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日本サッカー協会のエンブレムと日名子実三

☆ はじめに

 日本サッカー協会のエンブレムについては、同協会の“正史”というべき『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)および『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』(日本サッカー協会, 1996)に由来の説明が掲載されている。しかし、どうのような経緯で「3本足の烏」に決定したかについては、記述されていない。

 2008年秋にエンブレムをデザインした日名子実三の本格的な評伝、広田肇一著『日名子実三の世界 : 昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版, 2008)が刊行され、日名子の作品群におけるサッカー協会のエンブレムの位置づけが明らかになった。

 以下、現在明らかになった日本サッカー協会のエンブレムをめぐる事実関係について記しておきたい。

☆ サッカー協会の“正史”の記述

1. 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)

“協会の旗章と蹴球行進曲

  1931(昭和6)年6月3日、理事会は正式に協会のマークを採用した。また、1939(昭和14)年秋には『蹴球行進曲』を制定して鳴海匡純の独唱とオリオン・コールの合唱、コンセル・ポピュレールの伴奏でレコードを出している。

 この2つは、第2の10年期の意気を端的に表わしたものである。

●協会旗・マークの意義

 マークは、東京高等師範の内野台嶺教授を中心とする人たちの発案を、図案界の雄日奈子実三(ママ)がまとめたものである。

 中央にいるのは、ボールを押さえている3本足の烏。3本足の烏は日の神太陽を表わしている。

 中国の古典、『淮南子』という本と『芸文類聚』という本との2箇所に、 太陽の中に3本足の烏がいるとみえていること、また日本の神話の中にも、 神武天皇が大和国へ入られるとき八咫烏が険阻な山路をご先導をした ということをあわせ、ここから光が輝いて四方八方を照らすことを意味して いる。ボールを押さえているのは、われらのボールゲーム、サッカーを 統制・指導し、正しく発達し、栄光を世界に輝かせることを意味している。

 旗の色、黄色は公正・フェアを示し、青色は青春・若さを表し、全体としてはつらつとした若さ、青春の意気に包まれたわれら日本のフットボーラー の、フェアかつ偉大な心構えを表現しているのである。”(p.102)

要点は、
(1) 発案者:内野台嶺、デザイナー:日名子実三であること。
(2) 3足烏は中国の古典『淮南子』、『芸文類聚』および日本神話の神武東征に登場する八咫烏に由来すること。

2. 日本サッカー協会75年史編集委員会編集・制作『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』(日本サッカー協会, 1996)

“日本協会旗章「3本足の烏」

 JFAの旗章は、3本足の烏(からす)がボールを押さえる図案になっている。日奈子実三氏(ママ)がデザイン、1931年(昭和6年) 6月3日の理事会で採用された。

 3本足の烏は日の神(太陽)のシンボルと言われ、中国の古典『淮南子』の「精神訓」や『芸文類聚五経正義』には次のように書かれている。

 「日中有 烏」(淮南子)
 (太陽の中には鳥がいる)
 「日中有三足烏」(芸文類聚五経正義)
 (太陽の中には3本足の鳥がいる)

 また、日本でも神武天皇東征のとき八咫烏(やたがらす)が天皇の道案内をしたという伝説もあって、烏は親しまれてきた。

 こうした日中の故事から、ボールを押さえた烏は、日本のサッカーを統括指導するものと考えられた。

 旗の色の黄(烏の背景)は公正を、縁の青は青春を表している。全体としては、はつらつとした青春の意気に包まれた、日本サッカー界の公正の気構えを表している。”(p.37)

全体として『日本サッカーのあゆみ』を踏襲しているが、『淮南子』、『芸文類聚五経正義』の出拠をより具体的に記している。

☆ サッカー協会の“正史”において日本神話の「八咫烏」はなぜ2次的なのか?

 協会の“正史”における「3本足の烏」の由来は、第1に中国の古典、第2に日本神話の八咫烏、という位置づけになっている。しかしながら、このエンブレムを見た当時の人々は、中国の古典由来とは考えず、日本神話の八咫烏であると受け取ったはずである。なぜなら、戦前の義務教育(小学校)で八咫烏が教えられていたので、子どもまで含めて日本人すべてにあまねく八咫烏が知られていたからである。例えば、1934(昭和9)年刊行の文部省編『尋常小学国史』(『日本教科書大系 近代編 第20巻 歴史(三)』講談社, 1962 p.5-121 所収)の「第二 神武天皇」では以下のように記されている。

“天皇は、河内から大和へお進みにならうとした。わるものどものかしらに長髓彦といふものがゐて、地勢を利用して御軍をふせぐので、これをうち破って大和へおはいりになることは、むづかしかった。そこで、天皇は、道をかへて、紀伊からおはいりになることになった。そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かったので、ひととほりのお苦しみではなかった。しかし、天皇は、ますます勇気をふるひおこされ、八咫烏を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、とうとう大和におはいりになった。”(p.10)

 戦後のアメリカ対ソ連、自民党対社会党、、文部省対日教組・・・のようなイデオロギー的に2極化した政治状況、 1965年の日韓国交正常化、1972年の日中国交正常化という国際政治状況下において、皇国史観のアイコンであり、「八紘一宇」とは不可分の関係にある神武天皇色をあえて薄める、という“政治的配慮”が記述に反映されたのであろうか?

 実はそのような“政治的配慮”はなかったという証拠文献があるので、紹介しておきたい。日本サッカーミュージアムのヒストリカルアーカイブにアップされている大日本蹴球協会機関誌『蹴球』9巻1号1941(昭和16)年1月号の  表紙に「旗章の意義」が記されており、『日本サッカーのあゆみ』、『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』の記述と同様、まず最初に、『淮南子』、『芸文類聚』からの引用が、次に神武東征の八咫烏が記されている。1941年1月は日中戦争のさなかであり、同年の12月には太平洋戦争が勃発するという状況下でも、戦後と同様の「旗章の意義」が説明されているのである。

 日本サッカー協会・大日本蹴球協会のエンブレムの由来についての同協会刊行物の説明には、戦前の「八紘」に関する部分を除けば、戦前・戦後のブレがない。『日本サッカーのあゆみ』、『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』の「3本足の烏」の由来に関する記述は、戦前の大日本蹴球協会機関誌『蹴球』の記述を踏襲したものであるといえる。

☆ 内野台嶺と中村覚之助

 『日本サッカーのあゆみ』では上述のように“マークは、東京高等師範の内野台嶺教授を中心とする人たちの発案を、図案界の雄日奈子実三(ママ)がまとめたものである。”と記されている。中村覚之助は東京高等師範学校蹴球部で正式のサッカー(アソシエーション・フットボール)を始めた中心人物、日本最初のサッカー専門書『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂, 1903)の著者であり、内野の蹴球部の先輩にあたる。

 和歌山県那智勝浦町HPの日本サッカーの生みの親 中村覚之助についてには以下のように記されている。

“当該図案の発案者は、当時の東京高等師範学校の内野台嶺教授を中心とする人たちで、内野教授は明治39年頃の蹴球部員であった。中村覚之助氏が逝去した年に訃報を聞き悲しんだ一人である。

 中村覚之助氏が逝去した後の交友会誌等(右記)から、当時の部員(後輩)から神様のように慕われていたのがよくわかる。そのときの蹴球部の中心選手に、日本サッカー協会旗章の発案者といわれている「内野台嶺氏」がいる。中村覚之助氏と内野台嶺氏はこのように繋がっているのである。”

と内野が先輩である中村の故郷、熊野のシンボルである八咫烏をエンブレムに採用した可能性について言及している。

 しかし、当時4年制(予科1年、本科3年)の東京高等師範学校において、中村は1904(明治37)年卒、内野は1909(明治42)年卒で 5年の開きがあり、この2人は同時には在校していない。中村が博物学部本科3年(最終学年)に記載されている『東京高等師範学校一覧 [第5冊]明治36-37年』の「本校生徒姓名」(p.202-220 126/195-135/195コマ目)に内野の名は見当たらない。また、本籍地和歌山県で和歌山師範OBの中村と本籍地神奈川県で私立郁文館中OBの内野に、東京高等師範学校蹴球部以外の関係はみてとれない。中村は卒業後中国に渡り、1906(明治39)年には逝去されているので、この2人が直接接触した可能性は低いといわざるをえない。とはいえ、内野が部の創設者にして『アッソシエーションフットボール』の著者でもある中村を全然知らない、ということもまたありえないであろう。

☆ 日名子実三作品群におけるサッカー協会エンブレムの位置づけ

1. 日名子実三のプロフィール

 以下は広田肇一著『日名子実三の世界 : 昭和初期彫刻の鬼才』(思文閣出版, 2008)の日名子実三略歴(p.i-v)による。主としてスポーツ美術関係を抜粋した。

 1893(明治26)年 10月24日大分県臼杵町生。
 1912(明治45)年 臼杵中学卒業(竹腰重丸の中学校の先輩にあたる)。
 1913(大正2)年 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科入学。朝倉文夫に師事。
 1918(大正7)年 東京美術学校彫刻科を首席で卒業。
 1925(大正14)年 朝倉文夫と決別。
 1926(大正15)年 彫刻団体「構造社」設立。スポーツ美術作品「日米対抗水上競技大会メダル」制作。
 1927(昭和2)年 「高石選手像」、「汎太平洋水上競技大会・国際水上競技大会メダル」制作。12月渡欧。
 1928(昭和3)年 欧州(主としてフランス)にて(第一次世界大戦の)戦争記念碑、メダル美術を研究。
 1929(昭和4)年 2月帰国。「日独対抗陸上競技大会メダル」、「第15回全国中等学校優勝野球大会メダル」(現在の夏の甲子園。以後 21、24、25回大会のメダルも制作)制作。
 1930(昭和5)年 「織田選手像」、「明治神宮鎮座十年祭奉祝体育大会メダル」制作。
 1931(昭和6)年 大日本体育芸術協会の創立に理事として参加。「第四回日米対抗水上競技大会メダル」、「日米大学野球参加章」、「大日本蹴球協会エンブレム」制作。

 <中略>

 1940(昭和15)年 八紘之基柱竣工。
 1945(昭和20)年 4月25日脳出血により死去。

 元来は朝倉文夫門下の彫刻家であり、後にメダルや八紘之基柱に代表されるモニュメントの制作にも関心をもつ。1926年からスポーツ美術作品を手がけており、1927~1929年には洋行も経験し、1931年に大日本蹴球協会の仕事をした時点ではスポーツ美術の分野で第一人者であった。

2. 日名子実三の日本神話関係作品群

 日名子は大日本蹴球協会のエンブレム以外にも多数の日本神話関係作品群があるが、それらは洋行後に作成されたもので、『日名子実三の世界 : 昭和初期彫刻の鬼才』には以下のように記されている。

“帰国後のメダルには『日本書紀』や『風土記』に登場する武神たちが主題として数多く取り上げられる。これは滞欧中、第一次世界大戦後のヨーロッパの空気に、愛国心や民族の誇りを、感じ取った結果が生んだ主題であったと考えられる。”(p.96)

 また、日名子が滞欧中に収集し、持ち帰ったスポーツ関係のメダルについて以下のように記されている。

“スポーツの優勝メダルではモルロンの<VICTOIRE>(図13)がある。表は月桂樹を持った勝利の女神、裏には陸上、水泳、球技、ボート、スキーなど二十種目以上の競技が、一目でわかる決定的なポーズで表出されている。”(p.92)

この“月桂樹を持った勝利の女神”は明らかにギリシャ(神話)的な主題である。同書には記されていないが、日名子が滞欧中にスポーツメダル類を研究したとすれば、その多くはギリシャ神話を主題としたものであったはずである。オリンピック博物館のメダルのページで過去すべての大会のメダルのデザインを見ることができるが、第1回アテネ大会(1896年)のゼウス神をはじめとして、ギリシャ神話が主題となっていることがわかる。日名子が滞欧中に第9回アムステルダム大会(1928年)が開催されているが、メダルのデザインはやはりギリシャ的な月桂冠を手にする勝利の女神である。

 日名子は滞欧中に西洋のスポーツ美術がギリシャ神話を主題としていることに触発され、帰国後、日本のスポーツ美術も西洋と同様神話、すなわち日本神話を主題とすべきだと考えたのではないだろうか。

 日名子は帰国後、日本神話由来の野見宿禰、八束水臣津野命、椎根津彦、素戔鳴尊、日本武尊、神武天皇、そして神武所縁の八咫烏、金鵄を主題とした作品群を残している。

3. 日名子の八咫烏、金鵄関係作品群

 日名子が八咫烏を主題として扱ったのは大日本蹴球協会の仕事が最初で、『日名子実三の世界 : 昭和初期彫刻の鬼才』には以下のように記されている。

“八咫烏は、輝く未来、勝利を導くという意味で日名子の作品によく登場する。

 日名子の作品で最も早く八咫烏が登場するのは、冒頭で紹介した昭和六年(一九三一)の<日本サッカー協会のマーク>(カラー図版23)である。”(p.100)

同書によれば、 大日本蹴球協会のエンブレムに続く、日名子の八咫烏、金鵄関係作品群として以下があげられている。

「昭和六年乃至九年事変従軍記章」1934(昭和9)年 金鵄
「第十七回陸上競技会メダル」1937(昭和12)年 メダル部分が神武天皇の肩に留まる八咫烏、飾板部分が金鵄
「支那事変従軍記章」1939(昭和14)年 八咫烏

 このように、日名子の作品歴からは、大日本蹴球協会のエンブレムはこれら一連の日本神話を主題とする作品群の一つであり、「3本足の烏」は神武神話に由来する「八咫烏」である、ということができる。

☆ おわりに 誰が「烏」を選んだのか

 結局のところ、誰がどのような経緯でエンブレムに「烏」を選んだのか、現在のところ不明である。協会の“正史”においても、『日本サッカーのあゆみ』(1974)で“東京高等師範の内野台嶺教授を中心とする人たちの発案”とあったのが、『財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ』(1996)では消えている。

 デザイナーである日名子の作品歴からすれば、日名子が推薦した可能性もあるが、それを証明する証拠はない。日名子と協会との書簡や日記が残っていれば、決定的な証拠が見つかるかもしれない。

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