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2001年7月~8月

(01/8/30)
戦前のサッカー・ジャーナリスト 続
8/16付けで当時毎日新聞記者だった岩谷俊夫があげていた毎日の斉藤才三は関西学院OBで日本が優勝した昭和5(1930)年の第9回極東大会のGK。朝日の三宅次郎は関西大学OBで大正14(1925)年の第7回極東大会のCF。この時の監督は山田午郎。従って、この3人の歳の順は山田>三宅>斉藤ということになりそうです。


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(01/8/29)
島田孝一
W杯関係邦文文献目録で記しているように、1938年フランス大会には野村正二郎と島田孝一の2人がFIFA総会に出席して、W杯も観戦しています。これが日本人最初のW杯観戦でしょう。野村は協会関係者のようですが、島田(1893年生、1987年没)は戦後早稲田大学第6代総長、流通経済大学初代学長になる交通経済学者です。東京高師附中卒で大正元(1922)年に早稲田に入学していますが、附中、早稲田とも当時(ア式)蹴球部は存在していないはずです。著書を探してみると、専攻分野の専門書以外に『甘泉亭雑記 新日本の学生に贈る』(一洋社,1948)というエッセイがありました。読んでみましたが、サッカーには言及していませんでした。サッカーとどんな接点があったんでしょうね。FIFA総会に出席し、晩餐会ではスピーチし、W杯を6試合観戦しています。少なくともサッカーの「サ」の字も知らない人物にはできないはずです。
父親は改進党の領袖で大正時代にはシーメンス事件糾弾や普選運動で活躍した島田三郎です。大隈重信には父親の代から縁があったわけで、上述のエッセイでは尊敬する人物として大隈をあげています。


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(01/8/27)
追加しました
『サッカースクール』(集英社,1974)と『Bigストライカー サッカーヒーローハンドブック』(小学館、1984)を追加しました。


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(01/8/23)
W杯関係邦文文献目録
のコーナーを新設しました。W杯を同時代的に紹介した雑誌記事、図書を第1回ウルグアイ大会(1930年)から辿ろうという企画です。ブック・ガイドの方は1989年(明治・大正・昭和を一応終了)で一段落させ、収録漏れ、未見本を拾っていこうと考えています。1992年までならこれまでのペースと変わらないのですが、Jリーグの始まった1993年からサッカー本の出版状況が激変するのでどうしようかと思案中です。


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(01/8/22)
越園生「フートボール術」
というサッカーを紹介した記事が『運動界』v.3 no.1 明治32年1月 p.8-10に掲載されています。昨日述べたように、これが『運動界』(第1次)唯一のサッカー記事です。2段落目に「方今運動の技たるその類甚だ多く、就中、ベースボール、ボート、ロンテニス、撃剣柔道は其尤も隆盛なるものにして、之に次ぐは、自転車、弓術、水泳、体操、遠足等ならん、ひとりフートボールに至りては、殆ど行はれず、僅に長野山口などの二三地方に於て行はるるものの如し、」とあります。「長野山口」というのは初耳。次いで、楕円形の球を用いるもの(ラグビーとは表現していない)と球状のボールを使用する「アッソシエーション、ゲーム」の2種があることを述べ、後者はさらに「定員試合」と「人員に限りなき試合」に分けられるが、「通例前者を多しとす」と述べています。「非定員」の方は次回にまわして「定員」の方を紹介します。
フィールド:長さ200ヤードから100ヤード、幅100ヤードから50ヤード、ゴールは8ヤード四方の方陣でゴールラインからインフィールドに出張っており、高さは8フィート。ゴールがゴールラインから8ヤード前にあることに注意。図もある。
ポジション:11人。陣守=GK 殿り=FB 後軍=HB 右翼=RW 左翼=LW 中堅=CF ボール:27,8インチ
競技:「双方いづれかが敵の門柱のくぐらしめて球を蹴込み陣内の地面に触れしめたるとき、勝利とす」、「陣地は三十分毎に交換し、一定の時間にて中止し、勝敗の度数を計算して全般の勝利を定む」。スローインは後ろ向き。キーパー以外手を使わないのは現在と同じ。なお、オフサイドに関する記述はありません。
筆者は参考文献については何も記していません。


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(01/8/21)
伊東明「日本における体育・スポーツ雑誌の歴史」
という論文が『上智大学体育』no.2 1968に掲載されています。それによれば、『運動界』は明治30年創刊(第1次)と大正9年創刊(第2次)以外に、大正2年に大阪で創刊されたものもあったそうですが、これは創刊号だけで終った模様とのこと。
明治30年創刊の『運動界』(第1次)は日本最初のスポーツ商業誌とのことです。この雑誌は1986年大空社が復刻しており、日本体育大学体育史研究室による詳細な解題と総索引が付されています。2巻4号(明治31年4月)に掲載されている美満津商店の広告にはサッカーボールもあります。これが本邦初のサッカー用品広告かもしれません。この雑誌には出版社春陽堂の広告もあり、当時新刊書で刊行中だった尾崎紅葉の『金色夜叉』の広告も載っています。明治30年7月創刊、同33年4月終刊と短命に終った雑誌で、競技別記事数は漕艇84、野球62、柔道20、剣道18、水泳18、自転車17、テニス11、和船11、銃猟10で、フートボール1です。このフートボールはサッカーですが、紹介は次回にしたいと思います。


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(01/8/19)
広島サッカーのルーツ
7/2付けで1983年以前に『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』(本サイト未収録)が刊行されていることを記しましたが、鯉城蹴球団の母体広島一中のサッカーの始まりについてOBの野津謙が述べている資料が見つかりましたので紹介します。「日本のサッカー古代史(下) 日本蹴球協会創立四十周年記念座談会」『サッカー』no.15 1962 p.32-37 中の野津の発言として「広島一中の蹴球のもとも東京高師から出ています。東京高師のキャプテンだった松本寛次先生というのが広島一中に赴任して来られて始められたのです。これが広島サッカーの先祖ですから...」とあります。松本寛次は明治43(1910)年度東京高師主将とのことなので、広島一中赴任は明治末ということになります。
野津は「広島サッカーの先祖」と述べていますが、広島には広島高師とその付属中学もあり、その歴史もかなり古いはずですが、そちらには言及していません。


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(01/8/17)
雑誌『運動界』とその索引について
『運動界』は明治30年創刊と大正9年創刊の2種類ありますが、ここでは後者をとりあげます。大正9(1920)年4月創刊、昭和6(1931)年7月終刊。ちなみに『蹴球』は昭和6年10月創刊。関東大震災時に1号休刊しただけで毎月刊行。当時の代表的なスポーツ総合誌。
戦後『運動界(第二次)記事索引目録』(文化書房,1963)が総索引として刊行されています。競技種目別の索引でサッカーは、サッカー一般、サッカー一般(技術)、サッカー-試合の3項目に分けて索引されています。記事の配列はタイトルの五十音順。著者、巻号、ページ、年月が付されています。記事数はサッカー一般16件、サッカー一般(技術)20件、サッカー-試合70件。東京で発行されていたので、関東の試合中心ですが、関西や中京地区の試合評も寄稿されています。野津謙を野「沢」謙とするようなミス(原誌と照合してみたが、索引者側のミス)もあります。しかし、この索引により、本誌は『アサヒスポーツ』などよりかなり利用しやすくなっていることは間違いありません。


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(01/8/16)
戦前のサッカー・ジャーナリスト
『サッカー』no.17 1962に岩谷俊夫(神戸一中、早稲田大卒、毎日新聞記者)の「「高校サッカー四十年史」を編集して」と題する随想が掲載されています。その中に「サッカーの現代のような評のハシリを作った人は誰か、ということになれば、少し時間をかけて調べてみなければ軽々しくいえないが、朝日新聞の山田午郎、三宅二郎の両氏は、自分でサッカーをやっておられただけに一頭地を抜いていたと記憶する。四十年史に出てくる毎日の斉藤才三氏は、ゲンミツにいって毎日のサッカー記者のハシリであり、現在の形を作った人である。」とあります。山田については、 6/26付けで日本最初のサッカー・ジャーナリストとして略歴を紹介してあります。三宅二郎なる人物については、これからしらべてみたいと思います。斉藤才三は戦前の『蹴球』誌にロンドンからイングランド対スペインのナショナル・マッチをレポートしています。別にメモもしなかったので正確な年月はわかりませんが、ベルリン五輪以前であったのは確かです。ヨーロッパのナショナル・マッチ・レポートの嚆矢でしょう。レポートの質が高かったのですが、著者の肩書きがなかったので、何者だろうと思っていたのですが、毎日のサッカー記者だったんですね。
昨日早稲田大学総長らしいと書いた島田孝一が総長になったのは1946年で、1938年当時は総長ではありませんでした。交通経済学の泰斗だったとのこと。


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(01/8/15)
過去のW杯を観戦した日本人
7/18付けで1938年フランス大会を野村正二郎、島田孝一(未確認だが早稲田大学総長らしい)の2人が観戦していることを記しましたが、戦後のW杯はどうかというと、1950年ブラジル(日本は占領統治下)、1954年スイス大会を観戦した人はいないようです。1958年スウェーデン大会には当時FIFA理事だった市田左右一が同時に開催されたFIFA総会に出席しており、多分観戦しているはずです。ちょうどこのあたりの部分が秩父宮記念スポーツ図書館で欠号になっていて確認できません。田辺文庫まで行けばわかるかも。トホホ...
新田純興「FIFA総会と日本」『サッカー』no.23 1962.9 p.48
に過去のFIFA総会に出席した日本人とその報告文がリストされています。ちなみにこの号は「世界選手権特集号」で、1962年チリ大会を特集した日本最初の雑誌W杯特集号です。この大会を野津謙と市田左右一が観戦していることは以前に記したとおり。
1966年イングランド大会はJFAが公募した観戦ツアーがあり、その観戦記が『サッカー』no.60 1966.7に掲載されています。参加者名簿も記載されていて、県協会役員のような関係者が多いが、ただのファンも含まれています。このグループはイングランド対アルゼンチン(準々決勝)、イングランド対ポルトガル(準決勝)、イングランド対西ドイツ(決勝)を観戦しています。この大会はヨーロッパ遠征中の日本代表も観戦しており、観戦記が『サッカー』 no.63 1966.10に掲載されています。このグループはイングランド対アルゼンチン(準々決勝)、ポルトガル対ソ連(三位決定戦)、イングランド対西ドイツ(決勝)を観戦しています。


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(01/8/12)
竹腰重丸の一面
竹腰重丸は昭和2年日本が国際大会初勝利した極東大会フィリピン戦で決勝ゴールをあげ、昭和5年極東大会優勝時は主将、昭和9年マニラ大会では監督を務めています。 ベルリン・オリンピックではコーチとして3Bシステム対策を案出してスウェーデン戦勝利の影の立役者となり、戦後は1953年長沼、岡野、平木ら日本学生代表を率いてヨーロッパ長期遠征、1956年のメルボルン・オリンピック代表監督(予選は彼の籤運で抽選勝ちした)と、クラマー氏来日までの日本代表の昭和史は彼を中心に動いていたといっても過言ではない人物です。山口高校時代は「月下のドリブル」のエピソードを残し、東大時代は、サッカーをやるために実験の多い薬学から農業経済に専攻替えしたそうです。
そんな彼の昭和9年の極東大会時のエピソード。「成城の人たち」と題して慶応OBの松丸貞一が『成城蹴球・サッカー60年史』(1988)に寄稿した文章によれば、「監督は竹腰ノコさんである。ところが彼は当時かなりの国粋主義者で、満州国承認の運動に半分以上の精力を尽していた。だから、合宿にも参加できず、満州に出張し、選手強化に全力を集中できなかった。」とのこと。必ずしもサッカー一筋というわけでもなかったらしい。ちなみに竹腰は大連一中出身。こんなことは追悼文なんかにはでてこないと思われるので紹介したしだい。


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(01/8/11)
意外な人物2
5/4付けで映画監督今村昌平が東京高師附中で蹴球部のマネージャーだったことを記しましたが、俳優森雅之(『浮雲』(成瀬巳喜男監督)、『羅生門』(黒澤明監督)などに出演、本名有島行光、作家有島武郎の長男)は成城高校で戦前のインターハイに出場しています。ポジションはRW。
『文藝春秋』誌の名編集長で文藝春秋社の社長も務めた池島信平は、府立五中でサッカーを始め、進学した新潟高校では蹴球部を創設して戦前のインターハイに出場しています。彼の半自伝『雑誌記者』(中央公論社,1977)に「中学のグラウンドで呑気に蹴球などやっているうちに、関東の大震災である。」とほんの1行でてきます。彼が今日の『Number』誌を見たらどう思うでしょうか。


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(01/8/8)
二・二六事件
で暗殺された一人に高橋是清がいますが、ベルリン・オリンピック 代表高橋豊二は是清の孫で、愛称は「マゴ」だったそうです。成城出身、東大に進み、海軍航空予備学生となり、昭和15年館山航空隊で訓練中に事故死。『成城蹴球・サッカー60年史』(1988)に掲載された事件当時の蹴球部長内田昇三の回想によれば、「私は下町ッ子の野次馬で、何でも事があれば出かけるくせがあり、雪の中を赤坂の幸楽までみにいったのだが、途中高橋邸の前を通りかかり、だれも警備していないので、無断で玄関から奥の間へはいっていった。まだ是清翁はベッドで殺されたままで、和服姿の御婦人が3人ばかり泣きながら付きそっているだけ。...」とのこと。高橋邸跡は現在公園になっています。


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(01/8/3)
追加しました
『全国高校サッカー選手権大会静岡県大会 第59回(昭和55年)』(1980)、『サッカー六十年のあゆみ』(1982)、『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(1986)、『この道20年キックオフ人生』(1986)、『日本サッカーリーグ優勝記念誌』(1988)を追加しました。収録範囲年度内で収録漏れのサッカー本をご存知であれば、ご一報いただければさいわいです。


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(01/7/31)
1987年終了しました
やっと1987年が終りました。『江渡達男先生追憶の記』(1984)を追加しました。


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(01/7/30)
追加しました
『北大サッカー部50年史 1923-1975』(1977)、『球蹴りせんとや生まれけん』(1983)を追加しました。


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(01/7/28)
幸楽と秩父宮
7/19付けで『蹴球』に広告を載せている赤坂山王下の幸楽という料亭が二・ニ六事件で反乱軍側に占拠されたことを記しましたが、二・二六事件関係文献(資料集成を含めてたくさんあるので、すべて読めばさらに詳しいことがわかるはず)に幸楽に関する記述があったので紹介します。田々宮英太郎著『二・ニ六叛乱』(1983)によれば、幸楽に宿営したのは安藤輝三大尉率いる歩兵第三連隊第六中隊、この中隊の前々代中隊長は秩父宮、安藤は陸軍士官学校時代から秩父宮と私信をとりかわすほど懇意であった。2月26日未明鈴木貫太郎侍従長を襲撃(重傷を負わせたが、鈴木の妻が毅然たる態度で鈴木をかばったので、安藤はとどめをささず、部下に敬礼をを命じた)したあと、三宅坂で露営、27日に幸楽に宿営。「「尊王討奸」の旗を先頭に安藤大尉にひきいられた一個中隊が中華料理店「幸楽」にむかって行進したわけだが、沿道の市民が万歳々々と歓呼する」、さらに引用されている電通社員宇多武次の手記によれば「幸楽の中は大変だった。...前垂れがけの女中が大勢、牛肉の大皿を持って右往左往しているという風景であった。」とのこと。中華料理店と牛肉の大皿に整合性がない。いったいどんな料理屋だったんでしょうか。二・ニ六研究者にはどうでもいい部分でしょうが。
2月29日未明中隊は幸楽を出て山王ホテルへ、ここで安藤は自決をはかるが未遂、結局裁判後に処刑される。処刑に際して他の死刑囚は「天皇陛下万歳」を唱えたが、安藤のみが加えて「秩父宮殿下万歳」も唱えたとのこと。
幸楽は事件後も営業していたようで『蹴球』誌に広告を載せています。なぜこんなことを書いたかというと、『蹴球』のバックナンバーを読んだのが「秩父宮記念スポーツ図書館」だったもんで。


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(01/7/27)
1966W杯イングランド大会を観戦した人
に森孝慈がいます。「選手団も、見学団も、合わせて六〇人の熱心家」の中の「選手団」に入っていました。


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(01/7/23)
戦前のW杯報道
戦前の『蹴球』誌に載ったW杯関係記事は7/18付けに記したとおりですが、1930、1934、1938年の『アサヒスポーツ』誌(朝日新聞社が刊行していた月刊のスポーツ・グラフ誌)をざっと目を通してみたところ、かろうじて1934年イタリア大会がベタ記事で紹介されているのを見つけたのみでした。1930、1934年には 極東大会が開催されており、こちらは特別増刊号を出しているくらいリキをいれているのですが、日本が出場していないW杯はほとんど問題にされていないようです。新聞はまだ見ていないのですが、 7/18付けで紹介した、『蹴球』に掲載された1934年イタリア大会に関するベンスマンの記事のまえがき(島田と署名されている)に「昨年のこの大会は我国の新聞には殆ど掲載されなかったので、本誌は之を出来る丈詳細に報道すべき義務を感じていたのであるが、...」とあり、全然報道されていないか、されていたとしてもベタ記事扱いだったようです。


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(01/7/22)
河本春男の転職
戦前神戸一中の全盛時代を築いた河本春男は、東海のサッカー名門校刈谷中学出身で東京高師では主将。体育教師だった人物が、なぜか戦後ドイツ洋菓子店ユーハイムの経営者になっています。先月田辺文庫に行ったついでに寄った神戸市立中央図書館に、河本春男著『人間その気になれば ユーハイムの年輪』(玄同社,1981)があり、どういう経緯で転職したかを知ることができました。ちなみに、ユーハイムは日本で最初にバウムクーヘンを発売した洋菓子店で、「年輪」はそれをかけているわけです。創業者のユーハイム夫妻は第一次世界大戦中に捕虜として来日し、関東で創業したが関東大震災に被災して神戸に移ったとのこと。
河本は神戸一中の後、岡山県の女子師範教師や岐阜県(だったと思う)の体育主事になり、戦争中は家族を飛騨に疎開させていました。戦後官途を辞し、飛騨の物資を都会に運ぶ運び屋で生計をたてていたが、牛乳の副産物としてできるバターは飛騨では食べる人がいないので、神戸に持っていくと大評判になり、神戸中の洋菓子店に納入するようになったとのこと。納入業者として未亡人となっていたユーハイム夫人の経営上の相談相手になっているうちに、行きがかり上経営陣入りすることになったそうです。河本は戦後もサッカーに関係しており、神戸市サッカー協会長や神戸FC会長を務めています。


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(01/7/20)
日本最初のW杯「本」?
秩父宮で
『ジュールリメ杯 世界選手権大会通史』新田純興/著 出版地不明 出版者不明 出版年不明 28p 21cm
を見つけました。1930年ウルグアイ大会から1966年イングランド大会までの簡略な通史で、1970年メキシコ大会は日程が記載されているのみです。奥付もない小冊子で出版年不明、イングランド大会以降、メキシコ大会以前に刊行されたのは確実でしょう。この小冊子が日本最初のW杯本かもしれません。
ところで本書のイングランド大会の部分に「これまで実際に世界選手権大会を見ている人といえば、野津会長と市田常務理事と、たった二人だけだ。」という記述があります。野津謙と市田左右一は1962年チリ大会を観戦しており、市田はマッチ・コミッサリーも務めています。 7/18付けで紹介したように、1938年フランス大会の観戦記が『蹴球』誌に掲載されているのですが、新田純興氏(サッカー界の長老で、『日本サッカーの歩み』では編集後記を書いている)がこの事実を知らないとは考えられないので、前後の文脈から推察すると、「当時の現役協会関係者で」ということなのかもしれません。
1966年イングランド大会は、「そして、選手団も見学団も、合わせて六〇人の熱心家が、マザマザとその大会のふん囲気を見て、逐一その実情を伝えた。」とのことです。このあたりからW杯フィーバーがはじまったんですね。この大会の記録映画『ゴール』も公開されました。藤枝東、早稲田出身で日立で活躍した松永章もその著書『最後に勝つサッカー』(1987)でこの映画を見たと記しています。代表の検見川合宿では過去のW杯の記録映画を上映していたそうです。
上記松永本中に『藤枝東サッカー六十周年記念誌』発見。


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(01/7/19)
戦前の『蹴球』誌の広告
戦前の『蹴球』誌は協会員に頒布する機関誌だったので、あまり広告は載っていませんでしたが、美津濃やミクニなどのようなサッカー用品、南甲子園運動場の阪神電鉄、経営者が協会に関係していた田辺製薬などの広告がありました。その中で異色なのは「赤坂山王下 幸楽」という料亭の広告で、1頁全体を使っています。「幸楽」といえば、昭和11(1936)年の二・二六事件で反乱軍が篭城したことで歴史に残っています。赤坂見附から日比谷高校にいく途中の遅刻坂の脇にあったようです。サッカー関係者がよく利用していたのか、それとも田辺製薬のように経営者が協会に関係していたのでしょうか。
ベルリン・オリンピックは二・二六事件と同じ年だったんですね。もちろん『蹴球』誌はオリンピック一色です。


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(01/7/18)
W杯を最初に観戦した日本人
7/8付けで、野津謙が日本で最初のW杯観戦記の著者かもしれない(1962年)と書いたのですが、戦前の『蹴球』誌にすでにW杯観戦記を書いた人がいたので紹介します。
野村正二郎 巴里の報告 上 『蹴球』 v.6 no.3 1938.10 p.1-6
野村正二郎 巴里の報告  中 『蹴球』 v.6 no.5 1938.12 p.1-5
野村正二郎 巴里の報告 下 『蹴球』 v.7 no.2 1939.2 p.1-6
FIFA第24回総会に(幻となった)オリンピック東京大会の宣伝に島田(晋?)顧問とともに派遣され、 ついでに1938年W杯フランス大会(第3回)を観戦しています。野村はパリで行われた4試合とボルドー、マルセイユの各1試合の合計6試合、島田はパリで6試合観戦したそうです。イタリア対ハンガリーの決勝戦も観戦しています。上がFIFA関連、中が観戦記、下が審判技術に関するものです。
これ以前の『蹴球』のバックナンバーも見ましたが、1930年W杯ウルグアイ大会(第1回)については、
千野正人 ワールド・カップの話 『蹴球』 no.1 1931.10 p.19-25
1934年W杯イタリア大会(第2回)に関しては、
W.ベンスマン 昨年のワールドカップ争奪戦と其の諸選手に就て-FIFA公報- 『蹴球』 v.3 no.1 1935.2 p.2-6
がありました。以上いずれもコピーをとってきたので、中身についてはおいおい紹介していきたいと考えています。


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(01/7/15)
暑い!
ので、エアコン代を節約しようと歩いて5分の世田谷区立中央図書館に行って目録を検索したら、1986~88年の未収録本を5点見つけました。田辺文庫の追加分と1986年分をやっと終了しました。1986年までで232点収録したことになります。


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(01/7/13)
1988年分アップしました
昨日に続いて1988年分(解説文なし)をアップしました。やっと三浦知良や武田修宏のような現役選手のサッカー本の登場です。


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(01/7/12)
1987年分アップしました
1987年分(解説文なし)をアップしました。続けて1988年分もアップする予定です。


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(01/7/8)
『野津謙の世界』(1979)
上記図書を読みに横浜市立中央図書館に行ってきました。関心があったのはこれまでにでたサッカー伝記本で野津謙が最も古い世代(次がベルリン・オリンピック世代の堀江忠男)であり、しかも広島一中(鯉城蹴球団の母体)出身なので、明治時代の広島のサッカー事情になにか言及があるかもしれないと思ったからです。
次に彼はFIFA理事であり、『サッカー』誌に1962年W杯チリ大会の観戦記を書いているのですが、これが日本人のW杯観戦記の嚆矢かもしれないのです。1954年スイス大会には日本のサッカー関係者で観戦したものはいないと竹腰重丸が彼の著書で断言しています。竹腰は1952年のヘルシンキ・オリンピックは観戦しており、『蹴球』誌に観戦記を寄稿しています。次の1956年メルボリン・オリンピックには彼が日本代表監督として出場しています。1958年W杯スウェーデン大会については不明で、いずれ調べてみたいと思っていますが、この大会で誰も観戦記を書いていないとすれば、野津謙が最初という可能性が強くなるわけです。昔は渡航制限が厳しく、JOC関係とか学会(野津は医学者でもある)のような名目がないと海外に出ること自体が難しかったので、1950年代以前のW杯(オリンピックとは関係ない)を日本から観戦に行った人はまずいないのではないでしょうか。マスコミがW杯に特派員をだしたのは1970年メキシコ大会からです。1966年イングランド大会には多和健雄らが観戦に行っており、この年創刊された『サッカ-・マガジン』誌上で座談会にでています(『サッカ-・マガジン』誌はこの大会では特派員もだしておらず、別冊や増刊も刊行していないようです)。
結果としては『野津謙の世界』には広島のサッカー事情もW杯関係のことも載ってなく、ハズレでした。


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(01/7/5)
追加しました
昨日の規則書のうち、『蹴球規則』(昭和21年度)はNACSIS WEBCATで見つかったので追加しました。三重大学と日本体育大学がお持ちのようです。大正6年のものは早稲田大学がお持ちのようです。未収録のものも秩父宮か田辺文庫ならあるかもしれません。


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(01/7/4)
日本の先輩たちが拠り所とした規則書
と題するコラムが『サッカー』誌11号(1962年)p.64にありました。
1.『アッソシエーションフットボール』(明治36年) 本サイト収録済み
2.『Foot-ball』(明治41年) 同上
3.『アッソシエーション競(ママ)球規定』(極東体育協会,大正6年)武井郡嗣訳 同上
4.『アッソシエーションフットボール規定』(大日本体育協会制定,大正10年)新田純興改定 本サイト未収録
5.『ア式蹴球規則』(大日本蹴球協会,大正13年) 同上
6.『蹴球規則 附用語解説』(日本蹴球協会,昭和21年度) 本サイト収録済み
7.『蹴球規則』(日本蹴球協会,昭和23年度) 本サイト未収録
興味深いのは、「以上の七種は刊行する方でも、受けて読み、かつ、研究する方でも、真剣そのものだった。しかも現在協会として是非とも揃えて保存したいものなのであるから、お手持の方は相当価格をもって譲って頂きたい。どこでも、目にとまったら買い取って御通知を願いたい。」という文章が添えられていることです。1962年時点でJFAにもなかったということです。


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  (01/7/2)
気になる未収録本
『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』。『高校サッカー60年史』(1983)に参考文献としてあげられていたものです。ということは、鯉城蹴球団は遅くとも1883年以前に創立したことになります。東京高等師範学校が正式なサッカーを始めるのは20世紀になってからですから、場合によっては日本サッカーのルーツは広島ということになって、日本サッカー史が大きく書き換えられることになるかみしれません。旧石器時代みたいに(笑)。できればぜひ読んでみたいと思い、このあいだ神戸にいく前に広島県立図書館に電話で問い合わせたところ、所蔵していないとのこと(所蔵してれば広島まで行ってみるつもりでした)。
もう1冊は『華麗なる激突 サッカー世界一』(講談社,1982)。1982年スペイン大会W杯本。ありそうでない。コンフェデ杯を総括した号の『Number』誌にバッチリ引用されていました。


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(01/7/1)
『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌 ー JFA以外
1.『蹴球評論』蹴球同好会。no.1(1931.8)ーno.5(1939.1) 田辺治太郎(五兵衛)が中心になっていたようです。
2.『Kick-off』大阪クラブ。no.1(1954.8)ーno.6(1958.3) 川本泰三が中心になっていたようです。『Osaka Club bulletin』という別誌名あり。
いずれも大阪で刊行、田辺文庫で見つけたものです。

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