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第3回フランス大会(1938年)

野村正二郎 「巴里の報告 上」
『蹴球』v.6 no.3 1938.10 p.1-6

1938年フランス大会にはFIFA総会に1940年開催予定の東京オリンピックの宣伝のため、共に早稲田OBの野村正二郎、島田孝一(戦後早稲田大学総長、流通経済大学学長、交通経済学の大家、早稲田大学ア式蹴球部長)が派遣され、W杯も観戦している。文中に島田顧問とあるので島田はJFA顧問でもあったかもしれない。野村は1938年4月~1945年8月JFA主事、男爵、航空研究所技手、戦後『サッカー』no.14 p.28-32 1961に掲載された「日本のサッカー古代史」という座談会に出席しており、その当時の肩書きは文部省大学学術局視学官、元日本蹴球協会名誉主事。
冒頭に「野村君のみやげ」と題する試合の写真と野村の上半身写真あり。
3月下旬に急に代表派遣が決定し、島田は4月14日神戸出帆、5月2日パリ着、9月23日帰国。野村は4月27日横浜出帆、アメリカを空路横断して5月19日ニューヨーク出帆、5月24日パリ着、9月3日帰国。
5月26日パリで英仏国際試合観戦、6月2日クリヨンホテルのFIFAパーティに出席、6月3日総会とそれに続く晩餐会出席。晩餐会では島田がスピーチ。6月4日~19日にかけてW杯観戦。野村は4日ドイツ対スイス(パリ)、5日フランス対ベルギー(パリ)、9日ドイツ対スイス再試合(パリ)、12日ブラジル対チェコ(ボルドー)、16日ブラジル対イタリア(マルセイユ)、19日イタリア対ハンガリー(決勝、パリ)の6試合を、島田は上記のパリで行われた4試合に加えて12日イタリア対フランス(パリ)、16日ハンガリー対スウェ-デン(パリ)を観戦している。パリとマルセイユで行われた16日の準決勝を2人で手分けして観戦している。フランス全土で開催されることは現地で知ったらしく、「一寸驚いたのは試合が巴里だけで行はれるのではなく、フランス国内の数ケ所で同日に一回戦なり二勝者戦なりが行はれたことです。」と述べている。
6月20日空路ベルリンへ向かい、日独伊三国競技の蹴球に関する交渉を行い、24日~28日ローマで同じく交渉し、28日パリ帰着。島田は7月13日パリ発で帰国。野村は三国競技の回答待ちで8月末までパリ滞在予定だったが、7月14日オリンピック中止の報が入り、続いて三国競技も取りやめとなり、7月29日マルセイユ発で帰国。
末尾に「世界カップ戦の外貌」として地区予選の結果が掲載されている。


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野村正二郎 「巴里の報告 中」
『蹴球』v.6 no.5 1938.12 p.1-5

前書きに「世界選手権大会のイタリー対ハンガリー決勝戦の経過記事の代表としてレコード・パリ記載の1戦評を掲げて「巴里の報告-(中)」といたします。」とある。日本最初のW杯戦評。
「世界カップは再び伊国へ」という小見出似続けて、書き出しは以下のとおり。

 強固なる防御と攻撃力の浸透力とによってイタリー軍は易々とハンガリー軍と戦ひ、優勝を確保した。
 速さの勝利であり、決断精神の勝利であり、アスレチックな特質を遺憾なく現はした試合であった。

ハンガリーが比較的弱い相手に楽勝してきたのに対し、イタリアは強豪相手の辛勝してきており、疲労が予想された。
2番目の小見出しは「伊軍攻撃の浸透力」で、「最初の十分間は非常に面白かった。」という書き出しで始まる。7分にイタリアが、8分にハンガリーが得点するが、10分ころからハンガリの対ウイング守備が甘くなる。17分イタリアが左サイドから得点。ハンガリーはショート・パスが悪く、ゴール前まで攻めても無駄が多い。36分イタリアがまたしても左サイドをウイングが突破してそのままシュートして得点。
3番目の小見出しは「ピオラの快闘」。書き出しは、

 後半のイ軍防御陣は前半と同様、速度があり、混乱せずに終始して居た。従って屡々巧妙には進んで来るが、遅いハ軍の攻撃を最後で失敗させて居た。

23分ハンガリーが右サイドからパスをつないで得点。風上の優位を生かしてハンガリーの攻勢が続く。しかし、タイムアップ10分前、中央でボールを受けたイタリアCFピオラは右ウイングのビアバッチにパス、そのまま右サイドをえぐってビオラに返し、ゴール前10mからシュートして試合を決めた。

 イタリーチームの勝利は、即ち近代的戦法の勝利と謂ふことが出来る。つまり適時に局面を変へることである、ロング・パスとショート・パスの適当な組合せの成果である。この為には技術的な細かさを犠牲にして、試合の速度を重んじて居たことが感得された。ヘッディングやショット等もハンガリー軍を圧倒する速さで決定された。

最後の小見出しは「異彩を放った選手」。最上のプレーヤーとしてイタリアのCFピオラをあげている。他にはイタリアのLIフェラリー、FBラバ、ハンガリーのLIツエンゲレル、LWチットコスをあげている。ハンガリーの両サイドのHBラザールとツアランは、「敵の両ウイングを自由に』動かしめて、味方のバックスを困らせたと云ふことが出来る。」と述べている。しかし、ラザールについては攻撃時の動きを賞賛している。
最後に両チームのメンバーのポジションを図示している。


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野村正二郎 「巴里の報告 下」
『蹴球』v.7 no.2 1939.2 p.1-6

「審判技術瞥見」という見出しがある。決勝の観戦記が現地報道をまとめたものであるのに対し、審判技術は筆者のオリジナルである。野村は選手の技術や戦術よりも審判技術に注目していたようだ。前書きは以下のとおり。

 国際試合の審判員は第三国人たるべしと、蹴球規則に明記されてあるが、もし我々が真の国際試合を計画しようとする場合には、之が相当の難関となる筈である。然るに欧州では多数の国が近接してゐる為に、第三国の審判員招聘といふことには何の困難もない。丁度我々が夜行列車で大阪へ出掛けて、即日ホイッスルを勤め、翌日は帰京して仕事が出来るように、彼等は隣国の主要都市へ容易に往復し得るからである。

審判は周辺国のベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スイス等と3F・A(イギリス?)から召集された。トリッピング、プッシング、バックチャージ、ヘッディングに対する反則は我が国よりも厳格だと述べている。レイト・タックル、レイト・チャージは審判によって差があり、試合の流れを優先するものとそうでないものがいる。「外国での試合にはペナルティ・キックは滅多に無いものと聞かされてゐたが、少くともパリ-大会では、反則に対してビシビシとペナルティ・キックを取った。」と意外そうに述べている。多くはウイングがゴール前に切りこんでくる際のバック・チャージであったとのこと。「これは欧州での試合では我国で見られるようなゴール前の混戦は殆ど起らないで、シュートの大半はペナルティ・エレアに入るか入らないか位の場所から行はれるからである。」と説明している。
ドイツ対スイスの試合で、不可解なペナルティー・キックがドイツに与えられたが、ドイツのキッカーはわざとはずして相手のゴール・キックにし、これに観客も拍手喝さいしたことに、勝負を度外視したスポーツマンシップの真髄をみている。(結果はドイツの負け)。
主審は一般に急激な動きをしない。筆者が観戦したなかで一番うまいと思ったのは決勝の主審のフランス協会の審判。ペナルティ・エリアのインフィールド側コーナーから対角線上に菱形の台形状の範囲で動いていることを図示している。他の審判は両ペナルティ・エリア間を長方形状にうごいていることを図示している。ペナルティ・エリア内に入らない人さえいたとのこと。


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 3」
『サッカー・マガジン』v.5 no.2 1970.2 p.124

第三回大会 第四回大会 第五回大会
このシリーズはグラビアに写真あり。


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鈴木武士 「新ワールドカップ物語 第3回 偉大なセンター・フォワードたち」
『サッカー・マガジン』v.8 no.12 1973.11 p.146-151

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クラウス・ドイテルモーザー 「史上初のW杯2連覇をなしとげたポッツオ軍団」
『イレブン』v.6 no.7 1976.7 p.102-106

力闘型のチーム編成 二日間にわたる激闘 五輪でも金メダル 力で世界を屈服


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「嵐をよんだ“黒いダイヤ”レオニダスの恐怖のシュート」
『イレブン』v.7 no.14 1978.12 p.102-105

震えあがる恐怖のシュート 劇的な対ポーランド戦 敵をほんろうする魔術師 黒いダイヤの決勝ゴール


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「世界杯を彩った名ポスター 第3回フランス」
『イレブン』v.11 no.9 1981.9 折込頁

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賀川浩 「第3回ワールドカップ(1938年)」
『イレブン』v.12 no.5 1982.5 p.177

アジアから初参加 ブラジルの黒いダイヤモンド イタリア、二連勝に輝く


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イストバン・ソモス 「レフェリーの回想ワールドカップの想い出」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.34-38

第二回一九三四年イタリア大会-イワン・エクリンド氏(スウェーデン) 開催権はイタリアへ 指名された27歳のエクリンド ローマで、イタリア初優勝
第三回一九三八年フランス大会-ジョルジュ・カプデビーユ氏(フランス) 大戦前夜 地元カプデビーユ氏、指名さる イタリア連勝

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