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原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介

[解説]
 原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』は『運動界』誌10巻4号(1929年4月)p.36-45に掲載された、大正期サッカーの回想である。

 原文は縦書き、パソコン入力に際して字体を変更した文字があることに留意されたい。

 原島好文は本文によれば、1912(大正1)年青山師範入学、師範学校は5年制なので1917(大正6)年に卒業ということになる。同年に結成された東京蹴球団の創立メンバーで、回想の大部分は東京蹴球団時代の活動である。師範学校卒業生は小学校教員になる奉職義務があったので、卒業後本稿執筆時点までおそらく東京府下の小学校教員をしていたはずである。大日本蹴球協会が1939(昭和14)年に募集した『蹴球行進曲』(大塚楠男作曲)の作詞者。

 東京蹴球団は現存する最古のサッカー・クラブ(→東京蹴球団HP)、田中孝一著『サッカーの物語』(ベストセラーズ, 2001)にも同団の歴史的役割が紹介されている。同団史も『東蹴六十年史草稿』(東京蹴球団,1977)として刊行されている。 東京高師OBで豊島師範にサッカーを伝えた内野台嶺を中心に、東京高師、青山師範、豊島師範のOBにより結成された同団は、各種大会の開催、指導・普及のような本来なら協会がなすべき仕事を行い、1921(大正10)年大日本蹴球協会創立時の中心メンバーは内野をはじめ同団がしめている。また、1921年上海で開催された第5回極東大会(日本代表最初のアウェー戦)には同団から7人が選抜されている。

 1920年代後半になると日本代表選手や協会運営の実権は大学生またはそのOBのものとなり、同団は歴史の表舞台から姿を消す。しかし、本稿には、クラブチーム、リーグ戦、(トーナメント)大会、サッカー・ジャーナリズム、女子サッカー、少年サッカーの“起源”に関する記述があり、東京蹴球団が興隆期の日本サッカーに果たした多彩な業績をふりかえることができる。

 本稿が掲載された『運動界』10巻4号はその巻数が示すように創刊10周年で「日本運動界十年の回顧」特集、サッカー以外の記事は以下のとおり。

 ボート界十年の回顧(宮木昌常)
 庭球界の過去十年(針重敬喜)
 球界の回顧(弘田親輔)
 六大学野球リーグの回顧(芦田公平)
 第一回陸上競技インタカレヂの思ひ出(上野徳太郎)
 陸上競技の先覚者(加藤正)
 スキー界十年の回顧(小川勝次)
 日本籠球界の回顧(李想白)
 十年前の回顧(岡部平太)

 さらに「記念号と題して」として以下の記事がある。

 所感(河野安通志)
 心からの共鳴(土屋多恵雄)
 運動界十年を賀す(半澤正二郎)
 十年前と運動界と僕(松本幽谷)


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 私がソッカーの選手になったのは大正元年の秋であった。中等学校ソッカーの草分けといふ歴史を持ってゐる青山師範が、当時無敵の雄を誇ってゐた高等師範に勝越しの記録を残した年であったから、都下最強ティームの一メンバーに加へられた喜びをAFCのマークに現して、選手のみに許されたユニホームを着て嬉しがった。其の頃から数へると既に十七、八年も過ぎてゐるから一昔どころかやがて二昔にもなる前の話だ。成る程志蹴老から『ソッカー十年』の思ひ出を書けと云はれる程古い訳だ。  それから五年の選手生活中、私ども最もよく試合したのは東京高師、豊島師範、埼玉師範の三校と、東京フットボール倶楽部、タイガー倶楽部[注1] の両ティームとであった。修学旅行で上京した山梨師範や庄内中学を迎へたり、修学旅行の徒次奈良師範と戦ったこともあった。兎に角ソッカーを運動部の一つとしてゐた学校は十校内外であったらうと思はれる。西多摩郡体育会[注2]の連中が遠征して来る年中行事があった。細谷章さんが大将で大内桝治さんが副将、西海龍蔵さんなどは勇卒であった。これなどが邦人倶楽部の元祖かも知れない。

 庄内中学の諸君が試合当日に白熱といふ時皆足袋を脱いで跣足になって了ふのには当時に於ても私どもは吃驚しちゃった。[注3]奈良に行った時、ストッキングのない私どもは脚胖がけでやって春日様の鹿を驚かした。東京フットボール・クラブ(英大使館員)は芝浦にグラウンドを持ってゐて、私どもを呼んだ時は必ず試合後ビールを出して呉れたので、乾いた咽喉を潤すまではよいが酔った顔の始末に困りながら寄宿舎に帰った。こんなことが次から次から思ひ出されて来る。私は選手としても主将としても勝った記録は殆んど持たなかった訳だが今はどの試合にも勝ったやうに思はれてならない。


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 周囲の気勢に釣込まれて理由もないのに憎み合って居た漢達が、何かの事情でお互に裸になって語り合ふ機会に出会ふと却って親しくなるものだとすれば、その事実が東京蹴球団を産み出したと云ひ得る。

 東京蹴球団は大正六年に出来た。

 丁度其の年の六月、山は青葉の衣を着け、野は若草の衾を敷くのに私達は兵隊さんになって麻布三連隊の赤煉瓦の中に生活せねばならなくなった。

 同一条件の下に対立してゐる青山、豊島の両師範は、自己の弱点を怖れる競争意識に支配されて、事毎に対抗して張合ふの醜態を露骨に見せてゐた。其の裡にあるソッカーも、恐ろしいもの見たさの心持ちで、互に戦ひを挑み且つ応じてゲームを続けて来た。其のフット・ボーラー達は図らずも茲に戦友となって了った。会って隔意なく話して見れば何れも気持のよいスポーツマンだ。だから新兵らしい顔もしないで、酒保のターフルを囲む時も、西門外の芝生に寝転ぶ時も、話はフットボールのことゲームのことが繰返される。とうとう一所になってティームを作ったらどうだとまで進んだ。

 其の頃、内野の台嶺さん[注4]が、此の競技を学生以外の者のやらないのは遺憾だから、東京在住の者で一団体作り度いと云っていると、誰かが伝へたので、それから内野さんを中心にして実行に歩を踏み出すが近道だからその方面より突進しようとなった。

 其の時、赤坂一連隊にもそんな話が持上がった。人の気持は、そんなに大した隔たりはないものだと嬉しかった。

 秋雨の冷たく降っている九月のある夜、私達は大塚茗渓会に集まった。内野さんから、創立の趣旨だの経過だのと話があって後、名は何と附けたらよからうかが問題になった。始めは真剣に考へてゐたが、よい案が出ない。さうなると誰かが与太を飛ばす、随分色々の案が出たが、クラブとしてでなく団の字を用ふるとなったのが栗山長次郎君の案で大勢は関東蹴球団と決りさうになった時、内野さんが東京の名を冠し度いと云ひ出したのでそれならと東京蹴球団が出来た。

 要するに斯道の発達を図り競技の宣伝をするのが目的だから、早速どこかと試合をしやうといふので、ポヂションを定め、試合の日取りや相手の相談を始めて、役員を定めるの規約を作るのなどは自然後廻しになった。

 其の当時のメンバーは原島、山崎、安藤、林、小野田、山田、吉永、下村、内田、村田(今の露木)、栗山の諸君で、サブとして内野、北川、渡邊、吉川、大瀧の諸氏が居た。やたらに試合は申込むが、さう何時も揃ふ訳には行かない。何でも七人以上集まれば開始することにしたがそれでも勝ったり引分けたりした。それほど強かったかと早合点されては困る。元気のよいのと頑張りのきくことが勝因であったらう。

 当時に於て、自ら斯道の開拓者を以て任じ闘志満々たりし二十名ほどの中、今でも東京蹴球団員として其の名を列ねてゐるのは山田君と露木君と私だけになった。而も猶ボールに親しんでゐるのは山田午郎君[注5]だけだ。僅十年、東京蹴球団の名は変らないのに、その組織胞の新陳代謝の何と甚だしいことよと云ひ度くなる。自ら老いたりとは誰も思はぬであらう。
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 その頃英国大使館員だったヘーグさんが司会者となって英大使トロフィー争奪のリーグ戦を始めた。加盟ティームは、東京フットボールクラブ、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の七つで、規約は今のカレッヂリーグのそれと異なるところがない。[注6

 其処で東京フットボールクラブと東京蹴球団と英訳して同じになるので困るとかいふので一方には日本と冠し他方には英吉利と冠するやうに何時の間にかなって了ったのだ、私どもも大日本蹴球団と自らも呼ぶやうになった。誰かが何時だったか、大日本蹴球団は芦原将軍[注7]が名附け親かと云ったが、その由来は如斯である。

 そのシーズンはイギリスを冠する方の優勝となった。
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 私どもの東京蹴球団はティーム創始の勢で、殆ど毎日曜を試合で暮らしてゐたが、勝ってばかりは居られない。グラウンドを持たぬクラブ・ティームの停滞にお構ひなく学校ティームは伸びて行く。何か学校ティームに出来ないことで優越権を認めて貰ひ度くなった頃、一つ蹴球大会をやらうではないかとの話が持ち上がって、私たちの行く道は見付かった。無制限でやらうとも云って見たが、結局関東中等学校と限定することになった。而しこれも本団だけでは荷が重すぎると思ってゐる時、竹内広三郎君[注8]達がその間にあって尽して呉れて、東京高師と協力し、更に東京朝日新聞社の後援を仰ぐこととなった。

 幾度か談合して、大正七年二月上旬三日間[注9]大塚の高師校庭で行ふことになった。朝日の運動部はお手のものの新聞広告に特別記事を掲げた。続いて役員決定として何段抜きかの見出しで多くの役員の顔が並べられた。名誉会長の嘉納治五郎先生[注10]はじめ委員までが、その何れにも官職が付せられてあった。まだその頃でも位階勲等は一つの飾となったらしい。更に『本邦蹴球史』[注11]とか『蹴球の見方』[注12]とかも掲げられる程、新聞社でも後援して呉れたが、参加ティームは明治学院中学部、豊島師範、埼玉師範、青山師範、横浜二中、佐倉中学の六校に過ぎなかったので、豊島、青山からは更にB組の参加を頼んだ。模範試合と銘打ってオープン・ゲームを挟むことになり、それに参加したものは東京フットボールクラブ、朝鮮青年団、中華留日学生団、東京高師、帝国大学、それに主催者の本団の六つで、これが当時のソッカー・ティームの殆ど総てであったらう。

 二日目は烈しい寒さでひたと雲の閉ざした空からは氷のやうな冷たい雨が降ってゐる。雨の中でも試合は出来ることを証明する積りではなかったが続行した。岡本一平さん[注13]の漫画『素人の見た蹴球』 [注14]が都人士の好奇心をそそり観衆はかなり集まった。目先の変ったところに起る人気は、三日目に至り図らずも日英両東京に集まった。大会としては本末転倒だが仕方がない。翌朝の新聞は各社筆を揃へて『六殿下台覧の下に壮烈なりし日英戦』 [注15] といふ記事を載せて呉れた。東京朝日新聞に連載された一平さんの漫画の添書の一節。

 『蹴球クラブ員の外人と蹴球団の邦人の試合を一言にて尽せば、外人が大股にてボクボク球に追ひつき、将に蹴飛ばし呉れんずの刹那付纏って来た邦人が傍より短い脚を差出しヒョイと毬を掻きさらって了ふ。』

 これが本邦蹴球大会の魁。
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  どうもコーナー・キックとかペナルティ・キックなどは活字数が多くなって新聞社でも困るだろうから、適当な術語を作らうと、門蹴、自由蹴、懲罰蹴、隅蹴から各ポヂションの名称まで作った。当時の新聞紙に頭弾の文字を見るであらうが、これはヘディングである。私たちがこんな言葉をやたらに作り出したのは結局何の利益も齎さないで畳蹴とか隈蹴とかいふ誤植のために却って説明を求められるのが落となった。

 蹴球戦記を書き始めたのは東京朝日新聞の運動部であったらう。[注16] 第一回の関東蹴球大会までは、蹴球戦記が記事となって新聞紙に掲げられたことはなかったのを、兎に角数行或は十数行をそのために当て呉れた。『一進一退』、『敵前出の虚を衝いて奇襲を試み』などの文句がその頃は屡用ひられたやうだ。私などもその筆法を真似てやたらに戦記や妄評を書きなぐった。私が始めて稿料を戴いたのも此の『両軍技量伯仲にして一進一退』を並べた拙文であった。抗議の多少によって判断すると、私の駄文を最も注意して読んで呉れたのは当時帝大に居た新田君[注17] であった。近頃では各ティームが意を用ひてをられるのでうっかりとは筆も執れぬ。

 オフサイドのルールも知らず肉弾戦で終始してゐた其の頃から見ると競技そのものは長足の進歩と云ひ得るだらう。それに比べて、此の報導記事の変遷が余りに遅い憾みがあると私には思はれる。
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 当時は、互に技術が勝れてゐないのに無闇に頑張り合ふので無勝負が多い。抽籤によると弱く見えた方が勝者に認められたりなどして、折角攻撃圧迫を続けた方に気の毒だなどといふ奇妙な理由が通って、若しゴール・インが同点の時は隅蹴を多く取った方を勝とし、それも同点の時は門蹴の少かった方を勝とする大会規約を編んで第三回の関東中等学校大会を開いた。所がその規約の不都合は直に暴露した。

 その時も雪に見舞はれた。此の大会も既に十一回開催されたがその間雪か雨の降らなかったのは今年だけだ。その大会の雪は第二日の午後から降り出して、見る見るフィールドのラインを消し、更に寸と積り二寸と積って行く。当日の呼び物はセミファイナルの豊島、青山両師範の顔合はせである。レフェリーは佐々木等君[注18] であった。豊島方の一蹴を青山方のGKがセーブしたがそれは既にゴール・ラインを超えたとレフェリーは認めた。青山方一点を返して接戦中、青山方に反則があって豊島は自由蹴を得て見事蹴り込んだがこれはノー・タッチであるからとて得点に認められなかったので一対一で終り、即ち大会規約によってコーナー・キックの多い豊島方の勝とした所が、青山方から、『青山方がゴール・インと認められた時のボールはゴール・ラインを超えてゐなかった。それはゴール・ポストの傍らに居た第三者も明言してゐる。あの一点は取消して呉れ。』と抗議が出た。それと知るや豊島方から『あのフリー・キックは第九則の反則によって生じたものであるからノータッチ・ゴールインは得点となる。あれを一点として呉れ。』と苦情が出た。

 困ったのは佐々木君だったらう。早速審判会議を開いて、レフェリーの判定通りと決めたが双方承知せずしてその夜は物別れとなった。その夜から翌日にかけて両師範の諸君が、此の大会に関係してゐる先輩の戸別詰問となった。翌晩再び審判会議を開き、裁判所の真似をして双方の云ひ分を聞いたり、第三者として明言してゐるへーゲン君[注19] などを証人として招いたりしたが、何とも決まらない。極る筈がない。その時私が『昨日のレフェリーの判定通りにするがよい。』と云ひ出した。藤井君が賛成した。結局それより仕方があるまいとなって、両ティームにその旨を伝へたら、青山方は不承知の旨を答へて帰った。

 翌日青山から今夜来て呉れと私を呼びに来た。その夜高の寄宿舎にゐると、直ぐ来て呉れ今迎へに出かけたと電話があった。其処に居合せた内野さんや野口さんなどの先輩が、『興奮してゐる青山へ今夜君が行くことは避けたがよからう。』と留るので私は止めることにして『都合があって今夜行けない。』と断ったら青山の諸君は怒った。『原島は青師蹴球部の先輩でありながら何等母校に好意を持たぬ。而も約を平然と反く不徳漢である。』といふのが怒った理由で『今後我等は彼と公私共に絶交する。』といふのが結論であったらしい。

 私に云はせると事実は此れだけで、何と杜撰な審判をしたものだらう。何と頑固な処理をしたものだらう。私としても何と出しゃ張ってつまらぬ役を買ったものだらう。而し私は今でも、あの晩青山へは行かなかった方がよかったやうに思ってゐる。と偶々今年一月の『初等教育』に恩師赤津先生の書かれた『青山便り』に『大正九年卒業の城森弘君(中略)同君は在学中より大日蓮信者にて、例の高師校庭に於ける蹴球事件の際の如きは、短刀を懐にして、講堂に於ける全生徒に対し、慷慨悲憤声涙共に下るの獅子句を以て、生徒を激励し云々』とあるを見て微苦笑せざるを得ない。

 今後決して出場しないと憤慨した青山師範も露木君や山田君の忠告で次回からまた出てゐて、今年も優勝した。公私ともに交際しないと云った諸君と何時の間にか私は公私共に交際してゐる。
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 その年、極東競技大会が上海に開かれるので蹴球選手を送ることになり、岡部平太君[注20] や山田午郎君の肝入りで東京蹴球団と東京高師と東京帝大とのピック・アップ・ティームが全関東の名によって組織された。先達の大会で相争った豊師の主将だった守屋君も青師の主将だった大橋君も本団に加入してその仲間に推薦された。高橋實君が主将、野津謙君[注21] などはハーフ・バックにゐて盛に『ナイス・キック』と怒鳴ったものだ。

 遠征軍の歓迎会が高等師範に開かれた時、凱旋将軍達がタックルを紹介した。それ迄球を奪ふ手段は先づ敵を倒すことであったがそれが邪道であることがいよいよ色濃く解って来た頃であったので、此のタックルの輸入は上海遠征の貴重な土産であった。

 而し、私達に伝へられた報告は、露木君、大新田君の負傷その他何れも悲壮なことばかりであった。
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 その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。長岡君の紹介で入団したのだったらう。一人は丸顔一人は細面で一寸可愛い娘であった。二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。或日の東京日日新聞紙上に、絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。

 その二人をメンバーに入れて試合した。肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、相手の中学テームはさんざんに悩まされたことがあった。[注22

 だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、噂だけはしばらく残して置いたが、今は誰かのお母様になってゐるだらう。
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 その前年あたりから大日本蹴球大会が出来かかってゐた。私は小野田君と一所に創立委員の名によって幾度か呼び出された。英国から日本へとしての大銀杯が贈られたが受取手がないので、その受取手を作らねばならなくなったのなど、協会創立を大いに促した直接の動機であった。産婆役はこれも内野さんが勤められた。

 いよいよ出来たので東京蹴球団の内野、吉川、熊坂[注23] の諸先輩は此の方の理事となられて団のことから自然離れて了った。今まで内野さんや吉川さんのやっておられた一切の仕事を山田君が引受けねばならなくなった。そして山田君は蹴球界の第一線に推し出された。

 蹴球協会の出来たてはその事務所たる宗十郎町の岸博士[注24] の法律事務所に集まってよく談論したものだ。その頃の委員の中での論客は当時慶大に居た深山君[注25] だった。同君は早口で論ずるばかりでなく手真似が又猛烈でナイフやフォークを振廻すから隣席の者はびくびくしながら聞いてゐた。範多君や下出君[注26] は精勤者であった。アストラの渋川君、東京蹴球団の井染君[注27] なども理論闘争の雄であった。そして何が論ぜられたかは今の私の記憶にはないが、大会規約の決ったことは確だ。

 その翌年、大日本蹴球協会主催の第一回選手権大会が日比谷で開かれた。その時本団は先に上海に遠征した諸君を中心としてティームを作って出場した。御影師範との決勝はほんとに一進一退で殆ど無勝負で終るかと思はれたが、偶菅家君の蹴ったコーナー・キックのボールが安藤君の広い背中に当って飛び込んだ。安藤君がボールを背負込んだといった方が適当な云ひ現はしかも知れない。それで勝った嬉しまぎれに、自動車を山田君の宅まで乗りつけ、例の英国から日本へのカップにビールを満たし飲み廻したが一杯のビールがどうしても飲み切れなかった。所が今では一人でその位飲めるやうになったものが多い。又この時の選手で今猶ほボールに親しんでゐるものが幾人ゐるだらう。
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 この頃からが、ソッカーの興隆期に入る訳であって又この頃からのことは大方の諸君が先刻御承知の次第であろう。私は私の漫談の範囲を更に狭くしやう。

 日比谷公園をソッカーのために使ひ始めたのもやはり関東中学大会で、第四回から三度程続けた。その頃の名誉会長は時の東京市長の後藤子爵[注28]で、子爵は閉会式などには椅子の上に立ち上がって、鼻眼鏡の紐を弄びながら『諸君青年の意気は』などと訓示された。

 日比谷で思ひ出されることは、屋外集会の件とか何とかで山田君が警視庁に呼ばれたり、大会後の片付けが済んだ合図に一斉にホイッスルを吹いたら警官が数名飛び出して来たことなどである。

 その頃からフットボール屋のミカド商会が会場係のやうな役を引受けて呉れた。ソッカーの大会にミカド商会主のあの太った森氏を見ないことはないが、同氏などもソッカーの一恩人かも知れぬ。又同氏から見ればソッカーはパンの神様であらう。
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 関東中学校第八回がいよいよ青師校庭で開かれるとなってすっかりその仕事が出来た時、或る団体から各参加ティームに向って警告があったとかで、青師では校庭を貸さないと云ひ出した。山田君と私は瀧澤校長の許に談判懇願に行ったが、老校長は『事実の有無は兎も角、こんな手紙が来た以上貸すことは出来ぬ。』の一点張りで取付く岩もない。仕方なく永井団長[注29] の学校本郷中学の校庭を無理矢理使ふことにした。

 その大会にも第三者と自ら号する者の苦情が出て、レフェリー井染君は青くなってこれを撃退するに力めた。第三者と自ら号して他人の頭の蠅を追ひたがる輩ほど始末に負へぬものはない。而しこれは第三回で懲りてゐるから、今度は手際よく突跳ねた。
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 私たちが大会屋と悪口いはれてゐたのが其の頃で、大正十一年から小学生大会を始め少年蹴球の道を開いた。[注30] その為にルールを清水、山田両君が編み、山田君は単行本を世に出したが、[注31] 何れも貰ひ手はあっても買手は少い。此の大会ももう第七回までになったが、第一部第二部とも栄誉は何時も浦和に持って行かれ、東京ッ児は顔をしかめて優勝旗のあとを見送る役割を務めてゐる。

 翌年大学専門学校大会を始めた。北は北海道あたりからまでの参加のある此の大会も、文部省の達しを見ると、参加を認めないものの筆頭第一に挙げられてゐた。この大会が文部省の槍玉にあがった理由が民間の一団体の主催であるといふのかどうかは官尊民卑の牙城に籠ってゐる役人に聞いて見ないからまだ解らない。而しこの頃では、帝大主催の高等学校大会始め各地同様の且立派な大会があり、東都にはカレッヂ・リーグも出来て、この方面開拓にと希てゐた私ども初期の目的は達せられたからと負け惜みを云って居れば無事だらう。

 関東大震災で我が蹴球界の大恩人ヘーグ氏がなくなられたので、その追悼大会を私どもが又主催となって開いたところ、英国大使館からメモリアル・カップを贈られた。それでこれも年中行事に入れて了った。此れの参加資格を無制限としたら、或時など帝国大学と青師附属と取組まねばならなかったこともあった。[注32] あっちこっちにこの頃では大会と銘を打つものがやたらに開催されるから、何か毛色の変った争覇にせねばならない状態におかれたので、今ではオールド・ボーイズの活躍機会にしやうとしてゐる。

 理窟抜きに働かねばゐられない山田君が、本団の大番頭となってゐるので、やたらに大会の主催を引受けて、朝鮮蹴球団の歓迎試合[注33] を始め次から次から東京蹴球団の名も使はれちゃった。ほとんどフットボールのために暮らしてゐた山田君はとうとうソッカー専門の新聞記者として東京朝日新聞社に入社した。[注34
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 私どもが挑戦しての遠征は浦和に出掛けたのが皮切りであったが、招かれての遠征は横須賀に行ったのから始まる。横須賀駅に着くと学校からお迎へに来て呉れる。特別のランチで運んで呉れる。そして教習試合の名のもとに一戦して御馳走になってから方々を見物させて貰へるのに味をしめて、それから年々幾度か出掛けるやうになった。初めは機関学校だけであったが、そのうち砲術学校からも海兵団からも水雷学校からも招かれていい気になって出掛けて行って一日を暮らし、実弾射撃をさせて貰って悦に入ってゐた。震災後機関学校は江田島に移るし、水雷学校は教官が変ったりして、今でも往き来してゐるのは砲術学校だけになった。[注35

 横須賀も最初に行った頃は、長ズボンをまくし上げ、短靴を藁縄で結んだ選手がゐたが、何時の間にかパンツになり、ユニホームが出来、フットボール用の靴が作られた。もう教習試合とも云はなくなって唯ゲームと呼んでゐる。

 その当時教官や副官をしてゐて、海軍にソッカーを入れた誰彼の将校さん達はもう将官級になって居られるでせう。それでもあの当時の意気で斯道奨励に尽して居て呉れるか知らん。
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 私どもは、暴風雨中静岡に行って一日に三回試合をしたり、夜汽車で濱松を襲ったこともあったが、合宿練習を始めたのは大正十一年。その年は三浦三崎に出掛けて、午前はボールを蹴り午後は泳いだ。閑なものだからフットボール十種競技を考え出して盛にレコードを争った。キックによる距離テスト、正確テスト、ドリブルしつつの百米突競走などがその種目であった。大暴風雨の襲来に遭ったので断然鎌倉まで逃げて来て、電報為替で人質も帰った。

 翌年は明大と共に房州北條に合宿した。偶館山湾に金剛が入ったのを幸に、安房中学のグラウンドで一試合したが、ゴール・ポストがないので俄に大工に早変りして漸く間に合せた。

 三州豊橋に合宿した頃は、ボールの練習よりも余技が面白くなった。『渥美郡の庭球大会があるさうだから出場しやう。松葉倶楽部とはどうだい。』と食事中に誰かが云ひ出す。『午後豊川でボート・レースをするから組分の籤を抽けよ。』と昼寝の夢は破られる。此の年あたりから学校ティームの合宿練習も流行し出した。
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 毎夏合宿練習ばかりでもあるまいと云ひあってゐる時、北大から招かれたのを幸と渡道して旬日を札幌に送った。随分大袈裟な練習会であって、北海道殆どのティームの全員が参加した。既に廃漢として現役を退かせられてゐたのが、偶然の一蹴に見事にゴールを陥れて、流石はと賞められ、此奴は当分フットボールを止められまいぞとほくそ笑んだ元老もあった。その時の練習生が今は東都に出て、大学ティームの一流選手となってをられる。

 翌年も招かれたがその時は山田君外三名が行って、主として理論方面の指導に力を尽したと云へば体裁はよいが、実は鈴の鳴る馬車に乗って中等学校大会を見たり、各ティームの練習振りを見たりして過ごした。宿屋が撞球台を持ってゐたので、キューを握り二百をを争って数時間かかり、終にはゲーム取に掃除の手伝ひをさせられたのもその時であった。

 私どもが現役選手であった頃はまだ、僅に同好の士によってティームを作ってゐた帝大が何時の間にか部が出来、更に今では東都カレッヂ・リーグに覇を称へてゐる。

 第何回かの中等学校大会の一メンバーであった鈴木君[注36] 等に依って培はれた早大が、だんだん頭角を現はして既に三回も東京方部代表となり、昨秋は終に全日本の選手権を獲得して了った。

 十数年前に比べると、そのティームは数は幾十百倍となってゐるであらう。ティーム隆頽の跡を辿り、又テクニックの発達を調べ、幾多輩出された名選手の面影をしのぶのが、私の与へられた仕事ではあるが、それを為すべく余りに私の手許にある材料は貧弱だった。唯思ひ浮かぶ儘を記したのみ。

(四、二、二五)

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