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『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会(第3回)

『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)は戦前同校の第二期黄金時代に編纂された部史で、事実上の編纂者は河本春男。座談会はp.161-199に収録。


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昭和十年一月二十二日 於神戸日ノ出食堂

神戸一中蹴球倶楽部 第三回創立集会に於ける速記録


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範多氏:これから座談会を開きます。前に九月一日、大阪で十五、六名集まって戴きまして第二回座談会を開きましたが神戸の方のおかたがどうもお集り願へない方があった様でありますので、今日は神戸で第三回を開く訳であります。前に規約を拵へまして、大体其の時に御出席下さいました方々は御賛成を得ましたので御座居ますが、今夜尚ここに御出席の方に重ねて御承認願いたいと思ひます。幹事も大体前決めましたのでござゐましたが、之も一つ御意見を伺ふなり御承認を願ふ様致したいと思ひます。之は後に致しまして、昔話しから座談的に思ひ出されたままを御話し願ひましたら結構だと思ひます、相川さん一つ御願ひ致します。

相川氏:大阪では私より前の人で同様の事をお話したろうと思ひますけれども・・・。大体中学校の昼の休み時間があまり短時間で野球は一般に出来ず、冬の遊戯として何もないから、フットボールでも蹴ろうじゃないかといふ事を思ひついて、多分大正の初め位から之を始めたと記憶して居ります。一個乃至二個のボールを持ち出して誰彼なしに蹴り上げたのが初めで、愈々それではやらうといふので、英国人のアーガル先生が見えて、大正三年の一月だったか二月だったかから始めたので・・・大正三年冬、其の十五回卒業生から始めて各学年チームを作って先づ校内試合をやったものであります。まあ大抵のルールを教へてもらって、兎に角クラスマッチといふ事から始めた、神戸では其の時代やってゐたのは御影師範を除いては他には相手がないので、僅か外人倶楽部の第二選手の連中を頼んで練習試合をやって貰った事があります。そういふ具合で極めて幼稚なものでありました。丸いボールを蹴るといふのをやって居た訳で、三年にはそういふ事で校内試合迄に止どまった。成績は当時四年級が一番よかったのであります、記念撮影もあります。それから後大正四年になりまして全校で始めてチームを作りました。其の時には広島一中ともやったと思ひます。そうして皆成績は負け続けの方で一度も勝った事はありません。先般の会合でも大阪で三宅君が話した様で御影師範は年中やってゐたものですが正式に教はったものでなく、自分等の意見ばかりでやって居ったのであります。ルールも、オフサイドなしとしてやった、我々は正式に英人が教えて呉れたものですから、オフサイドも用ひてやった。御影に行った時はオフサイドなしでやったので勝手が違ふ、御影のグラウンドでやった時、抽籤をやったのですが、御影の方が北側に、我々は南側で、キックオフし、風上に向ってやったので条件が悪かったのです、多分一対零だったか二対零だかで負けました。其の時フルバックに居た若林信三でした[ママ]。先生背負ひ投げをしたのです、こちらの応援に御影へ行ったのが十名か、二十名足らずで、向ふは寄宿生全部出て来た、それだもんだから君が悪い。こうなると応援団が承知しない、撃剣、柔道のモサ連が「蹴飛ばせ」「殺ろせ」の乱暴な応援です。其の時は向ふの奴は脛を蹴ったりして、ルールが違ふし勝手が悪かった。背負ひ投げで試合は中止になる。あいつ殺せと云ふ事になって、先生は青くなった、どうやら話が着いて、一対零か二対零で試合が済んだ、其の記録は私共の失敗の記録であって、記念写真に書いてあったのだが、それを失ってしまって蹴球部に対して申訳がありません。三宅君の云ってゐる点と話は大同小異で殆んど合って居ります、今かう考へましたら頗る幼稚なものです。私はそれから卒業して直ぐ京都の同志社に行きました。現在のラグビーフットボールの本家、それに行くなり、アソシエーションの方からラグビーに変りました、京師と同志社と、京都一中とこの三者覇を構へてやって居た。専門部は同志社の中で稽古をよくやってゐた。そこに行って初めてフットボールらしいものをやった。その後神戸一中の蹴球部が盛になって、関西はをろか、日本一の光栄あるチームになったのは、我々の無上の喜びで前途を祝福してゐる次第であります。私は小さい仕事に携はって居る関係上今日迄考へつつ、応援の機会も度々あったのですが、私が転業したりして、そう云ふ事の為めに十分尽されなかったのでありますが今後は自分も同志を誘ひまして、この部に尽して見たいと思ひます。そういふ様な事で初めは話にならない様な幼稚なもので御座いました。

範多氏:第一回の試合は。

相川氏:クリケットです。エリオン兄貴が向ふのウイングで、こいつのコーナーキックにかかったら叶はんね、コーナーから真直に行くやつで、上に蹴り上った奴が這入って来るからどうする事も出来ない。コーナーキックにかかったら点数にならない事なしです。一番初めに私が二点採った。私がレフトインナーでゴールの近くに居て左の足で止めて右で蹴り込んで二点採った。兎に角教えて貰ってゐたのだから勝てる筈はない。昔のフットボールは毛唐の話を聞いても、上海と横浜でやってゐるのは乱暴でして補欠は勿論許しませんから怪我しても其の足を包帯せずに完全の方を包帯する。それを目掛けて蹴りに来るのです。そして一人でも勢力を弱くする。そう云ふ試合で足を怪我して居る奴はうまくカモフラージュせんと試合が出来ません。そう云ふ事をよく聞かされたものです。

河本氏:其の当時は別に戦法といふものは考へなかったですか?

相川氏:敵の虚を突くのですけれどもパスが違ふしね、こちらの足は届かず足からはすぐとられてしまふしね。漸く試合が出来るといふ程度で、元気一杯でやって居ると云ふだけのものでした。

河本氏:一般のチームはどういふ戦法を取ったですか?

相川氏:幼稚ですね、兵庫県で一番有力なチームがオフサイドなしだといふ事で御想像がつくと思ひます。レフェリーに教はりながら敵の虚を突くだけの事なんです。ウイングに持って行き真中で虚を突く。どこといふ事なくして・・・どうして行こうかといふのでなくして・・・。比較的有用に其の時重んじたのはハーフバックですね、攻守とも之が努めた。相当キックのきつい者がそれになった。ハーフバックといふのは野球のショート級に類似するものでずっと重く考へた。私の時は三宅君がキャプテンをしました。矢張り先生が全部やってゐて兎に角今から考へると隔世の感があります。私が卒業して全然問題にならぬと思ふ程違って居ります。出来初めだからまだ仕合が出来たのが良い位でして、一点とか二点とかあげれば試合としては良い出来です。

範多氏:第一回の試合といふのが大正二年の冬ですか? 大正三年一月に二回やったのですね。

相川氏:それは校内試合では、校内で一年から五年迄皆チームを作って決勝試合をして四年級が一番強かったのです。何程しても四年級には勝てなかった。

範多氏:外とやったのは大正三年の秋から年末になるのですね。

相川氏:三年の冬から四年に掛けてやったのです。其の手初めにクリケットと二回ばかりやって貰った。それはセコにやって貰った。子供ですから本選手とやらせてくれません。本選手は居るのですけれどもセコといふ名義でやって貰った。写真で御覧になる様に制服は白ズボンを半ズボンにして其の侭でやったのです。こういふ派手な(滑稽に)格構でやって居たのです。別に新らしく作った訳ではなく全部夏服で作って半分切った。(写真参照)

範多氏:夏のズボンを二つに切ったのですが今の選手は学校で拵えて与えるのですね。

相川氏:勿論マークなどはなしです。それからまだひどかったのは、フットボールの靴を履いた選手は遼々たるものだった。私は半靴を履いて居った。

範多氏:学校で正式に許されて居る靴が半靴だったからね、だから昼の休時間フットボールを蹴るとフットボールと靴と一緒に飛んで上る事もあった。半靴の裏に革の横桟を付けたね・・・。スパイクといふものが出来たのは余程後ですよ、それは私共の時分シルコックの靴といふ外国の靴を買ふてそれが裏につぶつぶのスパイクが付いて居るので、それからこれが良いといふ事になって日本で拵えた。

相川氏:東京にはあったが、神戸の学校は出来た所だから勿論ない。見る手本は御影で、毛唐の真似は出来ないでせう。兎に角間に合はせで、横桟を打っただけでも結構でした。其の当時京都に行ったらスパイクでやってゐました。

澤野氏:僕が三年か四年の頃だったね。

相川氏:神戸、兵庫県は他所とは余程遅れてゐました、大阪では其の時代明星商業でやってゐたのではないでせうか。

永野氏:其の次が堺でせう。

澤野氏:其の時分東京でもやってゐました。

範多氏:東京では青山師範でせうね。

若井氏:早稲田なんかずっと遅いですね。

範多氏:慶應といふのが私共が慶應に行ってから始めたのです。三年たってからです。早稲田は慶應より遅れて始めた。それはなぜ始める様になったかと云ふと、早慶戦をやらうじゃないかといふので、お前の所も拵えよといふ訳で中学でやって居た人を頼って、向ふにチームを拵えさせた。

範多氏:慶應はラグビーが全然押へてゐるからグラウンドが使えない。サッカー倶楽部が認められない。それで芝公園に出て行ってバラスの上でやるのです。ゴールが建てられないので天幕から思ひ付いて竹の棒を両方に立て、其の上へロープを張り、その両端を地面に棒切れで止める様な事を考えてゴールをこしらえた。其の竹があんまり折れるものですから柱を鉄にして地面につき刺し横木を竹にした。そして矢張ロープで引張り倒れない様にしたものです。

相川氏:蹴球部のメンバーの組織、私等のメンバーは野球部の選手でセコ乃至サブ等をやった者ばかり、皆野球選手と併用されてゐる人間ばかりであります。撃剣やら柔道からは選手は出て居りません。

河本氏:当時は野球部の一部に所属してゐたのでせう。

相川氏:五年級には柔道の強い奴が居る。私のクラスは皆五年間通して野球選手の卵をやった連中ばかりでそれがもとですね、全然そう云ふ畠から転換していったのです。

範多氏:この写真は当時の同志を写されたのですか。之が五年級といふのですか。全然顔が違ふですから次の年ではないかと思ひます。之が大正三年ですね。(写真参照)

相川氏:四年級の選手ですから大正三年です。

河本氏:大正二年度です、年で云えば大正三年なのです。

範多氏:この年の学校の選手といふものはなかっ[た]ですね、・・・相川さんの五年の時の第一回のメンバーといふのは所謂三年度の選手ですね、この中で五年生じゃないのは、加治、浅井良一それから若林信三之は四年ですね、外は皆五年ですね。

相川氏:この時のメンバーははっきり覚えては居りません。ゴールキーパーが白洲、フルバックが三輪。若林、ハーフバックが三宅と有馬に加治、三宅がセンターハーフ、若林がレフト、後神がライト、フォワードセンターが一人足りませんね。(写真参照) 小田が多分居った様に思ひます。

範多氏:森本さんも貴方のクラスですね、出た事もあると思ひます。

相川氏:ロングキックの良く出来[ママ]のは、フルバックの選手で。ハーフバックにはよく蹴れるしっかりした奴を置きました。勿論若林はフールバックでもハーフバック以上よく蹴りよったです。

範多氏:思出した事を若井さん御願ひ致します。

若井氏:僕が丁度四年の時に大毎主催で豊中でずっとやってゐた時分、丁度僕が四年で範多氏が五年でキャプテンの時は僕はよう行かなんだ。僕が三年生の時には四年生が七人居った。五年生が三人と三年に二人といふ具合に四年生が非常に多かった。僕が四年生の時には五年生が殆ど大部分を占めて居た。貴方(範多氏)が五年生の時がつまり五年級が一番多かった。今の相川さんの話にあった様にずっと以前から御影師範が強かった。大会の時に豊中によう行かなかったから、僕に皆悪い感事を持ってゐるが、あの時は私用があって京都に行ってゐた。僕が三年で貴方(範多氏)が四年生で御影に負けたのを覚えてゐるか・・・其の時に誰か手を折ったね。佐伯の家に行って汁粉を食った。四年の時は僕としては行きたかった。一対零で負けたらしいね、あの時一中としては最も強かった。五年にも僕はよう行かなんだ。

山岡氏:貴方(範多氏)が来て急に僕に出いといふのでそれから試合にずっと出たのだけれど・・・。

範多氏:そりゃ頼りにした人が来ぬと恨むね。

若井氏:何で来ないんだといふけれどもね・・・。貴方(範多氏)にはものも云えへん・・・。

範多氏:頼りにされれば名選手じゃないか(笑声)僕はあの時(御影との試合)の事を書いてありますがね、ルールの上から云へばあれはペナルティになるべき性質のものではなかった。それに審判官は絶対に神聖で、審判官の解釈によりて「ゴールキーパーがレフェリーの笛の鳴る前にゴールキックに行く事は悪意がある。ペナルティに科する」といふんですよ。所がね・・・悪意はなかったが一度やった時にはペナルティじゃなかったがもう一遍やってはいけないといふのに又やった。熱中してゐた訳です。岩田先生に後で叱られたんやが、ペナルティに憤慨してあっさり退場してしまった。一寸其の辺の所の掛け引がまづかった。だから考へが足らぬと云ふて叱られたが、ああいふ時にはもっと突張る必要がある。自分の善いと思ふ場合には善いと云ふ事をもっと突張れと大変怒られた。

相川氏:兎に角一中の蹴球の生立ちじゃ、第四回目の人から名声を揚げて来たのですから短時日であります。

範多氏:貴方の時から五代目になりますね。

相川氏:十五回があって十六、十七、十八、十九回と五代目だ。

範多氏:初めから強いのですが、御影師範に初めて勝ったのは何時ですか。

相川氏:それはずっと後で豊田棟さんの時分で、一時試合をしないといふ事もあった。

若井氏:五年の時に試合をしました、御影師範と・・・。

範多氏:あの豊中の帰りには撲り合をした。僕がペナルティでやりぞこないをして向ふの応援のものだったか選手の内の者だったかと出合して、気分がくしゃくしゃしてゐる所なので、どっちが当ったか知らんが・・・打当った。其の時に応援に来てゐた僕等のクラスに居た今神戸の電気局の課長をしてゐる長谷川勇雄が先づ撲った。僕は癪に触ってゐたから向ふの奴を撲ったが撲られた者も居た。

山岡氏:貴方の時でしたか一月に御影師範の大会がありましたね、二対零で負けたですね。

範多氏:大会があって優勝戦といふと御影と一中が残るに決ってゐた。大毎の大会でも何かといふと一中と御影が残って大底勝負がつかぬ中に喧嘩して別れてしまった。そうして一中の方が負けといふ事になった。それは先程相川さんの云はれた様に一中が、フットボールを非常に正式の稽古をしたといふ一つの証拠です。正式に稽古して規則も研究して居れば、クリケットあたりと本当に善いフットボールの試合をして居たから、フットボールといふのはプレイを綺麗にやるべきものだと思ってゐるので、外の者が汚い事をすると憤慨する。レフェリーがそれをとってくれないといふ事になると若い者だから怒って退場してしまふといふ情態でした・・・。

山岡氏:御影はオフサイドなど考へないで一番初めにゴールの所へ二、三人飛んで来て、ボールを後から蹴って来るのだからひどい。

範多氏:退場するといふ事は大変悪い事なんだけれど、ああいふ汚い事をするものではないといふ事を知らしめるといふ事で、師範学校のやってゐる事は間違ってゐるのを教へるといふ考へでやった。
 豊中の大毎大会で退場する時、野球グラウンドであったから、大毎の役員連中がネット裏に皆控えてゐるんですよ、高い其のスタンドの所に。挨拶に行こうといふ事で、ホームベースの所迄御辞儀しに行って優勝カップが向ふに光ってゐるのを眺めながら退場した事を覚えてゐる。

山岡氏:其れ以来御影と試合をやらなかったですね、高商やとか関西大学なんかとよくやったね。

若井氏:広島一中なんかとやった事があるね。

範多氏:関西学院とよくやったのですが、この朝日年鑑は私が中学の時に関西学院高等部に居た人から借りて来たのですが、その人が云ふて居たのに「馬鹿臭くってフットボールが出来なかった。子供みた様な奴に五対一位で負けるのだから」・・・

河本氏:一中とやって関学も高商も次第に一中のレベルまで上って来た様なものでせう。

範多氏:高商のフットボールなんか一中の人がいってものにしたと云っても宜しい。野球なんかもそう云ふ風に云ふても良いでせう。
それよりはもっと大した事は、一中卒業生が日本の代表選手の形を作るといふ事になった事です。東西対抗戦にも良い所に皆一中の卒業生が居るのだ。

相川氏:一中の蹴球は、他の部にない程の長足の進歩をしたものだね。

範多氏:神宮競技で優勝したのは?

永野氏:昭和二年だったと思ひます。

相川氏:一中は野球も光輝ある歴史を持ってゐますが名声の点ではフットボールは全国一ですね。

澤野氏:西村さんがハーフをやるまでは、どっちかといふと後へさがって守ってゐたがこの時代から前へ出る様になった。御影と優勝戦に何時も戦った。

若井氏:範田(ママ)さんと豊田さんが頭に残ってゐます。

永野氏:五年に大部沢山部員があったですよ。

河本氏:範多さんの時代から西村さんの時代迄は落ちてゐる様です、記録によりますと大変振はなかった。色んな事が会誌に書いてあります、「レベル迄引上げなければならぬ。我々は負けても後の者を強くすればよい」といふ事をいつも書いてゐる。五年位続けさまに同じ様な記録があります。

範田(ママ)氏:僕の次あたりは緒方直光、白洲次郎等でせう。

山岡氏:大正七年から八年までは緒方直光君、即ち七年四月から八年三月迄。貴方(若井氏)が八年四月から九年三月迄、僕か其の次、次が白洲、其の次豊田さん。

範多氏:私等の後で一寸弱くなったといふけれども非常に愉快にやって居たと思ふ。白洲の次郎だとか、緒方とか非常によくまとまってゐたと思ふ。蹴球部といふものを非常に考へて居た。つまり寄生と云ふ気持は全然なくなった。

相川氏:出来た時スポーツに理解ある者を野球部からピックアップした。

範多氏:私共の時分こう云ふ傾向があった。一中の野球部が非常に強かった。西村、三宅君なんか野球をやってゐた時分・・・。久保田三治君が主将をして居った時分、先輩が出て来て、それこそ火の出る様な練集をした。私なんか野球の練習等やる気が出なかった、兎に角フリーバッティングをやる時でも「なんじゃ今の打ち方は」と非常に激しいやり方でやられて、学校の選手になると恐ろしい練習をやらされるので野球部の選手に引張られる事をいやがった。私のクラスには野球部の選手よりも野球のうまい者が居りました。別所、岩井、有村、米谷、高山。野球部が余り厳しいもんだから、フットボールの方に集まって来た。

相川氏:私等のクラスにもあった。一中は伝統的に野球部が強かった。一中に転校しまして野球部の選手をすれば必ず落第する。落第しなければ乙といふ位だった。選手といえば一、二年落第した。私等は一年練習に行って棄ててしまった。練習は相当激しく晩暗くならんと帰られぬ。それからこつこつ歩かされて、電気がつく様になっておごって貰って帰った。野球オンリーといふ様なものであって、運動第一だけれども、落第するのは叶わぬ。野球部に残って居るのは極く趣味を持つ連中だけで外の者は嫌だといって皆止めよった。

範多氏:それから先に申しました様に一年、二年後の連中は野球部と離れて純然たるフットボールばかりやる人が集まって来たといふ形になったのです。其の勢でずっとフットボールが伸びて来たのです。

山岡氏:私達の時は野球部の選手との交渉は全然なくなりました。各部との関係をいいますと可成虐待せられる形でありまして各部との交際は多少柔道部の方とか、剣道部の方だとか、其の腕力の強いものを入れることが何かと便利なので一、二入れよったのです、大正八年頃ですが・・・。ところがそれから段々それはなくなって来た様です。

範多氏:白洲の次郎あたりから所謂全部がフットボールを熱心にやる者が寄って来たのでせう。それが其の後の発展に非常な貢献をした事と思ひます。

山岡氏:この七年八年の時は、確か私がキャプテンの時で学校から三十円貰ったと思ふ。ボールが五、六円以下では買えぬ。練習も出来ぬので親父から三十円程貰って来てボールを買った事を覚えております。卒業する時に、なんと云ひますか送別会見た様なものをやりました。どこかえ集まって炊事係なんか定めてね、牛肉を買って来るものもあった。其の頃から部はうまく行く様になった。

範多氏:蹴球部として遠足して見たり、割り合ひしッかり手を握り合って居た。こんな雰囲気に育まれて若い人は段々と上手になった。ラグビーの事を思ひ出したが、芦屋に白洲の家があって、そこに芝生があって緒方直光や僕なんかやって見た事がある。

山岡氏:大村君が三高でやって、白洲がラグビーのボールを買って貰ったんです。ラグビーの真似は学校ではやらなかったが家でやった。

範多氏:ボールを掴んでこういふ事をやって見たって、サッカーの方には役に立たぬといふので、その後ラグビーのボールには触らなかったが触ったのは此の時分である。サッカーとラグビーとはどうも或程度まで一緒にやって行った方が良くはないかと思ふ。蹴球部として私は学校の先生に申上げたいのですが中学のものは体が小さいので、二年三年の中はラグビーをする事は無理である。低学年はサッカーをやり三年頃からラグビーをする者はラグビーをやる様にサッカとラグビーが連絡を取り、互に選手の融通をした方が、外と試合する場合別々になってゐるよりは却ってよいのではないかと思ふ。

相川氏:サッカーの方は矢張り稽古が違ふし、それがうまく提携出来れば良いですが・・・。

澤野氏:外の学校では陸上競技と結び付けてゐるのがあるのではないかと思ふ。

範多氏:サッカーでボールを蹴る事を初めに練習した人がラグビーをすると進歩が早い。蹴ると云ふ事に就いて余り考へないで良いから、後はラグビー独特のテクニックを覚えればよい。ラグビーのプレース、キックといふのは非常に有用なものであって、サッカーをやった人の外はそれが仲々出来ない。私等慶應でラグビーをやった場合、プレースキックだけなら僕の方がうまかった。ラグビーに於てプレースキックがうまければ点数は半分以上とれる。チームにとって非常に強みである。

河本氏:カナダのチームが来ましたね、あれはサッカーをやってゐると思ひます。ドリブルを巧に使ってゐましたからね。

範多氏:英国なんか、ハイスクールと云ふのですが、日本の所謂この頃出来てゐる高等中学と云ひますか、そのハイスクールの学生はここ四年か五年前迄はラグビーは許されないでサッカーばかりやってゐた。所があんまり英国のサッカーは職業選手が強くなってしまったので一般から、サッカーをやるのは下品だといふ様な感じを持たれ、ラグビーをやってゐる連中は、アマチュアが多いので上品なものだといふ考えが起って来た。ハイスクールでもサッカーを止める人が出来た。それで若い連中にもラグビーが許される様になった。日本の小学生が野球をやってゐる様に、あの年輩の英国の子供はサッカーをやります。ラグビーには手をつけません。子供の時にサッカーを知る訳ですが、日本では中学に這入る迄はサッカーをやって居る者は余り多くありません。東京等は割合やってゐますけれども地方の小学校ではまだありますまい。其の意味に於て日本の中学校ではラグビーをやる前にサッカーをやる事はラグビーの発達上必要な事ではないかと思ひます。

山岡氏:卒業してから、三高に行ったらサッカーをやってゐた男が大分居りました。奥村、竹内等。

範多氏:本校の卒業生には中学でサッカーをやってゐないで、大学なり、専門学校、高等学校に行ってサッカーを始め、而もサッカーで名の知られてゐる人もあります。

澤野氏:沢山ゐますよ。

範多氏:之を一つ拾ひ集める必要があります、今の神中のクラブのメンバー以外の人が多いですから。

相川氏:こう云ふ事で一寸面白い事があった。私が同志社に這入った時私のクラスから三人這入った。前に居た人と合せて辛うじて六人です。同志社の勢力といふものは、第一に京都一中、その次に少ないが神戸の一中だった。それは何故かと云ふと何にか一芸を持ってゐたので、その点から知られてゐました。たった六人の者が非常に勢力を持ってゐて大きな顔をして居った。ボートは一緒にやった。野球はやった事はないけれども野球だって川合が大将である。撃剣は井尻が大将である。先輩が勢力をなしたのも、何かにつけて一芸を持ってゐた為めで、スポーツを知ってゐることはあらゆる場合に得な事がある。

範多氏:外国のフットボールあたりが割合日本人のフットボールと筋が違ふといふのは、外の運動を皆やってゐるからで、外の国でもそうですが英国ではシイズンといふ事を喧しくいふのです。冬はラグビーをやる。夏はボートをやる。殆んどそう云ふ風にきちっと或る時期になると、何処のフットボール倶楽部でも皆閉めてしまふ、練習をしない。ラグビーの練習は殆んど三月までで四月に這入ると殆んどフットボールはしません。四月から五月の初めになるとボート倶楽部に顔を出す。冬のラグビーの顔触はボート倶楽部に皆ゐる。

相川氏:神戸外人倶楽部も多分そうである。何か二つ、三つもってゐる。

範多氏:それで運動筋肉が発達して、どういふものですか終にスポーツといふもののレベルを高める様な意味があると思ひますね。今の中学にボート部がありませんね。この頃の中学のボート部といふものは他にもありませんか。
 蹴球倶楽部で一つボート部をやったらどうですか。

相川氏:ボート部のなくなったのは相当古い話です。随分前の事です。寄宿舎が廃止になると同時になくなった。

範多氏:私が中学にはいったのは、前の校舎の潰れた時だった。まだ前の道場あたりがグラウンドの真中に残って居たのです。今のグラウンドの真中に大きな木があったのですね。其の柳と道場とは一番終りまで残ってゐた。其の道場が壊され、大きな柳の木を取ってしまって、元の校舎のあった所にグラウンドが出来た訳です。私等がフットボールをやりました時分には元の校舎のコンクリートの土豪があるので困まった。それは私達が二年か三年位だったでせう。

相川氏:私等はあの柳の木を蹴り越すのを目標として居たね、随分後まで柳だけはあったですね、フットボール部を拵え様かと云ふ時分まであった。

河本氏:シイズン制で各運動をやるのはよろしい。今度大毎の大会が夏になったでせう。我々大部議論しました。夏フットボールをやると云ふ事は体を害ふばかりだと我々議論したのでけれども(ママ)結局新聞制策にやられた訳です。

相川氏:だから夏は我々としては外の方面ですね。ボートでもやれば良いと思ひます。

河本氏:大会を夏に持って来て具合が悪いですよ、肝腎のシイズンにやらずに、全国大会が済んでしまふのですから気の抜けた様なものです。それに此の事が中等学校のレベルを低下させる様になる事は必定です。正月の寒風凛烈たる中で、緊張した気分を持って此の勇壮なスポーツをさせ度いものです。

範多氏:神中倶楽部が出来れば、神戸で一つ大会を正月にやるといふ位の事をやれば良いのです。そして今の大毎あたりに対して一つ反旗を掲げるかね・・・。大毎の人に一つ話して見ませう。

相川氏:御影が夏フットボールをしたので笑ったものです。

範多氏:日本の蹴球協会といふのは師範系統で牛耳られてゐた。師範出の連中が牛耳るが為めにサッカーの発達を阻害せられてゐるといふので、何とかしてブチ破らうじゃないかといふ考へか大分あった。そこで大学に片端からサッカーを拵えて行った。東京帝大なんか其の時に出来た。大村、佐伯なんかも居たので引掴んでお前とこもやれといふので大学にサッカーが出来た。初めそれ等が蹴球協会を牛耳ろうといふのでやって見たがどうしても師範出の奴は物が判らない・・・。東京に蹴球団といふものがあって、之が日本蹴球協会を左右して居た。それが不愉快でたまらない、それでとうとう別れるより仕方がない。別の物を拵えて、大学リーグを始めた。その方から蹴球協会の理事とか何かが這入って行って余程よくなったと思ひます。其の大学のリーグを拵えた時、何でも無理だらうからといふ話しがあったのですが、ヤレヤレといふ事で気の合った連中がいふものですから、各大学から出て行って押し切ってしまった。そういふ様な事を対大毎大会に対して、今後神中クラブとして一つの仕事にしてはどうかと思ふ。
 東京のリーグ戦はカチヌキ、システムは経費の関係や、グラウンドの関係がどうしてもうまく出来なかったから、かまわないから分けてしまえといふので、四校づつ第一部、第二部と云う風に分けてしまった。分けたのは英国の職業団が大会でやってゐるシステムを真似たのですが、「第一部、第二部、第三部に分けて私等が勝手に其の時の各学校の力量によって、一番強そうなやつを第一部に、次を第二部に入れる、それから第三部に・・・・。前以て或程度まで内部の諒解を得ておいたがそれでも非常に反対が出た。なぜ俺の所が第二部であれのところが第一部かと非常に反対が出たが兎に角それを押し切った」東京のリーグは今は五部か六部迄あるでせう。各部から最高点チームが一部上って、最低点チームが一部下る規則だとか皆英国通りに拵えて始めたのです。
 中学でもそんな風にやって行けば面白いと思ふ。
 大分国民的遊戯になってフットボール其のものに対し大衆の知識が出来て来たから、今後益々発展するでせう。
 此の位で閉会に致しませう。有難たう御座居ました。

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