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2001年9月~10月

(01/10/31)
1973年の物価
10/20付けで1973年2月に合宿した日本代表の1人あたり1日の予算は2,500円だったという記事を紹介しましたが、同年同月のJTB時刻表を見ると、宿舎だったホテル大谷は1泊2食2,000~3,500円、東海道新幹線東京-大阪が4,130円(現在「ひかり」で13,750円)、新幹線食堂車のビール大とカレーライスが220円、信越線横川駅の「峠の釜めし」が250円(同900円)となっています。1人1日釜めし10個分(現在なら9,000円)の予算で合宿して、’66イングランドW杯で北朝鮮(ベスト8)、 ’68メキシコ・オリンピックで日本(銅メダル)に先を越され、’70メキシコW杯、’72ミュンヘン・オリンピック、 ’74西ドイツW杯の予選をすべてホーム開催した韓国に勝て、という立場に立たされた日本代表選手に同情したくなります。韓国に当たる前に敗退という’73W杯アジア予選の結果は、当然とも思えます。


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(01/10/23)
田辺文庫
を再訪しました。『Kick-off』誌から1954年大会分を1件、『サッカー』誌秩父宮欠号分の1958年大会関係記事3件を採録。『Kick-off』と『蹴球評論』(『蹴球』より2カ月早く創刊された日本最初のサッカー専門誌)は、私の知る範囲内では田辺文庫でしか見られない資料です。目次をコピーさせていただいたので、いずれ総目次をアップしたいと思います。近日中に後藤健生氏が田辺文庫を見学されるそうです。


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(01/10/20)
’73日本代表合宿の食生活
5月にW杯予選をひかえた日本代表は2月7~20日鳴門市で合宿します。そのレポート「自分に勝つ者だけがソウルWカップ予選で闘える」(『イレブン』v.3 no.4 1973.4 p.112-115) によれば、1日の1人あたり予算はオール込みで2,500円、肉は3日に一度で「「四ッ足が食いたいよーッ」という悲鳴にも似た声が出るのは当然」で、「昼めしなどは、タマゴ焼きにザルソバだ。観光客の食事ではないのだ。」と記されています。翌年私は大学受験で都ホテル(こういう機会でもなければ一流都市ホテルに連泊するチャンスは一生来ないかもしれないと思って決めたが、その予感は当たった!)の受験パック(そのころから始まった)を利用しましたが、1泊2食付き(夕食はフレンチのコース)で5,000円だったと記憶してます。

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(01/10/15)
『イレブン』
の収録を開始しました(1971~72年分)。5/21付けで神戸一中がベルリン・オリンピック前に3Bシステムに接触してたことを記しましたが、「川本泰三放談 2FBから3FBへの移行」『イレブン』v.2 no.6 1972.6 p.150-151で、インタビューアー大谷四郎は「私が初めて実物に出会ったのは、昭和九年、ベルリンの二年前に、神戸に入港したイタリアの軍艦クワルトと試合をしたときで、その守りがあとで3FBとわかった。全く浅い型の3FBだが、こちらは中学生で脚で負けるしスルーパスで走り込めないので二宮洋一(神戸一中、慶大)などもCFをしていて前へ出られない。すぐオフサイドだ。キーパーの津田幸男(神戸一中、慶大)が文句いうてるが、FWは面食らって “おかしいなあ”というとるうちに、1点とっただけで5、6点とられた」と述べているのを発見しました。


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(01/10/11)
ファンジン
『Football』(日本サッカー狂会、1965年11月創刊)を W杯関係邦文文献目録の採録誌に加えました。謄写版(ガリ版)ですが中身は濃いです。秩父宮でも欠号が多いので完全には収録できません。また、『スポーツマガジン』サッカー特集号(ベースボール・マガジン社)も加えました。現在1966年イングランド大会まで追加収録を終了しました。


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(01/10/9)
JFA機関誌『蹴球』、『サッカー』
に掲載されたW杯予選と1970年以降の本大会関係記事を、W杯関係邦文文献目録に収載すべく秩父宮へ。1日で入力するのは無理なくらいの量がありました。1970年代になると『サッカー』は定期刊行がアヤシクなり、1974年に終刊してしまいます。編集長は轡田三男で牛木素吉郎が手伝っていたのですが、2人では手が廻らなくなってしまったようです。JFA理事会でも商業誌が2誌(『サッカー・マガジン』と『イレブン』)あるのに「読み物」は要らないという意見があり、編集に手間がかからず製作費も安くて済む公報誌に衣替えします。W杯予選で負け続けの当時の日本代表に「アマチュアリズムの限界」が指摘されていましたが、サッカー雑誌が一足先にプロ化します。最終号の編集後記で、持ち出しで編集を手伝い精根尽きたと書いている牛木(読売新聞記者、『サッカー・マガジン』に「牛木記者のフリー・キック」という辛口コラムを連載していた)は、W杯1970年大会の予選で敗退した日本代表について「アマの理想はまぼろし」(『サッカー』no.100 1969.12)という記事を書いています。


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(01/10/8)
John Goodall
日本最初のサッカー専門書、東京高師学生が書いた『アッソシエーションフットボール』(明治36年)にあげられた参考書4冊のうちの1冊にJohn Goodall著『Association foot ball』があります。『Football compendium』で探してみると『Association football』(Blackwood, 1898)が該当するようです。解題によれば、 Goodallはイングランド・リーグの初年度(1888-89年度)を制覇したプレストン・ノース・エンドの主力選手、最初のプロ・サッカー選手の1人で科学的フットボールとパス・ゲームのパイオニアとのこと。模範的な名選手でニックネームはJohnny Allgood、本書を書いた時はダービー・カウンティの現役選手、本書は現役一流選手が書いたサッカー本の最古の例でもあるそうです。
ところで、プレストン・ノース・エンドは翌1889-90年度も連覇するのですが、それ以後イングランド・トップ(1部・プレミア)リーグで1回も優勝していません。昨年度はディビジョン1で西沢が移籍したボルトンとプレミア昇格を争っています。110年優勝していない(前回優勝は19世紀、ビクトリア女王の御世)というのはスゴイ、阪神タイガースがオコチャマに見えます。


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(01/10/7)
Charles BuchanとDavid Jack
この2人はともにWMシステムを考案したHerbert Chapman監督時代のアーセナルの名選手(同ポジションで Buchanが引退してJackが入れ替わった)、戦前の日本人が参考にしたサッカー本の著者。戦前は現在のようなコーチがいなかったし、和書のサッカー本も数少なかったので、選手自ら洋書を読んでサッカー理論を勉強していたようです。
ベルリン・オリンピック代表の堀江忠男は自伝『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)で浜松の中学時代にBuchan著『Football aids』 (Daily News, 1929)を読んでいたと述べています。Bryon Butler著『The Football League, 1888-1988 : the official illustrated history』(Queen Anne Press, 1987)によれば、CHを下げて相手CFにつける(ストッパーにする)というアイデアはChapmanではなくBuchanが考え出したものとのこと。
「英国サッカーを語る」(『サッカー・マガジン』1971年7月増刊号)という田辺五兵衛のインタビュー(インタビューアーは賀川浩)で田辺は「ディビッド・ジャックだったかの書いた本を翻訳したことがある。中学を出てからだったと思う。そう高商(のちの大阪商大いまの大阪市大)へ入った年ですヨ。」と述べています。『Football compendium』中で該当しそうなのは、年代が少しずれているが『Soccer : experiences of the game with practical instruction on training and on play in each position』(Putnam, 1934)。この本は賀川も昭和15年に神戸高商の先輩から借りて読んだそうです。田辺の翻訳ノートは大水害(『細雪』に活写されている)で亡失したとのこと(田辺文庫は水害と震災で2回受難にあったことになる)。1936年のベルリン・オリンピック以降3Bシステム研究が活発化しますが、本来WMシステムについての著書をだすべきChapmanが1934年に急逝したので、Jackの著書が聖典的役割を担ったのかもしれません。
田辺とオリンピック代表コーチの竹腰重丸はベルリン・オリンピック終了後イギリスに渡り、WMシステムの本家アーセナル対エバートン(CFはWMシステムが普及する前の1927-8年度に60ゴールという大記録を作った Dixie Dean)を観戦しています。この試合の『八犬伝』の犬塚信乃対犬飼現八ばりの講釈は田辺の十八番だったとのこと。


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(01/10/6)
『サッカー・マガジン』に続く商業サッカー専門誌
『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)によれば、『サッカー・マガジン』(1966年6月創刊)に先だって『サッカー新聞』(サッカー新聞社)が1966年4月に創刊されてます。翌1967年2月には『サッカーロータリー』(立花書房)と『サッカーグラフ』(サッカーグラフ社)が創刊されていますが、これらはいずれも短命に終わったようです。『サッカー・マガジン』のライバル誌として長く続いたのは1971年5月創刊の『イレブン』(日本スポーツ出版社)で、表紙に『World soccer review』とあるように、『サッカー・マガジン』よりも海外情報に重点を置いた編集方針をとっています。創刊時は『ダイヤモンド・サッカー』が1970年W杯を放映中で、海外サッカー情報に関心が高まっていた時期です。

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(01/10/5)
トニー・ドーセット
って1994年にプロ・フットボールの殿堂 入りしてるんですね。

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(01/10/3)
西澤アナウンサー
私は当時兵庫県に住んでいたので、『ダイヤモンド・サッカー』はサンTV(日本最初のUHF局らしい)で観ていました。サンTVは全国ネットからはみ出ていたので、当時東京で同じ立場にあった12チャンネルの番組を多く放映していたように思います。独自制作しているスポーツ番組もあって、阪神タイガース完全中継(これがウリ、解説の後藤さんが口を滑らせてタイガースを“ウチ”といったのを記憶している)や『カレッジ・フットボール’○○』(○○は77のような年、アメリカの大学アメフト)が代表的なものでしょう。その両方に出ていたのが西澤アナウンサー。特に後者では東の金子-岡野コンビと好一対の西澤-武田(健、関学アメフト部監督)コンビが忘れられません。後にダラス・カウボーイズ入りするトニー・ドーセットがピッツバーグ大にいたころ(1970年代中頃?)です。
東京に移って20余年、西澤-武田コンビとご無沙汰しておりましたが、今年の2月意外なところで再会できました。場所は長野県のとある温泉、なぜか毎日放送系の関西スポーツ局GAORAが受信できて、このコンビによるスーパーボウル(もちろん録画)を観ることができました。金子-岡野コンビがW杯を放送したように、いつか西澤-武田コンビもスーパーボウルを放送してもらいたいと念願しておりましたが、まったく偶然にその機会に遭遇することができました。30年来になるこのコンビによる名調子は健在でした。

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(01/9/29)
ゴール後のパフォーマンス
で印象深いのは1970年W杯でジャイルジーニョがひざまづいて十字を切ったシーン(『ダイヤモンド・サッカー』でタイトル・バックに使用された)と1994年W杯のベベトのゆりかごダンスです。『Football compendium』にGraham Fitkin and the Royal Liverpool Orchestra『Bebeto;Classical selections』 (Argo Records, 1996)というCDがエントリーされています。Fitkinはモダン・クラシックの作曲者で自身のサッカー・チームを持っているそうです。ゆりかごダンスに触発されて作曲したとのこと。リバプールはサッカー音楽?の都でもあるんですかね。


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(01/9/26)
応援歌
1966年W杯イングランド大会の観戦記を読むと応援歌が印象深かったらしく、歌詞つきで紹介しています。『聖者の行進』の替え歌がイングランドの応援歌で、
Oh! when the Saints, Go marching in, Oh! when the England marching in, I want to be England number, When the England marching in.
Oh! when the reds go marching in, Oh! when the reds go marching in, I want to be England number, When the reds go marching in.(redsはイングランドのユニフォームが赤の場合)
これはジャズでイギリスの伝統歌曲ではないのですが、バッキンガムの衛兵もW杯期間中演奏していたそうです。
この大会の記録映画『ゴール』は日本でも公開され、現在でもビデオ(タイトルは『1966ワールドカップイングランド大会』)で観ることができますが、やはり『聖者の行進』がうたわれています。
Desmond Morris著『サッカー人間学』(小学館,1983)によれば、応援歌の斉唱は1960年代にリバプール・ファンが始めたとのことで、『聖者の行進』が応援歌になったのは、リバプールの花形選手イアン・“セント”・ジョーン(Ian “St.” John)の栄誉を称えたのが最初とのことです。「今日では多少の編曲が施されて全国で応援歌として採用されているが、歌っている人々のほとんどが起源については知らない」と述べています。イギリスでも応援歌が定着したのは1966年W杯以降だそうです。

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(01/9/24)
イギリス・サッカー選手個人伝記
『Football compendium』の個人伝記の部分でエントリーの多い順は、
1.Ian Botham 16点 クリケットとの二刀流選手。Scunthorpe Unitedで1979~1984プレー。重点はサッカーよりもクリケットにあったらしい。アメリカでもNFLとMLBを兼業するB.ジャクソンとかD.サンダースとかいましたが、そのイギリス版か?
2.Denis Compton 14点 1936年~1950年にアーセナルで活躍した往年の名選手。
3.Paul Gascoigne 13点 やっと知ってる名前が。
4.George Best 11点 5人目のビートルズといわれた人。据え膳食わぬということはしなかったことでも著名。
4.Kevin Keegan 11点 ガスコインやキーガンがイギリス人の好みなんですかね。なんとなくわからないことはないでも。
アメリカのメジャー・リーグを米国議会図書館データベースで検索すると、第1位はベーブ・ルースなんかではなくて、圧倒的に黒人最初のメジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソン。野球選手というよりはリンカーンやキング牧師の系譜に属する偉人という扱いのようです。
ちなみに日本だと、昭和天皇没後、生存者で圧倒的1位はジャンルを問わずY売球団のN嶋氏なんですよ。ご存知でしたか?


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(01/9/23)
『トレインスポッティング』ってサッカー映画?
昨日入手した『Football compendium』によれば、イギリス最古のサッカー映画は1911年の『Harry the footballer』、11分の無声映画です。一番新しいのは1998年の『My name is Joe』ですが未見、みたことがあるので最新というのが『トレインスポッティング』(1996)、ドラッグ・ムービーという印象でしたが、映画中にでてくるサッカー・シーンは1978年W杯スコットランド対オランダのアーチー・ゲミル(Archie Gemmill)の“famous wonder goal”だそうです。原作者のウエルシュ(Irvine Welsh)は作家になる前はエジンバラのHibernian(Hibs)のファンジン『Hibs monthly』に “蛸(Octopus)”名で寄稿していたとのこと。『Football compendium』に収録されていないが、脚本も担当した『アシッドハウス』(3話からなるオムニバス)の第1話の主人公はヘボサッカー選手、第3話の主人公は熱烈サポーター。現代イギリスの人気作家ウエルシュやホーンビーの作品には「日常」としてサッカーがでてくるみたいです。


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(01/9/22)
『Football Compendium』
Amazon.co.ukに発注していたPeter J. Seddon編『A football compendium : an expert guide to the books, films & music of association football. 2nd ed.』(British Library, 1999)が到着していたので世田谷中央郵便局まで取りにいきました。815p、2.4kg、7千点以上のサッカー本、映画、CDなどを収録しています。1995年に刊行された初版はイギリス図書館協会の最優秀書誌賞を受賞しています。表紙だけならAmazon.co.ukで見ることができます。収録されている最古の本はSir Thomas Elyot著『The boke named governour』で出版年は1531年、日本は室町時代です。秋の夜長の暇つぶしに使えそうです。


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(01/9/16)
ベッケンバウアーの怒り
W杯1962年チリ大会を観戦したJFA会長野津謙は、日系ペルー人審判ヤマザキを激賞していて、FIFAのラウス会長に東京オリンピックにはぜひ彼を送ってほしいと頼んだそうです。観戦記にも「日系二世のレフリー」という小見出しがあるくらいです(「W杯関係邦文文献目録」参照)。
ところが、同一人物をベッケンバウアーが自伝『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』(講談社,1979)で酷評しています。試合はW杯1970年メキシコ大会準決勝イタリア対西ドイツ。この大会は『三菱ダイヤモンドサッカー』で録画とはいううものの初めてTV放映されたので、W杯がどんなものか初めて知った人も多いんじゃないでしょうか(私もその一人)。よくW杯は戦争にたとえられますが、この試合を観てナルホドと思ったくらいの歴史に残る名試合なんですが、ベッケンバウアーは「メキシコ市のアステカ・スタジアムで戦ったイタリアとの準決勝の主審には泣かされたし、いまだにいやな記憶として残っている。」と述べています。
主審の名はアルツーロ・ヤマサキ(サに濁点がないが同一人物)。「イタリアはわたしたちのスピードをファールの連続で食い止めようとした。二、三度、私はヤマサキ主審を見たが、彼は知らん顔だ。ヤマサキはいつものんびりとフィールドの中央にいて、プレーヤーが近くにやってくるとわきに身をさけた。イタリアの選手が西ドイツの選手にファールされると、彼は笛をすぐ口に持っていった。」。ハーフタイム中に誰かが「ヤマサキは、反則をとらないな。殺人があってもだまっているかもしれないぞ」。ゼーラーは「ヤマサキは少なくとも、西ドイツに二つのペナルティキックをくれてもよかったんだ」。ミュラーは「あの審判はペテン師だ...」。「新聞は、大げさに “今世紀最高のゲーム”と書きたてたが、わたしたちは“今世紀最大のペテン”と書き直したいとさえ思った」。
これにさらに後日談がついていて、バイエルンがペルー遠征したとき地元記者に「ペルーはとてもすばらしいところだが、一人だけ、ペルーに住んではならない人間がいる。アルツーロ・ヤマサキだ。彼はサッカーについて何も知らない。彼はメキシコ大会でわたしたちとイタリアの試合の笛を吹き、わたしたちを欺いた」と言ったところ、ペルーにそんな人はいないと言われた。「その後、ペルーのサッカー界にくわしい人が、「ヤマサキは日本人で、ペルーの国籍を持っているだけだ。現在がメキシコに住んでおり、メキシコやイタリア・サッカー協会の人たちと親しい」という説明をしてくれた。それを聞いてわたしははじめて納得した。過去にも多くのチームが汚いサッカーの犠牲になっていたが、イタリア戦でわたしたちもその犠牲者の仲間に入ったのだ、と」。


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(01/9/15)
2002年ドイツのキャンプ地
に鳴門を最優先に考慮すると連絡があったと、今朝のスポーツ新聞にでていました。もちろんドイツの試合が日本で開催される場合です。鳴門は9/11付けで紹介した広島県似島とともに第一次世界大戦のドイツ人捕虜収容所があったところです。似島同様地元チームと交流試合をしてたんでしょうか。なにはともあれ、ドイツが日本開催組になることを願いましょう。


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(01/9/13)
マジック・マジャールを観た人
1950年代前半のハンガリーはヘルシンキ・オリンピック優勝、W杯スイス大会準優勝、ウエンブレーで不敗だったイングランドに6対3で完勝するなど、世界最強国でマジック・マジャールと呼ばれていました。日本がW杯予選に初参加した当時の代表監督の竹腰重丸は、役員として参加したヘルシンキ大会(サッカーは日本不参加)でハンガリーを観ています。彼の代表著作『サッカー』(旺文社,1956)では当時最先端だったハンガリーの戦術を「ハンガリーなどの戦法」として以下のように紹介しています。

 センター・フォワードが、ウィングの前やインナーよりタッチ・ライン側に出ることやインナーより後退することなどは常習的に行われることであり、ハンガリーのライト・インナーがレフト・ウィングの前に出たり、ユーゴのライト・ハーフが攻撃に当っては味方レフト・ウィングの前に出たりしながら、守備に回った際はゴール・エリア内に帰って直接得点を防ぐなどのことが見受けられた。これらは動きの最も激しい例ではあるが、試合中しばしば見受けられたところであり、いかに激烈な活動に耐える体力を持っているかを想像させるにたるものであった。
 そのような動きはゲームの流れに従ってフォワードが一時ハーフ・バックの、またはハーフ・バックが一時フォワードの役目を果すというような位置の交代がなければ危険でできないことであるし、フォワード間の位置の交代は単に行きがかり上入れ替ったというのではなく、計画的な鋏状運動(第三編第七章参照)として行ってはじめて十分な効果を上げうるものであって、ヘルシンキ・オリンピック大会での一流諸チームはしきりにそれを行っていた。

ポジション・チェンジを多用して全員攻撃・守備するトータル・サッカーの先駆だったわけですね。ウエンブレーの対イングランドの6対3やW杯予選リーグの対西ドイツ8対3のように、爆発的な攻撃力がある反面失点も多いという観ていて面白いサッカーだったようです。三軒茶屋のTSUTAYAにFIFAW杯公式記録映画のビデオ(1954年スイス大会が一番古かった)があったので、借り出して観たのですが、フォーメーションまではよくわかりませんでした。ハンガリーが東南アジアのセパタクローのような練習をしていたのが目を引きました。
日本に勝ってW杯に初出場した韓国(予選参加は2国だけ、東京で2戦して日本の1対5、2対2)は、予選リーグでハンガリーと同じ組(優勝した西ドイツまでいた)になってしまい、メンバー落ちのハンガリーに0対9(大会得点差新記録)で敗れています。韓国ではマジック・マジャールはどのように語り継がれているのでしょうか。


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(01/9/11)
広島サッカーのルーツ2
『広島スポーツ100年』(中国新聞社,1979)によれば、広島高師がサッカーを課外運動にしたのは明治39年、明治44年にはオックスフォード出身のプリングル氏が赴任して正式なサッカーを伝えたようです。同じく明治44年に東京高師の主将でだった松本寛次が広島一中に赴任し、大正2年に蹴球部を設立します。松本が努力した結果、大正3年の入部者は120人、一中の校技になります。いずれにせよ、広島サッカーが始まったのは明治末だったようです。
第一次世界大戦のドイツ人捕虜が広島湾の似島に収容されていたのですが、捕虜チームと広島高師と県師が大正8年に交流試合を行っています。結果は日本側の大敗で、高師主将田中敬孝は軍の許可を得て似島に通い、その成果を広島はもとより、姫路師範、御影師範、神戸一中まで教えにいったそうです。ドイツ・サッカーが日本に伝わった最初かもしれません。


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(01/9/7)
W杯第3回フランス大会(1938年)
を観戦した野村正二郎と島田孝一について追加すべき事実が判明したので、「W杯関係邦文文献目録」に追加しました。『日本サッカーのあゆみ』(1974)によれば、野村は1936年6月~10月JFA主事代行、1938年4月~1945年8月JFA主事、男爵とあったので『華族名簿 昭和13年5月30日調』(華族会館,1938)を見ると男爵で航空研究所技手とあります。島田は当時早稲田大学ア式蹴球部長、野村の文中に島田顧問とあるのでJFAの顧問もしていたのかもしれません。2人とも早稲田OBなので早稲田大学ア式蹴球部の部史を読めばもっと詳しいことがわかるかもしれません。


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(01/9/4)
『アサヒスポーツ』のモダニズム
8/21付けで紹介した伊東明「日本における体育・スポーツ雑誌の歴史」『上智大学体育』no.2 1968には 不思議なことに『アサヒスポーツ』が含まれていません。しかし、大正12(1923)年3月創刊の この雑誌こそ戦前のスポーツ・ジャーナリズムの水準を示す好例でしょう。
最初に見て驚くのは横書きだということです。現在でも『Number』や横書き文章が多い『World Soccer Digest』ですら 原則縦書き(表紙から見て右側に背がある)です。興味深いのはほぼ同時に創刊された『アサヒグラフ』の表紙タイトルが 右読み(すなわち、「フラグヒサア」)なのに、『アサヒスポーツ』の表紙タイトルは左読みです。文部省が横書きを左読み に統一するのは確か戦時中のはずです。文章が横書きということは、美文調はもちろん、感情過多な文章やセンテンスの長い 文章は似合わず、客観的でセンテンスの短いテンポのよい文章が似合うことになったはずです。ただし、昭和11(1936)年1月 から突然縦書きに変わります。
2番目の特徴は写真のすばらしさです。スポーツ写真としては現在とまったく遜色ありません。グラフ誌サイズで見開きいっぱい を一つの写真に使うなど、大胆なレイアウトが見られます。グラビア印刷の導入を契機にに創刊されたので、カメラマンの意気が 写真を通して伝わってきます。写真には日本語に加えて英語のキャプションをつけていることもあります。読者層として 中等教育以上のレベルを想定していたようです。
3番目は対象が多様だということです。メジャーリーグのシーズン前予想やアメフトの特集号があったりします。海外情報も 豊富で、創刊当初は野球:べーブ・ルース、テニス:チルデン、ゴルフ:ボビー・ジョーンズ、ボクシング:デンプシーが同時代のスターとして 豊富な写真とともに紹介されています。種目としては野球記事が多い(朝日なので特に中等野球)ものの、スキー、スケートのような ウィンター・スポーツや登山、ヨットまで満遍なくとりあげられています。大相撲については、創刊号の巻頭に下村宏(海南)が 書いた「全日本民族のために」と題する文章中で「プロフェッショナルの八百長相撲」と表現しているくらいで、スポーツと みなしていなかったようです。スポーツ小説、エッセイ、漫画もあります。
編集者の名前はずっと登場しません(編集後記もない)が、縦書きに変わった昭和11(1936)年1月1日号(月2回刊)に 編集同人として飛田忠順(穂洲)、織田幹雄、芥田武夫、山田午郎、三宅次郎等の名があります。飛田穂洲は『運動界』の発起人 だったはずですが。この号から編集後記が始まります。当時プロスポーツがなかったこともあって、スター選手への阿諛追従などが まったくなく、現在のスポーツ・ジャーナリズムと同レベルないしはそれ以上といえるかもしれません。戦時中の昭和18(1943)年 6月で休刊、戦後1948年1月復刊、1956年1月まで刊行されました。
表紙写真に意表を突いたものが多いのですが、昭和4(1929)年11月15日号の表紙はサッカーのイングランド・リーグ、 カードはなんとアーセナル対ボルトン!!です。

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