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原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』 脚注

[注1]中華留日学生団か朝鮮青年団のどちらかと思われる。現韓国代表のエンブレムは“虎”である。

[注2]詳細不明。一般に東京蹴球団が本邦初のクラブチームと称されることが多いが、東京蹴球団の創立メンバー原島が「これなどが邦人倶楽部の元祖かも知れない」と述べていることに注目。

[注3]独文学者(岩波文庫のゲーテ著作の翻訳者)で文化勲章受賞者の相良守峯東大名誉教授は1913(大正2)年庄内中学卒業、在学中は蹴球部にいたそうで、その回想を「サッカーの旅」(『山形県サッカー協会四十年誌』(山形県サッカー協会,1988)p.10-11)と題するエッセイに記している。5年生時の修学旅行は仙台・松島だったので、当時東北地方の中学校で唯一サッカーをやっていた仙台一中と対戦することになった。

“・・・ところでその時代、東京以北でサッカー部を置いている中学校は他には1校もなかったので、我々は躍起になって仙台一中に試合を挑んで、先方からも喜んでそれに応戦することになり、こうして或る夕べ、健気な旅装を調えて、2、3人連れで旅路に昇った。

 というと、一体どんな旅路に昇ったのかと言いますと、当時はまだ田舎町であった鶴岡には汽車などいうものは開通していないし、さりとて人力車を駆り立てるほどの勢いもなかったので、我々はひたすら徒歩でテクテク、先ずは最上川の畔からその河上に沿うて上流へ上流へと14里の道をウンウン唸りながら、新庄のあたりへ徒歩の道を遡りゆき、ここで漸く汽車という文明の利器を捉えて仙台までひと走り。夕方から翌朝まで熟睡したのち、翌る日は仙台一中の敵軍を迎えて大いに戦ったが、ここに読者諸君に一言申したいことは、敵軍は一人ずつ勇ましい運動靴であったのに、わが庄内軍の脚がまえは全くの裸足であったことである。素裸足と、逞ましい兵隊靴とどちらが強いかは一目で判明していることであり、両軍の応援隊も敵軍は当方に対して「やあい素裸足!」と唱えるし、庄内軍は敵に対して「兵隊靴、やあい!」と弥次っていたのに、素裸足の方が強かったのは面白い結果であった。当方が3対1で勝ったからである。・・・”

 日本のペレは「おしん」の故郷にいた!!(笑) 庄内中学の“裸足”は全国的に有名だったようだ。

[注4]内野台嶺、東京高等師範学校1905(明治38)年入学、1909(明治42)年卒業、在学中蹴球部に所属し、卒業後豊島師範に赴任してサッカーを伝えた。東京高師在学中の回想については当サイトに掲載した 『蹴球思ひ出話』を参照されたい。その後母校東京高師教授となり、本文中にあるように1921(大正10)年の大日本蹴球協会の創立に際しては事務方の中心として働いた。現在のJFAのエンブレム八咫(三足)烏は内野の発案による。

[注5]山田午郎については当サイトに掲載した『日本最初のサッカージャーナリスト、山田午郎』 を参照されたい。

[注6]後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』(双葉社,2002)p.27に“1922(大正11)年1月には、関東の大学の間で「大学専門学校4校リーグ」が始まっていた。日本で初めてのリーグ戦だった。”という記述があるが、原島の説が事実なら書き換えが必要となろう。

[注7]芦原将軍の本名は葦原金次郎。西丸四方編『臨床精神医学辞典 第2版』(南山堂,1985)p.2によれば、

“葦原金次郎(1852-1937) 金沢の櫛職人で前田侯の馬車に乱暴して1882年東京府癲狂院に入院させられ、88歳で松沢病院で死去した。躁的誇大妄想を有し、葦原将軍、葦原帝と称し、参観者に勅語を売りつけ、手製の大礼服を着て一緒に記念撮影に入り料金を要求したりして、ジャーナリズム的人気者であった。痴呆的人格崩壊には陥らなかった。”

大日本蹴球団はなるほど“躁的誇大妄想”気味ネーミングだ。帝と称し、勅語を売りつけ、大礼服を着ていたとは、明らかに天皇のパロディ。「狂人のたわごと」という逃げ道を残しながら天皇制タブーや天皇を頂点とする支配階級を風刺できたから、ジャーナリズムに人気があったのもうなずける。本文中に“六殿下台覧”の関東蹴球大会役員が新聞に官職つきで報ぜられ、 “まだその頃でも位階勲等は一つの飾となったらしい。”と述べられているが、権威主義的、事大主義的社会のカリカチュアとして葦原将軍は大衆にも人気があったらしい。筒井康隆は葦原将軍を主人公に『将軍が目醒めた時』を書いている。

[注8]竹内広三郎は東京高師OB。日本最初の国際試合1917年第3回極東大会代表主将。第1回関東蹴球大会ではレフェリーを務めた。

[注9]1918(大正7)年2月9~11日。

[注10]講道館柔道の創始者として著名な嘉納治五郎はサッカーのルーツ校東京高師の名校長でもあった。『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月10日付掲載嘉納の開会の辞。

“蹴球技は外国から輸入された競技の内では最も体育的であって自分が我国に奨励したいと思って居る競技の一つである。欧米諸国で蹴球の盛んな事は茲に説く迄もないが、先年ストックホルムのオリンピック大会でも非常に旺であった。由来欧米人は体力に於て遥に日本人より優れて居るから体力を主とする蹴球に於て国際的競技としては到底外人に敵しないから駄目だと云ふ者もあるが夫れは大に間違った考へで假令日本人が体力に於て劣るとも意気に於て其欠陥を補って打勝つと云ふ考へがなけねばならぬ。”

嘉納治五郎翁の教え「日本サッカーは“体力”より“意気”」。

[注11]『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月1日付掲載。

“本邦蹴球史 高師と慶應 ア式とラ式

 我国の蹴球界は此二大潮流に分れて居るので、高師の方は明治三何年頃からか蹴球部を創設し規則の制定を完成したり屡横濱の外人團を指導者として試合を行[や]り其後東京府師範学校でも始めたが明治四十年に高師と東京師範とが試合したのが邦人同志の蹴球競技の最初の記録と云ふ事だ 慶應の方は高師より稍古く三十二三年の頃塾に教鞭を執って居た英人クラーク氏が手解きをしたもので爾来横濱外人團などと挑戦し漸次発達したものである

 前述の様に我国の蹴球界には高師と慶應との二潮流があるが其様式もア式とラ式の二種が広まって居るがラ式の方は四十二年頃に京都の同志社及び三高などが共に慶應から傳授されて創設し関西方面では漸次傳播されて来たが関東に於ては慶應のみで却て高師の開いたア式の方が関東では隆盛を極めて来たもので関東でア式蹴球を学生競技として採用して居る学校は豊島師、青山師を初め市内では附属中学や明治学院があり地方では横濱二中、鎌倉、埼玉、千葉、水戸、佐倉、群馬、山形、長野等があり、更に関西では名古屋の八高を初め明倫中学、京都、奈良、御影の各師範学校等がある

 此ア式蹴球の勃興を機として全国に於ける蹴球界の促進を目的とし蹶起したのが今回大会の主催者となった東京蹴球團で、高師及び豊島青山両師範の蹴球部先輩が中心となって組織したもので将来は全国の各蹴球部を網羅して蹴球奨励の中心機関ともなり復自ら幾多のチームを組織して相互の體育を練へ競技の研究機関たらしめると云ふのが目的で昨年十一月創設以来も屡外人團其他と試合して居る、尚関東地方の外人團としては東京倶楽部、横濱YCAC及びセント・ジョセフがあり支那留学生、朝鮮学生團等が盛んに行ってゐる(終)”

[注12]『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月6日付掲載。

“蹴球の観方 東京高等師範学校講師 関東蹴球大会競技委員長 内野台嶺氏談

 冬期の戸外運動として蹴球位ゐ痛快なものはないと私は思って居る。寒さに対して抵抗的強健法として此の全体力を活動させるに是以上の運動はない。近来漸く此運動が盛になって来た事は誠は[ママ]喜ばしい次第ですが、今度の関東蹴球大会は関東に於ては初めての企てであるから、蹴球の規則の大略を話して観覧の人々に蹴球競技に対する概念だけを与へて置く必要がありませう。ア式蹴球は一組が十一人宛で、各敵の門塁[ゴール]へ球を蹴込めば一点を得られ、競技時間は九十分が規定ではあるが相談づくで六十分に短縮しても好い。そして其の規定された時間内の得点の多い方が勝ちとなる訳だ。競技は最初拳で敵味方の陣位を定めるのだが、風の具合や太陽の向きで拳で勝った方が都合の好い方を選ぶと、球を場の中央に置いて拳に負けた方が蹴始めて競技は開始される。競技場は長さ約六十間幅三十五間と云ふ形が普通だが、其の短縮は随意である。競技が進行して規定された時間の半分経過すると両軍は陣位を交換する。之れを更位時[ハーフタイム]と云って居る此の時に大抵五分間の休憩を取る。ア式蹴球の原則として蹴って行くのが原則で、故意に球に手を触れる事、球を持って居ない者を押す事、敵の守備三人以上居ないのに敵に迫って球を待ち受けて之を取る事なぞは反則として、敵に自由蹴[フリーキック]を与へねばならない。其の自由蹴と云ふのは其反則した場所に球を置いて敵に自由に蹴られる事である。次に競技場の横の線から出して終った場合は敵が線の上に立って手で都合の好い様に投げ込まれる。又攻めて行って味方が敵の門塁が立って居る線から出した時は敵の門将[もんしゃう]に自由に蹴られる。敵が出した場合は味方が競技場の角から都合の好い様に蹴る事が出来る。門塁を中央にして競技場に長さ九間幅二十二間の線があるが之れを反則圏[ペナルチーエリヤ]と云って、此の中で味方が犯則すると敵に反則圏に在る罰蹴点 [ペナルチーキックマーク]から門塁に向って敵に蹴られる。大体此の位の規定を頭に入れて競技を見ると其処に非常な痛快さを感ずる。”

そのままだと読みにくいので、入力に際して句読点を付加した。[ママ]以外の[]内はルビ。競技場は「フィールド」とふられている。門将が「ゴールキーパー」でなく「もんしゃう」であるのが興味深い。

[注13]『世界大百科事典』 第4巻(平凡社,1998) p.168 「岡本一平」の項。

“岡本一平 1886-1948(明治19-昭和23) 漫画家。函館に生まれる。妻のかの子は小説家、子の太郎は画家。藤島武二に師事、1910年東京美術学校西洋画科卒業、帝国劇場の舞台美術に従事したが、12年東京朝日新聞社に入社し、漫画を描く。人間生活の機微にふれた鋭い描写と軽妙な警句(漫文)によって従来のポンチ絵的な漫画の形式を一変させ、また政治漫画にも一時期を画する。19年ころより妻かの子とともに参禅し、その作風にも仏教の影響があらわれる。22年ヨーロッパに遊び、24年『世界漫画漫遊』を出版。また文壇風刺の『文芸漫画』に才筆をふるうなど、漫画の芸術化、近代化に努めた。『一平全集』15巻がある。”

[注14]正しくは「素人の観た蹴球の驚異」。『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月11日付(最終日の朝刊)掲載。

“素人の観た蹴球の驚異(関東大会にて)

(一)フート・ボールといふ位だから足許り使ふものと思ひの外、間に合は無くなれば頭で撞く、敵手方は又撞かせまじと頭で妨害に行く。今迄頭は物を考へる場所と心得て居たが実は毬を撞く道具であった。して泥球を美事撞く程いい面汚しになる。(首を伸ばしてヘディングを競りあう漫画)

(ニ)毬を敵手方に取られまじとして憚りも無く尻を人の面前へ差出すその傍味方の方向へ足で毬を蹴り送る。蹴球家は失礼を敢てする程味方に勝利を加ふ。(ディフェンスに対して身体を入れてキックしている漫画)

(三)留日中華民国人蹴球団員の腰の蝶番は別誂へだ。脚で前へ蹴ると同様の能力を横へも後へも与へて居る。腰から下の働丈け見て支那人の裏表を判断するのは難かしい。(ヒール・キックしている漫画)”

なお、この日の大会記事の見出しは「蹴球大会(第二日) 雨を冒して健児の奮闘 女高師生の見物は一色彩」。記事中に“・・・正午頃から女高師の学生数十名が列をなして附属中学前に陣取り熱心に見物してゐたのは他の競技には見られぬ光景であった。・・・”とある。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)は女性サッカー・ファンの先駆だったらしい。

[注15]六殿下のうち竹田宮、山階宮は前日も観戦している。

[注16]『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月12日付決勝の戦評は以下のとおり。決勝に残ったのは豊島師範AとB、関東蹴球大会と銘打ちながら、決勝は豊島師範の紅白戦になった。

“豊島A組優勝 二対零B組敗る

AB二組を出場せしめたる豊島師範は両組共に二勝を得て第三日の劈頭之れが優勝戦を開く。午前十時三十分レフリー吉川氏の呼笛を合図にBの先蹴す。A組は終始B組を圧し戦はBのサイドにて行はれ、Aが攻め入てB組に十四回の塁守球をなさしめたるにBは僅かに一回の塁守球を為さしめたるに過ぎず。A組攻むる事十五回目にて安積のキック成功して一点を挙げて後半戦に入り、再び安積のキックにて一点を得B組は二点を輸してタイムとなれり。”

[注17]新田純興(1897~1984)。東京高師附中、一高、東大卒、大日本蹴球協会創立以前からサッカーの普及に務め、ベルリン・オリンピック当時は協会の財務担当理事として貢献した。日本サッカーの正史、日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂の中心人物。氏の長男新田純弘著『埋み火はまた燃える 新田一族銘々伝』(さきたま出版会,2000)のp.278-291が純興氏の伝記。氏の著書『ジュールリメ杯 世界選手権大会通史』([日本蹴球協会],[1970])は『サッカー』 no.104 1970.4 p.60-88の抜き刷りだが、おそらく日本最初のW杯本であろう。

[注18]佐々木等。東京高師OB、東京高師とその後身文理大、東京教育大教授。日本最初の国際試合1917年第3回極東大会、日本代表最初のアウェー戦1921年第5回極東大会出場。その著書『フットボール』(目黒書店,1922)はおそらく戦前最も読まれたサッカー本であろう。

[注19]William P. Miller Fegen。東京生まれのイギリス人で東京高師附中中退。『ア式フットボール』(東京刊行社,1925)という著作がある。その本の著者の肩書きは東京日日新聞、大阪毎日新聞記者。

[注20]岡部平太(1891~1966)。東京高師OB、柔道出身だが日本にアメリカン・フットボールを最初に紹介したり、後半生は陸上長距離のコーチをしたり、とスポーツ界の多方面で活躍した。

[注21]野津謙(1899~1983)。広島一中、一高、東大卒。戦後第4代日本蹴球協会会長としてクラマー氏を招聘し、東京オリンピック8強、メキシコ・オリンピック銅メダルをもたらした。元祖キャプテン会長。伝記ではないが、野津を顕彰した『野津謙の世界 その素晴らしき仲間たち』(国際企画,1979)という本がある。

[注22]日本最初?の女子サッカー選手は男女混成チームで実際に試合していたという驚くべき証言。1921年第5回極東大会の選手選抜に柔道出身の岡部平太が関っていることが示すように、フットボールは一種の“格闘技”だったのである。

[注23]内野台嶺、吉川準治郎、熊坂圭三は大日本蹴球協会初代理事(全員で7名)。

[注24]岸清一、大日本蹴球協会顧問。第2代大日本体育協会会長。

[注25]深山静夫。協会の規定委員、1921年第5回極東大会、1923年第6回極東大会代表。

[注26]範多龍平、協会の詮衡委員、神戸一中卒、当時慶應大学生。下出重喜、協会の規定委員。

[注27]渋川敬雄、協会の規定委員、アストラ倶楽部は暁星のOBチームで現在も存続。井染道夫、協会の会計委員、東京高師附中卒、当時明治大学生。

[注28]後藤新平、1920~23年東京市長。1923年の関東大震災で日比谷公園の運動場は被災者の収容所になるので、関東蹴球大会が開催されたのは1921~23年であろう。

[注29]永井道明。東京蹴球団初代団長、大日本蹴球協会理事。

[注30]第1回関東少年蹴球大会は1922(大正11)年10月15~16日日比谷公園で開催された。14チームが2組に分かれて参加、両組とも豊島師範附属小学校が優勝。この大会を報じた『東京朝日新聞』1922(大正11)年10月16日付記事の写真のキャプション。

“選手の父として

 成城学校の一選手として令息の行光君が後衛を承ったので有島武郎氏は朝早くから貴賓席の椅子をはなれず、『ャ、しっかり』などと思はず「父」らしい声を出して応援につとめた”

 白樺派の作家有島武郎の長男有島行光は黒澤明監督『羅生門』や成瀬巳喜男監督『浮雲』などに主演した名優、森雅之の本名。この大会も東京朝日新聞が後援していてメンバー表まで掲載、有島は成城のLFだった。藤田潯吉「牛込・成城小学校と第1回少年蹴球大会」(『成城蹴球・サッカー60年史』(成城蹴球・サッカー60年史編集委員会,1988)所収)によれば、“この大会で成城は青山師範に第1回戦で2-0で敗れてしまいましたが、日比谷公園内の松本楼で有島君のお父様、小原先生にライスカレーを御馳走になったことが思い出されました。”とのこと。小原先生とは小原国芳。

[注31]山田午郎著『ア式フットボール』(杉田日進堂,1925)

[注32]青師附属とは青山師範附属“小学校”。現在でいえば、東大と東京学芸大付属小学校が実際に対戦したらしい。

[注33]朝鮮蹴球団対東京高師は1926(大正15)年10月19日東京で対戦、2-1で朝鮮が勝つ。

[注34]山田午郎は1926(大正15)年東京朝日新聞嘱託、1928(昭和3)年正社員になる。

[注35]東京蹴球団と交流があったのは当然横須賀近辺にあった海軍諸学校だが、海軍教育の本流、広島県江田島にあった海軍兵学校のサッカーについて東京府立五中OBの伊藤敦夫が「所感」(『誕生十年』(東京府立第五中学校紫友会蹴球部,1935)所収)に記しているので紹介しよう。

“ 兵学校の蹴球は十一月から四月までがシーズンでその間は二週間に三回位の割合で体技(蹴球・籠球・ラグビー・排球)の訓練があります。靴もユニホームもあり、姿だけは立派なものですが、私なんかが単身ドリブル五十米許りシュートして一点取るなんてことが時々ある位だと言ったら何れ位の蹴球だか想像がつくでせう。でもシーズンの終りには試合が行はれます。分隊から一チームを出して試合するのですから内容は充実したものでドリブルとキックの競争の様なものですが、それでも仲々熱烈いや猛烈な肉弾戦を展開します。それは猛烈なもので五中の人が之位猛烈にやったらと時々思ひます。私が一学年の時に八中と広島附中の選手だった人と三人で九点入れて勝ったのが兵学校に於ける記録ださうです。

 時には学級で対抗試合をさせることがあります。此の方は人数が多くなるので上手な人も相当居りますからいくらか充実した試合振をやります。四月から五月にかけての土曜日曜にやりますが選手だった者が多い所が強い様です。平生も練習もしないでやるのですから仲々コンビネーションなんかよく出来ません。対抗試合など出来て学校で一チーム編成したら体力は秀れて居るし元気はあるし、練習次第では相当なチームも出来ると思ひますが何分島の中では何うにもなりません。

 現在ではゴールポストは二組立って居ます。全部芝生です。恐らくこんなに二つもグランドを持って居る様な学校はないでせう。こうした広い美しい所で球を追って走ることは全く気持がよいものです。”

 全面芝のグラウンドが2面あったなんてピッチ君もビックリ!

[注36]鈴木重義。東京高師附中、早稲田OB。優勝した1930年第9回極東大会、ベルリン・オリンピック日本代表監督。野津謙との共著『ア式蹴球』(アルス,1928)がある。


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