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『蹴球』誌掲載ベルリン・オリンピック選考経過

<はじめに>

 ベルリン・オリンピック代表16人を発表した大日本蹴球協会機関誌『蹴球』4巻2号昭和11(1936)年4月号p.2-3にその選考経過が掲載されている。ベルリン・オリンピック代表選考過程については、朝鮮対内地、関西対関東で民族的、地域的対立があったにもかかわらず、日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)ではこれらへの言及は避けられている。近年W杯の共催もあって朝鮮サッカー史に関する著作も出版され、当然ベルリン・オリンピック代表選考過程にも言及されている。
 従って、この選考経過記事の史料的重要性が高まっていると考えられるので、ここにその全文を紹介したい。なお、この記事は無記名で発表後50年以上を経過している。また、コンピュータ入力や読みやすさを考慮して、漢字の字体を一部変更した。もちろん原文は縦書きであることはいうまでもない。

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選手候補者決定ノ顛末左ノ如シ
昭和拾年五月廿十六日 全国代議員会ニ於テ左記ヲ決議ス
 (一)第拾一回万国オリムピツク大会絶対参加
 (二)派遣選手ノ決定ハ「オリンピツク派遣選手銓衡委員会」ヲ設置シ、同委員会ニ依ツテ決定ス
 (三)同委員会委員ハ各地方協会ニ於テ其候補者ヲ推薦シ最後的ノ決定ヲ大日本蹴球協会理事会ニ一任ス
昭和拾年七月八日 理事会ニ於テ全国代議員会ヨリ一任セラレタルオリムピツク選手銓衡委員ヲ左記ノ通リ推薦委嘱ス
 竹腰重丸 濱田諭吉 工藤孝一 斎藤才三 永野武
昭和拾年八月拾六日 理事会ニ於テ七月下旬開催ノ予定ナリシオリムピツク選手銓衡委員会ハ竹腰委員渡満ノ為延期セル旨報告、承認ス
昭和拾年九月九日 理事会ニ於テオリムピツク選手銓衡委員会ヲ九月拾五日ニ開催スルコトニ決定ス
昭和拾年九月拾五日 オリムピツク選手銓衡委員会開催ス、出席者 濱田、工藤、永野各委員
 左記ノ銓衡綱要ヲ決定ス
 (一)従来ノ経験、現時ノ蹴球界ノ状態ニ鑑ミ全国的ピツクアツプテイームハ不適当ト認メラルルニ依リ
  (イ)今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス
  (ロ)右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ他地域ヨリモ補充スルコトヲ得
 (二)銓衡ニハ全日本選手権大会、神宮大会(全国地方対抗選手権大会)、東京学生リーグ戦、東西学生リーグ代表対抗試合其他ヲ参考トシ、猶必要ト認メラルル場合ニハ更に銓衡試合ヲ行フコトモアルベシ
昭和拾年拾月拾四日 理事会ニ於テオリムピツク選手銓衡委員会ノ前掲ノ決議ヲ確認ス
昭和拾年拾一月三日 オリムピツク派遣選手銓衡委員会開催 出席、竹腰、濱田、工藤、斎藤各委員
 左記ノ通リ決定ス
  参考資料トセルコレマデノ試合ニ現レタル限リニ於テ著シク優秀ナルテイーム無ク銓衡綱要第一項(イ)(ロ)ニ該当スルテイーム無シ、優勝セル朝鮮テイームニ於テモ個人的ニ優秀ナルプレーヤーハ僅ニ金永根、金容植等二三ノ者ヲ挙ゲルノミ
昭和拾年拾二月拾五日 オリムピツク派遣選手銓衡委員会開催 出席、竹腰、濱田、工藤、斎藤各委員
 左記ノ通リ決定ス
  (一)早大ハ選手銓衡綱要第二項ニ係ル諸試合ニ出場シタルテイーム中最モ優秀ナリト認メラルルモ尚同綱要第一項(イ)ニ該当スルモノトハ認メ難キニ依リ、委員合議ノ上同綱要第一項(ロ)ノ場合ニ拠り関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト
  (二)斎藤委員ヨリ関西協会所属テイーム中ニハ優秀ナル選手アルニ依リ昭和拾一年一月十九日ニ行ナハル可キ関東関西対抗選抜試合ニ於ケル関西側選手ヲ観察セラルベキ旨提案アリ一同之ヲ承認シタリ
昭和拾一年一月拾九日 オリムピツク派遣選手銓衡委員会開催 出席、竹腰、濱田、工藤、斎藤、永野各委員
 本日ノ試合ヲ以テ参考試合ヲ打切トシ左記ノ選手ヲ第一次候補者トシテ推薦セリ
  選手氏名
  F・W 市橋時蔵(慶大O・B) 右近徳太郎(慶大) 加茂正五(早大) 川本泰三(早大) 加茂健(早大) 金永根(崇実) 高橋豊二(帝大) 西邑昌一(早大) 播磨幸太郎(慶大) 松永行(文理大)
  H・B 石川洋平(慶大) 種田孝一(帝大) 金容植(普成) 小橋信吉(神戸高商) 笹野積次(早大) 関野正隆(早大) 立原元夫(早大) 高山英華(帝大O・B) 吉田義臣(早大)
  F・B 鈴木保夫(早大) 竹内悌三(帝大O・B) 堀江忠男(早大)
  G・K 上吉川梁(関大) 佐野理平(早大) 不破整(早大)
    以上廿五名
昭和拾一年三月九日 理事会ニ於テ銓衡委員会ヨリノ前掲選手候補者推薦ヲ確認ス

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<解説>
1.昭和10(1935)年5月26日全国代議員会で銓衡委員会の設置が決定されるが、委員は「各地方協会」の推薦によるとされている。 昭和10(1935)年7月8日に選出された銓衡委員5名は竹腰(東大)、濱田(慶大)、工藤(早大)、斎藤(関学)、永野(京大)の出身で、関東3名、関西2名。この5校は東西大学リーグの当時の有力校。「各地方協会」といっても、実際には関東、関西大学リーグ代表だったといえる。すでにこの段階で、朝鮮から多数候補選手が選出される可能性はなかったといえよう。

2.第1回銓衡委員会(昭和10年9月15日)で決定された銓衡綱要
(一)「全国的ピックアップチームは不適当」。(イ)「断然たる強みを有するチームを主体に編成する」。これは国際試合に初勝利した昭和2(1927)年第8回極東大会の代表は早稲田主体、極東大会に初優勝した昭和5(1930)年第9回大会代表は東大主体であったのに対し、オランダ領東インドに惨敗した昭和9(1934)年第10回代表が関東、関西ほぼ同数の混成チームで、チームにまとまりがなかった経験をさすものと考えられる。
(ロ)「一地方協会管轄区域」とは関東のこと。
(二)全日本選手権大会は6月に終了しており、京城蹴球団が優勝。神宮大会は10月30日~11月3日開催、東京学生リーグは10月5日~11月24日開催、東西学生リーグ代表対抗試合は12月15日開催。銓衡綱要はシーズン・イン前に決定された。なお、東京学生リーグとあるだけで、関西学生リーグはその他扱いされていることに注意。

3.第2回銓衡委員会(昭和10年11月3日)は京城蹴球団が優勝した神宮大会決勝の日開催。銓衡綱要(一)(イ)(ロ)に該当するチームなしとされており、京城蹴球団に言及して優秀選手は2、3名のみとしている。神宮大会(紛らわしいが、今日の天皇杯の前身はこちら)は5日間で京城は4試合、準優勝の慶応BRB(現役、OB混成チーム)は3試合している。大学リーグ戦も最中で、慶応は10月28日に対商大リーグ戦を戦っている。慶応はリーグ戦6チーム中4位に終わる。リーグ戦の最中に強行日程の神宮大会を開催するというスケジュールのため、朝鮮(京城となっているが、平壌の金永根を補強しているようにオール朝鮮的メンバーを組んだ)サイドと日本の大学チームとでは神宮大会に対するモチベーションにかなり差があったようだ。

4.第3回銓衡委員会(昭和10年12月15日)は東西学生リーグ代表対抗試合開催日。関東リーグを全勝優勝した早稲田が12-2という大差で関西リーグ優勝の関学を粉砕。当時の試合評を読むと、ショート・パスの早稲田対ロング・キックの関学と戦術も対照的で、この試合はショート・パス戦法の優位性を確定した戦術面でも重要な一戦だったのかもしれない。この惨敗が祟ったのか、関西リーグ優勝校の関学から代表候補に1人も選出されていない(2年前の極東大会では代表に6人選出されている)。斎藤が反対したのか、銓衡綱要(一)(イ)に早稲田は該当しないことになったが、同(ロ)がここで生きて「一地方協会管轄区域」が関東であることが明らかになる。母校の惨敗にもめげず斎藤が頑張って、翌年1月開催予定の関東関西対抗選抜試合(全関東対全関西)で関西の有力選手を見るまで推薦決定を延ばすことを承認させている。この段階で早稲田中心の関東大学から多数選出される形勢になっている。

5.第4回(最終)銓衡委員会(昭和11年1月19日)は関東関西対抗選抜試合の開催日。南甲子園で開催され、全関西が3-2で全関東を破る。全関東イレブンはFBの竹内(東大OB,オリンピック代表主将になる)以外は全員早稲田。全関西が全関東(早稲田)に勝ったにもかかわらず、神戸高商OBのウイング大谷一二が選出されなかったことが関西側の感情を特に害し、関西協会は日本協会の選手決定の不当を訴えた声明文を各報道機関に送付。関西から選出された2人は候補を辞退してしまい、最終選考で代表に選出されたのは関東15人(内早稲田10人)と朝鮮(金容植)1人で、関西の大学からは1名も選出されないことになる。2年前の極東大会代表17人が関東9人、関西8人であったのと対照的な結果に終わる。


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<選考の背景>

1.極東大会の実績
 「日本代表」が結成されたのはベルリン・オリンピックが最初ではない。極東大会には大正時代から参加しているが、当初は単独チームや地域選抜チームが代表になっており、東西合同の「全日本」が選抜されたのは昭和5(1930)年第9回大会が最初で、1勝1分けで初優勝する。ハイライトの対中華民国戦のイレブンは東大8、関学2、早稲田1人。監督は早稲田OBの鈴木重義、主将は東大OBのCH竹腰重丸、FWは全員竹腰が手駒として育成した東大勢がしめた。
 次の昭和9(1934)年第10回大会では、選考参考試合として関東選抜対関西選抜戦を2試合行い、1勝1敗だったので、代表17人は関東9、関西8とほぼ同数が選出された。選抜チームからさらにピックアップしたので、芯になるチームのないピックアップ・チームになり、合宿の段階からチームがまとまらず、本番ではコンビネーションが悪くて1勝2敗の成績に終わる。総監督鈴木、監督竹腰、コーチ工藤孝一でスタートしたが、都合により、鈴木、工藤は帯同せず、竹腰監督と田辺五兵衛助監督になる。
 ベルリン・オリンピックでは竹腰、工藤が銓衡委員からコーチに、鈴木が監督になるが、前2回の極東大会の経験が銓衡綱要に反映され、早稲田中心のチーム編成になる。早稲田は候補段階で12人!、GK2人、HB(当時は3HBシステム)が4人候補に選出され、早稲田優先が露骨に示されている。
 大島裕史著『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、1996)、康奉雄著『知られざる日韓サッカー激闘史』(廣済堂出版,1998)ではともにベルリンの選考において、朝鮮人が「排除」されたように書かれているが、極東大会からの流れをみると、早稲田、関東優先が貫かれたため、他の地域が入り込む余地がなくなってしまったのではないかと考えられる。ちなみに、1934年第10回極東大会代表→ベルリン候補→ベルリン代表の地域別内訳を示すと、

    極東大会代表(1934年 17人) ベルリン候補(1936年 25人) ベルリン代表(1936年 16人)
関東    9人                 21人                15人
関西    8人                  2人                 0人
朝鮮    0人                  2人                 1人

「排除」された地域があるとすれば、朝鮮よりも関西の方であろう。

2.戦術
 1934年の関東選抜対関西選抜戦第2戦(関西が6-1で大勝した)の『アサヒスポーツ』の戦評で、当時の代表的なサッカー・ジャーナリスト山田午郎は以下のように書いている。

「辛苦の末に細かく寄せる関東軍の攻撃はゴールに近く寄せ切れぬうちに関西軍バックスの優れたキックで形勢を一挙に不利に導かれるといふ有様でこれを大まかに見るならばロングキック・システムとショウトキック・システムの正面衝突であった、いわゆる地方的伝統の技風の対立で関東軍は潰えた、...」

 関東のショート・パス対関西のキック・アンド・ラッシュという「地方的伝統の技風の対立」があり、1934年の関東選抜対関西選抜戦では第2戦を完勝することができたが、翌年のリーグ優勝校対決の早稲田対関学戦は関学の記録的大敗に終わる。そもそも極東大会でフィリピンに優位し、中華民国と対等になったのは、日本がショート・パス戦法を会得してからである。ショート・パス戦法を日本に伝えたビルマ人留学生チョウ・ディンの直弟子というべき鈴木重義、竹腰重丸が監督、コーチとして指導するチームではチーム戦術としてショート・パス戦法を採用している早稲田、東大が中心になるのはやむをえない面がある。京城蹴球団もキック・アンド・ラッシュのチームであり、関西、朝鮮から多数選抜されなかったのは、戦術面の理由もある。

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