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2002年3月19日~2002年5月5日

(02/5/5)
鈴木明著『「東京遂に勝てリ!!」1936年ベルリン至急電』(小学館,1994)
は、1940年幻の東京オリンピック招致の経緯を、日本とIOCや極東大会との関連から説明しています。1934年地元W杯優勝で気を良くしたムッソリーニは、1940年オリンピック(ローマも立候補していた)を日本に譲ったとのこと。中国(満州事変で対立していたのにもかかわらず、蒋介石の指示で東京開催に賛成票を投じた)、フィリピン(親日的な民族主義者が体育協会の代表、オリンピックに代わって開催された紀元2600年記念大会に選手団を派遣)の複雑な事情も描かれています。


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(02/5/4)
戦前にヨーロッパ・サッカーを観た人
で、観戦記を残している人は、『蹴球』、『蹴球評論』(共に1931年創刊)を見る限り、以下の人々です。
1931年:斎藤才三。桃山中学(田辺五兵衛の1年後輩、主将を引き継いだ)、関西学院OB,毎日新聞記者、1930年極東大会優勝メンバーのGK。渡英して、アーセナル対ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、ウェスト・ハム対チェルシー、イングランド対スペインを観戦しています。当時の革命的戦術3B(WM)システムを最初に報告、1934年に逝去したチャップマン監督の現役時代にアーセナルを観戦した唯一の人物ではないかと思われます。
1936年:ベルリン・オリンピックで渡欧した竹腰重丸(コーチ)・田辺五兵衛(役員)、竹内悌三(主将)。竹腰・田辺はアーセナル対エヴァートン、当時FA事務局長だったスタンレー・ラウス氏(後FIFA会長)の世話で貴賓室で観戦したそうです。田辺はイングランドのみならず、スコットランドまで行ったとのこと。竹内については4/15参照。
1938年:野村正二郎、島田孝一がW杯第3回フランス大会を観戦。 第3回フランス大会(1938年)参照。野村は男爵、祖父は土佐藩士で戊辰役の功で爵位を得る。父は養子で父の実父は伍代友厚。島田は早稲田大学ア式蹴球部長、JFA顧問。W杯と同時に開催されるFIFA会議に、押しのきくバロンとプロフェッサーが派遣されたようです。
野村・島田以外は全員アーセナルの試合を観戦しています。1968年にアーセナルがイングランドのプロチームとして初来日したとき、『サッカー・マガジン』のコラムに、協会のお偉方は昔のネーム・バリューでアーセナルなんかよんでいる、マンU(当時G.ベスト、B.チャールトン、D.ローがいた)をよべ、と牛木素吉郎氏が書いていたように記憶しておりますが。


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(02/4/25)
竹腰重丸のマジック・マジャール観戦記
竹腰重丸はヘルシンキ・オリンピックにJOC役員として派遣され(日本サッカーは不出場)、優勝したハンガリーの試合を観戦しており、観戦記を「第15回ヘルシンキオリンピック大会報告書 3」『蹴球』v.10no.4/5 1953.4/5 p.4-11に寄稿しています。当時のハンガリーは1950年5月の敗戦から1954年W杯決勝まで不敗で、マジック・マジャール(和製英語、正しくはMagical Magyar)と呼ばれていた伝説上のチーム。世界サッカー史上の名プレーヤー、プスカシュ、コチシュ、ヒデグチ、などを擁していました。竹腰はユーゴとの決勝戦を観戦しており、予想として次のように述べています。

双方共速攻、遅攻いづれも可能で殆ど非の打ち処のない感のある攻撃力旺んなチームであった。球扱いも身体のこなしも日本の最上級FWよりもすぐれて居るハンガリーのバックスに対しても、ユーゴーFWは速攻とヘッディングの強さで二点程度は得点可能と思はれ、一方ユーゴーの守備陣は敏捷そのものであり大会随一かとも思はれる精力的な動きをするRHが小柄なほかは巨躯を持って居るが、回転やスタートダッシュの鋭さに難が見出されるのでハンガリーFWは四点程度得点することが予想せられた。

予想ではハンガリー優位。さて、前半戦は、

 前半戦は双方共実に慎重な試合振りに終始した。双方共激しく動き盛んに所謂チェンジポジションを行って攻めはするが球を確実に保持することを主眼とするかに見え所謂『きわどい』パスは殆ど全く見られなかった。加之、シュートと思う時期にも更に一歩のドリブル或はより有利な味方へのパスをするなど慎重に過ぎて得点機を失した。開始後二十分迄に放ったショットは共に一本宛に過ぎなかった。三十五分ハンガリーはPKに恵まれたがシュートの名手であるCFは強蹴乍らキーパーの右一米突半に蹴ってユーゴーのキーパーに完全に掴まれて了った。その様な凡蹴は考えられないことで優勝戦である為固くなったと見るほかはない。前半はハンガリー優勢で数回の好機があったがゴール前で慎重に過ぎてユーゴーの三バックスの巨躯に遮断されたりキーパーの確実な捕球に阻まれた。

ハンガリーは優勢に試合を進めるも、プスカシュがPKを失敗して前半戦は0-0。そしていよいよ後半戦。

 後半戦には双方共明瞭に作戦を変更して速攻にいで、戦況は活発さを増した。対等な戦況の中十一分にユーゴーはRW→CF→LWの速攻でLWはキーパーと一対一で得点と思はせたがそのシュートは僅かにゴールを外れた。二十五分に至りハンガリーは自陣で横に球を廻しLIからの十五米突位の縦パスを受けたCFは約五十米突を快足ドリブルで二人を外し突進するキーパーをも左に外して一点を挙げた。其後も双方速攻を繰返活発な戦況ではあったが前半同様ゴール前で慎重に過ぎて容易に得点とはならなかった。タイムアップ三分前ユーゴーRIは快速ドリブルでPエリア内に突込んだがハンガリーバックスの敏捷な動きでシュートの機を得ず、ゴールライン上ポストから五米突位の位置から低い球で強く中に入れCFが得点と思う一瞬前キーパーが挺身そのパスをインターセプトして好捕し一対零のまま終ると思はれた。然るに残り時間一分足らず前ユーゴー陣右深くに攻込んだ ハンガリーは混戦中からそのCFが中に入れた球をLIが受けてシュートして一点を加え二対零の記録で、ハンガリーの優勝するところとなった。ハンガリーとしては初めての優勝である。

1点目はプスカシュ、2点目はチボールのゴール。最後のまとめとして以下のように締めています。

 些か固くなった感があったが此の試合は優勝戦に相応しく技術的には最も纏りのある試合であったと云うべきであらう。簡単に全貌を写すことは出来ないが、球扱いが非常にすぐれ確実に球を廻し乍らスピードに富み全員激しく動き廻って戦う様は、バスケットボール試合のスケールを大きくして力強さを加えたものと表現して差支えない感があり蹴球の魅力を十分に感じさせる好試合であった。

それにしても、「ハンガリーは自陣で横に球を廻しLIからの十五米突位の縦パスを受けたCFは約五十米突を快足ドリブルで二人を外し突進するキーパーをも左に外して一点を挙げた。」というプスカシュのプレーは、オリンピックではなく、W杯の決勝なら後世のサッカー・ライターをして張り扇を叩かしめたでしょうに。


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(02/4/24)
範多龍平氏のこと
範多龍平氏は、神戸一中蹴球部、慶応ソッカー部の草創期に活躍した人物。『神戸一中蹴球誌』(1937)に「おしる粉と涙」というエッセイを寄稿しています。範多とは珍しい姓ですが、祖父はアイルランド生まれのE.H.ハンター氏、父は帰化して範多姓を名乗った範多龍太郎氏。ハンター氏は現在の日立造船の創業者。神戸市北野地区を住宅地として開発し、異人館群ができるきっかけを作った神戸の恩人。北野のハンター坂や北野から王子動物園に移築された国指定重要文化財ハンター邸にその名を残しています。西村珈琲店とフロインドリーブが並んでいる通りがハンター坂とのこと。坂の入り口までなら行ったことはあるんですが、フロインドリーブより先は登ったことがなく、坂の名前までは知りませんでした。龍平氏が神戸一中に通学していたころは、ハンター邸に実際に住んでいたのでしょうか。


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(02/4/23)
竹内悌三の日朝サッカー比較論
竹内悌三はイングランド・サッカーの特徴を6点あげた後、日朝のサッカーを比較して次のように述べています。

 今回のオリムピック遠征以前の日本のティーム殊に関東のティームのやり方をもっともっと激しく速くさせたのが英国のプロのやり方であらうと思ひます。この事に関係して、朝鮮の蹴球は変わった行き方をしてゐてその対照が甚だ面白く、且つ興味深く思はれます。今回のオリムピック遠征前伏見の合宿で、私は朝鮮から選ばれて練習に参加してゐた金君等と、現在内地でやってゐる蹴球と朝鮮の蹴球との、比較論やら色々と議論いたしました。その結論は金君の曰く「内地の蹴球は余裕が無い、キープが足りない、無茶苦茶に前進するのみだ。あいてゐないのにパスする。無理だ。朝鮮ではこう云ふやり方をあわてていると云ふ。自分達には調子が合わず全くやりにくい云々」而して朝鮮の余りにも廻し過ぎるテンポの遅いやり方に対して全般的に肯定はしなかったが、当時は自分の蹴球が可成り余裕が無く駈引に乏しく策の無いものであることに対して、或る種の不満と懐疑をもってゐたのでありますが、些かこの金君の言に共鳴いたしました。而して日本軍が愈独乙に渡り数度の戦を外人ティームと交へて、吾々が先づ感じた事は吾々はもっと気分的にも技術的にも余裕をもたなければならないと云ふ事でありました。あわててはいけない、ボールをキープして廻し相手を釣って崩さなければいけない。従来先輩から教へられてゐた「一球一球に全精力を傾倒してやれと云ふ精神」が誤解されて余裕の無い単なる精力の散発に陥ることを警戒しました。今回の遠征軍の御土産の一つ、技術の上達熟練の急務と同時に余裕をもってボールを廻すと云ふ事であったと思はれます。事実昨秋のリーグ戦にこの傾向が現れたと聞いてゐます。

文中の金君とは戦後韓国代表監督も務めた金容植氏。朝鮮のサッカーというと、日韓戦のイメージもあってフィジカル優位の当たりの強い試合運びという印象をもちがちですが、ラテン的でもあったようです。朝鮮といっても南北でスタイルが違ってたのかもしれませんが。
「あわててはいけない、ボールをキープして廻し相手を釣って崩さなければいけない。」というのは、その後現在に至るまで日本サッカーの課題ですね。
竹内はヨーロッパ・サッカー紀行の結論として次のように述べています。

 面し乍ら次の事は云へると思ひます。世界の蹴球の分野には巧緻の大陸派と速さと激さの英国派とある事、之を日本に於て見るならば、大陸派の長所を学び取ってゐるかに見ゆる朝鮮の蹴球と英国の流れを汲む関東の蹴球。又オリムピック遠征後の日本の蹴球が従来の英国流のやり方に大陸派の傾向をとり入れんとしつつある現在の情勢、又その傾向が一応ある段階に達したる時日本蹴球は次に如何なる方向に向って進歩の途を辿って行くであらうか、之らの問題は頗る興味深く且又最重要な根本的問題であらうと思はれます。そして其の時吾々が最も知り度いと思ふのは南米の蹴球であり、英国のプロティームが矛を交へずして退いたと云はれる南米ウルガイの蹴球であらうと思ひます。


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(02/4/19)
竹内悌三の観たイングランド・サッカー
大陸から期待をもってイギリスに渡った竹内ですが、

...而るに私に与へられたものは多大の教示と感激ではなくして、失望の二字でありました。欧州大陸においてさへあれ程の教示と昂奮を与へてくれた蹴球が、英国に於て反って或る種の物足り無さと失望を私に与へた事に付いては、今に尚些か疑問に思ってゐます。...

と述べています。イギリスの3戦を観ての感想は、

...先づ私が驚きました事は両軍の対峙が完全なスリーバックシステムの元に行はれてゐる事であります。両軍共CHは敵CFにピッタリとつき残余のものも夫々マークす可き相手方にピタっとついて、水も漏さぬと云った感じであります。その攻撃は極端なW型システムであり、又極端なロングパスシステムであります。この点は大陸の傾向とは可成り異る特色をなしてをり、私の観た英国の三試合六ティームが例外なしに完全な完全なこのやり方をとって攻守してゐました。この様な布陣の元に行はるる英国蹴球の特色は実に速攻と激しさであり、又速攻と云ふよりは拙速といふ感じがいたします。...

そして、イングランドのプロ・サッカーの特徴を以下の6点にまとめています。

一、完全なるスリーバックシステム
二、深いW型攻撃一騎打式の単身突撃的攻撃
三、速攻主義
四、可成り極端なキックアンドラッシュ
五、速さと激しさのフットボール
六、バスケットボール式のフットボール

WMシステムでは攻撃はM形、守備はM形で完全な1対1のマン・マークになり、ウイングがサイドに寄り、インナーが下がってCFにスペースを与えて、その個人技に依存するところが多くなります。狭い地域でのパス交換などよりもロビングでCFにボールを集中するパターンになりがちだったようです。竹内よりも少し前にアーセナル対エバートンを観た田辺五兵衛は、CF対そのマン・マークについたCHの1対1の対決が見所だったと語っています。ボールを奪取すると、いわゆるタメやテンポの変化なしにすぐ前線へロング・パスしてしまうような試合運びだったようです。


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(02/4/15)
サッカー紀行の先駆者、竹内悌三
サッカー紀行といえば賀川浩氏や後藤健生氏を思い浮かべますが、すでに戦前、ベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三がヨーロッパ・サッカー紀行を『蹴球』誌に報告しています。竹内は東京府立五中、浦和高校、東大卒、優勝した1930年の極東大会と1936年のベルリン・オリンピックを選手として経験した唯一の人物です。オリンピックに際してJFAは3万円を目途に寄付を募りますが、個人では田辺五兵衛の3千円と竹内の1千円が図抜けています。よほど裕福な生まれなのではないかと思われます。東京タワー、東京駅、明石海峡大橋などを手がけた照明デザイナーの第一人者石井幹子氏の父親。オリンピック終了後選手団はスイス、フランス、イギリスを巡った後、サッカー・シーズン・イン直前の8月28日にマルセイユから帰国しますが、竹内はさらにヨーロッパ諸国を旅してほぼ1週間毎にサッカーを観ています。日付、場所、試合は以下のとおり。

1936年9月13日 ミラノ アンブロシアーナ(現インテル)対トリエスティーナ セリエA
     9月20日 プラハ プルーゼン対ビクトリア スラビア対Rusj-Vghora チェコの国内リーグ
     9月27日 プラハ チェコスロバキア対ドイツ ナショナル・マッチ
    10月11日 アントワープ アントワープ対ユニオン ベルギーの国内リーグ
    10月17日 場所不明 サザンプトン対トッテナム・ホットスパー イングランド2部リーグ
    10月21日 リバプール イングランド対スコットランド リーグ選抜対抗戦
    10月24日 ロンドン グリムズビー・タウン対アーセナル イングランド1部リーグ

鋭い洞察力の持ち主で、イングランドのサッカーが大陸よりも緻密さに欠けることを指摘したり、とエリック・バッティも顔負けなことを書いているのですが、具体的な紹介は別の機会に。

ベルリン・オリンピックで地元サッカー記者に国際級選手と絶賛された加茂健氏が『私の人生』(1998)という自伝を書いておられるとのこと。 →参照


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(02/4/12)
“サッカー”という用語
日本で最初に“サッカー”という用語を使用したのは1918年創立の大阪サッカー倶楽部ですが、東京では1921年創立の豊島サッカークラブ、慶応義塾体育会ソッカ-部の例があります。豊島サッカークラブは、役員人事のもつれから東京蹴球団の豊島師範系OBが分派したもので、サッカークラブという名称に、漢字名にこだわった東京蹴球団への対抗意識が感じられます。
“サッカー”という用語もイギリス生まれで、Oxford English Dictionaryによれば、1890年代には“socca” とか“socker”と綴られていて、こちらの方が“soccer”より用例の年代が若干古くなっています。綴りから察せられるように、イギリスでも最初は「ソッカー」と発音していたはずで、慶応のソッカー部は決して出鱈目な表記ではありません。
Tony Brownによれば、David Pickering著『Soccer companion』(Cassel, 1994)では最初に“soccer”という用語を使ったのはオックスフォード大学生で、後にイングランド代表、FA副会長になったCharles Wreford Brownであると人名まで特定しているそうです。 (ASK the REF.com参照)
1921年には大日本蹴球協会が設立され、1931年には機関誌『蹴球』が創刊されます。こうしたこともあって、戦前は“サッカー”よりも“蹴球”の方が普及していました。戦後、大日本蹴球協会は日本蹴球協会に改名しますが、機関誌は『サッカー(Soccer)』という誌名で復刊します。占領期間中はこの誌名で、占領が終わると『蹴球』に改題するので、米軍への配慮からアメリカ式の“サッカー” という用語を使用したのではないかと考えられます。当時は用紙割り当てなどのような出版統制があり、米軍の意向は無視できなかったのではないでしょうか。占領期間中に出版された図書も“サッカー”という書名になっています。
『蹴球』に戻った機関誌は1959年にまた『サッカー』に改題します。その理由は“蹴”の字が当用漢字になかったためということが、改題初号(1959年1月号)に記されています。1960年にサッカーは義務教育課程化されますが、教科書や学習指導要領では“サッカー”に用語が統一化されたはずです。任意団体だった日本蹴球協会は1974年に財団法人化され、その際に日本サッカー協会に改名しますが、やはり監督官庁の文部省の意向が働いたのではないでしょうか。

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(02/4/9)
海軍兵学校のサッカー
『誕生十年』(1935)、『豊島サッカー史』(1960)の内容紹介を追加しました。前者は東京府立五中、後者は豊島師範のサッカー部史です。前者に海軍兵学校に進学した伊藤敦夫が「所感」と題するエッセイを寄稿しています。

 兵学校の蹴球は十一月から四月までがシーズンでその間は二週間に三回位の割合で体技(蹴球・籠球・ラグビー・排球)の訓練があります。靴もユニホームもあり、姿だけは立派なものですが、私なんかが単身ドリブル五十米許りシュートして一点取るなんてことが時々ある位だと言ったら何れ位の蹴球だか想像がつくでせう。でもシーズンの終りには試合が行はれます。分隊から一チームを出して試合するのですから内容は充実したものでドリブルとキックの競争の様なものですが、それでも仲々熱烈いや猛烈な肉弾戦を展開します。それは猛烈なもので五中の人が之位猛烈にやったらと時々思ひます。私が一学年の時に八中と広島附中の選手だった人と三人で九点入れて勝ったのが兵学校に於ける記録ださうです。
 時には学級で対抗試合をさせることがあります。此の方は人数が多くなるので上手な人も相当居りますからいくらか充実した試合振をやります。四月から五月にかけての土曜日曜にやりますが選手だった者が多い所が強い様です。平生も練習もしないでやるのですから仲々コンビネーションなんかよく出来ません。対抗試合など出来て学校で一チーム編成したら体力は秀れて居るし元気はあるし、練習次第では相当なチームも出来ると思ひますが何分島の中では何うにもなりません。
 現在ではゴールポストは二組立って居ます。全部芝生です。恐らくこんなに二つもグランドを持って居る様な学校はないでせう。こうした広い美しい所で球を追って走ることは全く気持がよいものです。

芝のグラウンドが2面ある学校は、現在でもそうはないでしょう。
原島好文の回想では、東京蹴球団は横須賀の砲術学校、海兵団、水雷学校、機関学校に遠征したそうです。そのおりは特別のランチで運んでくれたとのこと。
アメリカではアーミー対ネイヴィーの対抗戦(もちろんアメフト)が早慶戦のような伝統の一戦で、競技史でも重要な役割を果たしてきました。アメフトの特徴であるフォワード・パスが初めて使用されたのはアーミー(陸軍士官学校)対ノートルダム大戦。ジョン・フォード監督の『長い灰色の線』に出てきますが、映画ではこの試合当時士官学校アメフト部にアイゼンハワーがいたことになっています。彼はオール・アメリカン級のランニング・バックだったとのこと。昔エア・フォース(空軍士官学校)とどこかとの試合をTVでみたことがありますが、エア・フォースが徹底的にパス戦法(アメフトでは空中戦になる)に拘っていたのには笑いました。イギリスの空軍士官学校(あるのかどうか知らない)にサッカー・チームがあるとすれば、やはりロビングを使いまくってるんでしょうか。


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(02/4/7)
静岡高校
といえば、サッカーより野球の印象の強い学校ですが、『静岡県立静岡中学・静岡高等学校サッカー部史』(静中・静高サッカー部OB会,2000)によれば、1920年創部、1930年極東大会優勝メンバー井出多米夫、ベルリン・オリンピック代表GKで大活躍した佐野理平など、古くから好選手を輩出しています。強豪揃いの静岡県で昭和30年代以降は全国大会出場は少ないですが、選手よりも指導者として成功した人物が多く出ています。浦和市立高の鈴木駿一郎、静岡学園の井田勝通、少年サッカーの指導者堀田哲爾、納谷宣雄が同校出身です。長池実は藤枝東の前に4年間同校監督を務めており、井田は教え子だそうです。


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(02/4/5)
『Kick-off』誌
井田勝通「静高時代のサッカー」(『静岡県立静岡中学・静岡高等学校サッカー部史』(静中・静高サッカー部OB会,2000)所収)中に「昭和32~34年という時代は世界ではペレが世界大会(ワールドカップ)でデビューした頃で、自分は泉山と2人でキックオフという雑誌でそれを知り世界と日本の差がどんなにかけ離れているかを知った。」という部分がありました。当サイト収載の『Kick-off』総目次 は第6号(1958年5月)までで、スウェーデン大会の記事は含まれません。どうやら第7号以降も発行されていたようです。同誌は大谷四郎、賀川浩、秋庭亮のような、後に『サッカー・マガジン』(1966年創刊)のコラムニストになる人物が寄稿しています。大谷や賀川のように新聞社で外電に接することができた人がいたので、海外情報も豊富です。静岡の高校生が読んでいるくらいなので、かなり普及していたはずですが、田辺文庫以外で発見できていません。


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(02/4/3)
東京蹴球団と少年サッカー
忠鉢信一著『進化する日本サッカー』(集英社,2001)には、現日本代表は過去30年にわたる育成プログラムの成果であることが具体的に記述されていますが、大正時代すでに少年サッカーの重要性に着目していたのが東京蹴球団の人々です。原島好文「サッカー十年の思ひ出」(『運動界』1929年4月号所収)によれば、

 私たちが大会屋と悪口をいはれてゐたのが其の頃で、大正十一年から小学生大会を始め少年蹴球の道を開いた。その為にルールを清水、山田両君が編み、山田君は単行本を世に出したが、何れも貰ひ手はあっても買手は少ない。

山田午郎の著書というのは『ア式フットボール』(杉田日進堂、1925)で、序文の冒頭は、

 極東に於て、各種運動競技の選手権大会が開かれることにすでに七回、中でもア式蹴球は中華民国が実に六回連勝の栄誉を担ってゐる。今回マニラの地に開かれた第七回極東競技大会に於ても、フィッリピンを五対一で破り、わがティームを二対零で破って堂々と勝利を占めてゐる。これは単に体格ばかりに依るといふことは出来ない。彼は幼児からボールに接する機会が多い。つまり長い間の好める運動として練習の機会が多い。著者が今回の大回(ママ)にア式蹴球の監督としてマニラに往復する途中親しく上海、香港に於ける彼等の愛好するフットボールについて見たのに、五六歳の小児から十七八歳の元気あふれる青年迄一所になって盛んに蹴って居る、...

山田は「日本代表」の最初のアウェー戦第5回極東大会(1921年上海)を選手として、文中にあるように第7回大会(1925年マニラ)を監督として経験するという当時として稀有の「国際経験」をもつ人物ですが、こうした国際的視野が少年サッカーの重要性に着目させたと明言していることは、注目すべきでしょう。また、小学生大会を開催したり、そのためのルールブックを作るというのは、小学生を実際に教えた経験のある師範学校OBの東京蹴球団ならではで、大学出の野津や竹腰のような人物にはできないことです。1/24付けで述べたように、FIFA加盟した1929年に大日本蹴球協会の主導権が師範OBから大学OBに移りますが、仮に師範系の人物が主導権を握って少年サッカーの振興をJFAの骨子としていたら...、と忠鉢氏の著作を読んで想像したりしてみましたが。随分遠回りしたんじゃないかという気もしますが、JFAが少年サッカーをバックアップし始めるのは野津会長、竹腰理事長の時代で、ある意味で皮肉です。
1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦に勝利した背景には、少年サッカーの普及があったことは否定できません。イレブンのうちの浜松三人組(加茂兄弟、堀江)が浜松師範附属小学校からサッカーを始め、浜松中、早稲田と一貫してサッカーを続けることができた「システム」がすでに存在していました。神戸なら御影師範附属小→ 神戸一中です。戦前の学制の方が、中等、高等教育とも在学期間が長かったので、6・3・3制よりもサッカー選手育成には適していたようです。


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(02/3/29)
東京蹴球団とサッカー・ジャーナリズム
東京蹴球団は青山、豊島両師範と東京高師OBによって1917年創立。創立メンバーの一人原島好文(『蹴球行進曲』の作詞者)の回想「ソッカー十年の思ひ出」(『運動界』v.10 no.4 1929.4 p.36-45)によれば、1918年創設の関東(中学)蹴球大会を始めとして「大会屋」と悪口を言われるほど各種大会を開催し、それらの後援を通じて新聞社との繋がりができます。

 蹴球戦記を書き始めたのは東京朝日新聞であったらう。第一回の関東蹴球大会までは、蹴球戦記が記事となって新聞紙に掲げられたことはなかったのを、兎に角数行或は十数行をそのために当て呉れた。「一進一退」「敵前出の虚を衝いて奇襲を試み」などの文句がその頃は屡用ひられたやうだ。私などもその筆法を真似てやたらに戦記や妄評を書きなぐった。私が始めて(ママ)稿料を戴いたのも此の「両軍技量伯仲にして一進一退」を並べた拙文であった。抗議の多少によって判断すると、私の駄文を最も注意して読んで呉れたのは当時帝大に居た新田君であった。近頃では各ティームが意を用ひてをられるのでうっかりとは筆も執れぬ。

大学サッカーが始まるのは1920年代なので、1910年代から20年代にかけてサッカー用語や規則に精通して記事を書けるのは東京蹴球団員以外は僅か(新田純興氏など)で、新聞以外でも『運動界』(1920年創刊)、『アスレチックス』(1922年創刊)、『アサヒスポーツ』(1923年創刊)のようなスポーツ総合誌のサッカー記事も、多くは東京蹴球団員が書いています。創立メンバーで1921年第1回全日本選手権(天皇杯の前身)優勝時の主将山田午郎(極東大会にも選手、監督として出場)は朝日新聞に正式入社し、運動部長になっています。山田は、個人技や戦術の巧拙とともに試合経過を具体的に記述した近代的サッカー報道の祖というべき人物で、私は、飛田穂洲の野球評論のスタイルをサッカーに導入して、サッカー評論のスタイルを確立したのが山田だと考えています。
朝日は、すでに戦前に、東京に山田、大阪に関西大学サッカー部を創部して極東大会にも出場した三宅次郎と、東西それぞれにサッカー出身記者を配置しています。


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(02/3/26)
極東大会と日本
『大日本体育協会史』(1936)の第六章「極東選手権競技会」の冒頭は、

 極東体育協会並びに極東選手権競技会の発達史は又比律賓体育協会史(P・A・A・F)の延長であり発達史である。

とあり、フィリピン協会の成立から第1回極東大会までの沿革を述べた後、

 然しながら此の綜合団体の競技会は古い儀式であるカーニバルを中心とし一九〇九年二月の同祭より挙行された諸競技を新らたに管理したものであるが、アメリカ主義の首脳者たちは総督Forbesの文化政策と共にP・A・A・Fの競技会をして極東に於ける権威あるものたらしめ、延いては比島がその主権を獲得することを目論んだ。これには競技自体に対する優越性と共に基督教伝道の任務もあったことは否定できない。

とも述べています。当初日本(の体協)は極東大会に対して、フィリピンの優越性を誇示するアメリカの植民地政策およびキリスト教伝道の手段ではないかと疑義をもっており、また国内的な事情としては、すでにIOCに加盟している上、財政難ということで、参加には消極的で、第1回(1913年マニラ)、第2回(1915年上海)には正式参加せず、第3回(1917年東京)から参加します。
ところが、第4回(1919年マニラ)では開催時期(5月開催を学生が多いので8月にしてほしいと日本が要望したが、フィリピンと中国は拒否)をめぐって対立し、体協は極東体育協会を脱退してしまいます。大阪にあった体協西部支部は日本青年運動倶楽部を結成し、大阪財界(住友家、阪神、阪急など)や新聞社(大阪朝日、大阪毎日)の援助で、フィリピン、中国の承認を得て正式参加します。
この点に関して同書(p.40)は、

 ...当時体協自体の立場としては会長嘉納治五郎は国際オリムピック大会参加に主力を注ぐことを希望し、比支に依って創設された此大会に参加することに物足らなさを感じてをり又他方には実際問題として本会の財政状態が未だ整調せず、且つ大戦後の日本経済界の恐慌は此の年の極東大会と明年の第七回国際オリムピック大会とに二重に出資を求むるには成算が無かったのである。

と述べていますが、国際経験を求める選手の立場を全く無視したもので、世論の批判を受け、1921年嘉納は辞任して名誉会長に退き、岸清一が会長に就任します。日本青年運動倶楽部とは同年1月31日覚書を締結して和解し、第5回(1921年上海)には初めて国庫からの交付金を得て参加します。関西に借りのできた形の体協は第6回(1923年)大会を大阪で開催します。
以上のように1921年2月朝鮮が参加申請した当時日本の体協は極東体育協会を脱退したままになっており、その間隙をついたとしたら、朝鮮の関係者の手腕はたいしたものだといわざるをえません。


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(02/3/24)
極東大会と植民地朝鮮
『日本体育協会五十年史』(1963)に極東大会出場全選手のリストがありますが、朝鮮人の出場は種目によって差があり、ボクシングや陸上のような個人種目では出場が比較的多く、サッカーやバスケット(ベルリン・オリンピックで朝鮮人選手が出場した)は皆無です。
1920年に朝鮮体育会が結成されているので、1921年に極東大会参加申請したのは当然関連があるはずです。1919年に三・一独立運動があり、1921年当時植民地朝鮮は民族ナショナリズムの高揚期だったはずです。


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(02/3/19)
『極東オリンピックの政治学』(1998)
という資料を見つけました。著者は孫安石、富士ゼロックス小林節太郎記念基金発行。いわゆる極東大会(極東オリンピック、極東選手権、英語名は第1回はThe Far Eastern Olympics Games、第2回以降はThe Far Eastern Championship Games)を主として日中関係から考察したものです。当初開催のイニシアチブをとったのはフィリピン(当時はアメリカ領)で、第1回(1913年)はマニラ開催、。当初の参加国・地域はフィリピン、中国(中華民国)、日本で1930年以降にフランス領インドシナやオランダ領東インドも参加する。注目すべきは、1921年第5回上海大会に植民地朝鮮が参加を申請していることです。

 1921年の上海の極東オリンピックと政治との関連を象徴するもう一つの出来事は、植民地朝鮮が極東オリンピックへの参加を申請し、その可否をめぐって中国国内で活発な議論が行われたことであろう。そもそも、植民地朝鮮が極東オリンピックへの参加を表明したのは、1921年2月のことであるが、極東オリンピック事務局は「どこの国の人々であるかに関らず、大会に参加することができるが、植民地朝鮮の選手は日本国選手の名義を使うこと、別の「国名」を上げることはできない」という議決を通過させた。

結局「朝鮮代表」はオープン競技(万国競技)8種目参加。開催地中国でもフィリピンが参加できて、朝鮮が参加できないのはおかしい、という論調が地元紙『民国日報』に載ったとのこと。もちろん、それには日本の意向が働いたはずです。
極東大会サッカー日本代表に植民地朝鮮から選抜された実績がないのが不思議でしたが、本来ならフィリピン同様独立国でなくとも、朝鮮代表として出場できるはずなのに、何も「日の丸」つけてまで、と考えたのかもしれません。私は極東大会での実績がないことが、べルリン・オリンピックでの朝鮮人代表数に関係したと考えていたのですが、そもそも植民地朝鮮にとって極東大会とはどのような位置づけだったのか、というのがまるでわかっていません。
残念ながら日韓サッカー史を著した大島、庚両氏の著作でも、朝鮮と極東大会の関りについては言及されていません。朝鮮側は極東大会をどう位置づけていたか、また日本は「朝鮮独立」的な運動をどう封じ込めたのか、謎は増えるばかりです。


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