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日本最初のサッカー・ジャーナリスト、山田午郎

「日本最初」といっても、山田が新聞・雑誌にサッカー記事を書いた最初の人物というわけではない。選手としてのキャリアをもち、記事を書いて給料を貰い(朝日新聞運動部記者)、技術、戦術に踏み込んだ本格的なサッカー評を書いた日本最初の人物という意味である。

 1894年(明治27年)福島県二本松生まれ。『東蹴六十年史草稿』(東京蹴球団,1977)によれば、父は会津白虎隊の二本松版というべき二本松少年隊士、山田左馬吉とのこと。山田家の石高は百石、藩主の姓(丹羽)を賜った上級の武家だったようだ。青山師範学校、日本大学高等師範学校卒で、サッカーを始めるのは青山師範時代だが、「球史のひとこま」と題する回想的エッセイ(『蹴球』1956年4月号所収)で以下のように述べている。

 “私が、数え年十一才のときだった。東北の名もない町の小学校に通っていたときのことだが、革のボールに触れる機会が与えられた。そのボールが外周27-28インチぐらいのものかどうかは、ハッキリわかりもしないが、覚束ない記憶をたどってみると、今日の規格に相当していたようにも思われる。降矢通俊という担任の先生が校庭に高くそびゆる樫の木と高さを競って蹴上げるそのボールを拾うことが、私たちには、限りない楽しみだった。”

続けて、体操の時間にはそのボールを2組に分かれて石垣をゴールにしてサッカーもどきの遊戯をしていたと回想している。1894年生まれなので、数え年11歳というと1904年ころになるが、東京高等師範学校で正式のサッカーが始まった直後の頃になる。

 1917年師範学校卒業後東京府内で小学校教員。戦前戦後の日本代表で1954年のW杯予選にも出場したウイング加納孝は小学校教員時代の教え子らしい。青山、豊島両師範・東京高等師範OBのクラブチーム、 東京蹴球団の創立(1917年)に参加。1921年の第1回全日本選手権(現在の天皇杯)には主将として優勝している。

 東京蹴球団は日本最古のクラブチームで現在も存続している、日本サッカー史上でユニークな役割を果たしたクラブである。まず、第一に1918年開始の関東(中学)蹴球大会(東京朝日新聞が後援)を始めとして、中学校、専門学校、小学校のような各種大会を開催したことである。これは自前のグラウンドを持たないOBチームのため、だんだん現役学生チームに劣勢になってきたので、現役学生にはできないことをやろうと、各種大会の開催を企画したとのこと。 第二にこれら大会の報道を通じて、マスコミとの接点ができたことである。山田同様創立当時からの団員だった原島好文は 「ソッカー十年の想ひ出」という回想文(『運動界』1929年4月号所収)で次のように述べている。

 “蹴球戦記を書き始めたのは東京朝日新聞であったらう。第一回の関東蹴球大会までは、蹴球戦記が記事となって新聞紙に掲げられたことはなかったのを、兎に角数行或は十数行をそのために当て呉れた。「一進一退」「敵前出の虚を衝いて奇襲を試み」などの文句がその頃は屡用ひられたやうだ。私などもその筆法を真似てやたらに戦記や妄評を書きなぐった。私が始めて(ママ)稿料を戴いたのも此の「両軍技量伯仲にして一進一退」を並べた拙文であった。抗議の多少によって判断すると、私の駄文を最も注意して読んで呉れたのは当時帝大に居た新田君であった。近頃では各ティームが意を用ひてをられるのでうっかりとは筆も執れぬ。”

 1921年に大日本蹴球協会が発足した当時、役員のほとんどが師範・高等師範OBであったことが示すように、1910年代後半から1920年代前半まで、サッカーの規則や用語に精通していたのは新田純興(東京高師附属中、一高、東大OB、『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂の中心人物)や野津謙(広島一中、一高、東大OB、第4代JFA会長)のような中学校でサッカーを体験した大学OBを例外として、東京蹴球団員のような師範・高等師範OBだけだった。事実、この時期のスポーツ総合誌『運動界』(1920年創刊)、『アスレチックス』(1922年創刊)、『体育と競技』(1922年創刊)、『アサヒスポーツ』(1923年創刊)のサッカー記事の大部分を東京蹴球団員が書いている。おそらく、新聞社にもサッカー記事を書ける人材はいなかったに違いない。大学リーグが始まるのが、1920年代半ばで1920年代後半には日本のサッカーの中心は大学に移る。大日本蹴球協会では1929年の理事改選で大学OBが主流になる。

 山田は記事執筆のアルバイトが本業になり、1926年朝日新聞社嘱託、1928年には正社員になる。さらにベルリン・オリンピックの年1936年に運動部次長、1939年運動部長、1942年庶務部長を歴任、戦後1949年定年退職。本紙運動欄で健筆を振るうとともに、朝日新聞社が発行したスポーツ総合誌『アサヒスポーツ』でも、飛田穂洲や織田幹雄らとともに編集同人に名を連ね、サッカーの大試合では必ず試合評を書いている。飛田穂洲の野球評のスタイルを意識してサッカー評に導入しようとしていたようだ。朝日新聞は戦前、東京の山田に加えて大阪に関西大学蹴球部創設時のメンバーで1925年第7回極東大会日本代表三宅二郎を置いて、東西のサッカー試合をカバーしている。ちなみに、1925年マニラで行われた第7回極東大会の日本代表監督は山田である。

 また、山田は戦前と戦後にわたってのJFA機関誌『蹴球』の編集長も務めている。『蹴球』、『Soccer』、『蹴球(第2次)』、『サッカー』と続くJFA機関誌の編纂には山田とその朝日の後輩、宮本能冬、轡田三男、中条一雄らが関わり、1970年代まで続いた。朝日新聞社はベルリン・オリンピックの翌年1937年、朝日招待という冠大会を開催する。これは戦後まで続き、招待試合なので様々のパターンで企画されたが、初年度は東西大学リーグの1位対2位の対抗戦だった。ベルリン・オリンピックの代表選考をめぐっては、日本協会(実質的には関東協会)と関西協会が深刻に対立し、関西協会は代表候補選出に抗議声明を出し、関西から選出された代表候補は辞退する騒ぎになった。朝日招待が東西の和解を意図して開催されたのは間違いない。山田は当時運動部次長であり、企画あるいはその実現に大きな役割を果したのは確実であろう。ベルリン・オリンピックはは確かに日本サッカー史の栄光のひとつではあるが、その代表選考をめぐっては関東対関西、さらに内地対朝鮮という深刻な亀裂を残した。朝日招待や1938年の3地域対抗戦(全関東、全関西、全朝鮮)はその亀裂を修復するものとして企画されたのであろう。“栄光”の陰で対立を和解に導くよう努力した人物を忘れてはならないと思う。朝日はまた、戦後ヘルシングボリを始めとして外国のクラブチームの日本招聘も援助している。当時山田は朝日を退職していたが、JFA理事として朝日とJFAを繋ぐ役割を果していたようである。今日と違ってサッカーが“ビジネス” になりえなかった時代であり、サッカー界が山田を通じて朝日に貢献させた側面が強い。

 東京蹴球団と山田が果したもう一つの重要な仕事が少年サッカーの普及である。再び原島好文の回想文を引用すると、

 “ 私たちが大会屋と悪口をいはれてゐたのが其の頃で、大正十一年から小学生大会を始め少年蹴球の道を開いた。その為にルールを清水、山田両君が編み、山田君は単行本を世に出したが、何れも貰ひ手はあっても買手は少ない。”

山田の単行本というのは『ア式フットボール』(杉田日進堂,1925)、口絵写真は東京蹴球団主催の小学校蹴球大会 優勝校(青山師範附属小、目黒)と試合の模様。同書によれば、1925年当時、東京蹴球団、豊島サッカークラブ(役員人事のもつれで豊島師範系OBが東京蹴球団から分派したクラブ)、埼玉師範が主催する小学生大会があったそうだ。同書の冒頭は、

 “極東に於て、各種運動競技の選手権大会が開かれることにすでに七回、中でもア式蹴球は中華民国が実に六回連勝の栄誉を担ってゐる。今回マニラの地に開かれた第七回極東競技大会に於ても、フィッリピンを五対一で破り、わがティームを二対零で破って堂々と勝利を占めてゐる。これは単に体格ばかりに依るといふことは出来ない。彼は幼児からボールに接する機会が多い。つまり長い間の好める運動として練習の機会が多い。著者が今回の大回(ママ)にア式蹴球の監督としてマニラに往復する途中親しく上海、香港に於ける彼等の愛好するフットボールについて見たのに、五六歳の小児から十七八歳の元気あふれる青年迄一所になって盛んに蹴って居る、...”

上述のように、山田は第7回極東大会のサッカー代表監督。すでに大正時代に、国際的視野からジュニア世代からの育成を重要視していたのが、山田と東京蹴球団の人々なのである。現在の日本サッカーの興隆が過去30年にわたる少年サッカーからの育成プログラムの成果であることを考えれば、大正時代に少年用ルールを作り、大会を開催し、本まで刊行した先覚者としての山田の業績は忘れてはならないだろう。

 1920年代末にJFAの主導権は師範系から大学OBに移り、サッカーは東の東大、早慶、西の京大、関学などを中心とする表面上は “カレッジ・スポーツ”になる。その一方で、師範系OBにより着実に小学校レベルでの底辺拡大も進んでいた。ベルリン・オリンピックのスウェーデン戦先発イレブンのうち、少なくとも4人、堀江、加茂兄弟(浜松一中→早稲田)は浜松師範附属小、右近(神戸一中→慶應)は御影師範附属小でサッカーを始めている。意図的な少年サッカーからの育成プログラムなどなかったかもしれないが、戦後の6・3・3制のように中等教育が分断されなかったので、実質的な一貫的育成プログラムのようなものが存在していたようにも思える。

 山田は日本蹴球協会理事そして『蹴球(第2次)』編集長在任中の1958年没。『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)によれば、故人を偲んで東大御殿下グラウンドで追悼試合が行われたとのこと。

 余談:冒頭に述べたように山田の父は二本松少年隊士だということだが、戦前、山田と同時代大日本蹴球協会理事として同席していたはずなのが野村正二郎男爵。野村の祖父維章(正二郎氏もその父も養子なので血の繋がりはないかもしれないが)は、土佐勤皇党員として武市瑞山や坂本龍馬とともに血判状に名を連ね、脱藩して海援隊に加わり、戊辰戦争では土佐藩参謀。山田の父とは仇敵の間柄になる。また、当時の大日本蹴球協会会長(第2代)は深尾隆太郎男爵。その祖父深尾鼎は土佐藩国家老、森鴎外の小説にもなった堺事件では藩主名代を務めている。大日本蹴球協会理事会のような会合の合間に、幕末維新の頃が話題に上ったのかどうか。いずれにせよ、戦前の文献を読むと、戦前のフットボーラーはサムライ気質の持主であったことは間違いない。


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[資料1]

「山田午郎氏を悼む」『サッカー』1959年1月号 p.67

 日本蹴球協会常務理事、関東蹴球協会副会長の山田午郎氏が三十三年三月九日夜、東京都大田区大森の寄宿先で脳出血のため急せいされた。六十四歳。告別式は三月十一日午後一時から二時まで、港区白金三光町五一六重秀寺で蹴球協会葬をもって盛大に行われた。

 氏は福島県出身。青山師範、日大高師を通じてのサッカー選手で、大正末期における青山師範サッカー部黄金時代の中堅メンバーであった。大正十五年朝日新聞東京本社運動部嘱託、昭和三年同社員となり運動部勤務、十一年運動部次長、十四年同部長となった。十七年には庶務部長に転じ、十九年戦時中の朝日新聞東京本社非常対策本部幹事長として同社を戦火から守り抜いた。二十四年定年退社後は同社業務局嘱託、二十八年一月からは企画部嘱託としてスポーツ関係を担当した。サッカー専門の草分け記者として、また多年蹴球協会にあって、れい明期のサッカーと歩みをを共にし、サッカー興隆のこんにちを築いた功績は、まことにサッカー界功労第一人者と称して過言ではない。サッカーこそ氏の生涯のバックボーンであり、万人にしたわれた明るい性格と、一面はげしい情熱のみなもとも、またそこにあった。おりしもアジア大会の準備に忙殺されての最中であり、盛大な大会をその眼で見ることなくゆかれたことは、関係者として痛恨の極みであった。ここに謹んで哀悼の意を表する次第であります。なお千葉県長生郡本納町豊岡南吉田に未亡人ミツさんがおられる。(写真は朝日新聞運動部長当時の山田さん)


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[資料2]

轡田三男「先輩山田さん 二つの編集後記の弁」『サッカー』1959年1月号 p.67-69

 大先輩山田さんの死は、ほんとうに突然であった。告別式の行われた三月十一日の前日十日夜、朝日新聞社の福島県通信会議から帰京した私は、十一日ひる近く出社した。社の玄関を入ろうとした私は、そこに大型バス二台があるのを見た。その窓口には、社の先輩、同僚たちの顔があったが、私はまだ何のためか知らなかった。しかし一階でエレベーターを待ちながら、ふとかたわらの掲示板を眺めたとき、私の頭からサッと血が引くのを覚えた。そこに、山田さん急死を知らせる告示があった。玄関のバスは、まさにその告別式場へのバスであった。夢中で編集局へ飛びこんで、またかけもどった。バスはすぐ走り出したが、車内のだれかれの顔を見ても、私の口から言葉のかたちになったものは、なにも出なかった。陽が、ただギラギラ輝いていたのを覚えている。

 白金三光町の重秀寺の門から会場までは、長い坂道になって、真ん中に石の階段があった。その階段のかたわらに立てば、市街のかなりの部分が見下ろせた。市街はまぶしく陽の光りを反射させていたが、この坂道は陽かげになって、オーバーなしでは寒かった。山田さんのひつぎが、後輩の学芸大サッカー部の人たちや、東京蹴球団の人びとにかつがれて、石の階段をしずしずとくだった。頭を垂れてこれを見送ったとき、はじめて涙が出て来た。私はあわててそれをのみこんだ。

 あの黒い、村父子然とされた顔、そして、よく笑いながらあの福島なまりの言葉が飛び出すと、私たちはもうわけなく山田さんのなかにとけこんでいったのである。しかし、あの寺の長い坂道で見送ったときから、もうその顔も、あの福島なまりも、ついに見られなくなったし、聞かれなくなってしまった。

 私はいま朝日新聞で“サンちゃん”と呼ばれている。しかし、中学時代から早稲田では“エムさん”であった。だから山田さんは長いあいだ私を“イム”または“イムさん”と呼んでよく引回してくれた。当時のサッカー記者は朝日の山田さん、東日(現毎日)の宇都宮さん(故人)、時事新報の広瀬さんなどであったが、「後評」で最も手きびしいのが山田さんであった。この人たちは、試合のあとでよくコーヒーをごちそうしてくれた。いろいろな話のやりとりで、先方は情報や予想記事などのヒントも取材しただろうが、それよりも、われわれの側で教えられるところの方が、はるかに多かった。またほんとうはそんなものを超越して、サッカーの先輩が後輩をいたわって、オゴってくれる暖かい気持ちが、ガサツな私たちにもしみじみわかるという空気だった。いまは、学校でつながる先輩、後輩の関係は別として、選手と記者とのそういう接触は、あまり無いようである。さびしいことだ。大学リーグの会合が、いつも朝日の会議室で開かれ、東大幹事の中島健蔵(現在評論家)さんの怪弁!にいつも押しまくられていたころだ。山田さんも、まだ運動部デスク以前の第一戦で張りきっておられたし、当時の紙面評は、野球の飛田穂州さん張りの独特のものだった。いかに独特また新鮮なものであったか、御参考までに、朝日の中条記者にそのころの二、三を書き抜いてもらって、別に掲げることにした。そしてその紙面の上の扱いも、六大学野球や陸上、水上、ラグビーなどと全く対等であった。これも山田さんの見識と意欲の現れであったし、のち運動部の責任者となった山田さんは、当時のいわゆる小スポーツの記事優遇、ひいて競技の興隆を使命とすると語り、またそれを実行されたのである。

 山田さんとはまた、長いあいだ実業団リーグ戦の朝日新聞チームで、いっしょにプレイした。当時の山田主将は、たしか本職がGKだったはずなのに、絶対CFでなければ承知しなかった。戦争末期に腰を悪くされてからは一線を退いたが、戦後“四十雀”チームと記者団との試合で、CFをやらせるなら記者団側で出てやるという山田さんに「山田さんは、記者団から四十雀にトレードに出すことにしたから」と、一本取ったこともあって、四十雀クラブでは戦列に復帰されていた。まさに歴史的な老大選手であった。戦争といえば、B29の爆撃で、朝日社屋を焼い弾の雨の中から守ったのは山田さんだ。敵機来襲して都心をねらうという暁闇の情報に、非常対策本部の山田さんは、警備員にウイスキーをラッパのみ回して督励したという伝説がある。焼けた新聞社もあったなかで、これは山田式秀吉流戦法の勝利だった。

 こうした山田さんの急せいによって、日本協会の報道関係の仕事が私に回ってきた。アジア大会報道部の仕事も同然だった。報道関係とくに協会機関誌「蹴球」については、ほとんど山田さんの独裁だったから、この突然の選手交代は、全くやみくものなかに突っ放されたようなものだった。アジア大会が終ったあと、印刷所から、山田さんが最後に編集された「蹴球」のゲラが回ってきた。私は空しくこれをかかえて夏を送り、再校をすませたまま見送ってしまった。そのゲラのなかの「編集後記」に、一月十四日朝、上野を発って信州の発哺に向い、新雪に輝く山の湯で三夜にわたり中共遠征報告書の整理をすませたという文がある。“団長以下、一字一句に血のにじむような感想” である同報告書は、その時期のずれと、その後の記録収容の必要から本誌ではついに割愛せざるを得なかったのは残念だが、その「編集後記」と、また朝日新聞キャンペーン“神風タクシー追放”の原因となった東大サッカー部五十嵐主将の災禍を悼んだ「交通禍」の一文が、ついに山田さんの最後の筆となった意味から、それをここに原文のまま収録することにした。山田さんと信州の冬山-野沢温泉から志賀高原一帯は、多年朝日の「山とスキーの会」会長であった山田さんと、切っても切れぬ縁がある。私自身も、野沢温泉のスキー合宿で山田さんに鍛えられた思い出があるし、そのとき、あえぎあえぎ登る私のわきを、松丸君が風のように飛ばして滑降していった奇遇もあった。スキー行に原稿を背負い上げた山田さんが、山の湯に三夜こもったという冬を、いま再び迎えるにいたった。もってわが怠惰に身も縮む思いであるが、期せずして二つの「編集後記」をのせるハメになったことに新たなものをおぼえるのである。(五八・一二・三〇記)


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[資料3]

「山田午郎氏年譜・略歴」『東蹴六十年史草稿』(東京蹴球団,1977)p.167-168

◇明治二十七年甲午三月三日福島県二本松に生れる。父左馬吉は二本松少年隊士の生残者(大隣寺少年隊の墓に合祀)。

◇高小卒、代用教員後青山師範に学ぶ。

◇大正六年三月同校本科第一部卒業。同期に原島好文、露木松雄、栗山長次郎の諸氏。浅草、待乳山小学校訓導、東京蹴球団創立に参加。

◇大正十五年大森町入新井第二小学校訓導を辞し、東京朝日新聞社運動部員となる。累進して運動部長、業務局庶務部長、非常対策本部幹事長を歴任。

◇昭和二十四年定年、同社客員、嘱託となる。この間、同社山とスキーの会、サッカー部など創設。昭和二十年四月の米軍焼夷弾攻撃に際しては防護団を率いてふりそそぐ火の雨を決死の働きで消し止める大功績を挙げる。

◇運動記者時代は蹴球戦評で一時代をひらき、一躍全国に名をはせ、サッカーを語る者で山田午郎の名を知らぬ者は無きに至った。晩年は業界紙「運道具新報」主宰、日本蹴球協会常務理事、関東蹴球協会副会長。

◇その死。昭和三十三年三月九日、仕事の都合で持っていた大森の寓居で突然脳出血で倒れ、意識不明のまま即日死去。志賀高原へスキーに行く用意を整え出発直前のことであった。三月十日、白金の重秀寺で葬儀、二本松市大隣寺に葬る。戒名、報道院徳風民興居士。行年六十四歳であった。(墓碑には数え年の六十五歳を刻す)

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[資料4]

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 山田午郎さん」『新体育』40(5) 1970.5 p.110-111

“今年3月、山田午郎さんの13回忌が郷里の福島県二本松で行われた。午郎さんが死んでから、もうそんなになるのかなと思った。

 午郎さんは私より少しおくれて朝日新聞の運動部に入られた。当時の運動部は、部長が小高吉三郎さん、次長が植村睦郎さん、その他に野球の久保田高行さん、テニス、ラグビーの岡本隆さんと私の5人きりだった。

 山田君は青山師範出身で、東京蹴球団の役員で、朝日新聞後援の蹴球大会を主催していたので、朝日新聞とは昔からなじみがあった。だが、当時のサッカーは貧弱なもので、日比谷公園でやるサッカー大会の見物人は関係者だけパラパラという淋しいものだった。私たち運動部員は手伝いにいったが、寒空にお客も少なく、参加校も高師附属、暁星のアストラ・クラブ、青山師範、豊島師範ぐらいで、少ないものだった。

 今日のサッカー・ブームで、神宮競技場がいっぱいになるくらいの盛況を、一度、午郎さんに見せてあげたかったと思う。当時から熱心だったのは今の会長野津さん、竹腰さんなどで、午郎さんはとうとう一生縁の下の力持ちで終ってしまった。

 事実、当時のサッカーというものは、見ていてつまらないものだった。ポンポンと大きく蹴ってタッチへ出して領域を進めてゆくだけで、ボールをパスして全員が前進するなんてことはなかった。フォワードもバックもその位置を守って球のくるのを待っているのだから面白いはずがない。たまにロング・シュートでどちらかが1点でもいれると、その1点を守るためにリードしたチームはやたらにタッチへ蹴出して時間かせぎをして、タイムアップを待つというのだから、お客は退屈して途中で帰り、あとは役員だけが残っているという有様だった。

 それがオリンピック大会でサッカーを見て来た人が、欧米のサッカーは違う。一旦、自分ボールとなると、こまかくパスして、フォワードもバックも一体となって前進してゴールへ迫り、ボールを相手方に渡さず攻めて行く。タッチへ出してチャンスを失うなどというのは、もってのほかのことだ。また、相手が一旦ボールを奪うと逆に素早いスピードで攻め返して行くので、スリルがあって、サッカーほど面白い球技はなく、欧州の大会で、サッカーの観衆が一番多いのも無理はないということであった。

 こういう話をきかされて日本のサッカーも改善されて、単なる陣地とりで引分けの多い試合方法が少なくなってきた。要するに、守りのサッカーから攻めのサッカーに変ってきたのだ。

 筆者もベルリン大会のサッカー試合を見て、つくづくサッカーの面白味が判ってきた。おまけに精鋭を揃えた日本のサッカー・チームが強豪スエーデンを破ったので、わが国のサッカー熱は上昇を見たのだった。

 ところが、戦争で中断したが、戦後、オリンピックを東京で開くにあたり、国民の前で下手な試合は見せられないというので、強化合宿をやったり、海外に遠征をしたり、西独のクラマー・コーチをやとったりして技術も格段に進歩した。

 第1戦に南米の雄アルゼンチンを破り、準々決勝にまで残る偉功を立てた。これで活気づいた日本チームはメキシコ大会でも好成績を収めて、国内におけるサッカー熱はもの凄いものになった。一時ラグビーの進出に気押されたかに見えたサッカーは、今や日本の球技の第一の人気ゲームとなった。それにつけても振わない時代のサッカーのために、心身をすりへらした午郎さんをもう少し長く生かしておきたかった。

 戦争がはげしくなって、日本はスポーツどころではなくなったので、午郎さんも庶務部から非常時対策本部などに移って、社内の防火から資材の獲得などの元締めをやることになり、社の自動車から電話線の確保までも受持つようになり、運転手から交換手、給仕さんまで午郎さんの支配下になり、社内の青少年の大親分になってしまった。

 運動部をはなれてから午郎さんは、スポーツの報道批評よりも実践に移り、社内に「山とスキー」の会など作って、社内の青少年を集めて山登りやスキーのリーダーとなった。

 スキーは僕らといっしょに始めたのだが、安全一方のしゃがみっぱなしのあんまり恰好のいいスキーではなかったが、熱心で彼のために社内にスキーをやるものが非常に多くなった。

 志賀高原に朝日のスキー小屋が建ったのも、午郎さんの努力のお陰であった。この小屋の落成式には村長をはじめ村の有力者、県から役人も来て盛大な落成式であった。しかし、出資者代表として朝日新聞本社からみえた東口編集局次長は面白くなかった。余りに午郎さんが土地の人と親しく、また努力していたので、村や県の感謝状は朝日新聞本社に対してはあまりなく、山田午郎さんの表彰のようなものであった。朝日本社を代表として出席した東口さんが怒るのも無理はない。これは少々、午郎さんの勇み足である。

 午郎さんは仕事を始めると、誰一人他人にまかせず、一人でやってしまうのである。デスクにいた時分でも、電話のベルが鳴ると素早く受話器をとり、決して他人に受話器を渡さなかった。こんなことが同僚には一人で仕事をしているようだ。他の人は一人もいらないというやり方だといって、不快に思うものも少なくなかったようだ。

 協同生活では、同僚も生かして働くということでないとうまくいかない。やっぱり長としての包擁力が少なかったのは遺憾であった。

 サッカーでも自分ひとりでドリブルしてゴールをねらっていては、得点出来にくい。早くパスして同僚に得点のチャンスを与えることも必要である。午郎さんはよく一人で仕事をしたが、同僚を生かしてチームの成績をあげることはあまり上手ではなかったようだ。やっぱり一時代前のサッカー選手だったので、独走も止むを得なかったのであろう。”


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