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失われたスタジアムを求めて(未完)

☆はじめに

 鉄道交通の衰退に反比例して興隆の一途をたどるテツオタの世界では、「廃線跡探訪」という一派があり、すでに有力派閥を形成するにいたっているようである。サッカーでは「スタジアム探訪」サイトはかなりあるが、さすがに「廃スタジアム探訪」というページはまだないようなので、私が一派(←後に続くものはいるのか?)を立ち上げてみようと思う。

☆日比谷公園大運動場

 日比谷公園は1903年に開園した、日本最初の近代洋風公園。直江宏「樹木逍遥 日比谷公園の樹々」『日比谷公園学講座 平成5年度』(東京都公園協会,1994)によれば 公会堂の北側から小音楽堂のあたりまで、芝生や円形の大噴水があるあたりが大運動場。馬蹄形の痕跡が残っていることが、地図で確認できる。小坂祐弘著『松本楼の歩み』(日比谷松本楼,1973)p.45には松本楼の屋上から大運動場を撮った写真がある。大きな広場だったので伊藤博文、山縣有朋、大山巌、山本五十六の国葬はここで行われたとのこと。

 第1回全日本選手権(現在の天皇杯)決勝は1921(大正10)年11月27日午後2時日比谷公園大運動場で開催された。サッカー場ではないのでゴールポストがなく、豊島師範から大八車に載せて運んで来る途中、警官に尋問されて弱った、というエピソードがある。“運動場”なので、もちろん観覧席はない。これを“スタジアム”と称するには無理があるが、日本サッカー史上重要な故地なのであえてとりあげた。

 全日本選手権以外にも、東京蹴球団主催の関東中学蹴球大会や関東少年蹴球大会でもここが利用された。第1回関東少年蹴球大会は、1922(大正11)年10月15~16日に開催。名優森雅之(本名有島行光、父は白樺派の作家有島武郎)も成城小学校のLFとして参加。藤田潯吉は「牛込・成城小学校と第1回少年蹴球大会」(『成城蹴球・サッカー60年史』(成城蹴球・サッカー60年史編集委員会,1988)所収)で、“この大会で成城は青山師範に第1回戦で2-0で敗れてしまいましたが、日比谷公園内の松本楼で有島君のお父様、小原先生にライスカレーを御馳走になったことが思い出されました。”と回想している。小原先生とは小原国芳。東京蹴球団員原島好文は「ソッカー十年の思ひ出」(『運動界』10巻4号1929年4月収載)で、以下のように回想している。

 “日比谷公園をソッカーのために使ひ始めたのもやはり関東中学大会で、第四回から三度程続けた。その頃の名誉会長は時の東京市長の後藤子爵で、子爵は閉会式などには椅子の上に立ち上がって、鼻眼鏡の紐を弄びながら『諸君青年の意気は』などと訓示された。

 日比谷で思ひ出されることは、屋外集会の件とか何とかで山田君が警視庁に呼ばれたり、大会後の片付けが済んだ合図に一斉にホイッスルを吹いたら警官が数名飛び出して来たことなどである。”

 日比谷公園は政治の中心地に近く、1905年の日比谷焼打ち事件などがあったので、警察も厳戒していたようだ。

☆明治神宮外苑競技場

 現在日本の“サッカーの聖地”は 国立(霞ヶ丘)競技場 ということになっているが、これは明治神宮外苑競技場の跡地に設立されたものである。

 明治天皇と昭憲皇太后を祭る明治神宮内苑は大正9(1920)年完成、大葬儀が行われた青山旧錬兵場に外苑が完成したのが大正15(1926)年。『明治神宮外苑七十年誌』(明治神宮外苑,1998)p.24-25によれば競技場の概要は以下のとおり。

 “関東大震災で中断された外苑工事が再開したのは、大正十三年五月であった。同年十月、まず競技場が完成、二十五日に秩父宮殿下、奉賛会総裁閑院宮殿下がご臨席になり、竣功式が挙行された。式典では、東京市内より選抜された小学生による徒競走が行われ、競技場開きを盛り上げた。
 競技場は外苑の主要な建造物の一つであり、明治神宮が尚武剛健の気風を奨励されたことに因んでいる。当時、国民のオリンピックへの関心などによりスポーツ熱が起こり、奉賛会は大日本体育協会会長嘉納治五郎などよりの提案を受けて、競技場建設を決定した経緯がある。設計は造営局が当たったが、この種の大施設は欧米でも類例が少なく、専門家の意見を聞くなどして、大正八年十一月にようやく成案を得た。
 敷地は外苑の西北一万四〇〇坪(三万四、三二〇平方メートル)、東南北の三方を自然の地形を利用して芝生傾斜地の観覧席とし、西側に建坪一、二七〇坪(四、一九一平方メートル)の鉄筋コンクリート造りのスタンドを配置した。収容人員は、スタンド約一万五、〇〇〇人、芝生観覧席約五万人の計六万五、〇〇〇人であった。
 楕円形のトラックは一周四〇〇メートル、幅一〇メートル。トラックに囲まれた内庭約二、九八七坪(九、八五七平方メートル)を芝生のフィールド競技場とし、中央にフットボール、バスケットボール、バレーボールなどの団体競技場、南側に走り高跳び、砲丸投げ、円盤投げ、槍投げなど、北側に棒高跳び、走り幅跳び、三段跳びなどの競技場を配置した。”

また、同書の年表(陸上競技場p.574-577)によれば、

大正5年(1916)  競技場建設決定。建設位置を苑の西北隅渋谷川沿い射的場跡(旧江戸幕府の烟硝蔵跡)に定める。
大正6年(1917)  外苑計画綱領提出。明治神宮奉賛会より明治神宮造営局に設計施工委嘱。
大正7年(1918)  造営局より明治神宮奉賛会へ大体計画案作成提出。
大正8年(1919)  奉賛会大体計画承認。土工着手。四谷区霞ヶ丘町の一部、五、一五一坪を買収、競技場敷地に編入。
大正9年(1920)  土工終了。物価・労賃暴騰のため一時工事中止。
大正10年(1921) スタンド建築基礎工事着手。
大正11年(1922) 11.9 定礎祭。
大正12年(1923) コンクリート工事終了。関東大震災発生。損害はほとんど受けなかったが、避難民の収容(地階)、物資の供給途絶のため一時工事中止。
大正13年(1924) 工事再開。10.25 競技場竣功式。東京市一五区および隣接五郡より選抜の小学男女児童のオープニング競技。10.30 第一回明治神宮競技大会(~11.3)
大正14年(1925) 10.21 神宮競技大会優勝者銘板奉納式(明治神宮、以後毎回奉納)。第二回明治神宮競技大会。
<中略>
昭和5年(1930)  5.25 第九回極東選手権大会。日本優勝。インド初参加(~31日)
<中略>
昭和13年(1938) 4.7 英国蹴球団(イズリントン・コリンシャン)来日、関東OBと対戦。
<中略>
昭和15年(1940) 6.5 紀元二千六百年奉祝東亜競技大会。日本・満州国・フィリピン・中国・ハワイから選手七〇〇余名参加(~9日)。
<中略>
昭和18年(1943) 10.21 出陣学徒壮行会。雨中に分列行進二万五、〇〇〇人(文部省・学校報国団本部主催)。
<中略>
昭和20年(1945) 9.18 競技場進駐軍接収。進駐軍管理下「ナイルキニック・スタジアム」と称される。
<中略>
昭和25年(1950) 10.1 早大-慶大サッカー定期戦。日本初のナイター試合。
<中略>
昭和27年(1952) 3.31 競技場全面接収解除。6.5 日本-香港華人蹴球親善試合(7・8日)。8.21 第一回東日本サッカー大会(~25日)。
昭和28年(1953) 1.2 第一回全国大学サッカー大会(~6日)。6.11 日独親善サッカー試合(14日)。8.15 第二回東日本高校蹴球大会(~21日)
昭和29年(1954) 3.7 第五回世界選手権(ワールドカップ)サッカー極東地区予選。日本-韓国(14日)。
<中略>
昭和31年(1956) 11.30 陸上競技場売却処分。12.28 国立競技場起工式。ただちに既存競技場の解毀工事開始。

 1924年の開場と同時に明治神宮競技大会が始まっている。これは現在都道府県が持ち回り開催している国体のような総合競技大会で、毎年10月末から11月始めにかけて明治神宮競技場で開催された。サッカー部門は現在の天皇杯の前身に相当してするものである。神社行政は内務省の所管だったので、主催は文部省ではなく内務省だった。同じ1924年から大学リーグ(東京学生リーグ)も始まるが、シーズン的に見事にバッティングしている。『天皇杯65年史』(日本サッカー協会、1987)中の「草創期から「ベルリン」後まで」と題する座談会では以下のように述べられている。

(前略)
鈴木(武士):第4回大会は明治神宮大会という総合競技会と兼ねて行われたのですか。
新田(純興):そう、大正13年のこの大会からだ。これ以後、戦前の東京での全日本選手権決勝は第16回大会(昭和11年6月)の陸軍戸山学校グラウンドを除き、すべて明治神宮競技場(現在の国立競技場)で開催された。内務省の主催する大会で、明治神宮に奉納するものだったのです。だから当時は大変熱の入った大会で“FA杯”より明治神宮大会の意識の方が強かった。
(中略)
鈴木:大正15年(1926年)の第6回大会は天皇がお亡くなりになったので中止されましたね。その前に全日本は、神宮大会と切り離すべきだ、との声が出ていたと聞いています。学生の参加という問題もあったようですが・・・。
新田:内務省主催の明治神宮大会では学生の参加が許されないことになった。一方、全日本は協会に登録しているチームならかまわない。これまでうまくいっていたのがダメになった。神宮大会は天皇がお亡くなりになる前に行われたが、協会はこれとは別に翌年の1、2月に独立して全日本を開催することにしていた。それが大正天皇の崩御で中止になったわけです。
鈴木:ところが次の第7回大会(昭和2年=1927年)はまた神宮大会を兼ねていますね。
新田:内務省と文部省が妥協した結果だよ。神宮大会は最高のものでなくてはいけないということで、再び全日本は神宮大会を兼ねることになった。学生も出場してね。
(中略)
鈴木:東京帝大LBが初優勝した昭和6年10月の第11回大会は神宮大会とともに第1回全国地方大会を兼ねていますね。この地方対抗というのは?
小野(卓爾):大会をなんとかにぎやかなものにしようというところから、そのタイトルをつけたんだと思うよ。北海道の函館蹴球団なども参加した。
鈴木:早大WMW,慶応BRBなどはOB現役の混成チームですが、東大LBもそうだったのですか。
新田:コーチのノコさん(竹腰重丸氏)があんまりやかましいので、のんびりやれるチームを作った(笑い)。学生リーグに出ているレギュラーでない連中が、全日本に出て勝ったんだよ。
鈴木:ということは、学生の意識は全日本より大学リーグの方が重要、ということだったんですね。
新田:そうです。LBの方は文句を言われないでやりたい、という連中の集まりだったんだ。
(後略)

座談会で述べられているように、大学チームは明らかにリーグ優先だったのだが、ベルリン・オリンピック代表戦選考の際この大会が選考参考試合となったことにより、優勝した京城蹴球団の位置づけをめぐって植民地朝鮮と内地で対立することになる。
(続く) 

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