« 第13回メキシコ大会(1986年) | Main | 2001年7月~8月 »

2001年3月~6月

(01/6/30)
追加しました
『神戸大学サッカー部史』(1967)、『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』(1967)、『大阪体育大学サッカー部10年史』(1977)、『京都大学蹴球部五拾年史』(1977)、『岐阜のサッカー史』(1980)を追加しました。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/27)
田辺文庫に行ってきました
先週田辺文庫に行ってきました。震災後整理しきれていない状況とかで、横積みになっている資料も多く、全部は見られませんでしたが、それでも未見本、『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』(1967)を始めとする未収録本をかなり発見できました。雑誌も国会図書館、NACSIS WEBCAT (秩父宮も加入している)にないタイトル、秩父宮で欠号になっている部分がありました。日本中でここでしか見ることのできない資料をかなりお持ちのようです。未見本、未収録本についてはすでに追加したものもありますが、たくさんあるので暫時追加していきたいと考えています。
また、図書を1980年代(明治・大正・昭和ということで)でひと区切りして、特に『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌、サッカー関係誌(『アサヒスポーツ』、『運動界』のようなスポーツ総合誌)についても別にファイルを作って紹介したいと考えています。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/26)
日本最初のサッカー・ジャーナリスト 山田午郎
日本最初のサッカー記事を書いた人は別にいるのかもしれませんが、サッカー・プロパーで記者となったのは山田午郎が最初だと思います。明治27年福島県出身、青山師範、日大高師卒業、師範在学中にサッカーを始める。教員をした後、大正15年朝日新聞嘱託、昭和3年正社員になり、昭和11年運動部次長、昭和14年同部長、昭和17年庶務部長を経て、昭和24年定年退職。日本蹴球協会理事、『蹴球』(第二次)誌編集長在任中の昭和33年逝去。『蹴球』の後継誌『サッカー』(第二次)の創刊号に追悼記事が掲載されています。
大正10(1921)年の第1回全日本選手権大会(現在の天皇杯)優勝チーム東京蹴球団主将、昭和2(1927)年上海で行われた第7回極東大会日本代表の監督。
サッカー本の著者としては、教員経験や中国のサッカー事情を見聞したことにより、ジュニア世代育成の重要性にいちはやく着眼していることが注目されます。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/25)
『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌 -JFA機関誌
本サイトは日本サッカー史研究をサポートするものですが、ブック・ガイドなので図書を中心としてきました。雑誌はというと、我が国初の商業サッカー専門誌『サッカー・マガジン』(1966年創刊)以前にどんな雑誌がでていたのか、現在のところ私が知っている範囲内で紹介してみましょう。まずはJFA機関誌から。
1.『蹴球』(第一次)。昭和6(1931)年10月~昭和17(1942)年。
2.『サッカー』(第一次)。表紙は『Soccer』。昭和23(1948)年8月~昭和26(1951)年8月。
3.『蹴球』(第二次)。昭和28(1953)年1月~昭和33(1958)年1月。
4.『サッカー』(第二次)。昭和34(1959)年1月~昭和49(1974)?。
『蹴球』→『サッカー』→『蹴球』→『サッカー』と2度同じパターンで変わっているので、複雑に見えます。1.→3.は2.を飛ばして巻次を継承しています。 NACSIS WEBCATには2.の所蔵館がありません。 上記4誌とも国会図書館にはありません。3.→4.になったのは、単に『蹴』の字が制限漢字にひっかかったためとのこと。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/19)
追加しました
『サッカーのトレーニング方法』(1962)、『サッカー 見かた・プレーのしかた』(1970)、『図解サッカー編』(1975)、『愛知県体育スポーツ史年表 サッカー』(1979)を追加しました。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/17)
戦前の学制
いままで特に説明もせず、(旧制)中学校、師範学校、旧制高等学校、高等師範学校などのような用語を使用してきましたが、このあたりで簡単な説明を。
戦前の中学校は5年制で、尋常小学校卒業後入学、だいたい現在の中学校・高校に相当します。
師範学校は小学校教員養成機関で5年制、尋常小学校の後高等小学校(2年)を経て入学、戦後大学の教育学部、学芸大学、教育大学のような高等教育レベルに昇格しましたが、戦前は中等教育レベルに置かれていたので、全国中等学校蹴球大会に中学校と一緒に出場していました。師範学校の方が年齢が2歳上なので、体力差を利用したキック・アンド・ラッシュ戦法をとるチームが多かったようです。漱石の『坊ちゃん』にあるように、同じ町に師範学校と中学校があるとあまり仲が良くなかったらしいです。
東京と広島にあった高等師範学校は高等教育レベルで、中学校や師範学校の教員を養成していました。現在は筑波大学、広島大学になっています。
旧制高等学校は3年制の高等教育機関で、大学に入学するには高等学校または高等学校に相当する大学予科課程を経なければなりませんでした。官立の高等学校・大学予科と官立大学の定員はほぼ同じだったので、大学への進学はさほど難しくありませんでした。進学、就職(ほぼ全員大学へ進学する)の心配なく、3年間サッカーに打ち込めたわけです。
大学は3年制の専門教育機関で現在のような一般教育はありませんでした。師範学校卒業生は卒業後地元の小学校教員になったのに対して、中学校卒業生で高校または大学(予科)に進学した人はより高いレベルで6年間サッカーができたわけです。ベルリン・オリンピック代表は全員高等教育レベルの卒業生か在学生です(普成専門学校は現在の高麗大学)。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/13)
オフサイド
『オフサイドはなぜ反則か』によれば、本来のオフサイドの語義は集団から離れた位置にいることだそうで、私流に解釈すれば、棒倒しのような競技で集団から離れて攻撃にも防御にも参加しないような卑怯者を意味したのではないかと思います。
『神戸一中蹴球史』(1937)によれば、初期のころ、ラグビー同様フォワード・パスを禁じていたことがあったそうです。そういえば、『高校サッカー60年史』(1983)には、スローインをラグビーのラインアウト同様サイドラインに直角に入れていたことがあったという記述がありました。最初のうちはラグビーとサッカーの区別がついていなかったようです。
オフサイドといえば、FAの統一ルールができて以来最大のルール改正が、1925年のオフサイド・ルールの緩和で、それまで3人未満(実質的にはGKとFBの2人)を現在同様2人未満(実質的にはGK1人)に変更したものです。『写真で見るサッカーの歴史』(1982)によれば、FBを1人残してバックラインをどんどん上げてオフサイド・トラップ(当時このことばはなかったらしい)をかけられるので、笛がなりっぱなし状態になっていたそうです。この戦術を考案したイングランド2部のチームは「勝ち点が得点より多い」という試合内容で優勝し、1部でもニューキャッスルが採用など普及していったそうです。この背景にはプロ化したサッカーの勝利至上主義があったとのこと。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/11)
1968年のアーセナル - 『ぼくのプレミア・ライフ』を読んで
去年の3月にでたニック・ホーンビー著『ぼくのプレミア・ライフ』を読みました。著者はアーセナルのファンで、1968年から1992年までの試合を自分史と重ねたエッセイです。類書のないユニークな作品ですが、私は寺山修司の競馬エッセイ(寿司屋の政が追い込み馬に自分の人生を重ねて直線一気を夢みて...といゆようなやつ)をなぜか思い浮かべました。
ところで、著者のハイベリー(アーセナルのホーム)・デビューは1968年9月なのですが、同年5月アーセナルは来日して同年10月メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得することになる日本代表と3戦しています。来日メンバーには著者が酷評しているイアン・ユーアはけがのため含まれていませんが、後に監督としてお家再興するジョージ・グレアムらがいます。第1戦(国立)3-1、第2戦(平和台)1-0、第3戦(国立)4-0、とアーセナルの全勝でした(日本唯一のゴールは釜本)。イングランド(2年前のW杯優勝国、サッカーの母国にして当時最強国とみなされていた)から来日した最初のプロチームで大変な人気でした。アーセナルは私が覚えた最初のイングランドのクラブ名でもあります。第1戦は5万8千、第3戦はどうやって詰め込んだのか6万8千と、サッカー試合としては空前の観衆が入っています。訳者の「あとがき」やネット上の書評でこのことに言及していないことに(著作内容と関係ないアーセン・ベンゲルには言及してるのに)、肩透かしをくったような印象を受けました。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/9)
サッカー古書の値段
野球本と違ってサッカー本の古書というのはあまり市場に出回っていないようです。スポーツ専門古書店の ビブリオを覗いてみると図書で一番古いのは『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』の1976年で、大部分が1990年代の本です。古ければ高いというわけでもなく、部史のような非売品に結構いい値段がついています。一番高いのが関西学院の部史で22,000円です。
一方雑誌では、戦前の『蹴球』誌が1冊3,500円という値がついています。秩父宮記念スポーツ図書館の方がまとまって市場に出ないし、出てもバラで1冊3,000円くらいするのでなかなか手が出ないと嘆いておられましたが、なるほどそのとおりですね。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/7)
追加しました
『蹴球規定 アツソシエーション』(大正6=1917)、『風呼んで翔ける荒鷲よ慶応義塾体育会ソッカー部五十年』(1978)、 『創立六十周年記念誌』(1985)を追加しました。早稲田の正式名称はア式蹴球部で慶応はソッカー部なんですね。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/6)
インデックスはサーチ・エンジンで
当サイト内での書誌レコードの配列は出版年別(同一出版年内は書名の五十音順)なのですが、著者や書名から検索したい場合のインデックスがありません。それは、最初から作らないつもりで、そのような検索をする場合は全文検索できるサーチ・エンジンを利用すればよいと考えていたからです。
私が試した範囲内で現在最良のサーチ・エンジンはGoogleで、当サイトの全ファイルを全文検索できているようです。他のサーチ・エンジンでは目次ページ(index.htmlのファイル)しか検索できていないようです(当方のファイル構成の問題かもしれませんが)。
ただ問題は、例えば著者検索なら、山田午郎のような頻出しない人名は問題ないのですが、岡野俊一郎や釜本邦茂のような頻出する人名の場合、先に他サイトが表示されて当サイトにはなかなかたどり着けないし、当サイトの別ファイルがかなり離れて表示されてしまうこともあるようです。検索語に限定付加を加える(例:[岡野俊一郎 ブック])のも一つの手だと思いますが、それだとなぜか検索漏れを生じてしまうようです。
Googleの検索窓口を設置することはできますが、現在のところサイト内検索のオプションがないので、設置していません。サイト内検索のオプションがある検索窓口を設置できるようになったら目次ページに設置したいと考えています。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/6/2)
『日本サッカーのあゆみ』の文献リスト
本サイトを始めるにあたっては、当然先行するサッカー関係の書誌や文献目録を探したのですが、野球などと違ってサッカーでは書誌はでていないようです。唯一、日本蹴球協会編の日本サッカー正史というべき『日本サッカーのあゆみ』(1974)には各時代にでたサッカー関係書がリストアップされており、参考にさせていただきました。本サイトに収録しているものは基本的には日本全国の図書館の蔵書目録で確認しているのですが、『日本サッカーのあゆみ』でリストされたもので未確認のものが数点あります。それらは本文中で「『日本サッカーのあゆみ』による」と明示してあります。それ以外のものはどこかの図書館に所蔵記録があるはずです(所蔵記録はあるのに資料がない場合もないわけでもないです)。
ところで、『日本サッカーのあゆみ』にリストされていて、どこの図書館を探しても見つからない本はいったいどのようにしてリストされたのか、これまで謎でした。以下は推測ですが、『日本サッカーのあゆみ』の編纂には田辺五兵衛氏が参加しており、氏個人の蔵書からリストアップもされたものがかなりあるのではないでしょうか。従って、田辺文庫にアクセスできれば、未見本がかなり埋まるのではないかと考えています。
それにしても、「自家用図書館」をお持ちとは、ルネッサンス時代のメディチ家のような...

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/30)
田辺文庫
『神戸少年サッカースクール二十年の歩み』を読んでいたら、「ホールの隣の部屋には、KSSの初代副校長・故田辺五兵衛氏から寄贈されたサッカーの専門書が約1500冊収納され、日本古来から伝わる蹴鞠(けまり)に関する本だけでも40数冊にのぼる。」という記述がありました。本サイトの収録もれや未見本の宝庫なんでしょうね。明治から1985年までで200点に到達していません。1500冊のすごさがわかろうというものです。多分日本唯一のサッカー本コレクションでしょう。
ところで、『ボールを蹴って50年』(1966 未見)は神戸市立中央図書館と田辺文庫で閲覧可能(貸し出し不可)というメイルを下さった方がいらっしゃいましたが、田辺文庫は部外者も利用可能なんでしょうか?ご存知の方はメイルをいただけませんせしょうか。 神戸フットボールクラブのHPはないようです。もっとも、私は東京在住なので簡単には行けませんが。
ちなみに、『ボールを蹴って50年』は『サッカー・マガジン』誌にベタ記事で紹介されており、岩谷俊夫(毎日)、大谷四郎(朝日)、賀川浩(産経)が編纂に参加しているので、装丁なども商業出版物なみとのこと。当時数少なかったサッカー・ジャーナリストを3人も輩出しているところがさすが神戸一中です。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/25)
復刻したいサッカー本
坪井玄道の『戸外遊戯法』がベースボール・マガジン社から『明治期野球名著選集』の一冊として復刻されているのは本文に記したとおりです。現在のところサッカーでは復刻した名著選集のようなものはありません。野球と違って、明治期だけで名著選集をだせるほど本もでていません。そこで明治から第一次サッカー・ブームになる以前の昭和30年代までのサッカー本の名著を個人的にピックアップしてみると、以下のようになります。

1.『アッソシエーションフットボール』東京高等師範学校フットボ-ル部編(明治36年)
日本最初のサッカー専門書。それまでの「フートボール」を書名に含む本ではラグビーと並置されていました。
実質的な編纂者は中村覚之助。彼の事蹟についてはリンク先情報をご覧ください。

2.『フットボール』東京高等師範学校校友会蹴球部編(明治41年)
日本最初の実戦経験をふまえたサッカー専門書。

3.『サッカー』佐々木等著(大正11年)
昭和2年に6版が刊行。版元の目黒書店は当時教育関係の大手出版社だったので、かなり普及した本のようです。
NACSIS WEBCAT で検索すると11館が所蔵しており、同時期のほかのサッカー本より多いといえます。戦前の韮崎中学でサッカーの虎の巻として使用されていたそうです。ただし私は未見。

4.『フットボール』モン・チョー・ディン著(大正12年)
戦前のサッカー本ではこれははずせません。

5.『ア式フットボ-ル』山田午郎著(大正14年)
日本最初のジュニア世代育成の重要性に着目したサッカー本。

6.『ア式蹴球』野津謙、鈴木重義著(昭和3年)
野津は後日本蹴球協会会長、FIFA副会長、 鈴木は早稲田サッカーの始祖で、後ベルリン・オリンピック代表監督。
重要人物が書いたサッカー本ということで。

7.『サッカー 理論と技術』堀江忠男、加茂健著(昭和24年)
序文が格調高い。日本サッカー復興宣言。 著者はベルリン・オリンピック代表。

8.『サッカー』竹腰重丸著(昭和31年)
戦前から戦後クラマー氏が来日するまで選手、コーチとして日本サッカーのテクニカル面を支えた人物の代表著作。
当時全盛でマジック・マジャールといわれたハンガリーの戦術までフォローしているところ(著者は実見している!)がすごい。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/21)
港町の学校
函館師範(現北海道教育大学函館分校)のサッカー部史『サッカー部六十年史』(1984)には大正時代に函館に寄港した外国の軍艦チームと交流試合をしたことがでていました。それで思い出したのですが、『神戸一中蹴球史』(昭和12=1937年)にも外国軍艦チームとの試合記録があり、座談会ではすでにベルリン・オリンピックの前に外国軍艦チームとの試合で3Bシステムに接していたとの発言がありました。3BシステムとはいわゆるWMシステムで、Mの底辺の3人が3Bというわけです。日本のサッカー「正史」では1936年ベルリン・オリンピックで初めて接したことになっています。ただ、このシステムの契機になったのは1925年のオフサイド・ルール改正で、1930年代前半にはWMシステムを発明したチャップマン監督の アーセナルが全盛時代を迎えており、ヨーロッパではすでに相当普及していたはずです。したがって、神戸一中以外にも新しいシステムに接していた港町のチームがあっても不思議ではありません。
そういえば、中田はアーセナルに行くとか。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/18)
出版点数
3/21付けでの年代別出版点数は1970年代が27→57点、1980~84年が42→55点と大幅に増えてしまいました。おそらく80年代後半も当初見込みよりかなり増加するものと考えられます。最大の原因は当初見込みに児童書を含んでいなかったためです。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/12)
秩父宮記念スポーツ図書館
念願だった秩父宮記念スポーツ図書館に行ってきました。なにしろ開館日が土・日・祝日以外というのでなかなか行けません。場所は国立競技場メイン・スタンド下という迷いようのないところにあります。
収穫だったのは日本蹴球協会の機関誌『蹴球』『サッカー』を所蔵しているのがわかったことです。この2誌(昭和30年代はじめころに書名が変わったらしいのですが、ちょうどそのあたりが欠号になっていました)は日本全国の図書館の所蔵記録を見てもなかなか見つからない貴重な資料です。『サッカーマガジン』が創刊(昭和41、1966年)されるまで唯一のサッカー専門誌でした。保存状態は良好でした。
蔵書目録(カード目録、データベース化されておらず、WEBアクセスは夢のまた夢か)を見ると、未収録本を大量発見(笑)。これまで未見だったものも見つかりましたので、暫時追加していきたいと考えています。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/7)
またまた発見
堀江忠男著『わが青春のサッカー』(1980)中に『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』発見。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/4)
意外な人物
『神戸一中蹴球史』(1937年)(現在の兵庫県立神戸高校のサッカー部史)をみると大正9年度主将は白洲次郎になっています。ポジションはCF。卒業後ケンブリッジに進学し、その語学力により占領時代には吉田茂の片腕としてGHQとの折衝に活躍した人物です。現在では夫人の白洲正子氏が古美術関係で著名ですが、その影響からか彼の伝記も刊行されています。平凡社のコロナブックスシリーズには野球部のユニフォーム姿の写真があります。『神戸一中蹴球史』の座談会によれば、当時野球部は全国的強豪で、レギュラーになると猛練習があり、進級、進学にさしつかえたので、現在でいう同好会的にサッカー部が 発足したとのことです。多分彼も野球部から流れた組の一人なのでしょう。実家は富裕で、中学時代から車を乗り回していたそうです。現在の高校選手権の前身にあたる日本フートボール大会(当時は実質近畿大会で予選もなかった)に3年連続出場しています。
『附属中学サッカーのあゆみ』(1983年)(東京高等師範学校附属中学、現在の筑波大学附属高校のサッカー部史)には昭和19年卒業に映画監督今村昌平の名があります。選手ではなく、マネージャーだったそうです。 今村昌平は助監督としても優秀で、『東京物語』(小津安二郎監督)、『幕末太陽伝』(川島雄三監督)のような日本映画史上に残る名作の助監督を務めています。きっとマネージャーとしても仕切りがうまかったんでしょうね。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/5/2)
和田邦五郎のサッカー書
『高校サッカー60年史』に「東京高師の主将として、恐らく本邦最初の蹴球入門書を著された和田邦五郎先生」という記述があったことは、4/26付けで記したとおりです。気になったので『東京教育大学サッカー部史』(1974)を調べてみました。和田邦五郎は大正9年度の主将で、和田自身の回想によれば『アッソシエーション・フットボール』という冊子をミカド商会から刊行したとのことです。この本は本サイトでは東京高等師範学校校友会蹴球部編『フットボール』(大正9年)として収録しているものです。表紙、標題紙、奥付けなどで書名が異なっているのかもしれません。『高校サッカー60年史』で回想された方は明治36年の『アッソシエーション・フットボール』と書名が同じなので、「本邦最初の蹴球入門書」と勘違いしたのでしょうね。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/30)
高校サッカーとメディア
現在高校選手権は大阪毎日新聞主催の日本フートボール大会ア式蹴球の部として大正7年にはじまりました。ア式蹴球の部という名称が示すように、ラグビーの部が同時に開催されており、現在も花園で開催されている高校ラグビーに継承されています。花園の高校ラグビーの方は現在も毎日新聞主催ですが、サッカーの選手権は昭和41年度から毎日が主催から降りています。昭和45年度から日本テレビ系が後援するようになり、昭和51年度から会場を関西から首都圏に移しました。昭和56年度(決勝は1982年)大会には初めて全都道府県から各1校(東京は2校)ずつ参加し、大会が大規模化し始めます。
このときの決勝は武南対韮崎で、韮崎の地元山梨放送の視聴率は甲府市・韮崎市平均で、88.5%(東京地区10.6%)だったそうです。
一方インターハイはNHKが絡んでいます。『高校サッカー60年史』中の元高体連サッカー部長松浦利夫による「高校総体参加の経緯」によれば、東京オリンピックを契機に従来バラバラに開催されていた高校の各種競技を一箇所にまとめた全国大会にして、NHKが放映権料名目で補助金を出すことになったということです。初年度(昭和38年、サッカーは昭和41年から参加)は運営費総額6,215万円のうち3,075万円をNHKが出し、残りを文部省、日本体育協会などが負担したとのことです。本来の趣旨からすれば、「選手権」をインターハイに統合すべきなのですが、「選手権」は毎日主催で別季節に開催されているので毎日の意向が問題になります。松浦によれば、「総体に入れるか入れないかという難しい時に、「選手権」を共催していた毎日新聞社が「総体に入ってもよい」といった見解を示した。日本協会は驚いて、竹腰理事長を調査のため、大阪毎日に派遣した。」とのことです。さらに「教育委員会たち総体関係者は、毎日新聞社が後援に入るものと考え、プログラムの表紙に毎日の名を刷り込んでおいた。7月になって毎日新聞社に連絡したら、「入れないで下さい」と丁重に断られた。」とも述べています。
結局、毎日は昭和41年度から選手権の主催を降り、同年からから始まったインターハイの後援もしないことになり、高校サッカーの全国大会とは無関係になります。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/28)
日韓戦の祖型
戦後の日韓戦の戦績は韓国優位ですが、試合のパターンは韓国が当たりの強さ、スピード、勝利への意欲で勝り、それに日本が技巧で対抗するということが多いようです。このパターンは戦前からあったようで、昭和10年に全日本選手権大会 で優勝した京城蹴球団の決勝の戦評にも同様のことが書かれています。
戦前の中学サッカーでは全国大会化した2年目の昭和3年には朝鮮半島から出場した平壌祟実があっさりと優勝しています。『高校サッカー60年史』に記載された戦評では「体力に優れたうえ技量も又優秀で、キック、ランニング、パス三拍子揃った洗練されたチームではあるが、ただラフで余りにバックチャージが多かったのは遺憾であった。」とあります。翌昭和4年は平壌高普が準優勝したが、昭和5~12年は朝鮮半島からは不参加、復帰した昭和13年は祟仁商がベスト4、昭和14年は棄権。なお、昭和14年準優勝した聖峰中学は近畿代表だが、メンバーは在日朝鮮人。
圧巻は昭和15年に優勝した普成中学で、1回戦対湘南中8対1、2回戦対函館師範12対0、準決勝対明星商業5対2、決勝対神戸三中4対0、と文字どおり圧勝しています。戦評は「11人の持つ個人技、とくにキック力、体当たりの強さなど他チームより格段の強みを持っていた。また団結力のある点、チーム全体のキビキビした点、試合のカケヒキにおいても中等級離れのした堂々たるもので、大学チームと試合しても接戦を演じる実力のほどがうかがわれ、他の15チーム中、何校が挑戦しても歯が立たなかったであろう。」と絶賛しています。
結局、全国中等学校蹴球大会で朝鮮半島代表は、実質5回出場、うち優勝2回、準優勝1回、ベスト4が1回、1回戦で敗退したのは初出場の昭和2年だけ、ということになります。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/27)
1982W杯本
杉山隆一著『男は勝負 ゼロからの出発』に『華麗なる激突 サッカー世界一』という1982年W杯スペイン大会の記録集が講談社から刊行されているとありました。そういえば1978年と1982年のW杯本を収録していないことに気づきました。
4/26付けの未収録本のうち『湘南...』と『茨城県...』は藤沢市立と茨城県立図書館で書誌事項を確定できました。『鯉城...』は広島市立、県立図書館が目録をWeb公開していないのでどうしようもありません。しかし100周年とはすごいですね。広島カープよりずっと古いわけですな。
成田十次郎著『サッカー』の参考文献に『最新・サッカー指導法教本』(サッカー指導法研究会編日本体育社)発見。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/26)
『高校サッカー60年史』の参考文献
『高校サッカー60年史』の参考文献で収録していないものは、『全国高校サッカー40年史』、『神奈川県協会創立50周年記念誌』、『湘南サッカー半世紀を経て』、『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』、『茨城県協会30年史』があります。書誌事項がわかりしだい順次収載したいと思っています。また、本文中(p.87)に「東京高師の主将として、恐らく本邦最初の蹴球入門書を著された和田邦五郎先生」という記述があります。これは『アッソシエーション・フットボール』(明治36年)とは別の著作ということになるのでしょうか?

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/25)
六甲颪の不思議
戦前の中学サッカーの回顧談を読むと冬の南甲子園運動場は六甲颪が吹いて大変寒かったそうです。神戸一中や御影師範は六甲山麓にあって六甲颪の下で猛練習に励んだとのことです。ところで『六甲颪』とは阪神タイガースの応援歌(正しくは『阪神タイガースの歌』)なのですが、野球シーズンには甲子園には六甲颪(北風)は吹かず、これまた有名な「浜風」(南風)が吹いているはずです。「六甲颪に颯爽と~」という歌詞は「~無敵の我等ぞ阪神タイガース」と同じくらいリアリティを欠いているように思われます。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/18)
C.W.Alcockと山田午郎
明治期のサッカー本の参考図書の著者としてよくでてくるCharles William Alcock(1842-1907)は名門パブリック・スクールのハロー出身、 『Sportsman』紙の副編集長(イギリス=世界最初のサッカー・ジャーナリスト)でした。彼は同時に1870~1895年の長期間FA事務局長(Secretary)を務め(無給)、FAルールによるサッカーの標準化、1871年のFAカップの創設に貢献しました。
一方、山田午郎は青山師範(現東京学芸大学)出身、日本最初のサッカー・ジャーナリスト(朝日新聞運動部長)です。Alcockと山田にはもうひとつ共通点があります。 Alcockは第1回FAカップ優勝チームであるワンダラーズの主将であり、同じく山田は第1回全日本選手権大会(現在の天皇杯)優勝チームの東京蹴球団の主将であったことです。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/16)
『戸外遊戯法』が古書市場に
本サイトで日本最初のサッカー本として紹介した坪井玄道 編『戸外遊戯法』が天牛堺書店のホームページにでていました。価格は1万7千円です。本文でも紹介したようにベースボール・マガジン社から『明治期野球名著選集』の1点として復刻されている野球史上の重要文献でもあります。また、テニス、卓球のような他の球技史でも草分け的存在のようです。初版は和装本ですが、後に洋装で版を重ねているので、明治時代にはかなり読まれたスポーツ本のようです。全然関係ありませんが、天牛書店といえば、本店が織田作之助の『夫婦善哉』にでてきますね。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/4/10)
漏れがかなりありました
下記にサッカー本の概数を示したのですが、よく調べてみると漏れがかなりありました。たとえば1970年代は27点から36点に増加しました。とりあえず書誌情報だけは記載しておきました。紹介文は暫時追加していく予定です。目次ページの解説文も変更しておきました。

--------------------------------------------------------------------------------
(01/3/21)
これまでにでたサッカー本はどれくらいあるの?
サッカー本をどう定義するかという問題は話が長くなるのでさておいて、明治から1999年までサッカー本がどれくらい出版されているかとりあえず概数をを示してみましょう。


出版年 点数
1899年以前 2
1900~09年 5
1910~19年 0
1920~29年 8
1930~39年 5
1940~49年 2
1950~59年 4
1960~69年 21
1970~79年 27
1980~89年 98
1990~99年 569

1989年までの総数が172点、1990年代が569点というわけで、総数741点のうち1989年までのものは23%にすぎないのです。

ちなみに1990年代の内訳を示すと下記のようになります。


出版年 点数
1990年 7
1991年 10
1992年 15
1993年 82
1994年 102
1995年 42
1996年 46
1997年 45
1998年 159
1999年 61

Jリーグ開始前後でサッカー本の出版点数が激変したのが一目瞭然ですね。ピークに達したのは1998年、いうまでもなく日本が初出場したW杯フランス大会の年です。159点ということは約2日に1点サッカー本がでてたということになります。さて2002年には...


|

« 第13回メキシコ大会(1986年) | Main | 2001年7月~8月 »