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2003年3月10日~2004年2月12日

(04/2/12)
日比谷公園大運動場
第1回全日本選手権(現在の天皇杯)決勝は1921(大正10)年11月27日日比谷公園大運動場で行われています。大運動場というのは日比谷公園のどのあたりにあったかというと、直江宏「樹木逍遥 日比谷公園の樹々」『日比谷公園学講座 平成5年度』(東京都公園協会,1994)によれば 公会堂の北側から小音楽堂のあたりまで、芝生や円形の大噴水があるあたりが大運動場で馬蹄形になっています。小坂祐弘著『松本楼の歩み』(日比谷松本楼,1973)p.45には松本楼の屋上から大運動場を撮った写真があります。大きな広場だったので伊藤博文、山縣有朋、大山巌、山本五十六の国葬はここで行われたとのこと。


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(04/2/6)
学校側の事情
国見高校のU18代表平山は筑波大、兵藤は早稲田大に進学するそうです。私はJリーグができて、ユース代表クラスの高校生が大学に迂回せずプロ入りするようになった(これこそ“構造改革”)ことが日本代表強化に繋がったと信じて疑わない人間なので大変残念です。しかし、長崎県もご多分に漏れず高校の統廃合 問題があるようです。「今春、二万人近くの中学卒業生があったが、二〇一一年には一万五千人を切る。八年間で四分の一も減ってしまう」とのことで、教育長は今後も小規模校の統廃合を推進すると言明しているそうです。 国見高校は1967年に島原高校の分校が独立して開校した比較的歴史の新しい高校でしかも小規模校、OBが政財界に根を張る伝統校よりも統廃合の対象になりやすい学校といえるでしょう。平成14年度の進路状況は卒業生206名、進学113名(内4年制大学は27名)、就職84名(主な就職先のトップが京都サンガというのは・・)。進学状況を見れば筑波大や早大に進学できる生徒は貴重な存在です。中学生をリクルーティングする上でも、筑波や早稲田への進学実績は重要なはず。PLの桑田が早稲田を蹴って巨人入りしたため、早稲田との関係が切れたPLに優秀な中学生が来なくなってしばらく低迷したことがありました。全盛時代のPL学園といえども全員がプロ入りするわけでなく、進学先を確保するということがチームのレベルを維持する上で最優先事項なのです。国見の場合、総監督は校長先生、サッカー部だけでなく、学校の存続も考えて進路指導されてるのではないでしょうか。もちろん、本人たちも“筑波や早稲田を出て朝日新聞あたりに入社すれば生涯収入は平均的Jリーガーよりずっと上”と考えてたりしてるのかも・・


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(04/2/3)
サッカーの“特許”
サッカーとは関係ありませんが、中村修二氏の“200億円”特許が世間をにぎわしてます。問題の特許番号2628404は 特許庁特許電子図書館で、「特許・実用検索」→「特許・実用新案公報DB」 →「文献種別をB、文献番号を2628404」とすれば全文が見られます。ところで「公報テキスト検索」を選択して公開特許公報を発明の名称キーワード「サッカー」で検索すると87件検索結果がありました。多いのはゲーム関係ですが、「特開平8-131600 サッカー 練習用ボール打出装置」や「特開平8-57096 サッカー のフリーキック練習用人形装置」のような発明もあります。前者の出願人は有限会社長島機工、後者は有限会社橋本製作所。所在地は前者が清水、後者が浦和、さすが・・


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(04/1/31)
森雅之と少年サッカー
東京蹴球団が1922(大正11)年10月15~16日日比谷公園で開催した関東少年蹴球大会を報じた『東京朝日新聞』1922(大正11)年10月16日付記事の写真のキャプション。“選手の父として 成城学校の一選手として令息の行光君が後衛を承ったので有島武郎氏は朝早くから貴賓席の椅子をはなれず、『ャ、しっかり』などと思はず「父」らしい声を出して応援につとめた”とあります。この大会に成城小学校のLFとして出場した作家有島武郎の長男有島行光は後に黒澤明監督『羅生門』や成瀬巳喜男監督『浮雲』などに主演した名優、森雅之。彼は旧制成城高校時代もサッカーの高校選手権(インターハイ)に小学生時代とは対角線上のポジションRWで出場しています。

1936年ベルリン・オリンピック代表の平均年齢は23歳、1913年前後に生まれて少年蹴球大会が始まったころは小学校高学年。戦前日本サッカーの急成長のカギがこのあたりにありそうなことは ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカーに記しました。


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(04/1/26)
カテ1が当った
早い者勝ちでない初の「登録抽籤方式」オマーン戦、ようわからんので第1志望カテ1、第2志望同2、第3志望同3にしといたら、あっさりカテ1が当たりました。本日さっそく換券。しかし、灼熱の国オマーン相手に2月18日、場所は埼玉(新潟でも宮城でもいいが雪と観客動員で・・ということで多分関東最内陸のここに?)。JFAも香ばしいことやってくれるなと・・


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(04/1/25)
女人禁制
本日誌04/1/22で述べたように、関東蹴球大会を報じた東京朝日新聞の記事中に “女高師の学生数十名が列をなして附属中学前に陣取り熱心に見物してゐたのは他の競技には見られぬ光景” とありましたが、“競技”ではないものの秦郁彦著『旧制高校物語』(文藝春秋,2003)中に当時の風潮を記した部分がありました。一高の紀年祭(学園祭)に女性の入場を許すかどうか、毎年喧々諤々してたそうで、一高生だった大仏次郎が野尻草雄名で学園生活を綴った『一高ロマンス』(1917年刊)には、

“毎年二月議事に上される紀年祭当日婦女子入場禁止案は、数多の議案中でも最も人気のあるものでこれに就いて硬軟(?)両派の激論は真に目覚しい”

とあるそうです。


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(04/1/23)
コラムを改訂しました
コラム『“サッカー”という用語考』を改訂しました。


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(04/1/22)
日本最初の女性サッカー・ファン
『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月11日付の第1回関東蹴球大会記事を報じた記事の見出しは「蹴球大会(第二日) 雨を冒して健児の奮闘 女高師生の見物は一色彩」、記事中に“・・・正午頃から女高師の学生数十名が列をなして附属中学前に陣取り熱心に見物してゐたのは他の競技には見られぬ光景であった。・・・”とありました。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)は女性サッカー・ファンの先駆だったようです。


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(04/1/20)
本日発売『サカマガ』
「ああ言えば、こう蹴る」で大住良之氏が高校選手権について、“この大会の開催が、日本サッカー協会の設立に結びついたという歴史をを持つ日本最古の大会であるだけでなく・・・”と述べていますが、“日本サッカー協会の設立に結びついた”とはどういうことなのでしょうか? 『日本サッカー史 代表篇』の著者後藤健生氏の反論を期待したいです。1918(大正7)年関西で“日本フートボール大会”(大阪毎日新聞主催 現高校選手権の前身)、関東で”関東蹴球大会” (東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)が同年に始まりましたが、関東の方の主催者東京蹴球団の中核メンバー(内野台嶺等)が1921年の大日本蹴球協会創立に際して理事になったりしてますけれども・・


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(04/1/17)
原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介
の脚注に着手しました。


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(04/1/13)
原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介
の本文をアップしました。解説にとりかかりました。

 昨日高校サッカー決勝を観戦しました。スポーツ紙情報では平山が胸トラップした時にヘディングにいって足を上げさせてファウルを誘うはずとのことでしたが、そんなシーンは全然ナシ。釜本2世はいろいろ見たが(小松から知ってます)、妙に“甲子園化”されて“ふぃふぁふぇあぷれーしょう”モンの高校選手権からは大器は育たん、と思ったのは私だけでしょうか?実は筑陽の応援団の近くで見てたんですが、応援団が“全国放送”を意識してるらしくて、マナーよろしく(失笑)九州大会の“ドッグ・ファイト”を見られる人がうらやましかったりして・・(笑)。平山筑波大進学って、昨年の徳永といいO久保君が散々叩かれてるからかも。しっかし、私は平山は第二の船越になりそな気が・・


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(03/12/31)
ひさしぶりの新メニュー
原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介を一部アップしました。いずれ解説や脚注もつけたいと考えています。 


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(03/11/12)
日本サッカーミュージアム
がいよいよ開館するようです。大晦日も正月も“営業”、気合入ってますなあ。入場料500円。 


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(03/10/2)
学習指導要領における“サッカー”
 国立教育政策研究所が過去の学習指導要領を学習指導要領データベース として全文アクセス可能にしています。昭和22年度の 学校体育指導要綱では“フットボール”、 “しゅう球”、“サッカー”が混在しています。サッカーが正式にカリキュラム化されたのは昭和33年度からです。昭和33年度小学校指導要領第8節体育では簡易“サッカー”に、 中学校指導要領第7節保健体育では“サッカー”に用語が統一されています。“サッカー”という用語考で述べたように、米軍による占領統治下の検閲、当用漢字の制定(“蹴”の字が除外された)、サッカーの義務教育課程化が“サッカー”という用語を普及させたと考えていますが、最も決定的な要因が最後の義務教育課程化でしょう。これは日本サッカー史としてもエポック・メーキングな出来事(6年後の東京オリンピックとそれに続く第1次サッカーブームの土台になった)だと思われるので、機会があればもっと突っ込んで調べてみたいと考えています。


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(03/9/18)
ラグビーのトップリーグはJSLの二の舞か?
 日本サッカーリーグ(JSL)は1965年、プロ野球以外のスポーツで初の全国リーグとして発足、Jリーグの誕生にともなって1992年発展的に解消した。この間、メキシコ五輪銅メダル獲得はあったものの、これは1964年東京五輪のため集中強化した結果というべきでJSL効果とはいえず、それは何よりその後の代表の成績が証明しているようにW杯、五輪予選とも敗北の連続だった。 ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカーでも指摘したように、JSLが日本サッカーの“トップリーグ”となったにもかかわらず、有望高校生が2流化した大学サッカーに迂回してしまい、大器と期待された人材が伸び悩んでしまう傾向があった。Jリーグ発足後はユース代表クラスはほとんど例外なくプロ入りしてワールド・クラスの選手に揉まれ、代表の成績も急成長したのはご存知のとおり。昨年のユース代表で唯一大学に進学した徳永(早大)もFC東京で指定強化選手としてトップリーグを体験している。こうした制度が存在すること自体、いかにサッカー界が長期にわたって上記のジレンマに苦しんだかを示しているといえよう。アマチュア時代のピークと考えられる1968年メキシコ五輪代表で大卒でなかったのは宮本輝紀(山陽高→八幡製鉄 当時私はこの人が一番知的なプレーヤーだと思っていた)のみなのに対し、セネガル戦のメンバーで大学出身者は坪井(福岡大)、黒部(福岡大)、山田(卓)(駒大)の3人だけ、サッカー日本代表は人材供給を大学に依存しなくなってから急速に強化された。

  ひるがえってラグビーのW杯最終登録メンバーをみると、日本人26人のうち高卒はPR山本のみで他は全員大学OBか大学生、人材供給を完全に大学に依存していることがわかる。有望高校生は18~22歳を “トップリーグ”ではなく、ヌル~イ大学ラグビー(トップリーグの発足により社会人-大学格差はさらに開く)で過ごすことになる。“関東大学ラグビー”がリーグ戦Gと対抗戦Gに分かれていて関東大学レベルで“トップリーグ” を形成できていないんだから、トップリーグに対抗できるはずもない。

 結論 ラグビーのトップリーグは人材供給を大学に依存しているかぎり、現状と同じに終わり代表強化と直結しない。


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(03/9/14)
『サッカー批評』最新号
はJFA特集。このテーマならSARS渦でヤナギサワ(怒)してしまった前号ポルトガル特集の轍を踏むことはない。
 後藤健生氏の『長沼健元会長に聞く「76年の改革」昨日のJFA』p.50-57は本HP 編纂日誌(02/1/23)『 JFAの“クーデター”(1)』の真相に迫るもの。長沼氏(のインタビューが記事の中核)は「クーデターではなかった」とのことですが、「当時、野津や小野が実際どのような気持ちで辞任したのか。野津も小野もすでに亡くなっているのでそれを確かめる術はない。たしかに、評議員会の席では長沼の言う通り辞任を渋るようなことはなかったのかもしれない。だが、野津会長、小野専務理事が知らないうちに後任人事が決まっていたとすれば、これはやはり「政変」と言っていいだろう。最後の評議員会での静かな交代劇は、いわば「無血クーデター」の最後の儀式のようなものだったかもしれない。」と述べられています。
 全体として、「JFAのことはJFAに聞くしかない」っていうことなんでしょうね。まあ、シカタないんでしょうけど。
 せっかくのチャンスなんだから、経産省の石油マフィアがイランをはじめ中東のサッカー界にどう食い込んでいるのか、とか突っ込んで欲しかったな。   


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(03/8/18)
『奥寺康彦の楽しいサッカー』
(小峰書店,1989)の解題を追加しました。  


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(03/8/13)
『素晴らしきサッカー集団 サッカーOBインターハイ5年の歩み』
(サッカーOBインターハイ実行委員会,1980)の解題を追加しました。  


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(03/7/6)
『サッカーでのけがと安全 86万人の記録から』
(スポーツ安全協会,1986)の解題を追加しました。  


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(03/7/5)
『サッカー・トレーニング・マニュアル』
(ロク企画,1989)の解題を追加しました。  


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(03/7/3)
『サッカー必勝大作戦 50ポイントレッスン』
(草土文化社,1986)の解題を追加しました。  


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(03/7/2)
岡野俊一郎著『サッカー』
(旺文社、1971)を追加しました。  


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(03/7/1)
表紙ページ
にサイト内検索のウインドウ(Google)を設置しました。  


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(03/6/30)
『サッカーの戦術と技術 1 イングランドサッカー協会コーチングブック』
チャールス・ヒューズ著(日刊スポーツ出版社,1984)を追加しました。  


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(03/6/22)
『キックオフの笛が鳴る サッカーの歩みと魅力』
轡田隆史著(さきたま出版会,1993)によれば、著者の父轡田(旧姓横村)三男は日本が国際戦初勝利した1927年極東大会代表。この大会で活躍した高師康は著者の埼玉師範学校附属小の先輩にあたり、同小学童サッカーの1期生にあたるそうです。1927年の代表チームにすでに学童サッカー出身者がいたという事実は、サッカーの垂直方向への普及がいかにめざましかったかという証左でしょう。同じフットボールでもラグビーやアメフトだとこうはいきません。
 また、秩父宮記念スポーツ図書館に蔵書を多数寄贈したと思しき大谷東洋なる人物もやはり著者の同小の先輩にあたるそうです。  


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(03/6/15)
コラム“サッカー”という用語考
を改訂しました。 


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(03/6/8)
『少年倶楽部』
 03/5/27に記した「山田午郎が人気投票で1等になった講談社の雑誌」を探してみようと土曜日に立川にある東京都立多摩図書館に行ってきました。『少年倶楽部』の大正時代は欠号が多く、大正4年1,3,6,12月、同11年1月、同13年4月、同14年5月の各号しか所蔵しておらず、次は昭和7年8月号まで飛んでいます。
 残念ながら山田が1等になった人気投票は見つかりませんでしたが、大正11年1月号に「偉人投票」という記事があって、
1位ナポレオン 38,649点 2位乃木希典 32,904点 3位豊臣秀吉 32,863点 4位楠正成 26,968点 5位西郷隆盛 13,265点・・・で賞品は1等銀製メダル、2等銅製メダルでした。大正14年5月号には「二月号で一番面白かった読み物は?」というコンテストの結果が掲載されており、答えは「佐川春風先生の怪盗? 名探偵?」でした。同号には白井桃村作「野球小説 悲憤の熱球」も掲載されています。昭和期も含めて、野球小説はかなり掲載されてますが、他のスポーツはオリンピックを除いて影が薄いようです。
 但し、昭和7年10月号(ロサンゼルス五輪があり「熱血運動号」)のクイズの賞品の4等は野球のグローブ・ミット・ボール、顕微鏡と並んでフットボールになってます。
 時間の関係で『少年倶楽部』昭和7年までと『幼年倶楽部』(大正15=1926年創刊 大正15年10月号のみ所蔵)しか調べてないので、欠号分や未調査分の両誌に山田の記事があるのかもしれません。


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(03/5/28)
明治神宮大会の位置づけ-『天皇杯65年史』から
 同じく『天皇杯65年史』(日本サッカー協会、987)中の「草創期から「ベルリン」後まで」と題する座談会から、

(前略)
鈴木:第4回大会は明治神宮大会という総合競技会と兼ねて行われたのですか。
新田:そう、大正13年のこの大会からだ。これ以後、戦前の東京での全日本選手権決勝は第16回大会(昭和11年6月)の陸軍戸山学校グラウンドを除き、すべて明治時宮競技場(現在の国立競技場)で開催された。内務省の主催する大会で、明治神宮に奉納するものだったのです。だから当時は大変熱の入った大会で“FA杯”より明治神宮大会の意識の方が強かった。
(中略)
鈴木:大正15年(1926年)の第6回大会は天皇がお亡くなりになったので中止されましたね。その前に全日本は、神宮大会と切り離すべきだ、との声が出ていたと聞いています。学生の参加という問題もあったようですが・・・。
新田:内務省主催の明治神宮大会では学生の参加が許されないことになった。一方、全日本は協会に登録しているチームならかまわない。これまでうまくいっていたのがダメになった。神宮大会は天皇がお亡くなりになる前に行われたが、協会はこれとは別に翌年の1、2月に独立して全日本を開催することにしていた。それが大正天皇の崩御で中止になったわけです。
鈴木:ところが次の第7回大会(昭和2年=1927年)はまた神宮大会を兼ねていますね。
新田:内務省と文部省が妥協した結果だよ。神宮大会は最高のものでなくてはいけないということで、再び全日本は神宮大会を兼ねることになった。学生も出場してね。
(中略)
鈴木:東京帝大LBが初優勝した昭和6年10月の第11回大会は神宮大会とともに第1回全国地方大会を兼ねていますね。この地方対抗というのは?
小野:大会をなんとかにぎやかなものにしようというところから、そのタイトルをつけたんだと思うよ。北海道の函館蹴球団なども参加した。
鈴木:早大WMW,慶応BRBなどはOB現役の混成チームですが、東大LBもそうだったのですか。
新田:コーチのノコさん(竹腰重丸氏)があんまりやかましいので、のんびりやれるチームを作った(笑い)。学生リーグに出ているレギュラーでない連中が、全日本に出て勝ったんだよ。
鈴木:ということは、学生の意識は全日本より大学リーグの方が重要、ということだったんですね。
新田:そうです。LBの方は文句を言われないでやりたい、という連中の集まりだったんだ。
(後略)

 ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏でも言及したように、オリンピック代表候補選考参考試合だった神宮大会に対して学生チームがモチベーションをもたなかったことが、ベルリン・オリンピック代表選考結果が朝鮮側に不満をもたらした要因のひとつでした。


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(03/5/27)
東京蹴球団と山田午郎-『天皇杯65年史』から
 『天皇杯65年史』(日本サッカー協会、987)に「草創期から「ベルリン」後まで」と題する座談会があり、新田純興、小長谷亮策、小野卓爾、宮本能冬、鈴木武士(司会)が出席しています。

(前略)
鈴木:山口高校の棄権で、第1回大会の試合数はわずか2試合。そして東京蹴球団が最初のチャンピオンとなった。
小野:東京蹴球団は強かった。ほかのチームは問題にならなかった。
鈴木:東京蹴球団というのは、どんなチームでしたか。
宮本:大正6年(1917年)東京・芝浦で行われた第3回極東選手権のサッカー競技で日本はメタ負けした。(中華民国に0-8、フィリピンに2-15)。これじゃいけないというので東京高等師範の内野台嶺先生が高師、豊島、青山両師範の関係者を集めて「みんなで力を合わせ、日本サッカーの向上を図ろう」と呼び掛けた。この時、集まったのが山田午郎、露木松雄(いずれも第1回大会優勝チームメンバー)などです。こうしてできた東京蹴球団は日本サッカーの底上げ、普及、技術向上を使命としていた。日本協会がやらなければいけないことを肩代わりしていたともいえるね。普及のために、北海道をはじめ東日本のサッカーをやっているほとんどの地方へ行った。
小野:最初に全日本の優勝杯、FAカップを大会名誉会長エリオット駐日英国大使から授与された山田午郎主将は、講談社の少年雑誌の人気投票で1等になったことがあるんです。
鈴木:少年たちのヒーローだったわけですね。それはサッカーの、ですか。
小野:そう、サッカーの選手で1等をとった。その午郎さんたちが自費で北海道などを回ったんですよ。
(後略)

 「山田午郎主将は、講談社の少年雑誌の人気投票で1等になったことがあるんです。」とはどんな人気投票だったんでしょうか。「講談社の少年雑誌」とは『少年倶楽部』(大正3=1914年創刊)だろうと思います。大正期?における少年サッカーの普及の傍証として調べてみたらおもしろいと思いますが、この時期の『少年倶楽部』にアクセスするのはナカナカ大変・・・


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(03/5/25)
解題を追加しました
『図解サッカー』(日東書院,1979)の解題を追加しました。


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(03/5/24)
解題を追加しました
『天皇杯65年史 全日本サッカー選手権全記録』(日本サッカー協会,1987)、『サッカー入門 キミも、名プレーヤーをめざせ!』(ナツメ社,1982)の解題を追加しました。


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(03/5/19)
解題を追加しました
『蹴球年鑑 昭和7-8年度』(大日本蹴球協会,1933)、『サッカー』(柴田書店,1959)、『小学校サッカー』(不昧堂書店,1962)の解題を追加し、一部書誌事項を訂正しました。


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(03/5/6)
ダグラス少佐
 篠原宏著『日本海軍お雇い外人』(中央公論,1988,中公新書)が、日本にサッカーを伝えたというダグラス“少佐”に触れているのでメモしておきます。 Archibald Lucius Douglasは1842年カナダのケベック生まれ、14歳でイギリス海軍に入り1873年“中佐”に任官(従って本書では中佐になっている)、1895年少将、1901年中将、1905年ポーツマス司令官、1907年大将で退役、1913年死去。
 在日は1873年~1875年と僅かだが、この間に海軍教育を徹底的にイギリス化し、帝国海軍の基礎を築いたお雇い外国人中の超大物だったようです。彼の謦咳に接したのは兵学校(当時は兵学寮)2期~6期で、2期には山本権兵衛、日高壮之助、入学から卒業まで完全なイギリス式教育を受けた最初の世代となった6期から山内万寿治(日露戦争時呉鎮艦政部長)、坂本俊篤(同海大校長)、斎藤実(同海軍次官)など、日露戦争時海軍の中枢となった人材を輩出しています。日露戦争後の1906年勲一等旭日章を受勲、僅かの在日期間にもかかわらず、教え子たちが高評価していたことがわかります。
 大変規律(discipline)を重視した教育方針だったようで、以下の記述があります。

 “最も興味が持たれるのは後に海軍の規則の中で最もやかましくいわれるようになった「五分前」の規則である。この兵学寮内則の第九十条には「凡ソ食事ノ鐘声ヲ聞ケハ鐘声未タ終ラサル前ニ各室外ニ整列シ・・・」とあって、オランダ海軍規則なので五分前の文言は入っていないが、明治六年十月英教師ドグラスの建言によって決められたイギリス式兵学寮規則の時になって初めて「・・・生徒ハ授業ノ始マル時刻ヨリ五分時間前ニ講堂或ハ船具操練場或ハ大砲操練場ニ集ルヘシ」(第四条)となって明示されることになる。”

 また、スポーツも重視しており、1874年3月1日日本最初の運動会といわれる「競闘遊戯(Athletic Sports)」を開催しています。全部で18種目あったそうですが、フットボールがふくまれていたかどうかは記載されていません。 


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(03/4/21)
追加しました
『30周年記念誌』(千葉県サッカー協会,1976)、『第28回国民体育大会秋季大会蹴球』([日本体育協会],[1973])を追加しました。


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(03/4/21)
追加しました
『栄光の足跡 高専サッカー20年史』(全国高等専門学校サッカー連盟,1989)を追加しました。


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(03/4/19)
追加しました
『第1回日韓高専親善サッカー訪韓試合報告書』(日本サッカー協会高専部会,1977)を追加しました。


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(03/4/18)
追加しました
『サッカー』(日東書院,1973)、『札幌大学サッカー部20年史』(札幌大学サッカー部OB会,1986)、『銀蹴 旧制新潟高等学校蹴球部六十年のあゆみ』(新潟高等学校蹴球部編集員会,1987)を追加しました。


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(03/4/1)
堀江忠男氏のヘッド・スライディング
 ベルリン・オリンピック代表で早稲田大学ア式蹴球部監督だった堀江忠男氏が亡くなりました。氏は選手、指導者として業績を残しただけでなく、戦後最初の高水準の技術書『サッカー 理論と技術』(朝日新聞社,1949)の共著者であり、選手、監督としての自伝『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)の著者でもあります。現在も『昭和経済』という雑誌に「わが回想より」というエッセイを連載中でした。
 自伝にもありますが、浜松一中時代からアーセナルの名選手Charles Buchanの『Football aids』(Daily News, 1929)を愛読していて、1934年3月~1936年3月にかけて『体育と競技』誌に翻訳を連載しています。同誌には堀江の父で浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)教授堀江耕造もBuchanの著作『Association football』(Hutchinson, 1928)の翻訳を連載しています。堀江はオリンピック当時大日本蹴球協会機関誌『蹴球』編纂委員でもあり、オリンピック前後の同誌にほとんど毎号記事を書いています。川本泰三氏によれば、サッカーをやりながら早稲田の政経を全優というア式蹴球部“空前絶後”の成績で卒業したとのこと。
 堀江は上記『わが青春のサッカー』(岩波ジュニア新書なので児童書扱いしている図書館が多いが、内容的には児童書ではない)以外に雑誌『知識』1988年1~12月号に「都の西北 わが早稲田の青春」と題する回想を連載しています。堀江の兄正規は大月書店から全集が刊行されているバリバリのマルキスト、同誌1988年2月号によれば、

 “当時、兄正規と私は市谷に借家して自炊をしていた。この家はコップ(日本プロレタリア文化連盟)のアジトに使用され、蔵原惟人、宮本顕治、中条(のち宮本)百合子などが出入りしていた。そのうちコップの首脳部が一斉検挙され、アジトが危なくなったので、借家をたたんで、池袋に住んでいた伯父近藤圭(私に経済学をやれとすすめてくれた)の家に居候をしていた。間もなくそこまで検挙の手が伸びて、戸塚暑に拘留された。”

とのこと。政経学部の優等生、サッカー日本代表の右FB、そして左翼(というよりもリベラルという立場のようですが)が同一人物の中に同居していました。
 父、兄そして本人(朝日新聞を経て早大政経学部教授)が大学教授という学者一家に育ち、中学校時代から原書でサッカーの技術・戦術を勉強していたわりには、プレー・スタイルは泥臭く、とりわけ有名なのが“ヘッド・スライディング”でした。どうしても止められないボールに頭から突っ込むと思わず相手は引いてしまうのだそうです。どの雑誌か忘れましたが、実際にヘッド・スライディングしている写真を見たことがあります。『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』(兵庫県サッカー協会,1997)所収の「昭和初期の兵庫のサッカー」という座談会では、

“大谷:ウイングにも色々あったが、早稲田に堀江がおったでしょう。前へ突っ込んでばかりおる。一度足の上に乗ったらんとあかん<乗ってやらないといけない>と思って足を踏んでシャーと前へ行ったことあるけど、そのうちやり損ねてカーンと膝いかれた<やられた>ことがあるわ。
吉江:彼はボール放っといて体で行く方やったから。
大谷:だいたいあれを「すかす」のが面白うて・・・。
吉江:まるで猪みたいなもんやったからね。
大谷:一度足から来ると思ったら頭から滑り込んできてね。こいつだけハアーッと思ったね。頭を蹴っていく訳に行かんしね。”

とあります。大谷一二は神戸一中、神戸高商、神戸商大OB、東洋紡会長、吉江経雄は静岡一中、神戸商大OB。堀江の猪武者ぶりが伝わってきます。大谷の相手をオチョクルようなプレー・スタイルが生真面目な関東の選手・コーチに嫌われてベルリン・オリンピック代表候補に落選したのかもしれません。
 指導者としてもインテリにありがちな理論だおれになることはなく、早稲田の「百姓一揆」といわれる泥臭いリアリズム・サッカーを貫かれたようです。

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(03/3/26)
JFA機関誌『サッカー』総目次
を完成しました。最後は130号ですが、29・30号が合併号で117号が未発行なので合計128号刊行されたことになります。 これで1931年創刊の『蹴球』、戦後の『Soccer』、『蹴球』、『サッカー』と1974年までJFA機関誌の総目次を揃えました。機会があれば欠号で目次未入力の号も埋めていきたいと考えています。


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(03/3/19)
御影師範廃部の謎
 御影師範は現在の高校選手権の前身、日本フートボール大会に第1回~7回(1918年~1924年)連続優勝、この大会が全国中等学校蹴球大会(日本フートボール大会はオープン参加の実質的には近畿大会、1926年から始まるこの大会から名実ともに全国大会になる)に変わってからも第9回(1926年)、11回(1929年)、13回(1931年)、14回(1932年)と4回優勝しています。ライバル神戸一中は最後のフートボール大会第8回(1925年)、12回(1930年)、15回(1933年)、17回(1935年)、20回(1938年)と全国大会化してから同じく4回優勝しています。この両校以外で優勝したのは第10回(1927年)の平壌崇実、16回(1934年)の岐阜師範、18回(1936年)、21回(1939年)の広島一中、19回(1937年)の埼玉師範、22回(1940年、戦前最後の大会)の(京城)普成中のみです。全国大会になってからの14回のうち、8回の優勝を両校が分け合っています。
 戦前図抜けた強豪だった御影師範ですが、姫路師範と合併して兵庫師範となった1936年に「運動部選手制度」が廃止され、その栄光に終止符が打たれることになります。田辺文庫で見た『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』(御影蹴球団,1967)、神戸市立中央図書館蔵の『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』(兵庫県サッカー協会,1997)の両書とも、なぜ廃部になったかという記述がなかったと記憶しています(田辺文庫では書誌データの採集に忙しく、じっくり読む暇がなかった)。
 ライバル神戸一中が強かったのは、御影師範附属小をはじめとして御影師範OBが神戸近隣の小学校で学童サッカーを普及させていたからで、兵庫師範が廃部した結果学童サッカー指導者の供給源がなくなってしまい、戦前のサッカー王国兵庫県が埼玉県や静岡県に戦後とってかわられることになります。兵庫県サッカー史の明暗を分けた最も重要な事件のはずで、『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』が このことにまったく言及していないのは???です。せっかく神戸まで行ったのに。


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(03/3/13)
コラム 日本代表のエンブレム
をアップしました。『サッカー』総目次は1970年末まで入力。


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(03/3/10)
春山泰雄のプレスコード違反事件(続)
江藤淳『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋,1989)、松浦総三『占領下の言論弾圧 増補決定版』(現代ジャーナリズム出版会,1974)には日刊スポーツのプレスコード違反事件は出てませんでした。さて、「米国の裸体ショウ トムスン氏大都劇場で紹介」という見出しの問題の記事とは、

 “エロだ、芸術だと裸体レビューに対する批判がやかましく論じられている折柄アメリカにおける裸体ショウの本当の姿が米人レビュー演出家によって日本の大衆に紹介されることになった。
総司令部情報部演劇課長ウイラード・トムスン氏はアメリカでも一流のレビュー演出家として知られているが、この程同氏が浅草の各レビュー劇場を視察した際に大都劇場のショウに着目。アメリカにおける裸体ショウを紹介して日本レビュー界の芸術的水準を高めたいとの希望で自ら好意的に同劇場の裸体ショウの台本執筆、並に演出を買って出ることになった。
 劇場側でも同氏の好意に感激して諸般の準備を進めていたが台本完成間際にトムスン氏が病気になったため六月一日から上演の予定を十五日と変更したが、戦後初めてのアメリカ人の台本、演出による裸体ショウとして早くも各方面の話題となっている。”

『日刊スポーツ五十年史』によれば、

“この原稿は、外部の寄稿家橋本与志夫(現演劇評論家)が取材、執筆し、小笠原俊郎がチェックのうえ掲載した。占領軍批判など微塵もない内容だが、念には念を入れて大都劇場に確認を取り、トムスンにも連絡をしたが病気で休息中とあって当人の確認は取れなかった。もちろん、事前検閲もパスしていた。”

とのこと。この記事で重労働1年、発行停止6ヵ月という軍事裁判の判決は「暴政」というほかないでしょうね。

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