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2002年1月7日~2002年3月14日

(02/3/14)
D. Jackの『Soccer』(1934)
は当日誌01/10/7付けで紹介していますが、このWMシステムの解説書を竹腰はベルリン・オリンピック前に読んでおり、「我々がDavid Jackの“Soccer”なる本で朧ろ気に概念的に掴むに過ぎず伯林到着後始めて実戦に使ったのに較ぶれば習熟の度合に於て雲泥の差と云はなければならなかった。」(「オリムピックの成果(一)」『蹴球』1937年5月号所収)と述べています。
1935年の『蹴球』ではCharles Buchanの『Football aids』(1926)の翻訳と本書の紹介が同時に掲載されていますが、前者はピラミッド・システム、後者はWMシステムの解説書で、新旧両システムが並行輸入されていたことになります。両書の著者はいずれもアーセナルのLI(1928年に入れ替わった)なんですが、両書が出版された8年の間に“戦術革命” があったわけです。Jackはウエンブレー最初のゴール(ホワイト・ホース・ファイナルとして有名な1923年のFA杯決勝開始後3分にゴール)を記録した人物でイングランド代表主将、ボルトンからアーセナルに史上最初の1万ポンド以上の移籍金で移籍した人物です。


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(02/3/8)
市田左右一
はFIFA理事で、W杯スウェーデン大会(1958年)とチリ大会(1962年)を観戦しています。郵趣関係で著名な人物で著書も数冊あります。本業は製鉄技術者で日本特殊形鋼会長。スウェーデン大会と同年に『裸の国と闘牛』(池田書店、1958)という、アメリカ、メキシコの紀行文を著していますが、サッカーには触れていません。著者略歴は以下のとおり。

 若くして父幸四郎の切手蒐集を継いだが、大部分売り飛ばす。しかし、これを骨子として各国十九世紀切手蒐集に努力する。職業は製鉄技師、争議で尼鋼を馘になり、目下水素製鉄を研究中。木下商店顧問。日本蹴球協会常任理事。全日本郵趣連盟理事長。戦後、製鉄技術研究と趣味の涵養のため数回欧米に遊ぶ。ロイヤル・フィラテリック協会会員。工学博士。

手島志郎氏の広島高校の後輩で、『イレブン』1983年1月号収載の氏の追悼文で賀川浩氏は「第三回アジア大会から東京五輪のころ、FIFA委員だった国際人・市田左右一博士のおかげで日本サッカー界の視野は大いに広がったが、広高時代の後輩・ドクター市田をサッカー界に押し込んだのは手島さんだった。」と述べています。


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(02/3/7)
サムライ竹腰
竹腰重丸は尾張藩付家老竹腰氏と関係があるのかという質問をいただきましたが、明治後男爵家になったこの竹腰家の直系でないことは戦前の華族譜で確認できます。臼杵の出身とのことなので、臼杵藩(藩主稲葉氏は竹腰氏同様美濃の土豪出身)時代を臼杵市史で調べましたが、少なくとも重臣には竹腰姓の者はいませんでした。臼杵市の電話帳でも竹腰姓の人はいないので、臼杵で長く続いた家柄ではないようです。ですが、彼のサムライぶりは有名で、岡野俊一郎は「サッカーの英雄たち クラーマー・コーチの残心と竹腰さんの“短刀”について」(『文藝春秋』1966年11月号所収)で次のように述べています。

 当時は極東オリンピックが最大の国際試合であったが、ノコさんは早くから代表選手に選ばれ、少したつとコーチをも兼ねるようになった。極東オリンピックの選手合宿の時、ノコさんが常に白鞘の短刀を持っていたことは有名である。ノコさんに言わせれば、
「当時は選手選考等で複雑な問題があったし、自分も若くして責任のある役を引受けていたので、もし自分のやったことが間違っていたら腹を切るつもりで短刀をもっていただけで、それでだらしのない選手をおどろかそうなどという考えはもっていなかったよ。しかし、短刀をもっているということが、誰からとなく選手に知れた後、確かに選手の気持が引き締まって来たのも事実だ。要は、人間が或ることを必ずやり抜こうと決意すれば、その仲間を一緒に引張って行くことは可能だということだ」
ということだが、現在の若い選手には一寸理解しにくい、一種の神話になってしまっている。

文中の極東オリンピックは1934年第10回マニラ大会のはずで、竹腰は28歳で代表監督を務めています。


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(02/3/2)
「幻のプロサッカー秘話」
と題するエッセイを日立のサッカー選手だった松永碩が『イレブン』1979年11月号に寄稿しています。1949年10月に後楽園競輪場ができた直後、松永は正力松太郎に呼び出され、以下のように言われたとのこと。

 「実はね、サッカーのプロ・チームをきみにつくってもらおうと思って呼んだんだよ。日本の野球は読売巨人軍を中心にどんどん栄えていく。だが、野球は世界的なものではない。世界に輝くプロ・サッカーをそだてるのが、このわしの願いなんだ」
 正力さんは、一気にこういうと目を輝かせて私の返事を待った。
 正力さんの構想によると、氏の肝煎りでできた後楽園の競輪場の開催の合間を利用して、プロのサッカー試合を行なう。そして、そのサッカー試合にトトカルチョを導入しようというものだった。

松永はプロをやる気はないと断ったが、日本最強チームを作ることには合意し、その後の経緯を次のように述べています。

 チーム名を“東京クラブ”とし、メンバーには香港からきていたマクドナルド(GK)、大埜(日産化学)、鈴木(立教大出)、山口(明治大出)などが中心だったと思う。
 このメンバーで第一回都市対抗(読売新聞社主催)に臨んだ。もちろん、向うところ敵なしの優勝だった。だが、プロを前提とする秘密のチームだけにそれを感じていたサッカー関係者の牽制や中傷も多かったのも事実だった。それに“団結”の基盤も脆弱だった。
 数年後、正力さんの夢も空しく、最強“東京クラブ”はあえなく空中分解してしまった。

1969年創立の読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)以前に、名称に「東京」のつくプロ指向のチームがあったわけです。ヨーロッパには「Racing」という名のクラブがあったはずですが、競輪場をホームにしてトトカルチョとは、車券売り場をトトカルチョ売り場に活用するというアイデアでしょうか。


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(02/2/27)
大連一中時代の竹腰重丸
自らを語ることの少なかった竹腰ですが、実は大連一中校友会会長でもあり、創立55周年記念誌『柳緑花紅』(大連一中校友会、1973)に「進于技 今井、高野両先生と私の座右銘」という回想文を寄稿しています。それによると、大正8(1919)年父親の転地療養に伴って大分県臼杵中学から2年編入し、2年半在学(4年修了で山口高校に進学)しています。温暖な臼杵から大連に転地療養とは不可解ですが、他にも理由があったのかもしれません。竹腰は同校2回生で、石川姓の従兄弟が1年上にいたそうです。サッカーに関しては、次のように述べています。

 転校後にはじめて知ったフットボールについては初めの一年間程度は競技規則を知らないことや技術拙劣を仲間に責められることに対抗して上達に心掛けていたが上達につれて面白さを増し体操の時間や課外運動での競技では満足できなくなって、独りでもボールをもてあそぶ様になり、四年の秋頃にはマニアと云うに近い程度に至っていた。下校中の校長服部先生に「早く帰宅しないと両親に心配をかけますよ」と注意されたのもその頃のことであった。その頃は一般的には校外試合は許されなかったが、フットボールについては例外として「大連外人」(欧州人)とのゲームが許され、上級生(一回生)に伍して試合をしたこともあって相当のマニアになりかけて居た。

また、教員山本芳松の回想「思い出の箇条書」には、

 大連港に欧米の外国船が入港してくる度にサッカーを申し込まれ、伏見台のグラウンドで度々国際試合一手引受校となった当時竹腰重丸君はF、Wで今日も日本の重鎮である。

と述べられています。


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(02/2/26)
日本最初のセリエA観戦記
をベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三が「欧州の蹴球」『蹴球』v.4 no.6 1936.12 p.26-40に書いています。オリンピック終了後、選手団はヨーロッパ各地を見学し、サッカー・シーズン開始直前の8月28日マルセイユから帰国しますが、その後もコーチの竹腰重丸と役員の田辺五兵衛はイングランド・リーグを、竹内はセリエAを観戦しています。観戦したカードは9月13日ミラノでのアンブロシアーナ(現インテル)対トリエスティーナ(現在はセリエC1)。前シーズンの順位は4位、6位。1936年のイタリアはW杯連覇(1934年、1938年)の中間年で、ベルリン・オリンピック優勝。フランコ・チェッレッティ著『アズーリの歴史』(勁文社,2000)によれば代表チームは当時W杯不参加のイングランドとは1934年(ロンドン)で2-3、1939年(ミラノ)で2-2とほぼ互角の成績を残しています。同書によれば、オリンピック代表はセリエBのアマチュア選抜だったとのこと。
竹内はまず、オリンピックで対戦したフロシー(RW)とルカテリー(LH)がアンブロシアーナの一員であることに不審を抱いています(イタリア代表にプロが混じっていたという文献を散見しますが、おそらくこの竹内の報告によるものだと思われます。オリンピック終了後にプロ入りしてれば問題はないわけですが)。体格が良いこと、プレーがキビキビして力強いことに驚き、「二重、三重のコンビネーション水も漏らさぬと言った感じです。キックは不用には高く上げず、ロングパスとショートパスを巧く交へ概してロングパスで攻めていました。」と書いていますが、現在のセリエAの感想としてもおかしくないですね。「両軍ともツーバックで、サイドハーフはピッタリと両ウイングをマークしてゐました。それ故に守備の布陣は両SHが開いて或る場合にはFBと共に四人一列に並び敵のセンタースリーはCHと後退せる両インサイドの三人及後に二人のFBが控へて守るといふ形が多く取られました。」とも述べていて、4バックに近い守備的な布陣も現在と共通する部分がありそうです。結果はアウェーのトリエスティーナが2-1で勝ちました。


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(02/2/22)
80年代創刊のサッカー雑誌を採録誌に加えました
『サッカー・ダイジェスト』、『サッカー・ジャーナル』、『Sports graphic number』をW杯関係邦文文献目録の採録誌に加えました。ただし、『サッカー・ダイジェスト』は欠号が多く、きちんと採録できていません。早稲田大学所沢図書館がバックナンバーを揃えているようですが。『Football』誌が日本サッカー狂会会員に対して行ったアンケート調査(1981年11月)によれば、鈴木良韶氏は「継続的購読のサッカー専門誌」の項で「1・サッカーマガジン(創刊直前号から) 2.イレブン(創刊号から) 3.サッカーダイジェスト(創刊号から) 4.(日本協会の)サッカー(二号=昭和三十四年から。なお、戦前の「蹴球」一号=昭和六年から十七冊所持)、と答えられています。


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(02/2/17)
『蹴球』誌昭和10(1935)年4月号の巻頭言
は以下のようになっています。

 三月七日、大日本蹴球協会理事会は、明年八月二日から二週間に亘って伯林に於て挙行される世界オリンピック大会に我代表軍を派遣すべき決議をした。...
 我々は昨年の極東大会に失敗してゐる。古来戦勝の要訣として、「天の時、地の利、人の和」と云ふ事が云はれてゐる。昨年の失敗は正しくこれらの要訣のいづれも缺いてゐたからに外ならぬ。
 来年こそは、主観的にも客観的にも昨年の如き愚を繰り返しへしはしないし又繰り返へされることもないだらう。...

と「人の和」を欠いた極東大会の失敗を二度と繰り返さない決意が述べられています。このことがベルリンの代表選考に影響し、早稲田主体のチーム編成になりました。
続けて4月から6月にかけて第1回全日本綜合選手権大会を開催することが記されており、

 この大会に優勝したテイームは今年七八月に行はれる対満州国々際定期戦に日本代表軍として派遣され、又明年の伯林大会への派遣テイームとしての最も有力な候補者となる。

と結ばれています。この最後の部分は完全なフライングで、この段階では正式参加も未決定で、もちろん代表候補選考委員会の設置およびそのメンバーも決まっていません。結局この選手権は京城蹴球団が優勝しますが、朝鮮側から見れば、天下の大日本蹴球協会機関誌の巻頭言が食言だったことになり、選考に民族差別があったという証拠の一つにあげることができるでしょう。なお、大島裕史著『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、1996)、康奉雄著『知られざる日韓サッカー激闘史』(廣済堂出版,1998)の両書ともこの巻頭言には言及していません。


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(02/2/11)
『蹴球』誌掲載ベルリン・オリンピック選考経過
をアップしました。日本サッカー史のみならず、韓国サッカー史においても重要文献だとおもわれます。解説も加えていきたいと考えています。


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(02/2/4)
ベルリン・オリンピック代表選考は民族差別?
年末年始のシリーズで述べたとおり、代表候補選手は関東関西から出た選考委員会で調整がつかず、関東側により3月10日(『日本蹴球外史』では4月15日だが、これは最終選考)に発表されます。候補選手25名の内訳は(カッコ内は最終的な代表数)、

早稲田12(10)、東大4(3)、慶応4(1)、文理1(1)、関大1(0)、神戸高商1(0)、普成専門1(1)、崇実専門1(0)

地域別だと、関東21(15)、関西2(0)、朝鮮2(1)になります。オリンピック前年の全国地域代表による選手権に京城蹴球団が2連勝し、オリピック同年1月の全関西対全関東戦で全関西が勝ったにもかかわらず、関西、朝鮮が軽視されており、実際に軋轢があったことは以前に述べたとおり。関西の2名と朝鮮の1名(金永根)は最終選考前に代表候補を辞退しています。
これは、一面からみれば、大島裕史氏が『日韓キックオフ伝説』中で「いずれにしても、当時の状況から推測すれば、大日本蹴球協会においてなのか、それよりも、もっと上のレベルにおいての話なのかははっきりしないが、この選考においても、朝鮮人に対する何らかの差別もしくは排除の意識が働いていたものと思われる。」と述べているのにも、うがちすぎではという疑問符がつくことに。一発勝負のトーナメント戦や対抗戦よりも当時十分発展していたリーグ戦の戦績を重視したのは当然で、2年前の極東大会で東西五分の混成チームを組んで惨敗した経験から、早稲田を軸に弱点を他から補強する、というのが当初からの選考方針であったと思われます。これを朝鮮差別というなら、関西(あるいは関東以外のすべての地域)も差別されたことになってしまうのでは。当時の流れから見て、早稲田以外からは日本のチームでも大勢代表入りすることはありえず、意図的に朝鮮人を排除した痕跡はありません。
大島氏の著作は朝鮮対内地の対立という観点からのみ考察されており、関西対関東の対立や極東大会の結果がベルリンの選考にどのような影響を与えたかが欠落しています。これは大島氏の責任というよりは、前にも述べたように『日本サッカーのあゆみ』(日本サッカーの「正史」なので大島氏も頻繁に参照している)がことさらこの部分に触れないように編纂されたためです。事実をキチンと記述しなかったために、「ベルリンの選考=朝鮮人差別」というのが「定説」になってしまうのも、いかがなものかと考えます。


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(02/1/31)
武士と商人
竹腰重丸が夜中に武家出身の母親の遺品の真剣を見て精神統一していたのは有名なエピソードですが、新田純興の祖父も将軍家直参で「殿様」と呼ばれる身分だったとのこと。竹腰や新田の世代だと祖父の代は本物の侍で、新田家では沢庵は二切れづつ取る(一切れは「人切れ」、三切れは「身切れ」に通ずる)というような武家の作法が日常の挙措に生きていたそうです。こうした武家文化的環境下で育った人物が、ベルリン・オリンピック代表選考のような昔のゴタゴタを「恥」と考え、「黙して語らず」という態度に終始したとしても不思議ではありません。
一方、田辺五兵衛(田辺家は江戸時代から続く道修町の薬種商)や川本泰三は大阪の商人文化的環境下で育った人物であり、頼まれれば本音で語るのは、サービス精神旺盛な大阪人として、これまた当然な態度であったともいえましょう。
ベルリン・オリンピック代表選考過程については、田辺や川本のような関西側から証言があり、東京側からない(私が知らないだけかもしれませんが)のは、1)関西側に恨みが残った、2)関西側がフリーな立場だったのに、東京側は協会の要職に就いていた人がいた、以外に、3)現在よりずっと大きかったはずの武士と商人という東西の文化的差異が影響したのかもしれない、と『埋み火はまた燃える』を読んで考えました。

『蹴球行進曲』(原島好文作詞、大塚楠男作曲、1939年)のメロディ・ラインを 日本代表ワールドカップ挑戦の記録というサイトのBGMで聞くことができます。歌詞と楽譜は『日本サッカーのあゆみ』p.103にあります。


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(02/1/29)
新田純興氏の伝記
新田純興氏(1897~1984)は大日本蹴球協会創立時から協会に関係し、『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂の中心となった人物です。氏の長男新田純弘氏の著書『埋み火はまた燃える 新田一族銘々伝』(さきたま出版会,2000)のp.278-291が純興氏の伝記です。新田家は新田義貞の末裔だそうです。古河市のサッカーは戦後古河一高にサッカー部を創設した純興氏に始まるとのこと。なお、純弘氏はW杯イングランド大会(1966年)を観戦した数少ない日本人の一人で、『サッカー』誌に観戦記を書いています(W杯関係邦文文献目録参照)。


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(02/1/24)
JFAの“クーデター”(2)
昭和2(1927)年上海で開催された極東大会対フィリピン戦で国際試合に初勝利、昭和4(1929)年FIFA加盟、昭和5(1930)年東京で開催された極東大会には初優勝しますが、その原動力となったのは鈴木重義(早稲田)や竹腰重丸(東大)のような大学生(またはそのOB)です。たとえば、昭和5年の極東大会対中国戦のイレブンは東大8、早稲田1、関学2名であり、日本代表=大学選抜チームになっています。こうした事実を背景に、昭和4(1929)年の大日本蹴球協会の理事改選に際して、大学勢による意図的な協会支配が図られたことが、「日本のサッカー古代史(下)」(『サッカー』no.15 1962所収)という座談会で語られています。

新田(純興):「このあと協会の改造がありますね。日本サッカーは高等師範や青山、豊島の師範系の人がリードして来たんだが、大学の関係者が理事に多数送りこまれるようになっている。」
鈴木(重義):「昭和四年の改選だね。今や日本のサッカーが国際蹴球連盟(FIFA)に加盟して世界的に伸びるためには、ぜひとも大学の連中が出なければいかん。大学系の人たちが基幹となって全国的にまとめていこうといううんでやったんですよ。」
野村(正二郎):「僕らはそのころのことしか知らないんだ。今までの古代史はどうもネ(笑い)」
鈴木:「それで各大学の主だった人々が私の家に集まって、どうも協会はこのままではいかん。大改造をするか、つぶしてしまうかという動きが出ましてネ。私が遅く家に帰ると私の家は各大学の主だった人がもういっぱいに集まっていて今度の(昭和四年)改選期にはぜひ何とかしたいと協議中だった。そのころ大学出で協会の役員をしていたのは野津さん、岸本武夫さん、慶応の千野正人さんと僕。それが並び大名的存在だった地方代表の理事にも呼びかけて、従来のような白紙委任や、前回通りという投票ではなく、新らたに堂々と投票してもらいたいという運動をやったんだ。理事会の席上での野津さんとのチームワークも成功して、われわれの提案が採用された。その結果われわれの申し合わせた人達は最下点ではあったが、とにかく理事に就任した。その顔振れは、中島道雄、井染道夫、峯岸春雄、竹腰重丸の四人だった。その時の最高点は山田の午郎さん。」
新田:「しかも一年ばかりすると、その午郎さんを、運動部担当の新聞記者を理事にしておくのは具合が悪いといって辞めてもらったりしている。他の理事が辞めた時に例をみない記念品贈呈なんかをやってるところをみると、よっぽど苦心したんだネ。(笑い)」

中島、竹越は東大、井染は明大、峯岸は農大OB,山田は青山師範OBで朝日新聞記者。この座談会の司会は牛木素吉郎氏。歴代天皇杯(全日本選手権)優勝チームや国際試合の日本代表の構成をみれば、日本サッカーの主流は1)高等師範・師範(戦後すべて大学になった)→2)大学→3)社会人→4)プロ、と替わっていることがわかりますが、JFAの役員人事もそれを反映しているといえそうです。


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(02/1/23)
JFAの“クーデター”(1)
1/21付けの70年代の11大ニュースの中に「日本サッカー協会のクーデター」がありますが、その書き出しは、

 「一九七六年四月二日の日本サッカー協会評議員会で、日本サッカーの総元締めである日本サッカー協会に“政変”があった。
 野津謙会長、小野卓爾専務理事に代わって財界から平井富三郎会長が就任、日本代表チームの監督をやめた長沼健氏が専務理事になった。
 この役員交代は一種のクーデターであり、戦前派の旧勢力から、戦後派の若手が権力を奪った形だった。
 また、一九二一年の大日本蹴球協会誕生以来、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心の協会が、日本リーグを中心とする社会人チームの関係者の手に移ったものと、みることもできる。」

以下その説明が続きますが、牛木は、小野をクラマー氏の提言したサッカー界の近代化、民主化への「旧体制派」(最近の言葉でいうと“抵抗勢力”ですね)とみなしており、長沼、平木らコーチ出身者が「たまりかねて旧体制打破に立ち上がったのが、この政変だった」と書いています。
それはともかく、サッカー界の主流が大学から社会人に代わったことがこの人事に反映している、と指摘している点が興味深いですね。実は、大学の前に高等師範・師範が中心だった時代があり、昭和4(1929)年にもやはり “クーデター”があったという文献があるのですが、その紹介は次回に。

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(02/1/22)
幻の竹腰重丸伝
本日誌で何度もとりあげているように、竹腰重丸は日本サッカー史上のキー・パーソンで、伝記がないのが不思議なくらいの人物です。実際に伝記刊行の計画があったことを牛木素吉郎氏が『サッカー・マガジン』1980年12月10日号のコラム「ビバ!!サッカー!!」に書いています。

「...竹腰さんは、自分の持っていたサッカーの写真のほとんど全部を五年ほど前に、サッカー・マガジンの当時の編集長だった堀内征一氏(現ベースボール・マガジン社出版局長)に預けた。
 「自分に万一のことがあったとき日本のサッカー史にとって貴重なものになるかもしれない写真が散りぢりになってはいけない」という気持だったと思う。
 その話を聞いて、ぼくは堀内氏といっしょに、駒込の竹腰さんの自宅に、おうかがいして「日本のサッカーの歴史に残るように、竹腰さんにぜひとも本を一冊書いていただきたい」と、お願いしたことがある。その本の中で、貴重な写真も印刷して残しておきたい、というつもりだった。
 ベストセラーになるような性質の本ではないから、商業出版が無理だったら、東大OBやサッカー関係者の寄付を集めて、私費出版してもいいと考えていた。
 手はじめに「本郷の旅館の一室でも借りて、写真を部屋いっぱいに並べて分類しようや」と話していたのだが、ノコさんが病に倒れたので、回復したら、すぐ始めようと思いながら、そのままになってしまった。
 いまからでも、貴重な資料や写真を集めて、その業績を後世に残すようにしなければならないと思うが、生前にできなかったことが悔やまれてならない。」

これが実現していてくれてたら、日本サッカー史の必読文献になっていたはずですが。ひょっとしたら、写真はまだベースボール・マガジン社かどこかに残っているのかも。

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(02/1/21)
1970年代の11大ニュース
1/17付けで参照した牛木素吉郎による1970年代の11大ニュースとは、1)杉山、釜本が代表チームから退く、2)日本代表、4度の予選に勝てず、3)日本サッカー協会のクーデター、4)天皇杯の改革-オープン制に、5)日本リーグの行きづまり、6)奥寺康彦選手のプロ入り、7)読売クラブの登場、8)高校選手権大会のブーム、9)国際交流の拡大、10)ペレ・サヨナラ・ゲームの成功、11)ワールドカップのテレビ中継。
9)をJFAコーチング・スクールの開始にしてもよかったかも。3)のクーデターとは穏やかではありませんが、これについては後日また。10)はひとつの転機で、約8千万円といわれていたJFAの債務を解消し、大手広告代理店(このときは電通)との提携が始まり、商業化が一段と進みます。


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(02/1/20)
Dixie Deanの死
『サッカー・マガジン』1980年4月25日号に元エバートンの名CFデキシー・ディーンの死亡記事が載っています。彼は1925年のルール改正後のゴール・ゲッター黄金時代の象徴的存在で1927-8年度リーグ戦39試合(記事では29試合になってるがこれは誤り)で60ゴールという1シーズン最多得点の不滅の大記録保持者です。亡くなったのはなんとエバートンの本拠グッディソン・パークで試合観戦中、しかも相手は因縁のリヴァプール・ダービー(Mersey Derby)のライバル、リヴァプール。死因は心臓発作で享年73歳。ベルリン・オリンピック後に竹越重丸と田辺五兵衛がロンドンのアーセナル戦で彼のプレーをナマで見ています。
エバートン・ファンが作っているToffeeWeb に伝記と記録があります。それによると、本名はWilliam Ralph Dean、Dixieというあだ名は彼の髪が黒人のような縮れ毛だったことに由来するとのことで、本人は嫌っていたとのこと。リーグ戦12試合連続ゴールというこれまた不滅の記録も持っています。ちなみに、エバートンの戦後の最多得点はリネカーの30ゴールで、戦後では傑出しています。昨年度のチーム最多得点はキャンベルの9ゴールです。


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(02/1/17)
日本サッカーの70年代
W杯関係邦文文献目録も1970年代が終わるところまでこぎつけましたが、1980年からは『サッカー・ダイジェスト』が加わるのでさらにペースダウンしそうです。1970年代は、代表はW杯、オリンピックとも予選敗退続き(もちろん80年代も)なんですが、一応『サッカー・マガジン』、『イレブン』の商業誌2誌があり、『マガジン』は月刊誌から隔週刊誌に刊行頻度が増え、その上本誌とは別の巻号をもつ(すなわち別雑誌である)『別冊サッカー・マガジン』も刊行されています。日本リーグ(JSL)も人気下降し、入場者数が激減しているのに、商業サッカー専門誌はそれなりにがんばっています。もちろん、その理由はサッカー人口の底辺拡大によるもので、高校選手権参加校は ’70年1,500校(高校野球は2,547校)から’78年3,050校(同3,074校)と70年代の間に高校サッカーは高校野球と少なくとも参加校数では肩を並べるに至ります。反面、日本リーグの総入場者数は’70の301,800人から’78の191,900人(’77は159,650人)と激減し、サッカー人気の急下降ぶりを示しています。(以上、数値は牛木素吉郎「70年代の日本サッカー11大ニュースを追う」『サッカー・マガジン』(1979年12月10日号)による)


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(02/1/12)
WMシステム
といっても私がサッカーを見始めたころはすでにトップ・チームは4-2-4から4-3-3が主流になっており、過去のシステムでした。何度も述べているように、WMシステムは1925年のオフサイド・ルール改正を受けてアーセナルのチャップマン監督が1920年代後半に始めたシステムで、FWをW形、バックスをM形に配したものです。それまでは2FB、3HB、5FWのシステムで、5FWはほぼ直線に布陣し、3HBの真ん中のCHは相手CFのマークから今で言うトップ下までをカバーするという驚異的な運動量と技能を要求されるポジションでした。竹腰重丸はこの時代の代表的な名CHでした。WMシステムはCHをFBに下げて相手CFマーク専門(ストッパー)にし、FWのうちインナー2人(昔のポジションをあらわす背番号システムでは8番と10番)をトップ下の位置に下げたものです。10番がトップ下の代名詞になったのはこのためです。CFには長身でしかもインナーが下がって空いたスペースを活用できるような特に優れた技能の持ち主が起用されるようになりました。
ところで昨日引用した竹腰の文章中に「後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナー」とありますが、これを見ると、オランダ領東インドはインナーをトップ下に置いていたようです。1934年頃にはWMシステムはヨーロッパ中に普及し(この年神戸一中が対戦したイタリアの軍艦チームは3バック・システムだったと大谷四郎が述べています)、オランダ領東インドは宗主国の影響で一足早く新システムを採用していたのかもしれません。戦前の日本ではWMシステムを3バック・システムとしてとらえ、FWの戦術をあまり重要視していないようにも思えますが、空いたスペースを活用できるようなCFは人材不足で、攻撃はゴール前の混戦に殺到するいわゆる百姓一揆的な戦法がとられたことによるのでしょう。


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(02/1/11)
戦術の転換期だった昭和9(1934)年極東大会
昭和5(1930)年極東大会初優勝、昭和11(1936)年ベルリン・オリンピック対スウェーデン戦勝利にはさまれて、戦績も1勝(対フィリピン)2敗(対中華民国、オランダ領東インド)とふるわなかった昭和9年の極東大会は『日本サッカーのあゆみ』でもほとんど無視されています。オランダ領東インドには1-7で惨敗していますが、この試合の戦術史的意義を当時代表監督だった竹腰重丸はその著書『サッカー』(旺文社、1956)で以下のように述べています。

 「昭和九年(一九三四年)五月、マニラでの第十回極東選手権競技大会における蘭領インド(現在は地域としてはインドネシア)との試合で大量七点を失ったが、これらの失点は蘭印がその長身のセンター・フォワードに後方から長蹴を送り、ボールの飛ぶ間に後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナーにヘッディングで軽く落し、そのレフト・インナーの強蹴で得点という簡単な経過をたどったのが過半であったが、これはそのセンター・フォワードを緊密にマークしない体制がそのようにさせたのであった。」

つまり、2FBシステムでマークが甘かったCFのポスト・プレーにやられたということで、この時点で2FBシステムの限界を露呈していたわけですね。ちなみに、オランダ領東インドは戦前東アジアからW杯本大会に出場した唯一の国(地域)です。


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(02/1/7)
新刊の日本サッカー史関連書2点
1)田中孝一著『サッカーの物語 一個のボールにも熱いドラマがある』(KKベストセラーズ,2001)。
著者の『GoaL』誌連載をまとめたもの。目次をあげると、「国立競技場物語」、「クラマーのコーチング・スクール」、「サッカーボール伝説」、「天皇杯変遷史」、「オペルのスポンサー戦略」、「冬の風物詩「全国高校選手権」」、「三菱ダイヤモンドサッカーの功績」、「イエローカード、レッドカード変遷史」、「メキシコ五輪予選リーグ・炎の韓国戦」、「キャノン、スポーツカメラNo.1への挑戦」、「名門・古河電工物語」、「幻の強豪校「東京朝鮮高校」」、「ジュビロ磐田スタジアムの秘密」、「アシックスの足跡と未来」、「一流プレーヤーの原点「フットサル」」、「日本最古のクラブチーム「東京蹴球団」」、「もう一つの国立競技場-西が丘競技場」。以上からわかるように、サッカー選手、チームだけでなく、競技場、用具とそのメーカー、スポンサーシップ、メディアなどサッカー(産業)の周辺に目配せをきかせたユニークなサッカー史です。東京蹴球団は今も続いているんですね。アストラ倶楽部や鯉城蹴球団はどうなんでしょうか。

2)賀川浩ほか著『サッカー日本代表世界への挑戦 1936-2002』(新紀元社,2002)。
その名のとおり日本代表のオリンピック・W杯(予選を含む)戦史。執筆者には『サッカーマガジン』コラムニストが顔を並べています。写真豊富。年末年始にかけて連載したベルリン・オリンピック代表選考に関しては賀川が、

 「早大が主力となったのは、個人的にも有能であったのと、極東大会での昭和5年の成功と昭和7年の東西混成チームの失敗からといえる。」

と4行ほど触れています。「極東大会での昭和5年の成功と昭和7年の東西混成チームの失敗」を知りたくて、『日本サッカーのあゆみ』を読んでもあまり得るところはないはずです。そのあたりを埋める必要が。本日購入したばかりなののでまだ少ししか読んでません。読了したらもう少し詳しく紹介を。

本日代休休日で秩父宮記念スポーツ図書館に行ったら14日まで休館とのこと。高校サッカー準決勝を観戦しましたが、中盤省略の国見と攻撃は片桐頼みの岐阜工が決勝へ進出。


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