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“サッカー”という用語考

世界中で“サッカー”を“フットボール”(またはその現地読み)と呼んでいるのに、なぜ日本では“サッカー”が普及しているのか、考察してみたい。アメリカ合衆国でも“サッカー”が普及しているが、アメリカン・フットボールがあまねく普及して、“フットボール”といえばアメフトを意味することになったからだと考えられる。

 日本サッカーのルーツ校東京高等師範学校では、部名はフットボール部(1904年に蹴球部に改称) 、日本最初のサッカー専門書『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂,1903)の書名も“フットボール”である。『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)p.22に「明治31年1月15日発行の『教育』によれば、蹴球部長坪井玄道教授の記事がある。」とあるが、明治31年には『教育』誌は刊行されておらず(初号刊行は明治33年)、誤記であると考えられる。一方、日本ラグビーのルーツ校慶應義塾でラグビーが始まったのは1899年、1903年には体育会蹴球部を名乗っている。1921年に大日本蹴球協会が設立され、1931年にその機関誌『蹴球』が創刊されるように、戦前では、“サッカー”より“蹴球” が普及していた。最初に“フットボール”を“蹴球”と翻訳したのは、サッカー(東京高師)関係者かラグビー(慶應)関係者のいずれかであるのは確実だが、どちらが最初に使用したかは微妙なところである。

 日本で最初に“サッカー”という用語を使用したのは1918年創立の大阪サッカー倶楽部、関東では少し遅れて1921年創立の豊島サッカークラブ、慶應義塾体育会ソッカー部の例がある。豊島サッカークラブは、東京蹴球団から役員人事のもつれで豊島師範系OBが分派して作ったもので、サッカークラブという名称に、漢字名にこだわった東京蹴球団への対抗心が感じられる。

 “soccer”もイギリスでできた用語で、Tony Brownによれば、 David Pickering著『Soccer companion』(Cassel, 1994)では最初に“soccer”という用語を使ったのはオックスフォード大学生で、後にイングランド代表、FA副会長になったCharles Wreford Brownであると人名まで特定しているとのこと。Oxford English Dictionaryによれば、soccaやsockerとも綴られており、これらの用例の方が若干年代が古い。用例の最古のものは1889年2月21日E. C. Dawsonの書簡で、用例は、

I absolutely decline to see socca' matches.

次に古いのが『Lock to Lock Times』1891年10月24日号という文献で、

A sterling player, and the best interest of the 'socker' game at heart.

3番目でやっと“soccer”になり、『19th Century』1895年11月号という文献で、

When the boat-race, sports and 'soccer' are in most men's mind

“socker”と綴っていたくらいなので、当然イギリスでもソッカーと発音していたはず。慶應義塾体育会ソッカー部はいい加減な表記ではない。

 しかし、戦前では新しいもの好き、ライバル・チームへの対抗心、ラグビーの方が先に“蹴球”を名乗っていた(慶應)といった例外を除いて、ほとんどの部名は蹴球部であり、昭和に入ると蹴球が定着してくる。昭和戦前期で“フットボール”を書名に使用しているのは、大正期に初版が出た東京高等師範学校OBが著者の累版、慶應系著者の新刊のみである。慶應系著者が“蹴球”を使用しなかったのは、ラグビーと誤解されるのを嫌ったからであろう。

 ところが、戦後になると様相が一変する。大日本蹴球協会は“大”がとれて日本蹴球協会に変わるだけだが、1948年8月に復刊された機関誌の誌名は『Soccer』で、占領中の1951年8月までこの誌名で続く。占領期間中の代表的なサッカー本、堀江忠男、加茂健著『サッカー 理論と技術』(朝日新聞社,1949)も“サッカー”を使用している。

 実は占領期間中もプレスコードによる出版統制があり、米軍に通りのよい“Soccer”を使用したものと考えられる。プレスコード違反の最初の裁判は1948年5月27日の『日刊スポーツ』紙の記事「米国の裸体ショウ トムスン氏大都劇場で紹介」であり、この記事により検挙された日刊スポーツ編集長春山泰雄は、日本が国際戦初勝利した1927年極東大会、極東大会初優勝した1930年極東大会のイレブンという戦前の名選手であった。裁判の結果、春山は有罪となるが執行猶予がついて服役することはなかったものの、編集長の地位を去ることになる。この経緯は『日刊スポーツ五十年史』(日刊スポーツ新聞社,1996)に掲載されており、問題の記事も読むことができる。この裁判はプレスコード違反の最初の事例ということで一般紙の注目を集め、一般紙も大きく報道したとのこと。1948年8月に『Soccer』を復刊した中心人物は朝日新聞勤務の宮本能冬であるが、宮本が同年5月のこの事件でサッカー関係者の春山が引っかかったのを知らなかったはずがない。米軍はスポーツ新聞の他愛ない記事すら検閲で有罪にしたのである。

 占領が終わると協会の機関誌名は『蹴球』(1953年1月復刊)に戻る。しかしこの誌名も短命で1959年1月から『サッカー』に改題する。その理由は改題初号に記されていて、蹴球の“蹴”の字が当用漢字にないからとのこと。当用漢字は1946年に制定されているので、1953年に復刊した時点で自明のことだったのであるが、これにはもうひとつ重要な要因があると考えられる。1958年サッカーが義務教育課程化され、小学校、中学校の体育の授業に取り入れられることになった。当然、教科書や学習指導要領で用語の統制が必要になり、当用漢字にない“蹴球”が排除され、“サッカー”に統一されたはずである。国立教育政策研究所が過去の学習指導要領を全文データベース化しているが、1947(昭和22)年度の学校体育指導要綱では “フットボール”、“しゅう球”、“サッカー”が混在しているのに対し、1958(昭和33)年度の 小学校指導要領第8節体育では簡易“サッカー”に、 中学校指導要領第7節保健体育では“サッカー”に用語が統一されていることを確認できる。1960年代以降に義務教育を受けた世代はもれなく、11人でボールを蹴ってゴールに入れるゲームを“フットボール”でも“蹴球”でもない“サッカー”として覚えたはずである。余談だが、サッカーの義務教育課程化は、1960年代後半のサッカー・ブーム、“観るスポーツ”としてのサッカーの土台になったものと思われる。

 1974年、それまで任意団体だった日本蹴球協会が財団法人化されるとともに日本サッカー協会に改称し、それまで『蹴球競技規則』だったルール・ブックも『サッカー競技規則』に改題する。もちろん、監督官庁は漢字制限の元締め文部省。かくして“蹴球”の最後の砦は陥落したのである。


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[資料]
「編集後記」『サッカー』1959年1月号 p.73

◇こんど左の諸氏を編集委員として、本誌の取材、編集に当ることにした。

 轡田三男(協会常任理事・朝日新聞社・早大OB)牛本(ママ)素吉郎(東京新聞運動部員・東大OB)折原一雄(中部日本新聞運動部員・東大OB)加計修(報知新聞整理部員・早大OB)中条一雄(朝日新聞運動部員・東大OB)松原明(中部日本新聞運動部員・青学大OB)村岡博人(共同通信社社会部員・教大OB)

◇新編集委員による再発足に際して、従来の誌名「蹴球」を「サッカー」と改めることにした。「蹴」が制限漢字であることと、蹴球というより、一般はサッカーという言葉により親しんでいる現状からである。日本蹴球協会とか、早大ア式蹴球部というような場合は、固有名詞だからさしつかえないが、現在「蹴る」とか「蹴球史」「蹴球人」というときに「蹴」といら(ママ)字は使わない。メートル法のような法律ではないが、学校でも使っていないし、本誌も当用漢字、新かなづかいでいきたいので、協会常任理事会の承認を得て、そう改めた。もっとも理事会席上で異論がなかったわけではない。竹腰、川本理事、とくに川本君はかなり強硬に反対した。筆者とても「蹴球」に多大の郷愁を感ずるのだが、それとこれとは別だと踏み切ったわけだ。川本君は「“わが蹴球人は”という調子で原稿を書くぞ」とおどすので「編集のとき “わがしゅう球人”と書き直すだけだ」と言ったら「感じが出ねえなあ」と笑い話になった。

◇発行もとりあえず年四回ときめた。季刊である。売れ行きでも良くなったら隔月刊でも、月刊にでも持っていきたい意気込みだ。しかし、昨年中に出すはずの予定が、年も明けるという不出来な調子では、それも夢物語りみたいなものかも知れぬ。

◇大威張りで売り込めるような面白いもの、有益なものにしたかったが、その点これも不出来である。だんだん良いものにするよう編集委員で頭をひねりたい。それとともに都道府県蹴球協会に報道責任者あるいは本誌編集委員を置くようにしたい。そして主要記録の集成を期したいし、各学校、クラブに対し、積極的に購読の呼びかけもやっていただけたらと、欲の深いことも考えている。

◇編集委員は、サッカーを愛する新聞人としては練達者だが、雑誌についてはズブの素人だ。不手際も多いが「サッカー人の雑誌」という意味で、親味のある御指導とご協力をお願いしたい。

◇おくにじまん「北海道の巻」の筆者高師康君(北海道蹴球協会並に函館蹴球協会副会長・早大OB)は、その後、朝日新聞函館支局長から東京本社通信部に転勤されたことを付記します。(轡田)

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