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ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏

-はじめに-

 後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』(双葉社,2002)が刊行され、極東大会参加からベルリン・オリンピックに至る戦前の日本サッカーの流れが明確に辿れるようになった。後藤氏の著作に先行する日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)はベルリン・オリンピックの代表選考や1934年第10回極東大会にはまったく言及していない。実は、1934年の極東大会から1936年のオリンピック代表(候補)選考について、関東(日本協会)と関西協会で感情的対立があり、日本協会による1936年のオリンピック代表候補選考に対して関西協会が抗議声明を出すという騒ぎがあった。『日本サッカーのあゆみ』の編纂メンバーには鈴木重義(日本協会の実務上のトップである主事でベルリン・オリンピック代表監督)と田辺五兵衛(関西協会会長)の両氏、いわば当事者中の当事者が入っていて、できるだけ昔のゴタゴタに言及することを避けたと推察される。

 ところで、ベルリン・オリンピック代表選考に関しては、関東対関西だけでなく、内地対植民地朝鮮でも対立があり、この点に関しては近年の韓国サッカー史、日韓サッカー交流史関係の諸著作がもれなく言及している。しかし、それらの諸著作が参考にした『日本サッカーのあゆみ』が代表選考に関する記述を避けた結果、関東対関西で対立があった事実には言及されず、内地対植民地朝鮮の対立のみがクローズ・アップされ、いささか偏った記述になりがちになっているようにも思われる。後藤氏の著作は朝鮮側が代表選考に不満があった事実を認めつつ、選考が歴史的な流れからみればそれなりに合理的だったことを指摘しているが、関東対関西の対立には言及していない。

 ベルリン・オリンピックの代表選考は、ひとことで言えば、芯になる単独チームのない東西混成の1934年極東大会代表が不成績だった反動で、単独チーム(早稲田)を主体にチームをまとめることを主眼とした編成であった。以下、その経緯を辿ってみたい。

参考文献

 代表選考をめぐる「内紛」だったので、大日本蹴球協会機関誌『蹴球』や当時の代表的総合スポーツ誌『アサヒスポーツ』にはまったく見当たらない。戦後もかなりたってから刊行された以下の2文献がこの間の事情に触れている。

・田辺五兵衛「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)所収。関西協会のトップだった田辺五兵衛の回想。神戸一中OB大谷一二や市橋時蔵がベルリン・オリンピック代表に選考されなかった経緯が書かれている。

・川本泰三 「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169
川本泰三は市岡中学、早稲田大卒、早稲田在学中ベルリン・オリンピック代表。戦後は大阪に帰り家業を継ぎながら、1954年のW杯予選まで日本代表でプレー、代表監督も務めた。インタビューアーは賀川浩。

カレッジ・スポーツだった戦前サッカー

 高等師範・師範学校が中心だった日本サッカーは、1924年関東・関西で大学リーグが始まると大学が中心になる。1927年第8回極東大会フィリピン戦で日本は国際戦初勝利をあげるが、代表メンバーは早稲田を中心に東大、法政、水戸高校と全員大学生またはほぼ全員が大学に進学した旧制高校生になっている。1929年には東西大学リーグの1位が対決する対抗戦が始まる。初年度は東大が関学を3-2で下している。1927年の極東大会日本代表は実質的な関東代表だったが、こうした東西交流を反映してか、1930年フィリピンに勝って中国と引分けて優勝した極東大会日本代表には関学(3名)、京大(1名)が選ばれ、初めて一地域ではなく全日本から代表が選ばれる形となった。この時は東大主体のチームで、ハイライトの対中国戦の先発イレブンは東大8、関学2、早稲田1名であった(全体では東大12、早稲田3、関学3、京大1、慶應1)。主将はCH竹腰重丸でFWは全員彼が手駒として育成した東大勢がしめた。なお、監督は早稲田OB鈴木重義。

 ベルリン・オリンピックの前年1935年まで7回の対抗戦は東の6勝1分けで、完全な関東優位であった。ちなみに大学別では、東大(2勝1分け)、慶應(1勝)、早稲田(3勝)、関学(1分け3敗)、京大(3敗)であった。東西大学リーグの覇者が「日本一」を賭けて激突するというスタイルは、社会人が強くなる前のアメフトの甲子園ボウル(勝者が日本一を意味した)に似ている。他地域でもサッカーをしている大学はあったが、関東、関西の一部校とは水準に差があって、大学チャンピオンを決定する「全日本選手権」的大会がないことも現在のアメフトの状況に似ていよう。東西大学リーグで優勝経験のある関東3強と関西2強がベルリン・オリンピック以前の大学サッカー、すなわち日本サッカーの中心であった。

1934年第10回極東大会の代表選考と代表合宿

 1934年5月マニラで開催されるこの大会の代表選考に際しては、選考参考試合として同年1月にOBを含む全関東対全関西戦を2試合、南甲子園と神宮というホーム・アンド・アウェー方式で行った。結果は第1戦:全関東5-3全関西(南甲子園)、第2戦:全関西6-1全関東(神宮)と東西がそれぞれアウェーで勝って1勝1敗の五分だった。その結果を反映して、代表は関東9名関西8名(早大7、関学6、慶大2、京大1、神高商1、OB含む)と東西ほぼ同数になった。関東側にこれを関西側の陰謀だととらえた人がいたようだ。田辺によれば、

 “昭和9年(1934年)5月、マニラの極東大会には一中OBとして大谷一二、右近徳太郎の両君が参加した。選抜委員会は選抜の利便のため、東西対抗をこの時に限り二回行なうことにした。その結果は奇しくも東西同数の選手の選抜となった。これに対して関東側、とくに早大側に、これを最初から関西がしくんだ陰謀だとする説が生まれた。これはその委員会の経緯をみてもわかるように偶然の結果にすぎなかったが、早大OBである当時の日本協会理事長(ママ)鈴木重義氏が説明を怠ったことによって火がつきかけたのだった。しかし一応説明してことなきをことなきを得たかにみえたものの、チームの練習実施に当たるべき竹腰君は満州国参加問題で体協代表として、陸上の渋谷寿光氏とともに満州国に飛び、東伏見グラウンドに残されたチームはいわゆる自習する生徒のようになってしまった。これは第二期の碑文谷合宿練習においても、五十歩百歩の域を出なかったのである。”

 田辺は鈴木が「説明を怠った」と実名をあげて非難しているが、鈴木自身が不満だったとも考えられる。当初、この大会の代表監督に鈴木、コーチとして工藤孝一(早稲田大学監督)、4年前の主将竹腰が予定されていたが、早稲田OBの鈴木と工藤が辞退して、急遽監督に竹腰、コーチ兼マネージャーとして田辺が就任することになった。竹腰は当時28歳、選手とは年齢の差があまりなく、このチームの主将後藤靱雄(関学OB)のように4年前選手として同輩だった者もいた。東大OBの竹腰、大阪高商OBの田辺と、出身校の後輩がまったくいない監督・コーチ・コンビで、東西混成チームを指導するという難題に直面したのである。川本によれば、

“関東は早大が主力、関西は学校にこだわらずOBもだいぶいたかナ。なかなかいいメンバーだった。1勝1敗だから、関西、関東同数で代表をつくろう、ということになって、マニラ行きのチームができた。関西はOBが多いし、関東は学生だし、年齢も違ってなんらつながりのないチームだった。国内の合宿でもキャプテンのゴットン(後藤靱雄氏)ら関西の連中は、門限に帰ってこず、竹腰監督が選手を集めて一説ぶち、泣き出すなどといった一幕もあった。おまけにこの大会には満州国の参加問題がからんで、右翼が日本選手団の参加を妨害したりした。”

満州国参加問題というのは、1931年の満州事変により誕生した満州国を、日本は極東大会に参加させようとし、当然中国(中華民国)が反対し、結局1934年の大会では満州国は参加しなかったことで、右翼は満州国参加を認めない極東大会をボイコットせよ、と主張した。この問題により、極東大会は1934年大会が最後になる。OB選手は関学OBの後藤靱雄、安部輝雄、堺井秀夫、西邑昌一、神戸高商OBの大谷一二、慶應OBの松丸貞一、早稲田OBの名取武。監督が満州出張で不在がちなうえ、チームを締めるべき主将自ら門限破りをしているような代表合宿だったようだ。慶應から選出されて参加した松丸貞一は「成城の人たち」『成城蹴球・サッカー60年史』(成城蹴球・サッカー60年史編集委員会,1988)所収、でこの合宿を次のように回想している。

 “キャプテンは関学のゴットンである。彼だけが前回の極東大会(東京)生き残りのベテランである。合宿は学芸大学に近い勧銀のグラウンド、宿舎は「大国」という旅館?である。
 芝生の国立競技場よりなめらかなグラウンドであった。監督は不在だし、いいかげんなキャプテンなので生活も練習もまことにダラシない。だれも見てくれないし、自分から立ち直る自覚も乏しく、僕の相談ができるのは早稲田の選手諸君(立原、堀江、高島、名取)位のものであった。これが関東、関西の対立と見られて、田辺の治太さん(助監督)から注意されたが、それは的はずれで、もっと本質をつかんでくれるべきであった(しかし生活をともにしない役員に当時のムードをつかめというのは無理かもしれない)。”

 竹腰も相当悩んだようで、夜中に臼杵藩の家老の娘であったという彼の母から譲り受けた短刀を見つめて周囲の度肝を抜いたというのは、このときのエピソード。岡野俊一郎「サッカーの英雄たち クラーマー・コーチの残心と竹腰さんの“短刀”について」(『文藝春秋』1966年11月号所収)によれば、

 “当時は極東オリンピックが最大の国際試合であったが、ノコさんは早くから代表選手に選ばれ、少したつとコーチをも兼ねるようになった。極東オリンピックの選手合宿の時、ノコさんが常に白鞘の短刀を持っていたことは有名である。ノコさんに言わせれば、「当時は選手選考等で複雑な問題があったし、自分も若くして責任のある役を引受けていたので、もし自分のやったことが間違っていたら腹を切るつもりで短刀をもっていただけで、それでだらしのない選手をおどろかそうなどという考えはもっていなかったよ。しかし、短刀をもっているということが、誰からとなく選手に知れた後、確かに選手の気持が引き締まって来たのも事実だ。要は、人間が或ることを必ずやり抜こうと決意すれば、その仲間を一緒に引張って行くことは可能だということだ」ということだが、現在の若い選手には一寸理解しにくい、一種の神話になってしまっている。”

「ノコさん」とは竹腰(タケノコシ)のこと。田辺によれば、こうしたチームのまとまりのなさは、マニラまで持ち越された。

“こうしてキズを残したままチームは船出したのである。不幸はこの時にはじまる。船中での日課の研究会はやがて話題を尽し、毎日同じことのくり返しで、これに対する反発と、その反発に対する反発が乱れ飛んだ。船出した以上このチームで最高の成績を残すよりほかに方法はないのではないかと、一人一人をなだめた。このあつれきはマニラの宿舎に入っても残った。このチームのもう一つの弱点は昭和5年のときと違い、選手の年齢にやや開きがあるため、統制上簡単にゆかない点もあった。それを一途に押していったのが無理だったのだ。その余燼がベルリン大会選手選抜委員会の成り行きまで飛び火しようとは思いもかけなかった。”

 2年後のオリンピック代表は主将の竹内悌三(28歳、東大OB)と朝鮮からただ一人選ばれた金容植(26歳、普成専門学校)を除いて全員現役大学生。竹内は竹腰の2歳下で東大のCHを引き継いだ、竹腰の片腕というべき人物。金も協調性に富む性格だったようだ。また、年齢層を固めただけでなく、監督(鈴木)、コーチ(竹腰、工藤)の出身校(代表16名中早稲田10名、東大3名)から大多数が選出されることになる。

1934年第10回極東大会

 上述のように『日本サッカーのあゆみ』はこの大会について1行も触れていないが、後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』はこの大会の全試合の経過をまとめているので、詳しくはそちらを参照されたい。3試合して1勝(対フィリピン4-3)、2敗(対オランダ領東インド1-7、対中国3-4)だった。大敗した対オランダ領東インド(現インドネシア)戦について、竹腰は自著『サッカー』(旺文社,1956)で以下のように述べている。

 “昭和九年(一九三四年)五月、マニラでの第十回極東選手権競技大会における蘭領インド(現在は地域としてはインドネシア)との試合で大量七点を失ったが、これらの失点は蘭印がその長身のセンター・フォワードに後方から長蹴を送り、ボールの飛ぶ間に後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナーにヘッディングで軽く落し、そのレフト・インナーの強蹴で得点という簡単な経過をたどったのが過半であったが、これはそのセンター・フォワードを緊密にマークしない体制がそのようにさせたのであった。”

現在ならCFのポスト・プレーというところだが、やはり完敗したベルリン・オリンピックの対イタリア戦(0-8)もまったく同じ戦法にやられたようだ。極東大会当時は2FB・3HB・5FWのいわゆるピラミッド・システムで、CFのマークが甘かったようだ。そのうえ、相手にリードを許すと、主将でFBの後藤がロング・キックを放っては上がってしまい、ディフェンス・ラインが乱れ、ますます敵CFのマークが緩くなってしまった。

 チームが精神的にまとまらなかっただけでなく、関東のショート・パス対関西のロング・キックによるキック・アンド・ラッシュという戦術の相違もあった。全関西が6-1で大勝した1月の全関東対全関西戦の『アサヒスポーツ』の戦評で、山田午郎は次のように書いている。

 “辛苦の末に細かく寄せる関東軍の攻撃はゴールに近く寄せ切れぬうちに関西軍バックスの優れたキックで形勢を一挙に不利に導かれるといふ有様でこれを大まかに見るならばロングキック・システムとショウトキック・システムの正面衝突であった、いわゆる地方的伝統の技風の対立で関東軍は潰えた、これが単一チームにおいてならばそれぞれその進むべきを知り応ずる策はあったはずであるが支柱のない選抜軍の支柱のない大きな屋台はロングキックの嵐にあって応急加工の術を知らず遺憾ない欠陥の暴露で終った、”

後藤は185cm近い巨漢FBで、関学および全関西では、ロング・キックを前線に送り、彼自身もどんどん押し上げて、ハーフ・ライン近くから豪快なロング・シュートを放つのが持ち味の選手だった。関東側はビルマ人留学生チョウ・ディンが伝えたショート・パス戦法を、彼の「直伝」を受けた早稲田の鈴木重義、東大の竹腰重丸が独自に発展させてそれぞれのチーム戦術としており、慶應もまた、ショート・パス戦法を主体とする中欧サッカー系のOtto Nerzの著作の影響を受けて、やはりショート・パスをチーム戦術としていた。極東大会対オランダ領東インド戦は、木に竹を接いだような関東・関西混成チームの戦術的欠陥が露呈した試合だったようだ。

 山田も述べているように、劣勢を予想された全関西が全関東と互角に戦えたのは、寄り合い所帯のピック・アップ・チームでは、緻密なサッカーの関東よりも単純な戦術の関西の方に有利に働いたようだ。関東と関西でそれぞれピック・アップ・チームを編成し、勝った方を主体に代表を選出するという選抜法自体が関西側に有利に作用し、それを関西側の「陰謀」とみた人物がいたことは、上記で田辺が述べたとおり。オリンピックの代表選考では、この反動が露骨に示されることになる。

『蹴球』3巻2号(1935年4月号)巻頭言

 大日本蹴球協会が全国代議員会でオリンピツク派遣選手銓衡委員会を設置することを決定するのは1935年5月26日だが、それ以前に機関誌『蹴球』の巻頭言が前年の極東大会と翌年のオリンピック代表選考に言及しているので、以下に全文を紹介する。

 “三月七日、大日本蹴球協会理事会は、明年八月二日から二週間に亘って伯林に於て挙行される世界オリンピック大会に我代表軍を派遣すべき決議をした。この決議は来る五月の全国代議員会によって承認されて始めて効力を発生するのであるが、疑もなく我々の光栄ある十一人は伯林の芝生の上を馳駈するであろう。
 -我々は昨年の極東大会に失敗してゐる。古来戦勝の要訣として、「天の時、地の利、人の和」と云ふ事が云はれてゐる。昨年の失敗は正しくこれらの要訣のいづれをも欠いてゐたからに外ならぬ。
 来年こそは、主観的にも客観的にも昨年の如き愚を繰り返へしはしないし又繰り返へされることもないだらう。
 敵は最早や支那や蘭印ではない。世界の錚々たる列強だ。この古強者共の中に斬り込む我々の晴の初陣!
 その晴の初陣をして-日本の蹴球愛好者達よ!-我等の十一人に光輝あらしめよ!
 大日本蹴球協会は四月中旬から六月初旬にかけて、第一回全日本綜合選手権大会を開催する。各ティームは夫々に加盟地方協会の管轄内に於て予選を行ひ、その予選に優勝したティームが、五月三十一日から六月二日迄の三日間(予定)明治神宮競技場に於て全日本の選手権を争奪することになる。従来全日本的な大会は勿論あったが、ティームの参加資格に夫々何等かの拘束があった。が今度の大会には全然それがない。我々はこれによって全日本蹴球の「一般的な」昂揚を企画してゐるのである。そして又我々はこれによって「野心ある」ティームの出現を望んでゐるのである。
 この大会に優勝したティームは今年七八月に行はれる対満州国々際定期戦に日本代表軍として派遣され、又明年の伯林大会への派遣ティームとしての最も有力な候補者となる。”

 無記名だが、当時の『蹴球』編集責任者は慶應OBの島田晋なので、島田が執筆したものと推定される。機関誌の巻頭言なので、当時の日本協会を代弁しているもとみて差し支えあるまい。まず、1934年の極東大会を「失敗」と断じ、「昨年の如き愚」とまで述べている。その原因を「人の和」、すなわちチームワークを欠いたことによるとみなしている。オリンピック代表選考は確かにチームワーク重視になる。

 次にシーズン・オフの5・6月に全日本“綜合”選手権大会を開催し、その優勝チームがオリンピック代表の有力候補になると述べている。銓衡委員会設置前にこのようなことを書くのはフライングだが、結果としてこの大会の成績は代表選考にほとんど反映されなかった。当時全日本選手権(現在の天皇杯の前身)は10月に明治神宮大会(現在の国体のようなもの)のサッカー部門として開催されており、いささか屋上屋を架した感が強い。この大会に優勝したのは京城蹴球団、協会も望んだ“「野心ある」ティーム”は確かに出現したのだが・・・。協会機関誌の巻頭言に“最も有力な候補者となる”と明言されているのだから、朝鮮側が京城蹴球団中心に代表が編成されるべきだと考えたとしても不思議ではない。

オリンピツク派遣選手銓衡委員会

 この委員会の活動報告、すなわち代表“候補”の選考経過については『蹴球』4巻2号(1936年4月号)に掲載されてる。本HPではその全文を解説付きで紹介しているので、興味のある方は参照されたい。委員会のメンバーが決定したのは1935年7月8日、この時点で全日本綜合選手権は終了している。5人のメンバーは、竹腰重丸(東大OB)、濱田諭吉(慶應OB)、工藤孝一(早稲田OB)、斎藤才三(関学OB)、永野武(京大OB)。この時点で東西大学リーグで優勝経験のある5大学から1人ずつOBが選出されている。

 第1回委員会は秋のシーズン・イン直前の1935年9月15日開催、銓衡綱要を決定する。この綱要がクセモノなので、以下に全文を引用する。

(一)従来ノ経験、現時ノ蹴球界ノ状態ニ鑑ミ全国的ピツクアツプテイームハ不適当ト認メラルルニ依リ
  (イ)今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス
  (ロ)右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ他地域ヨリモ補充スルコトヲ得
(二)銓衡ニハ全日本選手権大会、神宮大会(全国地方対抗選手権大会)、東京学生リーグ戦、東西学生リーグ代表対抗試合其他ヲ参考トシ、猶必要ト認メラルル場合ニハ更に銓衡試合ヲ行フコトモアルベシ

“従来ノ経験、現時ノ蹴球界ノ状態ニ鑑ミ全国的ピツクアツプテイームハ不適当”とはもちろん1934年の極東大会代表が全国的ピックアップ・チームだったことに由来する。(一)(イ)は最初からできれば単独チーム主体に選出したい、と明言している。(一)(ロ)の“ 一地方協会管轄区域”とは関東のこと。「関東優先」を意味しているのである。(二)に東京学生リーグのみが記されていて、関西学生リーグはその他扱いされていることに注意。参考試合としていくつかあげられているが、「優先順位」が記されていない。東西学生リーグ代表対抗試合とは1位同士の対抗戦のこと。1934年極東大会で参考試合にされたOBを含む全関東対全関西戦は対象になっていない。全日本選手権大会はすでに終了しており、この時点で学生OBが出場できるのは神宮大会だけで、できるだけOBを排除しようとした意図がみえる。

 カレッジ・スポーツだった当時のサッカーで単独チームといえば単独大学ということになる。1933、1934年の東京学生リーグ戦を制し、東西1位対抗戦にも連勝していたのは早稲田だったから、綱要が事実上早稲田を意識して書かれたことは間違いない。

 第2回委員会は神宮大会の決勝当日1935年11月3日。春の全日本綜合選手権に続いてこの大会も初参加の京城蹴球団が優勝した。優勝チーム名とメンバーを記した額が明治神宮に奉納される慣例になっており、現在でも秩父宮記念スポーツ博物館で京城蹴球団を刻した奉納額を見ることができる。委員会の結論は、“参考資料トセルコレマデノ試合ニ現レタル限リニ於テ著シク優秀ナルテイーム無ク銓衡綱要第一項(イ)(ロ)ニ該当スルテイーム無シ、優勝セル朝鮮テイームニ於テモ個人的ニ優秀ナルプレーヤーハ僅ニ金永根、金容植等二三ノ者ヲ挙ゲルノミ”。名前があがった2人はこの段階で「当確」になったようだ。ただ、この大会は例年リーグ戦の真最中に行なわれており、大学チームのモチベーションは高くなかった。準優勝は慶應BRB(現役とOBの混成チーム)だが、慶應は10月28日にリーグ戦対商大戦を戦い、10月30日~11月3日の神宮大会期間中に3試合している。平壌崇実の金永根を補強して全朝鮮的メンバーを組んだ京城蹴球団とはかなり温度差があったようだ。慶應はこの強行日程が祟ったのか、リーグ戦は4位に終っている。

 第3回委員会は東西大学リーグ1位対抗戦の当日1935年12月15日。東京学生リーグを全勝優勝した早稲田が関学に12-2で圧勝、リーグ戦、1位対抗戦とも3連覇となる。委員会の結論は、

“(一)早大ハ選手銓衡綱要第二項ニ係ル諸試合ニ出場シタルテイーム中最モ優秀ナリト認メラルルモ尚同綱要第一項(イ)ニ該当スルモノトハ認メ難キニ依リ、委員合議ノ上同綱要第一項(ロ)ノ場合ニ拠り関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト
(二)斎藤委員ヨリ関西協会所属テイーム中ニハ優秀ナル選手アルニ依リ昭和拾一年一月十九日ニ行ナハル可キ関東関西対抗選抜試合ニ於ケル関西側選手ヲ観察セラルベキ旨提案アリ一同之ヲ承認シタリ”

3年連続大学チャンピオンで、特に1935年度はパーフェクトな成績を残した早稲田が認定されなかったのは客観的に見て不可解だが、おそらく関西側委員が反対したものと推察される。綱要で“一地方協会管轄区域”とボカしていたのが正体を現わし、関東主体で選抜する方向に決定する。関学OBの斎藤が当初参考試合にあげられていなかったOBを含む全関東対全関西戦まで最終選考を延期させている。この日の委員会は相当紛糾したに違いない。

代表候補の決定

 第4回委員会は年が明けた1936年1月19日、全関東対全関西戦の当日。全関東はイレブンのうち左FBの竹内(東大OB)を除いて全員早稲田の現役選手、全関西は関学、神戸高商、関大、京大、慶應(OBの市橋は当時関西在住)のピック・アップ・チームで、2年前の極東大会代表、後藤靱雄や大谷一二も入っていた。会場は南甲子園運動場、強風下の試合で、前半風上にたった全関西が例によってロング・キックで得点し、後半もバックスがよく耐えて3-2で逃げ切った。『アサヒスポーツ』の山田午郎の戦評では、後半風上にたった全関東がショート・パス戦法に拘り、ロング・キックを使わなかったことに疑問を呈している。勝った関西側はこれでオリンピック代表は関西中心に選ばれると考えたようだ。川本によれば、

 “うん、こんなことがあった。試合に負けた東軍は解散し、ボクは大阪の家に帰っていた。夜中にゴットンから電話がかかってきた。“関西が勝ったから、オリンピックも関西が代表でいくんや。ただ、お前(川本)は関西にいれたる。いま、どこやらで飲んでいる。右近(徳太郎)も来ているから、お前も出てこい”というんだ。行きはしなかったがネ。”

ゴットンこと後藤靱雄はヨーロッパ系の血がはいった風貌の持主だが、東京への対抗意識の強いコテコテの関西人(御影師範附小、関学中、関学卒)。関西中心に代表を編成するが、川本(市岡中、早稲田)や右近(神戸一中、慶應)のような関東の大学に所属していても関西出身者なら入れてやってもよい、という気分だったようだ。

 『蹴球』誌に掲載された経過報告ではこの日全員一致で候補選手を決定したように書かれているが、実際には関東側と関西側で委員会が分裂し、関東側の委員によって3月9日の理事会で一方的に決定され、3月10日発表されたようだ。代表候補25名中早稲田は全員現役で12名、大学別では、関東21名、関西2名、朝鮮2名である。慶應OBの市橋は関西在住で、早稲田の西邑は関学卒で学士入学なので数え方によっては関東対関西の比が多少変わる。関西在住で選出された市橋、小橋、上吉川は1月19日の全関東対全関西戦に全関西の先発イレブンとして出場している。OBは慶應の市橋、東大の高山、竹内だけで、関西のOB選手が徹底して忌避されたことがわかる。

 選考とは関係ないが、この間2月26日に二・二六事件が勃発し、代表候補に選出された東大の高橋豊二の祖父高橋是清が自宅で殺害され、大日本蹴球協会が極東大会の壮行会などに利用していた赤坂山王下の料亭幸楽が、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた安藤輝三大尉率いる歩兵第三連隊第六中隊の宿営地になっている。サッカー界でも関西協会が日本協会と袂を分かつ寸前までになる。

大谷一二の落選

 関西側からすれば、関東ペースで一方的に事が運ばれただけでなく、代表候補に当時のNo.1ウイング大谷一二が入っていなかったことも大きな衝撃だった。川本によれば、

“賀川:関西からは何人か代表にはいったが、大谷(一二)さんがはいらなかったので、関西側がおこったという話でした。”
“川本:関大の上吉川(かみよしかわ)、神戸高商の小橋...といったメンバーもはいっていたのだが、大谷が行かないというので辞退した。竹腰、工藤(孝一)、浜田諭吉さんたちが選考委員だったと憶えている。大谷がいかん、という理由は昭和9年のマニラで、中国との試合で、みんなの前で、相手が足をけりに来たとき逃げた、というんだ。”
“賀川:大谷一二さんは、そのころ関西を代表する名選手でしたから...。<以下略>”
“川本:選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点からみてもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合にこまる。大谷をつれていってほしいとノコさん(註:竹腰)にも、いったんだが...。スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。”

 大谷一二は1912年生まれ、神戸一中、神戸高商卒、オリンピックの翌年神戸商大を卒業して東洋紡に入社し、1973年社長、1978年会長と経営トップに登りつめる。朝日新聞のサッカー記者大谷四郎の実兄。その後の経歴やオリンピック後コーチ兼選手として代表候補合宿に復帰している点からみても、関東側に大谷の人格に対する誤解があったようだ。川本のいう“Mさん”とは、1)マニラで大谷のプレーを近くで見ていた、2)慶應OBの濱田に近い人物、すなわち慶應OB、3)姓にMがつく、という点から松丸貞一だと推測される。

田辺五兵衛の回想

 憤激した関西協会は3月日本協会に対する抗議声明を発表することになるのだが、田辺はこの間の経緯を以下のように回想している。

 “昭和11年8月、ベルリンでのオリンピック大会に関西からも数名の選手が選ばれたが大谷一二君が入っていないことでもめ出した。当時肝心の竹腰君は満州遠征で疫病に臥し、わたしは兵役にあり、斎藤才三君の孤軍奮闘空しく選考委員会を終ったのである。
 果然憤激した関西協会の役員会はついに日本協会分裂論にまで発展した。役員会は不当な選抜の改正と、協会運営組織の改革に火の手をあげた。決をとったらわたしの一票を除いて全部打倒日本協会論になってしまった。わたしは過去の極東大会において、マニラ行きの船中あわやチーム分裂になりかねなかったことを思い、たとえ協会機構運営上の問題はあるにせよ、代表チームだけは傷つけづに送り出してやれと力説した。
 決議を留保してまた会合、また決議、また留保と、役員会をくり返すこと五度、ついにわたしの説を認めてくれた。そして最初の代表選手選抜やり直せの案が、協会運営改革というスローガンにすりかえられ、わかったようなわからないような関西協会決議文の発表となった。そこでわたしは電報を打ち電話をかけ再三上京し、野津謙氏(現日本協会会長)とともに、最終発表を留保したまま調整に当たった。
 病気で倒れ、満州から帰ってきた竹腰委員長も調整に参加してくれたが、結局押し切れず大谷一二君の件は今回保留ということになってしまった。したがって大谷一二君に歩調をあわせ関西から誰も参加しないという問題も解決しないままに、小橋信吉君(神高商、一中OB)上吉川君(関大)らの関西勢はついに参加しなかった。
 このときの声明書について、東京では「君がついていてこのわけのわからん声明書はなんたることか、なにをいうているのかわからん」と叱る人がいる。あたりまえのことで、最初の筋のとおった声明書を、ただやる方ない憤りのはけ口を残してすりかえた“迷文”だからである。苦心の文章であることにご存知ないだけの話である。
 東西両協会の調整握手はその後わたしの父が故深尾隆太郎会長と話をして、円満にゆくようにし、協会の団結を固めることになった。(しかしいまにして思えば、わたしの仲裁がよかったのか、東西争ってしまってその結果を待った方がよかったのか疑問である)”

 1936年4月に代表候補の中から代表16名が決定する。早稲田10名、東大3名、慶應1名、文理大1名。OBは東大OBでFBの竹内悌三1人だけ。竹内は1930年極東大会優勝経験者(もう1人のFBは関学の後藤)で、マニラの主将ヤンチャな後藤とは対照的な緻密で生真面目な性格だったようだ。東大在学中から竹腰の片腕的存在で、最年長ということもあって主将に起用されている。オリンピック後ヨーロッパを周遊し、優れた観戦記を書いている。GKは2名とも早稲田の現役で、早稲田は補欠まで代表入りしたことになる。田辺が述べているように関西から候補入りした者は、候補を辞退したので、1人も代表入りしなかった。地域別内訳は関東15名、朝鮮1名で、ベルリン・オリンピック代表は実質的には関東代表+金容植ということになった。

 関西協会に縁のないオリンピックはよくないと考えた田辺は自身が役員の資格で渡独し、選手枠に余裕がある(フル・エントリーは22名)ので市橋時蔵にも後を追うよう打電したが、市橋は渡独しなかったとのこと。

むすびに代えて

 昔TVで観たドイツ北部を会場にしたドイツ代表の国際試合(多分1974年W杯だと思う)で、バイエルン出身のベッケンバウアーが大ブーイングを浴びていた。リオとサンパウロの2大州が対立するブラジルでは、サンパウロ系の代表監督がリオの有力選手を代表で使わないとマラカナンが「アウェー」と化すそうだ。地域的対立感情に根ざす代表選考をめぐる内紛は普遍的なサッカー文化のひとつかもしれない。

 日本でも最初の国際試合、1917年東京で開催された極東大会に東京高等師範学校が「日本代表」として出場したことに、関西方面から不満の声がおきたそうだ。以来2002年W杯まで、そして今後も代表選考をめぐる不満が尽きることはあるまい。しかし、日本サッカー史上代表選考をめぐる最大のトラブルはベルリン・オリンピック代表選考だった。後藤健生氏も述べているとおり、現在のように絶えず代表候補を招集して年に何度も国際試合を行なうことが不可能だった当時としては、卓越した単独チームを土台に代表チームを編成するのが最も妥当な方法だったに違いない。

 日本協会としても関西や朝鮮の感情をいたく害したベルリンの選抜法を反省したのか、オリンピック後は特定の国際大会と関係なく代表候補を選抜し合宿を行なう、当時の言葉でいう「常備軍」(戦後もしばしば使用された)方式に変更した。1938年の山中湖合宿には大谷一二もコーチ兼選手として復帰し、関西、朝鮮からも多数の選手が参加している。

 1937年には東西の1位と2位がタスキガケで対戦する朝日招待試合が始まり、1位対抗戦に加えて東西交流が活発化する。1938年には全関東、全関西、全朝鮮が対戦する三地域対抗戦が行なわれる。全朝鮮は12月23日全関西、12月25日全関東と南甲子園運動場で対戦し、中1日の強行日程にもかかわらず、全関西に3-1、全関東に3-0で圧勝している(全関東対全関西は翌1939年2月5日神宮で対戦して3-2で全関東の勝ち)。2年前のオリンピックが実質的には全関東だったことを考えれば、「朝鮮代表」は世界大会でも好勝負できたチームだったようだ。

 しかし、「常備軍」方式の代表選抜や地域交流の活発化は、日中戦争の勃発とそのドロ沼化、さらにそれに続く太平洋戦争によってすべて水泡に帰すことになる。

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