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2004年2月17日~2004年7月20日

(04/7/20)
初代ドイツ代表監督
オットー・ネルツがベルリン・オリンピックで日本代表関係者と歓談したり、一緒に観戦したりしてる写真があるそうです。彼自身もドイツ代表監督で日本代表がイタリアに負けた同じ 8月7日ノルウェーに0-2でまさかの敗戦を喫し、代表監督を更迭されたようなので、おそらくそれ以前のことと思われます。戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書 に記したように、ネルツの著書“Fussball”は戦前の慶應が翻訳し、聖典視されていました。オリンピック以前にも本人と直接文通していたのかもしれません。上記DFB(ドイツサッカー協会)のNerzの項にあるように、細かい規律を厳守させる「管理サッカー」信奉者で、選手には嫌われていたようです。

 日独サッカー交流というと、第一次世界大戦後広島県似島捕虜収容所から広島高師、広島一中などへの地方的交流は別として、戦後のクラマー氏来日に始まるように考えられがちですが、ベルリン以前すでにドイツ・サッカーの「本流」と交流があったことは、日本サッカー史上きわめて重要な事実かもしれません。ネルツの次の代表監督が“ブンデス・ゼップ”こと ゼップ・ヘルベルガー で、クラマー氏はヘルベルガーのアシスタント・コーチだったので、ネルツ・サッカーとクラマー・サッカーに何らかの共通点があったとしても不思議ではありません。

 ドイツ赤十字 によれば、ネルツはナチ党員だったためソ連に逮捕され、1949年4月19日収容所で亡くなったことになってます。享年52歳。

 ドイツ国立図書館の目録によれば、ネルツには"Fussball"(1926)以外に以下の著作があります。(ウムラウトは母音の後にeを置く形で変換)

"Der Torwaechter ." - Berlin : Weidmann, 1926. - 48 S : graph. Darst., Ill (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 11)
"Der Verteidiger ." - Berlin : Weidmann, 1926. - 47 S : graph. Darst., Ill (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 14)
"Taktik ." - Berlin : Weidmann, 1926. - 43 S : graph. Darst (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 9)
"Der Stuermer ." - Berlin : Weidmann, 1928. - 50 S : graph. Darst., Ill (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 17)
"Der Kampf um den Ball : Das Buch vom Fussball "/ [Otto Nerz ; Carl Koppehel]. - 2. Aufl.. - Berlin : Prismen-Verl., 1933. - 176 S. : Mit 136 Abb. ; gr. 8
"Unfallspaetschaeden des Kniegelenks unter Belastung durch Sport und Arbeit" / Otto Nerz. - Berlin : Weidmann, 1936. - 121 S. ; 4 (Leibesuebungen und koerperliche Erziehung in Theorie und Praxis ; Bd. 2)
"Fussball der Jugend : Grundschule d. Fussballspiels in d. Leibeserziehg in Jungenschulen" / Otto Nerz. - Berlin : Weidmann, 1939. - 112 S. : mit Abb. ; 8

 また、ネルツとヘルベルガーの卒業論文(Diplomarbeit)を復刻したと思しき文献が昨年刊行されています。

"Sepp Herberger und Otto Nerz : die Chefdenker und ihre Theorien ; ihre Diplomarbeiten" / Carl-und-Liselott-Diem-Archiv der Deutschen Sporthochschule Koeln. Eingeleitet, kommentiert und hrsg. von Juergen Buschmann .... - 1. Aufl.. - Kassel : Agon-Sportverl., 2003. - 164 S. : Ill. ; 30 cm
Teilw. zugl.: Berlin, Dt. Hochsch. fuer Leibesuebungen, Diplomarbeit, 1929 u.d.T.: Nerz, Otto: Fussball-Wintertraining. - Teilw. zugl.: Berlin, Dt. Hochsch. fuer Leibesuebungen, Diplomarbeit, 1930 u.d.T.: Herberger, Josef: Weg zur Hoechstleistung im Fussballsport ISBN 3-89784-195-9 kart. : EUR 24.80

 Agon-Sportverlagはなかなか硬派らしく、"Der DFB im Dritten Reich : einer Legende auf der Spur / Karl-Heinz Schwarz-Pich."(第三帝国下のドイツサッカー協会)なんて本も出しているようです。ヘルベルガーやネルツの復刻とは、オリンポスの彼方に去ってしまったゲルマン魂の源流を求めて・・(笑)


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(04/7/12)
日本最初のサッカー専門書
東京高等師範学校フットボール部編 『アッソシエーションフットボール』 (鍾美堂,明治36年)が全文アクセス可能になっています。第1章 緒論(p.1-18 6-15コマ)は必読です。GIFで読みづらければ、国会図書館の近代デジタルライブラリーからビューアーをダウンロードして、資料を検索し、高圧縮形式を選択してご覧ください。
 佐々木等の自伝「私の歩んで来た道」が『学校体育』28巻1-7号 1953年1-7月に掲載されているのを発見しました。


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(04/7/8)
日本サッカーミュージアムに望む
 W杯の収支が大幅黒字だったので急遽“出来てしまった”日本サッカーミュージアムですが、一度だけ行った印象では、「健闘してるけど、リピーターになるのは?」という感じでした。

 サッカーに先行する野球体育博物館には立派(?)な図書室があり、『野球界』(1911~)他のような資料を閲覧できます。私の限られた知見では、 秩父宮記念スポーツ図書館でも、JFA機関誌の完全なバックナンバーは揃っていません。戦前の『蹴球』誌から続くJFA機関誌コレクションを秩父宮より完全に揃えているののは、神戸FCの田辺文庫と故・新田純興氏旧蔵コレクションでした。

 せめてJFA機関誌のバックナンバーが完全に揃ったライブラリーがミュージアムに付設されていたらな、と思います。現在世界の図書館サービスをリードするBritish Libraryも 大英博物館の付設図書館だったんです。

 調べものに使えるライブラリーを作れば、いやがうえでもリピーターが増えるのでは?

 もちろん、活字資料だけでなく、JFA主催試合その他のAV記録、殿堂(ってどうなったんでしょうね)入りするような人とのインタビューとその寄付品なども蓄積いただければ、いずれは凄いコレクションになるのでは、と思いますが・・


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(04/6/13)
追加しました
『赤ダスキの歩み 刈谷高校サッカー部70年史』(愛知県立刈谷高等学校サッカー部OB会,1989)を追加しました。昔は色違いのユニフォームを揃えることが難しかったので、タスキをかけて試合をしてました。刈谷高校はペルー代表ユニのように、 タスキがけがユニにデザイン化 されているらしいです。


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(04/5/25)
満州国の国技は“蹴球”-読売新聞記事より
をアップしました。代表ユニの色の由来を教えてくれた方からの情報によります。大連一中卒の竹腰重丸は満州国との交流に重要な役割を果たしていたようです。

 また、戦後長くJFA専務理事を務めた小野卓爾は戦前「昭和10年4月 日独同志会主事」、「昭和16年6月 大日本産業報国会中央本部保険副部長」という経歴があるとのことですが、第4代JFA会長野津謙は日独同志会世話人で、「昭和16年 大政翼賛会国民生活指導副部長、大日本産業報国会厚生部長」になっており、戦後JFAを牛耳った野津-小野の会長-専務理事コンビは大日本産業報国会と日独同志会の時代から極めて太い絆で結ばれていたことになります。日独同志会というのは4文字で表せば反英親独、日独伊三国同盟推進の民間団体でした。同会設立の趣旨の日付は昭和11年11月25日、日独防共協定締結の日になっています。野津-小野コンビの最大の功績はクラマー氏の招聘ですが、「親独」は戦前以来の筋金入りだったということです。竹内悌三の『欧州の蹴球』にスウェーデン大使だった白鳥敏夫の名が出てきて唐突な感がしましたが、当時の蹴球協会幹部と親独派外交官は親密な関係にあったようです。ワイマール以前や戦後の親独には何の問題もないのですが、この時期の親独=親ナチ・・・

 何はともあれ、戦前の蹴球協会幹部は「国策」に深くコミットしていたことがわかりました。こうなってくると、昭和4(1929)年の理事改選で師範派に対して大学派が“クーデター” を起こした(当日誌02/1/24参照)のも違った文脈で解釈する必要があるのかもしれません。


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(04/5/22)
神戸サッカーのDNA
 TASAKIペルーレFCは国体優勝(2003)、女子サッカーLリーグ優勝(2003)、全日本選手権優勝(2004)の三冠を達成、代表チームに5名を送る、女子サッカーきっての強豪です。母体は1976年設立の神戸フットボールクラブ女子部門。神戸FCは1970年創立、日本最初の法人化されたサッカー団体(JFAが法人化されるのは1974年)で、その起源は1965年創設の神戸少年サッカースクール、1963年設立の兵庫サッカー友の会まで遡ることができます。これらの活動の中心人物は戦前の神戸サッカー黄金時代を知る御影師範OBの大橋真平、神戸一中OBの加藤正信、岩谷俊夫、大谷四郎らの諸氏でした。加藤正信氏の事跡については賀川浩氏が Kagawa Soccer Libraryに詳述されています。神戸FCには大正時代にビルマ人留学生チョウ・ディンの“直伝”を受けた玉井操氏や北川貞義氏も役員として関与されています。

 このように、戦前の御影師範附属小-神戸一中という“サッカー日本代表養成コース”を喪失して地盤沈下した神戸サッカーの復興を目的として神戸FCは設立されたのですが、残念ながら男子の方は日本代表を続々輩出というわけにはいってないようです。しかし、女子の方は日本屈指のサッカー王国だった神戸の名を辱しめない活躍をしています。大谷未央や川上直子はチョウ・ディン以来の日本サッカーの“正系”の延長線上に位置しているわけです。


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(04/5/19)
日本代表「青」の由来
についてメールをいただきました。その方によれば、戦前の大学サッカー関係者の話では、当時協会を仕切っていた東の東大、西の京大のチームカラーが青だったので、日本代表も青になったのでは、とのこと。1920年代に始まった関東、関西の大学リーグは当初東大、京大が強く、特に東大は1926~31年にかけて6連覇の偉業をなしとげ、1930年第9回極東大会優勝の主力となっています。ベルリン五輪代表ユニは東大そっくりのライトブルー(笑)。

 東大の淡青(light blue)は ケンブリッジの、京大の濃青(dark blue)→応援歌へは オックスフォードの、それぞれチームカラーに由来しています。“本家”の対抗戦(the Varsity Match) は剣牛戦(剣は“ケン”ブリッジ、牛は“オックス”フォード)という日本語になっていたくらい新聞雑誌で大きく紹介され、明治以来隅田川のボートレースなど日本でも剣牛戦を模した様々のスポーツ・イベントが行われてきました。

 ところで、いわゆる剣牛戦の出場者はケンブリッジ、オックスフォードともそのユニのカラーから“ブルー” と呼ばれていることをご存知の方も多いでしょう。同志社-神戸製鋼で活躍した日本代表ロックの 林敏之もオックスフォードでラグビーの対抗戦に出場し、ブルーの称号を得ています。

 青=選ばれしもの(ポルトガル語でいうセレソンですな)という認識→代表ユニ化、という仮説が成り立たたないでしょうか。 


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(04/5/13)
NHKの『その時歴史が動いた』
 実は本年2月にNHK(大阪)のディレクター氏からメールがあって、本サイト収載の資料をどこで閲覧したのか、サッカーの歴史に詳しい人は誰か、を聞かれたので、『蹴球』誌は秩父宮記念スポーツ図書館、田辺文庫(神戸フットボールクラブ)、人は後藤健生氏と賀川浩氏をあげておきました。玉木某氏ではなく、後藤氏か賀川氏がコメンテーターだったらよかったのに・・ 不満面については 武藤さん(04/5/12)のおっしゃるとおり。でも、試合の“動画”と「ヤパン! ヤパン! ヤパン!」を連呼するスウェーデンのラジオ局の録音はさすが天下のNHKと感心しました。川本泰三氏の遺稿集『わだち』(本サイト未収載)まで調べたのもご立派。堀江家に残るCharles Buchanの著書については本サイト中の 戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書をご参照ください。工藤孝一氏(コーチ)と堀江忠男氏(選手)は通算数十年にわたって早稲田の監督を務められたので、川淵氏を頂点として、岡田、釜本、森などの各氏から加藤、大榎氏あたりまで、華麗なる早稲田人脈(笑)は皆ベルリン世代の直接の教え子、というふうに締めくくるのかと思いましたが・・ それにしても来週はジンギスカンですか(笑)


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(04/5/12)
秩父宮記念スポーツ図書館
のオンライン目録が近日中に公開されるらしいです。 博物館のページに出ています。


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(04/4/17)
大和田建樹「フートボール」
『雪月花 散文韻文』(博文館,明治30)所収の全文は以下のとおり。

うらうらと霞みわたれる空は。暮れんとしてまだ暮れず。ものより帰るさに見れば。近きあたりの書生なるべし。五六人ひろやかなる芝生にあつまりて。フートボール蹴あそぶ処あり。高くあがりては黄昏月の如くしづかに落ちきたるを。人々あらそひおしたふしつつ。我さきにと両手にうけ。或は蹴そこなひて横に飛ばすを。かたへの童が馳せゆきて奪ひとるなど。いとにぎわしき見物なりけり。彼らがためにここちよげなる春の風は。時々に来りて熱き顔の汗を吹く。

大和田建樹はサッカーのルーツ校東京高師教授でもあったので、「フートボール」を詠んでいても不思議ではありません。「人々あらそひおしたふしつつ。我さきにと両手にうけ。」とあるのでサッカーではなく、ラグビーのハイ・パントのような遊びをしていたのでしょう。


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(04/4/15)
明治時代に部分的にサッカーに言及した著作
『実験動作遊戯』児童体育研究会編(松華堂,明治42)
『学校遊戯ボール遊ビ』東京児童体育研究会編(博報堂,明治41)
同上
『競技運動体育読本』晴光館編輯部編(晴光館,明治36)
『新撰遊戯法』日本体育会編(育英舎,明治36)
『実験普通遊戯法』高橋忠次郎著(榊原文盛堂,明治34-35)

鉄道唱歌の作詞者大和田建樹がフートボールを詠んだ詞を発見!!!
『雪月花 散文韻文』大和田建樹著(博文館,明治30)

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(04/4/9)
サッカー史のトリビア-シーメンス事件
シーメンス事件で追及の先頭に立った島田三郎の息子、島田孝一は初代早稲田大学ア式蹴球部長で、1938年W杯フランス大会を観戦、大日本蹴球協会を代表してFIFA総会に出席。同じく追及の先頭に立った花井卓蔵の息子立原元夫は早稲田大学在学中ベルリンオリンピック日本代表選手。追及の矢面に立たされた首相山本権兵衛は、日本にサッカーを伝えたといわれるダグラス少佐の最初の教え子。へぇ~


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(04/3/25)
追加しました
『部誌 第3号』(京都府立医科大学蹴球部,1958)、『10年のあゆみ 新宮サッカースポーツ少年団結成10周年記念』(新宮サッカースポーツ少年団,1987)、『年報 1987-1988』(函館サッカー協会,1988-1989)を追加しました。


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(04/3/23)
新コラム
失われたスタジアムを求めてに着手しました。


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(04/3/18)
先物買い本
『サッカー批評』最新号で、やたら「未完の大器」を煽りたがるスポーツ・ジャーナリズムに警鐘を鳴らす記事が載ったとたん、森本が出現(笑)。釜本引退以後“スター”が欠乏していたサッカー本の世界では、10歳で渡伯した17歳の水島武蔵の草鹿宏著『ムサシ、世界へ翔ぶ』(集英社,1981)、サントス在籍中の三浦知良の大貫哲義著『三浦知良のサッカー留学物語 日本人で初のブラジル・プロになった男』(講談社,1987)、東海大一高で高校選手権に優勝したばかりのアデミール・サントスの写真集『Beleza! 僕にはゴールが見える サッカーの天才少年アデミール・サントスのすべて』(小学館,1987)、JSLの新人王武田修宏の大貫哲義著『武田修宏物語 サッカーにかける青春』(講談社,1988)なんかが先物買い本として出ています。こうして並べると結構大手の版元が刊行してますね。三浦や武田はともかく、水島武蔵を覚えている人はどれだけいるでしょうか。水島武蔵本としてははもう1冊水島虚雪著『野性児教育』(三笠書房,1975)があります。水島虚雪は武蔵の父、子育て論の本なので本サイトには収録しませんでした。


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(04/3/12)
追加しました
菊地久著『2002ワールドカップに燃える桑原勝義』(フューチャー,1987)を追加しました。


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(04/3/9)
小学校の御禁令
堀田哲爾氏のことを書いた「清水市をサッカー王国に導いたある青年教師の情熱」『イレブン』1983年6月号p.136-140に、

 “清水市に小学生サッカーが芽生えたのは昭和三十一年。当時は文部省が、サッカーの激しい運動量から子どもには危険すぎるとして、小学生のサッカーは禁止していた。そんな中、静岡大学を卒業、小学校へ赴任したばかりの青年教師が、若さにまかせて好きなサッカーに情熱を燃やし続けたのがきっかけだった。その教師こそ、いま、静岡県サッカー協会理事長として、日夜、サッカーの普及と世界に通じる選手の育成-という大きなのぞみを抱いて活躍している堀田哲爾氏(現在、清水市教委体育保険課長)だ。
 当時、二十一歳の若さだった。はじめて、教職についたのは、清水市立江尻小学校。「危ないから小学生はボールをけってはいけない」と県の教育委員会も、文部省と同じようにサッカーを小学校で教えることを禁止していた。そんな中、校庭に出てはボールを蹴る堀田教諭に周囲の目は冷たく、聞こえよがしに非難する声さえとびだす始末だった。”

とあります。サッカーが義務教育課程化するのは昭和33年度の学習指導要領(小学校指導要領第8節体育 参照)から。それまでは逆に、文部省や教育委員会がサッカーを“禁止”していたのでしょうか? もしそれが事実だとすれば戦後サッカーの低迷は教育行政の責任ということになりますね。

 『イレブン』掲載「川本泰三インタビュー」索引と 『イレブン』掲載賀川浩著「うちそとサッカー40年」索引の欠になっている部分を埋めました。

 秩父宮記念スポーツ図書館のオンライン目録が4月から公開予定だそうです。


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(04/3/4)
幻のストライカー
 『サカマガ』今週号(04年3月16日号)の賀川浩氏のコラムに、名前は出していませんが高校選手権に2年連続して優勝したチームにいた大器と期待されたストライカーの話が出ていました。

 “日本のストライカーの系譜の中に、本来は釜本の前に入るべき逸材がいた。彼は高校選手権2年連続優勝チームのセンターフォワードで、押さえの利いたシュートとドリブル突破は、同世代で群を抜いていた。高校生でメルボルン五輪の代表合宿に入り、紅白戦では八重樫茂生や長沼健、小林忠生たちよりも多くゴールを奪っていた。
 結局はメルボリン代表には入らず、大学でも伸びずに終ったこの逸材を、いまでも愛惜をもって思い出す。”

“いまでも愛惜をもって思い出す。”が賀川氏らしい。その人物とは志賀宏(浦和高)。本サイト『イレブン』掲載「川本泰三インタビュー」索引 中の『イレブン』1976年3月号収載「高校大会にコツ然と現われ消えた幻のストライカー」で川本、賀川両氏が彼について語りあっています。

“賀川:大物といえば、戦後では、昭和37年の大会で山城高校2年の釜本が登場しています。
川本:釜本の前に志賀が出たのは、昭和30年ごろだったか。
賀川:浦和高校の志賀宏は昭和30年の第33回大会、このとき二年生で、つぎの31年にも出場し、連続優勝したんです。
川本:彼は全くすばらしい選手だった。
賀川:そうですネ。30年の決勝の相手は刈谷で、刈谷にはたしか熊田という当時の高校生としてはなかなかのセンターハーフがいた。志賀に対してどのていどやれるか、とみていたが、結局、歯がたたなかった。決勝のあとで、“ついに待望のセンターフォワードがあらわれた” と興奮しながら西宮球技場で記事を書いたのをおぼえています。
川本:そうだろう。大きなからだのくせに回転半径は小さい。ボールを扱ったら、前へ正対して小さいフェイントで持って出る。すべてのレベルが低かった当時、全く、コツ然とあらわれた選手だった。ちょうどマニラの第二回アジア大会(昭和29年)のあとで、鴇田(ときた)岩谷だけ残して君の兄貴たち古いメンバーを切って日本代表の若がえりを期したときだ。そんなときだけにボクは志賀をみて、天の授けと、高校生のときに日本代表候補にした。
賀川:シュートなども押さえがきいて、すごかった。身長は1メートル74、78キロぐらいだったか、体格の面でも日本代表に負けなかったでしょう。
川本:代表候補の合宿での練習試合でも先輩連中がよう止めない。彼がいちばんたくさん点をとるんだ。
賀川:当然メルボルン・オリンピックへもつれてゆこうと考えたでしょう。
川本:そのつもりだった。
賀川:それが、なぜ途中で消えたのですか。
川本:彼は浦和高校を出て慶応の新人の年だった。たしか最終選考の合宿のときに、試験と重なって、その試験を受けなければ一年遅れる。しかし、もし選手でゆけるなら(ゆけることがはっきりしてるなら)試験を受けずに一年棒にふってもよい、といってきた。志賀の本心かどうか、おそらく彼の周囲の連中の意見だったと思うのだが、ともかく、そんなことをいってきた。これには合宿にきている連中がおこった。なかには、代表選手としてメルボルンへゆけないことはわかっていて、代表をもりたてるために、勤務を休んで練習にきているものもいる。そんな連中からみれば、若いのに、何を生いきなことをいうか、ということだろう。
賀川:それで結局・・・
川本:ボクはつれてゆきたかったんだが、皆がコジれてしまってネ。
賀川:たださえ、弱い代表チームの気持ちが一致しなくてはいかんのでしょうが、それにしても惜しいことをしましたネ。彼がその時に代表になっておれば、チームも違っていたろうし、彼自身もそのあとの道もかわっていたでしょうに、ああいうすぐれた素質をもったのがいれば、鴇田や八重樫も、もっといい試合をやれたんじゃないですか・・・。
川本:志賀は結局、慶応でもあまりやらずにサッカーの第一線から消えたが、あのとき、もしメルボルンへいっていたら、日本のストライカーとしてある時代を画しただろう。日本代表チームも、あるいは、変わったものになっていたかもしれない。
賀川:8年、年少の釜本の前の時代に、もう一人、いいストライカーがいたことになりますネ。
川本:ことしも浦和南高校の田嶋など、いい選手はいた。しかし志賀はケタ違いという感じがしたネ。ずっとやっていたら、おそらく釜本につなぐまでやっていたろう。戦後の大物を一人なくしてしまったんだ。
賀川:川本さんは50年近く、わたしは40年この大会をみてきたわけですが、高校のときに、非常によいと思った選手が、そのまま、トップにまで、どんどん順調に伸びてゆく、ということは、まことにむずかしいことですネ。ことしの高校大会のように、いいサッカーをみせてくれた若い素材が自分の能力を開いてゆき、いいチャンスをつかんでくれることを期待したいものです。”

 賀川氏は平山を見て釜本より志賀がオーヴァーラップしたようです。“わたしは40年この大会をみてきたわけですが” からさらに30年たってます(笑)。大学なんかさっさとやめてしまえ!平山(大失笑)


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(04/3/2)
図書館所蔵率
東京都立図書館のHPに東京都の図書館横断検索というページがあります。東京都内の36館の公共図書館のオンライン目録を横断検索できます。 From backstandの2003ベスト・ブック、ティム・パークス著『狂熱のシーズン ヴェローナFCを追いかけて』(白水社,2003)は13館が所蔵、同2002後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』(双葉社,2002)は22館が所蔵していました。両方を所蔵しているのは11館で、中央、練馬、豊島、渋谷、目黒区立、立川、八王子、調布、武蔵野、府中市立、東京都立の各図書館でした。どちらか一方だけを所蔵しているのが13館、両方とも所蔵してないのが12館。図書館といってもあるところにはあるし、ないところにはない・・


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(04/2/26)
西宮球技場
ここならJSLや高校選手権を観戦したことがある・・ Yahooの8千分の1地図 の中心点のあたりです。1970年の決勝、浦和南対初芝を観戦。浦和のCFは『赤き血のイレブン』の主人公玉井真吾のモデル、永井良和でした。  


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(04/2/25)
南甲子園運動場
 戦前全国中等学校蹴球選手権(現在の高校選手権)や現在の花園ラグビー大会が開催された南甲子園運動場とはどんな競技場だったのだろうか。

 まず、所在地については『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道,1985)p.213の「甲子園運動施設・阪神パーク配置図」によれば、浜甲子園バス停(国道電車が走っていたころの終点駅)の東側(大阪寄り)、 Yahooの8千分の1地図 だと枝川町1丁目、団地第七となっているあたりで、道路寄り(西側)がメインスタンドだったようです。その北側から甲子園九番町にかけてテニスコートもありました。

1924年完成の甲子園球場に続いて1929年完成。前田純一(阪神電鉄株式会社監査役)「短命に泣く南甲子園運動場」(『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部,1983)p.47)によれば、

“・・・全国唯一の近代競技場は大正13年に出来た神宮外苑競技場だが御承知の通り一集400米のトラックの中へ投擲場や跳躍場やラグビーやサッカーを無理矢理押込んだような形で、その上スタンド、グラウンドが行け行けで整理がつかず色々欠点の目立つ競技場であった。あれやこれや考えた揚げ句結局の案は、まずトラックは一周500米、コーナーを半円形とせず三心円としてカーブをゆるくし球技場を収まり易くする。サッカーグラウンドとして75米X119米、ラグビーグラウンドとして75ヤードX110ヤード、跳躍の砂場はトラックとスタンドの中間に設ける。すなわちフイルド外に出るから球技の邪魔にならない。スタンドの前面は地上2米の高さとし、かつ大きな弓形をして砂場を抱へ込む。これでいずれの競技も相互に妨げられることなくグラウンド全体が非常に見易くなり、場内整理も非常に便利がよかった。鉄筋コンクリートの観覧席は定員2万人、当時の阪神パークや水族館のすぐ北で海岸に近く、バックストレッチは松林を越して鳴尾の競馬場が眺められた。スタンド内には貴賓室、集会所等の外、宿泊の設備もあった。昭和4年2月16日起工、5月22日に竣工した。昭和4年5月26日秩父宮殿下と妃殿下を迎え開場式を行った。”

このまま残っていれば、甲子園は野球だけでなく、サッカーやラグビーの聖地になってたかも。西宮はJの本拠地になり、W杯開催地に・・ しかも、全国唯一の“民営”スタジアム!

 大谷四郎「南甲子園の想い出」(同上p.52)によれば、

“・・・ここの陸上競技用トラックは珍しく500メートルだったから、なかのフィールドもやたらに広い感じだった。ウィングの強いチームには都合がよかった。タッチラインとトラックの距離も十分に取れたので、脚の速いウィングなどには全く快適の舞台、LWをやっていたら恐しく走りがいがあった。その代り、平素小さなグラウンドを使っていた中学チームには御しかねる広さだったかもしれぬ。

 神戸には東遊園地という外人クラブのグラウンドがあってその芝生はとくによかったが、南甲子園の芝生もよく手入れしてあったと思う。ことに夏場は緑鮮やかに深々と茂って、ボールが少し浮いたように芝生に乗るので、実にキックしやすかった。とにかく芝のグラウンドでは正しくければ正しく飛ぶから気持がよかった。

<中略>

 ここの欠点といえば風だったろう。スタンドが西側だけで南北が空き、海岸にも近いので大体浜風が吹いていた。それに乗ってアシカの鳴き声が大きく響いてくることもあった。冬は六甲おろしの北風が吹き、とにかく南甲子園はいつも風があるとみてよく、それが時には向きを変えたり、夏は急になぐこともあるので、トスに勝てば先に風上に陣する方が得策だった。”

 結局この競技場は戦時中の昭和18年4月海軍に接収されました。前田によれば、

 “海軍省の薄暗い廊下で1人の主計少佐は立ったまま阪神パーク、動物園、水族館、南運動場の敷地諸施設一切合財を三百数十万円で買収しますと内訳も言わず、全くの丼勘定で当時事業部長であった私に言い渡すとスタスタと消えて行った。私は涙も出なかった。”  


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(04/2/20)
庭球・野球・蹴球
城井睦夫著『“野球”の名付け親 中馬庚伝』(ベースボール・マガジン社,1988)p.100-101 によれば、中馬の著書『野球』(前川善兵衛,1897)中に、野球は「明治二十六年四月以来第一高等中学に於て、其野外の遊戯なるを以て庭球に対して野球と命名せるより原名と併用せらるるに至れり」とあるとのことで、野球に先行して庭球という訳語があったようです。なお、『野球』は国会図書館の近代デジタルライブラリー に収録されており、全文にアクセスできます。上記の箇所はp.8(11コマ目)です。

『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)p.22に「明治31年1月15日発行の『教育』によれば、蹴球部長坪井玄道教授の記事がある。」とありました。明治31年は1898年、19世紀末の1890年代頃に庭球、野球、蹴球という訳語が誕生したようです。というわけで “サッカー”という用語考をまたまた訂正。

中国語ではテニスは網球、野球は棒球、サッカーは足球、3つとも日本語訳に比べて即物的な感じです。誰かはわかりませんが、フットボールを蹴球と訳した人に拍手を!


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(04/2/18)
本日埼スタで観戦

???


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(04/2/17)
翻訳
私は『サカマガ』をジャック・ティベール氏のコラムから読むのを常としています。本日発売の『サカマガ』(2004.3.2号)の同氏のコラム(訳/中村一夫)に

“われわれは偽善の、ポルトガルを処罰せず、フランスが不当にも重い罰を受ける二重偽善の領域に入る。”[p.125](このページにページ付けがないが引用されるのが怖いのか?)

とありますが、どなたでもいいですからこれを“日本語”に翻訳していただけませんか。
素朴な疑問だが中村一夫って本名なの? 高名な某氏(多分故人)を騙ってるんじゃあ・・

本日の『日刊スポーツ』オンライン版に川淵大尉殿の談話として「サッカーの殿堂」を作る話が出てました。私としては、政財界人やバラエティ芸人が幅をきかせていた日本サッカーミュージアムの陳列品が悲しかったので、山田午郎や新田純興の両氏(この2人がいなければ、日本サッカー史は闇だった!)のような人々を顕彰していただければ、JFAを最高に評価できるのですが・・


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