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2002年11月9日~2003年3月7日

(03/3/7)
JFA機関誌総目次
は、『サッカー』100号、1969年末まで入力しました。1931年創刊の『蹴球』から目次を一覧すれば大雑把な日本サッカー史を辿ることができます。’69年頃は轡田三雄、牛木素吉郎の両氏が朝読同舟で編集していたようです。


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(03/3/5)
春山泰雄のプレスコード違反事件
春山泰雄(1906~1987)は東京高師附中、旧制水戸高校、東大経済学部卒、1927年上海の極東大会対フィリピン戦で日本の歴史的な国際試合初勝利をあげたイレブンの一人、1930年東京の極東大会では唯一の優勝を体験している人物。中学時代はチョー・ディンの指導を受け、ディンの著作執筆に協力し、謝辞に名を連ねています。
1931年旧報知新聞社に入社、1938年上海の大陸新報に移籍、戦後1946年に日刊スポーツ入社し、1948年5月に2代目編集長になります。当時は占領下で1945年9月に出されたプレスコードにより、新聞はGHQの民間検閲部の事前検閲を受けていました。1948年5月27日の記事「米国の裸体ショウ トムスン氏大都劇場で紹介」が事前検閲はパスしたのに、GHQから事実無根というクレームがつき、編集長だった春山がプレスコード違反で検挙され、丸の内暑の6日間勾留されます。軍事裁判では一審で「日刊スポーツに対し発行停止6ヵ月、罰金15万円、春山に対し重労働1ヵ年」、二審は「発行停止6ヵ月、罰金7万5千円、重労働1ヵ年(占領期間中執行猶予)」の判決だったが、軍事裁判の最高責任者第一騎兵旅団長ウィリアム・チェス少将が審査・承認に際してさらに発行停止を解除。結局罰金だけを払って刊行は継続し、春山も収監されずに済みました。この裁判はプレスコード違反第1号だったので、同じ立場の一般紙もこぞって報道したとのこと。『日刊スポーツ五十年史』(日刊スポーツ新聞社,1996)は、

 “ところで、この裁判は、「事前検閲は通っているし、記事内容にも特に落ち度はない」本社にとって、誠に理不尽なものであった。後日談の形でいくつかの理由らしきものが出てきた。当時の婦人運動のリーダー神近市子だか市川房江だかが「米軍は日本に裸ショーの奨励に来たのか」とGHQにねじ込んだという説。米国人の婦人団体がクレームをつけたという説。米ソ冷戦が激化していた折、以前、本紙がソ連の体育祭を大きく取り上げたことから“赤狩り”のスケープゴートとして狙われたという説。GHQ内部の演劇課と新聞課のけんか説から、大都劇場のライバルの常盤座関係者が米軍の知人を扇動して事を大きくしたといううわさまで飛び出した。”

と、同社が槍玉にあがった理由を推測しています。問題の記事の全文も写真で掲載されています。事前検閲は書籍が1947年10月、雑誌が同年12月、新聞が1948年7月まで続き、以後事後検閲になります。事前検閲廃止後も、上記のような思想的でない記事ですら“引っ張られた”こともあって、マスコミ各社は戦々恐々で「自主規制」していたようです。春山は思いもかけないところで言論弾圧史に名を残すことになりました。
戦前『蹴球』だった協会機関誌が『Soccer』という誌名で1948年8月に復刊していますが、誌名ひとつとっても占領軍に配慮していたことがうかがえます。協会機関誌は占領が終了すると『蹴球』に戻ります。


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(03/3/4)
追加しました
『日本サッカー狂会20年の歩み』(1983)の解題を追加しました。


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(03/2/24)
追加しました
藤枝東の部史『サッカー六十年のあゆみ 創立60周年記念』(1982)、堀田哲爾著『この道20年キックオフ人生 心のサッカー108話』(1986)、『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(1986)の解題を追加しました。


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(03/2/23)
清水の長期計画
昭和26(1951)年清水東高校のサッカー部を復活したのは、広島高師主将だった福井半治。彼は清水サッカー振興のため遠大なプランをたてます。彼の教え子で清水東黄金時代を築いた勝沢要の「清水東高サッカー部小史」(『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会、1986)所収)によれば、

 “清水東高サッカー部創設当時、本高生徒を可能な限り「教員養成学校に進学させて指導者を増やす以外に強化の近道はなし」と達観された福井先生の影響を受けて、現在小学校に小花公生氏を筆頭に7名、中学校に浄見元紹氏を筆頭に4名、高校は名高連部長としてその重責を果たすこと11年の福本利幸氏を筆頭に15名を数え、指導者の数としては県下屈指である。”

とのこと。清水といえば、堀田哲爾氏の清水FCから中学、東高、清商への一貫指導が著名(Jリーグ発足以降はさらにプロがその受け皿になった)ですが、それ以前に福井半治氏の“深謀遠慮”があったということです。公立学校運動場の開放やサッカー選手の進路指導など清水独自の選手育成のノウハウはこうした“長期計画”の産物だったようです。恐るべし! 清水。


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(03/2/21)
東西大学リーグ1位対抗戦と大学選手権
『サッカー』総目次は1966年まで入力しました。no.60(1966.7)ワールド杯イングランド大会特集号です。編集後記によればこの前号no.59もW杯特集号だったそうですが、秩父宮スポーツ図書館は欠号でした。この2号は牛木素吉郎氏が編集したとのこと。

ところで、1960年代の同誌目次をよくみると、試合記録に東西大学リーグ1位対抗戦と大学選手権の両方があります。1位対抗戦の方が歴史が古く、1929年に始まり、1965年まで続きました。大学選手権は1952年に始まったのですが、選手権という名称はついているものの、実態は地方交流や地方大学へのサッカー普及を目的としたもので、オープン参加制、関西の大学は参加に熱心でなく、関東リーグの1部校も新人戦扱いしていました。1位対抗戦が終った翌年の1966年から大学選手権は地域代表制になり、名実ともに大学チャンピオンを決定する大会になります。従って、「大学チャンピオン」は1965年までは東西大学リーグ1位対抗戦の勝者であり、大学選手権の優勝チームではない、ということに注意すべきです。


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(03/2/20)
日本代表盛衰史
コラム『ボトム・アップで普及した日本サッカー』に着手しました。後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』はいわば「日本代表盛衰史」(といっても「盛」より「衰」の時代の方がずっと長い)ともいえるのですが、「盛」と「衰」の構造的因果関係までは言及されていないように思われます。比較的短期間に急成長した戦前と長く低迷が続いた戦後の日本サッカーの「盛衰」は、中等教育5年、高等教育6年で一貫的育成が可能だった戦前の学制とそれが分断、短縮された戦後の学制の相違に起因した、というのが私見です。その代表例として東京高師附中と神戸一中をとりあげることにしました。両校ともサッカー・ジャーナリストを輩出しており、充実した部史を刊行しています。


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(03/2/12)
日本蹴球協会機関誌『サッカー』
総目次はやっと1963年までたどりつきました。東京オリンピックをひかえて同誌も軌道に乗ったらしく、ほぼ月刊で刊行されています。内容も毎号特集を組むなど充実しています。第23号(1962年9月号)は1962年W杯チリ大会特集号、わが国最初のW杯特集です。著者の顔触れをみると、1966年に『サッカー・マガジン』創刊まであと僅か、という感じです。引き続き、少しづつ入力していく予定です。


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(03/2/7)
長編コラム
ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏を完成しました。当日誌01/12/30~02/1/4に連載した『ベルリン・オリンピックの代表選考をめぐって』を大幅に加筆したものです。『日本サッカーのあゆみ』も後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』も触れていない、関東対関西の対立を記したものです。


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(03/1/24)
日本最初のサッカージャーナリスト、山田午郎
をアップしました。03/16付けの轡田三男著『サッカーの歴史』とは『サッカーマガジン』誌の連載でした。後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』の参考資料にもありました。


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(03/1/21)
フットボール博物館!
『蹴球(第2次)』のアップを開始しました。『蹴球』、『Soccer』に続くJFA機関誌3代目。ところで、本日発売の『サッカーマガジン』(2月5日号)p.35に新JFAビルにサッカー博物館が併置されるという記事がありました。JFA機関誌のバックナンバーを完全に揃えているところはJFAも含めて日本に一箇所もないそうなので、この博物館に期待するところ大です。現在神戸FCにある田辺文庫は神戸ウイング・スタジアムに、新田純興氏旧蔵書は埼玉スタジアムに、それぞれ設置される構想があるサッカー博物館に移すプランがあると聞きました。欠号分はコピーでもさせてもらって、最低機関誌のバックナンバーを完全に揃えてもらえれば、本HPも少しは役に立つのでは、と思います。


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(03/1/19)
『美の祭典』
はベルリン・オリンピック記録映画、有名な『民族の祭典』が第1部で、これが第2部。サッカーは決勝(イタリア2-1オーストリア)だけが収録されています。日本戦でハットトリックした竹内悌三の対面フロシーはこの試合でも2得点の大活躍しています。この頃の体操は屋外競技だったんですね。コラム 戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書のアップを終了しました。次は「戦前のサッカー・ジャーナリスト」あたりにしたいと考えています。


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(03/1/16)
『イレブン』掲載大谷四郎コラム索引
をアップしました。1978年10月号の「戦後サッカー復興のころ」と題するコラムに轡田三男著『サッカーの歴史』が参照されていました。謎の本がひとつ増えました。川本泰三も亡くなった後、同氏が経営者だった川惣工業から「わだち」という書名で本が出ているらしいです。川本本は大阪府立、市立両図書館の蔵書目録にはありませんでした。


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(03/1/10)
『イレブン』掲載「川本泰三インタビュー」索引
をアップしました。特に「日本サッカー50年一刀両断」は、ベルリン・オリンピック代表選考の裏話など、歯に衣着せない語りは絶品だと思います。『イレブン』掲載の大谷四郎氏のコラム「サッカー、きのう、きょう、あす」のタイトル索引の掲載も予定しています。このままだと表紙ページがゴタゴタになってしまうので、雑誌記事関係、全文紹介、コラム(編纂日誌でダラダラ書いた文章をテーマ別にまとめたい)に再編集しようと思っています。


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(03/1/6)
内野台嶺著『蹴球思ひ出話』全文紹介
のアップを終了しました。日本で2番目に古いサッカー専門書、明治41年刊『フットボール』成立事情も述べられています。同書の著者落合秀保、新帯国太郎、重藤省一、細木志朗の人物像も描かれています。最終部に次号に続きを掲載すると書いていますが、続編は掲載されなかったようです。


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(03/1/2)
内野台嶺著『蹴球思ひ出話』全文紹介(未完)
をアップしました。日本サッカー草創期の東京高等師範学校を回想したものです。


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(02/12/20)
小西文庫4
「蹴球小説」として以下をあげています。

Horler, S. The ball of fortune.
同上 McPhee : prince of trainers.
同上 A pro's romance.
同上 Goal!
Lerch, H. Der Mitttelstuinner von Hollywood.
同上 Der Fussballkonig.
同上 Elf Fussball Jungens.

Sydney Horlerの4作品はすべて『Football compendium』に収録されています。“teenage pulp”や “adult fiction”の項に分類されています。『The ball of fortune』は1926年に映画化されていて、 Billy Meredith が監督役を自演しているとのこと。これが広く上映された最初のサッカー映画とのことですが、フィルムが残っているかどうかは不明だそうです。『McPhee』(1923)のサブタイトルは「a footaball story」として収録されており、1930年に改訂されたとき上記のようになっています。1935年には『The great game』と書名を変えて刊行されている由。解題は、

'When the Downside Football Club advertised for a trainer, the only applicant was an uncouth, angular being with woolen gloves, unbelievable hat and the general air of a non-conformist pastor. that man was Angus McPhee.' that is how readers are introduced to this character who was to become a popular regular in Horler's work and who was described by the publishers as 'the first real character in football fiction.'

監督としてやってきた謎の人物がダメチームを蘇生させるというオハナシなんでしょうか? 『Goal!』の解題は、

This was the novel that made Horler famous. Furthermore, the publishers claimed for it the additional distinction of being the first novel written around professional association football. Horler become prolific in the field of popular fiction and went on to make football the central theme of many of his tales.

1920年刊行の本書がHorlerの出世作かつ最初のプロ・サッカー小説。本書は表紙の写真も掲載されており、いかにもパルプ・フィクションという感じです。1920年代にはサッカー小説専門の小説家が誕生するほど、イギリスではプロ・サッカーが浸透していたということなんでしょうか。島田巽は「Horlerは蹴球専門の小説家だと言ふことですが小説自身はつまらないものですが、之等を通じていくらかでも本場のプロ連中などの生活状態でも知れるならば読んでもよいと思ひます。」と述べています。「毒を食らわば皿まで」というか、好奇心旺盛というか。堀江忠男訳で『蹴球』1937年12月~1939年10月号に18回連載されている「最後の一分」もやはり“蹴球小説”です。


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(02/12/18)
小西文庫3
研究書ではないが、読み物として以下の2点をあげています。

Willy Meisl. Fussball der Weltsport.

は「小奇麗なそして近代的なトピックを拾ひ上げては一冊にまとめてゐる・・・。動きのある写真と、スマートな載り方と、独乙内地及びアムステルダムオリムピアードの写真などで埋ったこの小画帳は蹴球ファンの必携してよきものと思ひます。」

Maysfield, H. A. A book about football.

も「技術ではなしに蹴球の歴史的な話や競技余話を盛った本として興味を持って読める本でせう。」

残りはサッカー文学?です。


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(02/12/12)
Willy Meisl
Willy Meisl(1895-1968)はHugo Meisl(1881-1937)の弟でした。 ユダヤ人スポーツの殿堂 というものがあるんですね。慶応はOtto Nerzの『Fussball』を始めとして中欧のサッカーの影響を受けていたようです。Nerzはプロフェッサー、W. Meislはドクターの称号を持っています。十数ヶ国語に翻訳されたという『チャナディのサッカー』(べースボール・マガジン社, 1967)の著者Csanadi Arpadも“博士” だったはずで、エライ肩書きをもつ人がサッカー本を書くのは中欧の伝統なんでしょうか。デンマークのユダヤ人物理学者Neils Bohrの弟Harald Bohrはサッカーがオリンピック競技になった1908年ロンドン大会の銀メダリスト。Neilsもコペンハーゲン大学時代プレーしていたそうです。


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(02/12/11)
小西文庫2
小西文庫の「研究書」としてあげられているのは、

Nerz, Otto. Fussball.
Dr.Meisl & Koppehel, C. Das ABC des Fussballspiels.
Buchan, C. Association football.

トレーニング関係として、

Kuesbeck, W. Das Fussballspielers Trainingbuch.

Deutsche BibliothekのHPで「ABC」を検索すると著者はWilly Meisl & Carl Koppehel になっています。Willy Meislが“ダニューブ・スクール”の総師的存在だったオーストリア代表監督Hugo Meislとどんな関係にあったかはこれから調べてみたいと思っています。ルールの研究書として、

Referees chapter.
Neueste offizielle Fussballregeln.
Blaschke, G. Schiedsrichter Fibel.
Sauss, W. Fussball ohne Aufrehmendes Balles.
Schmal, F. & Lehuthe, M. J. Das moderne Fussballspiels.
Girulatis. Fussball.

があげられています。


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(02/12/9)
『財団法人日本サッカー協会75年史』の日本代表全記録
後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』を読んでみて気になったことの一つに1930年極東大会代表が市橋時三になっていたことがあります。これはおそらく市橋時蔵が正しいはずです。多分ソースは『財団法人日本サッカー協会75年史』(日本サッカー協会,1996)p.72-118に掲載されている「日本代表全記録」だと思うのですが、p.72だけでも、

1930年極東大会代表 市橋時三(市橋時蔵) 竹内広三郎(竹内悌三)
1934年極東大会代表 松丸寅一(松丸貞一)

明らかなミスが3つもあります。後藤氏の「日本代表国際Aマッチ全記録」では1930年の市橋と竹内(広三郎は1917年極東大会代表)がそのままになっていますが、1934年の松丸は貞一になっています。JFAの「公式出版物」といっても結構いいかげんなところがあり、『蹴球』バックナンバーと照合したのか疑問です。


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(02/12/7)
アップしました
大日本蹴球協会機関誌『蹴球』総目次と 牛木素吉郎氏の『サッカー・マガジン』コラムで辿る日本サッカー史をアップしました。『蹴球』は創刊からベルリン・オリンピック当時まで、牛木氏は1980年代前半までアップしました。今後も継続する予定です。『サッカー・マガジン』の最新号の牛木氏のコラムによれば、後藤健生氏の『日本サッカー史』の校正刷の校閲を依頼されたとのことですが、牛木氏は『マガジン』創刊以前からJFA機関誌『サッカー』編纂に関っており、1962年の「日本のサッカー古代史」という座談会(日本が初参加した1917年の極東大会出場者佐々木等、ベルリンオリンピック代表監督鈴木重義、新田純興、野村正二郎などが出席)の司会を務めています。本来なら日本サッカー通史は牛木氏や賀川浩氏、中条一雄氏あたりが書いていてもおかしくないのですが。まあ、「力仕事」なので高齢者にはちょっとキツイかも(笑)。

牛木氏は上記のようにJFA機関誌編纂を手伝っていてある意味でJFAインサイダーでありながら、『マガジン』ではJFA首脳とのインタビュー記事を書いていたりしていて、「JFA批判」の先駆者でもあります。謎の団体JFAを理解するには『マガジン』の氏の記事(コラム以外にも重要な記事がありますが)を「歴史的」に追いかける必要があるのでは、と思います。


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(02/11/23)
書評:後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』(双葉社, 2002)
「どこから来たかをわからない者はどこへ行くかもわからない」と言ったのはのは誰だったか?、ご存知の方はメールください(笑)。とにかくそんな至言を思い出させるのが本書。W杯前に後藤氏も著者の一人である『サッカー日本代表 世界への挑戦 1936-2002』(新紀元社,2002)が刊行されているが、それとの違いは、

1)単独著者の著作であり、記述が一貫している。本日誌でずっと前に述べたように「通史」というのは単独著者が書くべき、というのが私の意見(司馬遷やヘロドトスもそうであったように!)。
2)オリンピックやW杯、同予選やアジア大会のような代表Aマッチだけでなく、日本代表対クラブチームの試合も収録されている。
3)ベルリン・オリンピック以前の極東大会、そして「刊行が遅れた」ため2002年W杯まで収録されている。
4)本書は写真がほとんどなく、徹底してテキスト中心。
5)本書は「編年体」。いきなり「シドニーへの道のり」がでてきて映画のフラッシュ・バックみたいな新紀元社本と違い、構成が本格的な歴史書らしい。

また、『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)(『財団法人日本サッカー協会75年史』(日本サッカー協会,1996)もあるが、記録集としてならともかく「日本サッカー史」としては問題外、紙質は大変良いが)と比較しても、1)が同様、もちろん70年代以降の試合が、日本サッカー狂会員だった著者の真骨頂として北朝鮮や香港でのアウェー戦などが臨場感たっぷりに評されている。『日本サッカーのあゆみ』は、協会の「正史」なので1934年第10回極東大会で関東・関西からほぼ同数選抜されたチームがまとまらなかったこと、そのことがベルリン・オリンピック代表に影響して早稲田主体のチームになったことなど(日本(関東)協会と関西協会が対立した)はまったくオミットされている。本書はそのような裏事情までは言及していないが、本HPでも日本サッカー史の重要文献として全文紹介した『蹴球』誌掲載ベルリン・オリンピック選考経過 から引用して、卓越した単独チーム主体に代表チームを編成することが当初からの方針だったことを論証している。「正史」が戦前の東西対立の影響でオリンピック代表選考に関する記述を避けたため、韓国サッカー史、日韓サッカー交流史関係の諸書が皆「ベルリン・オリンピック代表選考=朝鮮人を不当に排除」説で右へ倣えしているのに、やっと一矢を報いる本がでたのはうれしい。一方著者は「(現在の韓国のサッカー界でもこの時のメンバー構成については、不満の気持が残っている)」という記述も忘れない。さらにベルリン・オリンピック関係では、戦術史的にはスリーバック(WM)システムとの出会いがあるのだが、世界サッカー史との関連がさすがというべき手際で処理されている。日本サッカーと世界の流れとの関連が随所に意識されているのも本書の魅力の一つであろう。
本書には「文献解題」や「日本代表国際Aマッチ全試合記録」も掲載されており、記録集としての価値もある。「あとがき」や「資料提供・資料収集協力者」をみると、故・池原謙一郎氏のクリッピング・ファイル、鈴木良韶氏の図書館を凌ぐサッカー関係雑誌コレクション(愛知県)、田辺文庫(神戸市)、さらに各国協会その他の資料を利用したことがわかる。当HPの運営者として日本国内だけでも大変なのに、という以上の言葉はない。とりあえず、今日はここまで。


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(02/11/19)
小西文庫
「欧州の蹴球」の解説を改訂しました。竹内悌三氏はシベリアで病死されたそうです。

さて、慶応ソッカー部にあった小西文庫としてあげられているものは、まず解説書として、

Blaschke, G. F. Der Fussballsport.
Blaschke, G. F. Wie erlerne und lehre ich das Fussballspiel.
Knesebeck, W. Wie wird Fussball gespielt? Schule des Fussballspiels.
Dimmock, J. Association football.
Kelly & others. How to play football.
Dawson & others. Association football.

です。Dimmockの著書は『Football compendium. 2nd ed.』では1927年刊行、解題は、

Includes a chapter on forming a football club. In the 1919/1920 Tottenham Hotspur scored 102 goals with only 32 in reply, losing just 4 out of 42 games to run away with the Second Division Championship. James Dimmock was a member of that side.

著者はトッテナムが2部優勝した当時の選手。Kelly & othersの著書は見あたらず、Dawson & othersの著書は1922年刊行、解題は、

Most interesting for the contributions by four stars of the day : Andrew Wilson, Scotland and Dunfermline centre foward ; Andy Ducat, Arsenal and Aston Villa player, famous as a cricketer-footballer double international, scoring over 23,000 runs for Surrey ; Jesse Pennington, legendary England and West Bromwich Albion full-back ; and Jerry Dawson, 522 League appearances as Burnley goalkeeper from 1906-1929.

こちらは4人のスター選手の共著作。後、研究書、トレーニング関係、小説と続きます。ドイツ語著作についてはドイツ国立図書館(Deutsche Bibliothek)のデータベースで正確な書誌事項を洗ってみたいと考えています。とりあえず今日はここまで。


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(02/11/18)
『体育と競技』収載サッカー関係記事索引
は終了。次はいよいよJFA機関誌の総目次にとりかかりたいと思っています。

『蹴球』創刊号(1931.10)に島田巽「蹴球に関する若干の文献」という記事があり、

 一九二八年の十月、出来上がって間もない、慶応ティームで隼の如く敏捷に働いて居た、小西圭一君がリーグ戦を気遣ひながら夭折した時、吾々は彼の厳父から、彼の生活の大部分を占めて居た蹴球のためにティームへ記念品を送りたいとの申出を頂いた。それを受けて吾々は先づ、では記念として小西文庫を造らうではないかといふことに一決して約二十冊の英独の諸書を蒐集したのでした。そしてこの小西文庫は故人が慶応ティームに尽して呉れた様に現在まで実によくティームに貢献して呉れたのです。

とあります。「小西文庫」の洋書のラインナップはこれから・・・


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(02/11/13)
『体育と競技』収載サッカー関係記事索引
を1935年までアップしました。1931年に連載されている堀江耕造「ア式蹴球研究」はCharles Buchanの『Association football』(Hutchinson, 1928)の翻訳。『Football compendium. 2nd ed.』の解題は、

The author started with Sunderland and Arsenal before contributing this work upon his retirement from the playing side of the game. Valued contribution from one whose experiences spanned both sides of First World War; Buchan went on to become a highly respected football journalist.

本の内容に踏み込まず、著者の略歴を紹介しているだけですね。堀江耕造は浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)教授で、1934年から同誌にCharles Buchanの『Foootball aids』(Daily News, 1929)の翻訳を連載することになる堀江忠男(浜松一中、早稲田OB、ベルリン・オリンピック代表、早稲田大学ア式蹴球部監督)の父。1921年にJFAが設立されてルールや用語の翻訳に苦心していた段階から僅か10年で本場の技術・戦術書が翻訳されるまでになります。


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(02/11/10)
教育拡大と自由主義教育-大正期のスポーツ
1920年代前半は、『運動界』、『アスレチックス』、『体育と競技』、『アサヒスポーツ』のようなスポーツ総合誌の創刊が相次ぎますが、こうしたスポーツ・ブームの背景には中・高等教育の拡大がありました。第一次世界大戦後成立した原敬の政友会内閣は中・高等教育の拡大を「国策」として推進します。『改訂近現代日本教育小史』(草土文化,1989)によれば、

             大学   高等学校  中学校
大正3(1914)年     4      8     319
大正15(1926)年  37     31     518

と、1920年代前半に学校数が急増し(大学の場合は早稲田や慶応のような私学が大学として認定されたことによるが、高校・中学は新設)、当然学生数も増加します。サッカーに限らず他のスポーツもこの時期に発展しているのは、こうした教育拡大を背景にしています。特に、地方に拡散した旧制高校は、各種スポーツの地方への普及を促進しました。

興味深いのは、サッカーの場合、明治以来の名門校(東京高師附中、神戸一中、広島一中など)も新設校も、イギリスのパブリック・スクール教育を範とする教育者が奨励していることです(当時のイギリスではサッカーはプロ化し、労働者階級のスポーツとなっていた)。こうした名門校では従来から生徒の自主性を重視する教育方針をとっていましたが、大正期はまた自由主義教育思潮の最盛期でした。海軍兵学校ですらダルトン・プランを導入したくらいです。新設校では新教育の理念に燃えた教育者が多かったようです。大分県臼杵中から大連一中2期生に転入した竹腰重丸は、転入試験に監督官がいなかったことや校則が各生徒の自主性に任されていたことに驚いたと回顧しています。新設校はもちろん伝統校でも新興蹴球部には、煩わしい先輩が存在せず、また技術・戦術を指導できる人材もいなかったので、生徒たちはノビノビとまた自主的に活動していたようです。ベルリン・オリンピック代表堀江忠男は浜松一中時代、特に指導する人もいなかったので、自身でCharles Buchanの原書『Football aids』を愛読し、主将としてチームを指導していたそうです。

新興日本サッカーが大正から昭和にかけて急速に水準向上するのは、競技の性格と生徒の自主性を尊重した教育方針とがマッチしていたからではないか、とは私の推論です。   


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(02/11/9)
WMシステムを最初に報告した人
は1931年『蹴球評論』に寄稿した斎藤才三であると、『日本サッカーのあゆみ』にもありましたが、『体育と競技』に興味深い文献があったので紹介します。工藤一三 「フランクフルトからアムステルダムへ」 v.7 no.7 1928.7 p.33-37 がその記事。工藤の本職は柔道(多分東京高師OB、東京高師の校長は嘉納治五郎だったので柔道とは縁が深い)。1928年のアムステルダム・オリンピックを観戦しています。

英国の職業ア式テーム、ウエストハム、ユーナイティッドとフランクフルトのアイントラハトがフランクフルトので試合したのはオリンピック準備練習会の第三回が五月七日から十二日まであった、最中の九日の日だった。(中略)
ウエストハムとアイントラハトの試合は結局二対一でウエストハムが勝った。遊んでゐて勝った僕は欧州のテームは全部見たが然し英国のテーム丈けはこれが最初だった。そしてその選手のポジションが大陸のそれと非常に違ってゐるのに、おどろいた。英国は流石にフットボールの国だ。
(a)フォワードの両インナーがハーフ線迄下って仕舞ふ、それ故フォワードは三人の形つまり、フォワードとハーフの中間に二人の線が出来た形だ。
(b)フルバックの一人が時々ハーフ線にはいる。
(c)防御の形を取る時はフルバック線にハーフ一人下って三人となり、形勢険悪の時は四人となる。
其処で一番問題になる点はフォワードが三名と云ふことだ。此のポジションの欠点と見えたのは、第一両インナーからフォワードにパスする球がインターセプトされ易いと云ふ事と第二にフォワードの例へばセンターに球が渡り相手のゴール前に殺到したにしろ独逸側は直ぐフルの二人にハーフの二人都合四名、又はハーフが全部下って五人となる結果何時も球を奪ひとられるといふことだった。此の点はロンドン市府ベルリン市の蹴球戦にも同様観察された。何故此の両インナーをフォワード線からこと更に後に下げて位置させるか、これは読者の研究問題として取り残してをかう。が然し、その後ウエストハムは伯林ヘルタア、恐らく一九二八年度の独逸選手権を得るだらうと思はれる最強テームを四対二で軽く、此のシステムで破った。
フォワードの三名は攻撃の場合には五名となって一直線に進んだ。

完全なWMとはいえないとしても、WMが完成するまでの過渡期的システムだったのかもしれません。工藤という人は槍投げなどでも槍の握り方などかなり専門的な報告をしており、門外漢とはいえ、かなりの見識の持主だったようです。

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