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2001年11月~2002年1月4日

(02/1/4)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(6)
ベルリン・オリンピックの代表選考でのゴタゴタをふまえて、オリンピック後大日本蹴球協会は国際大会ごとに代表を選抜するのではなく、代表候補を常にプールしておいて随時強化合宿を行う「常備軍」(この用語は戦後もたびたび使用されている)方式に転換します。残念ながら、新方式が定着し、効果をあげるまもなく太平洋戦争に突入してしまいます。
『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)を読み直すと、ベルリン・オリンピックの記述が意外に淡々といているのに驚きます。昭和9年の極東大会には本文中で言及していないだけでなく、同大会からベルリン・オリンピックにかけての代表選考経過とその結果に関してまったく触れていません。1970年代には当時の関係者の多くがまだ健在だったうえ、協会主事(実務上の責任者)でベルリン代表監督だった鈴木重義と関西蹴球協会会長だった田辺五兵衛という当事者中の当事者が2人とも編纂メンバーだったので、この件を「詳述」するのは差し障りがあったのでしょう。編集後記の「全日本的に公平な記述にまとめ上げる」というのが意味深長です。なお、本来ならこの件に関する著述があってもおかしくない関西出身・在住のサッカー・ジャーナリスト大谷四郎は大谷一二の実弟、賀川浩は大谷一二の神戸一中、神戸高商の後輩で、この件を直接執筆するには両氏とも一方の当事者との距離が近すぎる存在です。賀川は早稲田OBの川本泰三へのインタビューという間接的な方法でこの件の記録を残しています。


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(02/1/3)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(5)
関西側が東西対抗選抜選手権の結果にこだわったのは、オリンピックの2年前、昭和9(1934)年5月にマニラで開催された第10回極東大会はこの試合結果で代表を選考したからです。このときは昭和9年1月に2試合して、第1戦:全関東5-3全関西(南甲子園)、第2戦:全関西6-1全関東(神宮)と、東西がアウェーで勝って1勝1敗で、日本代表は東西ほぼ同数ということになりました(早大7、関学6、慶大2、京大1、神高商1)。ところが、この東西混成即製代表はまとまりがなく、本番でもオランダ領インドに1-7で大敗し、1勝2敗に終わります。川本はこのときも代表に選出されています。

川本:「関東は早大が主力、関西は学校にこだわらずOBもだいぶいたかナ。なかなかいいメンバーだった。1勝1敗だから、関西、関東同数で代表をつくろう、ということになって、マニラ行きのチームができた。関西はOBが多いし、関東は学生だし、年齢も違ってなんらつながりのないチームだった。国内の合宿でもキャプテンのゴットン(後藤靱雄氏)ら関西の連中は、門限に帰ってこず、竹腰監督が選手を集めて一説ぶち、泣き出すなどといった一幕もあった。おまけにこの大会には満州国の参加問題がからんで、右翼が日本選手団の参加を妨害したりした。」

一面で若い竹腰監督が関西のオッサンOB選手を御しきれなかったようでもありますが、他方で同じくこのときの代表選手だった松丸貞一(慶応)は「成城の人たち」『成城蹴球・サッカー60年史』(1988)所収で次のように述べています。

 「監督は竹腰ノコさんである。ところが彼は当時かなりの国粋主義者で、満州国承認の運動に半分以上の精力を尽していた。だから、合宿にも参加できず、満州に出張し、選手強化に全力を集中できなかった。」

極東大会参加国・地域の中華民国、フィリピン(アメリカ領)、東インド(オランダ領)は満州国を承認するはずもなく、当然参加を認めません。右翼は極東大会ボイコットを主張し、参加を妨害しにかかっているのに、監督の竹腰(大連一中出身)が満州国承認運動のため合宿にろくに顔を出さないというのでは、仕事を放り出して関西からわざわざ合宿に参加している社会人OB選手が「アホらしゅうてやってられん」と思うのもまた無理からぬところかもしれません。
いずれにせよ、この極東大会の監督、コーチ:鈴木重義、竹腰重丸、工藤孝一はそのままベルリン・オリンピックの監督、コーチになり、このときの経験に懲りて、次はもっと統御しやすいチームを編成しようと考えたに違いありません。


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(02/1/2)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(4)
関東側から強引に代表候補が発表されたとはいうものの、関西を代表するFW(RW)の大谷一二(神戸一中→神戸高商)が選に漏れたのでまたひと騒動。

賀川:「関西からは何人か代表にはいったが、大谷(一二)さんがはいらなかったので、関西側がおこったという話でした。」
川本:「関大の上吉川(かみよしかわ)、神戸高商の小橋...といったメンバーもはいっていたのだが、大谷が行かないというので辞退した。竹腰、工藤(孝一)、浜田諭吉さんたちが選考委員だったと憶えている。大谷がいかん、という理由は昭和9年のマニラで、中国との試合で、みんなの前で、相手が足をけりに来たとき逃げた、というんだ。」
賀川:「大谷一二さんは、そのころ関西を代表する名選手でしたから...。<以下略>」
川本:「選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点からみてもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合にこまる。大谷をつれていってほしいとノコさん(註:竹越)にも、いったんだが...。スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。」

というわけで、関西側が辞退(ボイコット?)したこともあり、 ベルリン・オリンピック代表16名は、早稲田10名、東大3名、東京文理大1名、慶応1名、京城蹴球団(普成専門)1名、監督:鈴木重義(早稲田)、コーチ:竹腰重丸(東大)、工藤孝一(早稲田)と、早稲田-東大ラインで固められ、関西の大学からの選抜は皆無です(2年前の極東大会代表17名では関東9名、関西8名でほぼ同数)。このため上記で川本が述べているRWだけでなく、他のポジションも構成がイビツになってしまっています(辞退した関大の上吉川はGK)。

川本:「ボクも早稲田だが、一選手の立ち場で、やはりああゆう選考はおかしいと思った。だから結局、オリンピックでは、実際にゲームに全然出ないプレーヤーもつれていったんだ。ゴールキーパーも早稲田から二人もつれていったしね。」

この問題で東西対立は頂点に達し、関西協会は日本協会と袂を分かつべしという意見まで出たそうです。

賀川:「このとき関西協会は、日本協会から脱退しよう、という意見も出たようですネ。それを田辺さんがなんとか、まとめた...この話は田辺さんが亡くなる前にもよく話しておられたし、戦後の東西対抗などで西軍が集まると、後藤さんはじめ、大先輩たちから、その都度、聞かされたものですが...」

私の記憶では、田辺五兵衛はこのいきさつを「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』所収(神戸一中、神戸高校のサッカー部史、大谷一二は神戸一中OB、本書を神戸市立中央図書館で閲覧した)に書いているはずですが、残念ながらコピーをとってこなかったので、これ以上詳しいことはわかりません。


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(02/1/1)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(3)
この当時の代表チームは大学主体(社会人チームはなく、社会人は早稲田WMWや慶応BRBのような大学の現役・OB混成チームでプレーした)でした。昭和10年は早稲田が関東大学リーグで5勝0敗(早慶戦は8-2で圧勝)、東西優勝校争覇試合で関学に12-2で圧勝(1925年のルール改正後WMシステムが定着するまでイギリスでもこのようなハイスコア試合が多かった)と図抜けた存在であり、このままなら代表チームが早稲田中心で編成されても少なくとも内地のチームからは異議はでなかったでしょう。ところが最後の東西対抗選抜選手権で全関西が全関東(早稲田主体)に勝ったので、関西ではこの全関西チームを中心に代表が編成されると考えたようです。川本泰三によれば、

 「うん、こんなことがあった。試合に負けた東軍は解散し、ボクは大阪の家に帰っていた。夜中にゴットン(註:後藤靱雄、関学OB)から電話がかかってきた。“関西が勝ったから、オリンピックも関西が代表でいくんや。ただ、お前(川本)は関西にいれたる。いま、どこやらで飲んでいる。右近(徳太郎)も来ているから、お前も出てこい”というんだ。行きはしなかったがネ。」

後藤は昭和9(1934)年の第10回極東大会(マニラ)の代表主将。全関西が日本代表になるが、川本(市岡中→早稲田)や右近(神戸一中→慶応)のような関東に在籍していても関西出身者なら入れてやってもいいぞ、という気分だったようです。
『日本蹴球外史』によれば、昭和11年2月以降に関東、関西から選ばれた選考委員5名で協議したが意見一致せず、結局関東側委員3名によって候補選手を決定し、4月15日(註:候補選手発表は3月10日)に一方的に発表してしまいます。これに対して、関西蹴球協会は3月29日に協会の選手決定の不当を訴えた声明文を各報道機関に送付したとのこと。サッカーとは関係ありませんが、2月26日には二・二六事件が発生し、代表選考で揉めていたころは国内は騒然としていたはずです。


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(01/12/31)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(2)
代表選考の参考となったと考えられる重要な四つの大会・試合が昭和10~11(1935~36)年にかけて行われています。年月順に列記すると、

1.全日本綜合選手権大会 昭和10年6月(神宮) オリンピック強化対策としてこの年に創設された地区対抗トーナメント戦。決勝は朝鮮代表京城蹴球団が関東代表東京文理大(東京高師の後身)を6-1の大差で破って優勝。

2.明治神宮体育大会兼全国地方対抗選手権大会 昭和10年10月(神宮) 現在の天皇杯の前身でやはり地区対抗トーナメント戦。この大会も京城蹴球団が関東代表慶応BRBを2-0で破って優勝。

3.東西優勝校争覇試合 昭和10年12月(神宮) 関東大学リーグ優勝校早稲田と関西大学リーグ優勝校関学が対戦し、早稲田が12-2で圧勝。ちなみに、この年が第7回だが過去6回は関東の5勝1分、早稲田は第5回対京大5-2、第6回対京大6-0、いずれも完勝で3連覇。

4.東西対抗選抜選手権試合 昭和11年1月(南甲子園) 関東、関西大学大学リーグ選抜チームによる対抗戦。全関西が全関東(といっても東大の竹内を除いて全員早稲田)を3-2で破る。ちなみに、これ以前は関東の3勝2敗。

実質的な全日本選手権である1、2の両方に優勝したのは京城蹴球団であり、朝鮮サイドから見れば、代表チームが京城蹴球団を中心に編成されるべきだと考えられたのは無理からぬところでしょう(実際には京城蹴球団から代表入りしたのは金容植1人だけ)。この点に関しては、植民地時代の朝鮮サッカー史を詳しく紹介した本がいくつか出ていますので、ここではこれ以上触れません。問題は3、4で、東西が1勝1敗になり、関東、関西ともにこの結果を都合よく解釈したことに... 


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(01/12/30)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(1)
古今東西を問わず代表選考というのはスンナリとはいかず、おそらく来年の最終選考も異論百出するでしょう。ところで、日本代表選考史上最も紛糾したのは、あまり知られていないことですが、昭和11(1936)年のベルリン・オリンピック ではないでしょうか。正月休みで図書館が閉まっており、文献目録が先に進まないので、冬休みスペシャルとして(笑)当時の選考過程を記してみたいと思います。まずは参考文献から。
1.日本蹴球協会 『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)
2.竹内至 『日本蹴球外史』(竹内至,1991)
3.川本泰三 「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169
これ以外に田辺五兵衛「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)所収があるのですが、残念ながらコピーをとってこなかったので使えません。
1は協会による日本サッカー「正史」。2の著者は東京高師附中、旧制新潟高校、京大卒、新潟高校では府立五中から進学した池島信平(文藝春秋の名編集者で、後同社社長)とともに蹴球部を創設し、インターハイ出場。特に、戦前の代表選考法の変遷について詳しく記されています。3はインタビューでインタビューアーは賀川浩。川本は大阪の市岡中学から早稲田に進学、ベルリン・オリンピック代表のCF。ベルリン代表選考のかなりつっこんだ裏話が記されています。
話は変わりますが、『イレブン』は創刊当初から川本泰三の回顧談(インタビューアーは賀川浩、大谷四郎)をかなり長期にわたって連載しています。関西在住のサッカー・ジャーナリスト賀川、大谷は同じく関西在住のサッカー界OB川本や田辺の回顧談を『マガジン』や『イレブン』のような商業誌に掲載してくれています(多分雑誌編集部の企画ではなく、賀川や大谷の企画では)。これらを読むと、なぜ東京在住のサッカー・ジャーナリストは野津謙、竹腰重丸のような人物に回顧談をインタビューしなかったのか不思議に思います。野津(会長)、竹腰(理事長)と協会の要職にある人物はウッカリしたことはしゃべれなかったかもしれませんが。


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(01/12/13)
世界との接点ベルリン・オリンピック(1936)
前回『日本サッカーのあゆみ』の不満点をのべましたが、もうひとつふたつ。 ベルリン・オリンピック の対スウェーデン戦勝利は戦前日本サッカー史のハイライトですが、この大会で当時世界最先端の戦術だった3バック(WM)システムに接します。1925年にサッカー史上最も大きなルール改正であるオフサイドの緩和(3人未満→2人未満)があり、その対応としてアーセナルのチャップマン監督が生み出したWMシステムは、1958年ブラジルが4-2-4で世界制覇するまで約30年間世界標準の戦術となります。WMシステムがどのようにして生まれたか、そもそも1925年のルール改正はなぜ必要だったかという世界サッカー史の流れが説明されてなくて、日本サッカー史の流れからいきなり3バックの話になってもイマイチピンとこないわけなんですね。これを知るための好著がロジャー・マクドナルド著『写真で見るサッカーの歴史』(ベースボール・マガジン社、1982)です。私の目からウロコがポトリ。通史は単独著者が書くべきだという見本です。
ところで、3バック・システムがなぜルール改正直後に日本で生まれなかったのか、WMシステムが伝わったにしても大航海時代なみのスピードだったのかについては竹腰重丸が『サッカー』(旺文社,1956)に書いています。竹腰はベルリン・オリンピック代表コーチで、オリンピック後ロンドンに渡り、ハイベリーでWMシステムの本家アーセナル対エバートンという当時の黄金カードを観戦しています。ついでにいうと、竹腰は1952年のヘルシンキ・オリンピックでマジック・マジャールといわれた全盛時代のハンガリーも観ており、1930年代のアーセナルとマジック・マジャールいう伝説上のチームをナマで観ているという信じられない観戦歴の持ち主です。
また、ベルリンの代表選考は、植民地朝鮮対内地、関西対関東、でかなりゴタゴタし、特に後者についてはリオ対サンパウロで猛烈な綱引きがあるというセレソン顔負け(関西協会が日本協会と袂を分かつ寸前までいった)の裏話があるんですが(これは協会の「正史」には載るはずがない)、それはまた別の機会に。


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(01/12/9)
日本サッカー史のサイト
といえば現役最長老のサッカー・ジャーナリスト賀川浩氏の文章が“FC JAPAN”というサイトに載っていますが、福岡在住のNさんが10月から office2002というサイトで日本サッカー史を連載しているのを見つけました。連絡を差し上げたところ、向こうもこちらを見ているとのこと。私も日本サッカー史に関心がありますが、自分が書く能力も気力もないので、やる気のある人に協力したいと思っています。なにしろ、こちらは資料集めの環境には恵まれてますからね(本サイトに何らかの価値があるとすれば、私の能力ではなく100%環境によるものです)。
ところで、新規に日本サッカー通史を書くということは、つまるところ日本協会による正史『日本サッカーの歩み』(講談社,1974)をどう超えるか、ということにつきると思います。この本はすでに戦前から日本サッカー史に関心があった当時の日本サッカー界の長老新田純興を中心に、鈴木重義(早稲田サッカーの始祖、ベルリン五輪代表監督)、多和健雄(東京教育大教授、協会普及部長としてサッカーの義務教育課程化に貢献)、朝日新聞記者の中条一雄、大谷四郎、そして田辺五兵衛が編集実務をしたとのこと。編集後記に「全日本的公平を期し」とあるように、中条(旧制広島高校OB)が広島、田辺(関西協会長)と大谷(神戸一中OB)が関西をと、地域的バランスを重視した人選だったようです。反面、「船頭多くして...」という感じで、まとまりを欠いた仕上がりになっています。通史はやっぱり単独著者がマクロ的な視点から一貫的に記述したほうがよいのでは、と思います。
それと、この本は戦前の植民地朝鮮(現在の天皇杯や高校選手権に相当する大会に優勝チームを出している)の部分が弱いように思いますが、この点は、W杯の日韓共催もあって、最近植民地朝鮮時代のサッカー史に関する本がいくつか出ていて、それらの成果をとりこめば、もっと広い視野から見た「日本」サッカー史を書くことができるかもしれません。


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(01/12/3)
日本サッカー狂会
は日本代表サポーターの先駆で、その会報『Football』には毎年「日本サッカー狂会活動出席者一覧表」が掲載されています。横に会員氏名とその居住地が、縦に過去1年間の日本代表の試合日程(場所)が、一覧表になっていて出席者には○印がついています。自分が住んでいる近くで代表の試合があっても観戦にいかなければ一目瞭然で、「狂会員は、「フットボール」誌の単なる購読者であってはならない。気持はあっても、仕事や試験や病気、サッカーにおける立場(取材等)などの関係で応援に行けない場合はあるだろう。しかし、できるかぎり、悪条件を乗りこえて応援活動に参加することが“狂会員”であるはずである。」(池原謙一郎  「応援活動にもっと多くの参加を!」 『Football』 no.42 1977.8)と叱咤されることになります。


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(01/11/30)
メール・デコーダ
を遅まきながら設置しました。お便りをいただければさいわいです。
大会抽選会が明日に迫りましたが、大枠はすでに決まっているというウワサもあります。ジュール・リメ著『ワールドカップの回想』(ベースボール・マガジン社、1986)を読むと、FIFAは徹底した商売人で(この自伝にはワールドカップ各試合の収益まで記載されている)、アマチュアリズムを「錠前をばらして修理を楽しんだ哀れなルイ16世や、アルフォンス・ドーデの小説に出てくる詩を作る田舎の郡長のような人たちを、アマチュアと呼ぶわけである」と容赦なく裁断しています。この本を読むと、大会を盛り上げるためには、多少の作為があっても不思議ではないです。少なくともIOCとFIFAを同列に扱うのはナンセンスというものです。


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(01/11/24)
大宅壮一文庫
に行ってみました。大宅壮一文庫雑誌記事索引検索システム(OMIS)というオンライン・検索システムを検索してみると、
1.体系的に件名検索できた記事数は、サッカー一般(2,399件)、女子サッカー(99件)、高校サッカー(128件)、Jリーグ(2,564件)、ワールド・カップ・サッカー(568件)、フランス大会(1998)(1,409件)、日韓共同大会(2002)(548件)でした。
2.予想通り、人名件名しかついていない記事がかなりあるので、人名からも検索する必要があります。ちなみに、トルシエ,フィリップ(214件)、中田,英寿(921件)でした。
3.『サッカー・マガジン』は最近のもの(1998.1.14~)は採録されていて、記事総数は1,964件。これ以外の専門誌は採録されていないようです。『Number』は1980.8.05~採録になっていて、記事総数は17,809件。

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(01/11/21)
サッカー専門誌以外のW杯関係記事
大宅壮一文庫は週刊誌、女性誌、総合月刊誌などから硬軟さまざまの記事を索引しており、世相を写す鏡ともいうべき存在です。明治時代から1995年までの記事索引が『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』として冊子で刊行されています。
W杯関係記事は、~1984年分(追録を含む)が10件、1985~87年分が21件。1988~95年分からは「ワールド・カップ・サッカー」という件名が新設されていて(それまでは「サッカー」の中からピックアップしなければならない)、510件。なお、人名編が別にあるので、「ペレ」や「マラドーナ」などで検索すれば、多分さらに多くのW杯関係雑誌記事を見つけることができるでしょう。
1988~2000年の記事索引はCD-ROMでも刊行されています。「ワールド・カップ・サッカー」がさらに「フランス大会(1998)」、「日韓共同大会(2002)」に細分されていて、W杯関係記事の激増ぶりを示しています。
私が大宅文庫索引中で見つけた最初のW杯関係記事は,1974年3月発行の『新評』(既に廃刊)に牛木素吉郎が書いた「ワールドサッカー誘致論 西ドイツのワールドサッカー中継権利金が170万ドル(5億1千万円)」です。


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(01/11/18)
山形vs仙台
のJ1昇格争いは仙台の勝利に終りましたが、東北地方で大正時代初期に中学校でサッカーをしていたのは鶴岡の庄内中学と仙台の仙台一中の2校のみでした。大正2年に庄内中学を卒業したドイツ文学者相良守峯(岩波文庫に収録されているゲーテの著作の翻訳者)がこの2校の対戦を「サッカーの旅」と題するエッセイ(『山形県サッカー協会四十年史』(山形県サッカー協会,1988))に書いています。
「当時はまだ田舎町であった鶴岡には汽車などというものは開通していないし、さりとて人力車を駆り立てるほどの勢いもなかったので、我々はひたすら徒歩でテクテク、先ずは最上川の畔からその河上に沿うて上流へ上流へと、14里の道をウンウン唸りながら、新庄のあたりへ徒歩の道を遡りゆき、ここで漸く汽車という文明の利器を捉えて仙台までひと走り。」したとのこと。仙台は運動靴を履いていたが、庄内はどんな足の裏をしていたのか裸足でプレー。試合は3対1で裸足の庄内が勝ちました。


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(01/11/16)
ええしのぼん
『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌でJFA以外の刊行物は、総目次をアップした『蹴球評論』と『Kick-Off』の2誌ですが、前者の発行元蹴球同好会の住所は大阪道修町の田辺製薬内、後者の大阪クラブは同じく大阪の川惣電機内になっています。川惣電機の創業者は川本惣吉とのことなので、おそらく川本泰三も経営者だったのではないでしょうか。
以前にも述べたようにベルリン・オリンピック 代表は全員大学生(または大学に準ずる高等教育機関)とその卒業生です。『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)という自伝を残している堀江忠男の父親は現在の静岡大学工学部の教授。同じく代表で堀江と同様浜松中から早稲田大に進学した加茂兄弟は、小学生のころからピアノの連弾をしていたそうです。オリンピック遠征中に買ったショパンの楽譜を帰途の日本郵船の船中のグランド・ピアノで弾いたところ、「調律ができていない」という旨を堀江に言ったとのこと。


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(01/11/13)
追加しました
『サッカー』(浜松一中蹴球団,1934)と『蹴球指導法の一例』(関西蹴球協会,1936)を追加しました。


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(01/11/12)
『Kick-Off』総目次
もアップしました。


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(01/11/11)
『蹴球評論』総目次
をアップしました。昭和6(1931)年創刊の日本最初のサッカー専門誌です。『Kick・off』(1954年創刊)総目次もいずれアップしたいと考えています。


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(01/11/9)
戦前のサッカー・ジャーナリスト 3
6/26、8/30付けで戦前のサッカー・ジャーナリスト山田午郎、三宅次郎、斎藤才三について簡単に紹介しましたが、『サッカー』1959年1月号に轡田三男が書いた山田午郎の追悼記事中に「当時のサッカー記者は朝日の山田さん、東日(現毎日)の宇都宮さん(故人)、時事新報の広瀬さんなどであったが、」という部分がありました。『運動界』の索引から察すると広瀬というのは広瀬謙三のようですが、宇都宮という名前は出てきません。
斎藤才三(桃山中学で田辺五兵衛の次の主将)は1931年に渡英してアーセナルの試合を観戦しており、日本最初の3B(WM)システムの紹介記事を田辺が主宰した日本最初のサッカー専門誌『蹴球評論』no.2 1931.12に「英国だより」というタイトルで寄稿しています(これは『日本サッカーの歩み』(講談社、1974)にも引用されています)。フォーメーションの図入りという力作です。また、1931年12月9日にロンドン(ハイバリー)で行われたイングランド対スペインのナショナル・マッチを『蹴球』no.7 1933.12に「英国対スペイン国際戦」と題して寄稿しています。

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