぢゃなし、何もせんです。

野田氏:会誌に発表すると云ふ事は僕等の時はしませんでしたが。

茂氏:それは私が四年の時に書いたのが最初でせう。何でも二中との試合を、それから今此所には居られんが宮崎君が次に書かれたです海軍少佐の・・・・

豊田氏:野田さんの時に広島一中と二対零で勝ったんですね。

野田氏:僕等の時に深山が怪我して。

範多氏:あの遊園地でやった時に足を怪我したんで、僕が抱いて彼奴等の宿屋に連れて行った、国産波止場の所の宿屋やった。

米谷氏:雪の降った日やろ。

範多氏:写真の裏に書いてあったんやが雪が降った様だ。

茂氏:それは僕等が四年の時でせう。

範多氏:いや、さうぢゃない、矢張り野田さんの時です。

野田氏:誰が蹴ったかな!

範多氏:宮崎ぢゃなかったかと思ひます、四人並んで出て来て、オフサイドを取ったと云ふ事が僕の記憶にあるんですが。

平林氏:非常に明瞭なオフサイドでしたね。

野田氏:明瞭なことは僕等の時に判ったんや。

豊田氏:あの試合は正月前ぢゃなかったですか。

緒方氏:私の知ってゐるのは四年の折です。

茂氏:さうです、あの時僕の家の近所に火事があって、岩屋へ見舞に行って来ると、火事の最中に叔父が死んだと云ふので淡路に行ってゲームに間に合ふ様に急いで帰って来て、その正午から試合をしたんです。

範多氏:よういらん事は覚えてゐるなー、学校の肝腎な事は覚えて居らんと、いらん事は感心する程よく覚えてゐるなー(笑声)

三宅氏:ゴールポストはずっと立ってたかな。

茂氏:冬の間だけです、野球シーズンには退けました。

野田氏:ゴールポストが出来てからの練習はよく当りよった。

範多氏:野球の選手に叱られるし、テニスの選手にも叱られてたな!

野田氏:僕等はゴンタでしたからね、野球大会の翌日から、野球はこれで済んだぢゃないか、と云ふ訳でやってました。

豊田氏:最初の蹴球部の部長さんは岩田さんですか。

三宅、野田氏:さうです、岩田さんです。

豊田氏:野球が済んでから練習するんですね、夏やった事はありませんか。

野田氏:とても猛烈にやったものです、その時分はよく主任の先生の近藤さんが、「お前は中学校に遊びに来てゐるのか、勉強に来てゐるのか」。と云はれた、でどっちでもよろしいがな、僕は勉強がいややからなーと云ってやりよった。兎に真角暗がりになる迄やったんですがね。

範多氏:炭部屋に電気がなくて困ったなー。

藤井氏:僕等が補欠をして居った時にボールを繕しよったが真暗がりで困ったなー。

豊田氏:練習が猛烈やった事は事実ですね、何と云ってもシーズンが短かかった丈に。もう腹がペコペコで。

範多氏:御影とは毎年一度づつは試合をやってゐたが、大概優勝戦の相手は御影師範やったな。

豊田氏:一度僕調べて見度いと思ひますが、どっちが勝越しか、負け越しか。

範多氏:僕等の時は皆会誌に書いてありますから分りますよ。大毎の記録も貰ふ事になって居ります。昔はコーナーキックの数或はゴールキックの多少に依って勝敗を決めた事がありますね。

茂氏:コーナーキックの同点の場合はゴールキックの多少に依ってゴールキックの少い方が勝だったですね。

範多氏:その次の級の人は今誰も居りませんが、佐伯、宮崎、高山。

茂氏:フルバックが有村、大村、ハーフが高山、別所、宮崎、フォワードは岩井、佐伯、センターがアンタ(米谷氏を指して)それからインナーが僕で、僕の方の右のウイングが緒方直光君、十八回の卒業生です。その時神戸二中と初めて試合したんです。

範多氏:神戸二中との定期戦が始まった訳ですね。

茂氏:蹴球部が応援団を拵へてね、丁度剣道部が二中に勝った年ですからね、松岡操がえらい勢で「負けたら承知せんぞ」と云った事もありましたね、二対一で勝ちました。この一点は自分のボールを味方のゴールへ自分で入れたんです。(笑声)

豊田氏:一中と二中とは対立してやってたんですか。

範多氏:神戸一中と神戸二中とは早慶戦の様に対立してゐました。

野田氏:その対立はその前のほうが激しかった。

茂氏:その時の試合の様子は会誌に載ってゐますか。

緒方氏:松方とか云ふ人がオーケストラをやったり太鼓や鐘を叩いてやったのでしたね。

野田氏:あれは松方ではない、曽根ですよ。

茂氏:その時に注意せんければならんのは[ママ]、大毎の蹴球大会の第一回が始まったのです。

山岡氏:その時ですか、岩井さんがお退きになったのは。

茂氏:卒業してからです、大会は大正六年の一月です、それから堺中学とやって、八対〇で勝ったね、向ふはステテコなんか着てやったね、(笑声)その時には、堺中学、明星商業、京都師範、御影師範、神戸一中それに姫路か奈良でしたね、そして結局優勝戦には案の條御影師範とでしたね、一対零で負けたんです、これは範多さんを前に置いて云ふと悪いが・・・

範多氏:えらい喧嘩やった(笑声)。

茂氏:ペナルティキックを取られたからで、御影が攻めて来て入れた訳ぢゃない、大正七年僕等が五年の時や。

範多氏:その次位が豊田君か。

茂氏:宮崎さんが抜けてその後は誰やったかな。

範多氏:大正七年の三月に出たのが、米谷、別所、岩井、茂、僕(範多)、有村、大村、七人出たんだよ、十一人の中で七人出たんだから後はどうなったかな、残ったのは緒方直光、山岡、若林、吉田の五人かなー。

平林氏:大正八年度に卒業したのは若林、緒方直、矢野完治、僕、それだけです。

範多氏:その時のメンバーは。

山岡氏:ゴールキーパーが秋山、フルバックが矢野(兄)、松浦(兄)、ハーフが山岡、若林、吉田、松浦(弟)、センターが白洲、右のインナーが平林、ウイングが吉田。

範多氏:その時分の大きな試合は。

平林氏:御影師範とやって、殺せ殺せと云ふて五対三で負けました。

山岡氏:殺せ、歐れと云ってね、御影師範が五対三で勝よった。

平林氏:非常に憤慨して帰って来たんです、大毎の試合に豊中に行って第一回戦に奈良師範とで、丁度前夜雨が降ってそれでコンディションが悪くて、両方とも得点なしでコーナーキックが一つ違ひで負けました。

豊田氏:関学として勝ってゐます、三対一かで。

平林氏:神戸高商のグラウンドでやって勝ったなー。

緒方氏:堺中学と無茶苦茶にやって十二対零かで勝った事があります。

範多氏:もう十一時ですが後の方はもう一辺緒方直光君辺りから若い連中に集り直して貰ふ事にして。

茂氏:若い人も良いけれど古い人ももう一度集って・・・

範多氏:ではさう云ふ事にして今日はこれ位で散会致します、何れ又御案内申上げます、どうも有り難たう御座居ました。

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