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チョウ・ディン関係資料集

豊島梢著「怖い蹴球の柔術 チョー、ディンさんの蹴球談」
『運動界』4巻9号(1923年9月)p.127-129


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 炎暑赫々として屋上の鬼瓦は火でも吐きさうな暑い七月中旬でした。御影師範学校へビルマ人チョーディン(Kyaw din)氏が蹴球のコーチに来られたと云ふので早速訪ねてみました。丁度午前の授業中で選手は勉強に同行の平井君は関西学院競技部へ遊びに行った留守でチョーディン氏一人机に向って盛にペンを走らせて居る処でした。

「お忙しい様ですから後ちほど御伺ひ致しませう」

「いえかまひません。いらっしゃいどうぞ」

と可成り上手な日本語で其れからボツボツ話をしだしました。

「私は蹴球に就いては十五ボールのポケット付の玉突よりランニングハイジャムプよりも経験が多いだけに自信がある」と小学校時代の思ひ出話から戦争中エジプト、メソポタミヤ等で英国の聯合ティームを破った得意の話を随分長い間聞かされました。

 蹴球は今から六百年程前英国に於て女王エリザベス時代に起ったもので戦勝記念日に行はれた一つの競技な(ママ)そうです。現在蹴球で一番強いのは英国で、次がビルマ、次は豪州、印度かも知れない支那の強さはまだプレヤー全部を見ないからわからないと云ふのです。

「極東大会に支那ティームを見なかったのですか」

「見ました。然しあれた(ママ)六人の第一流(殊に第一流と流の字を附けました)選手と五人の第二流選手の混合ティームだから本当の力は不明い。支那の本当の力は支那対豪州の十数回の試合を見てからではないと申せないと頗る真面目な答でした。

「ビルマは其んなに強いのですか」

「私は強いと思ひます。ビルマの強いのはどうしたら強い英国ティームを破る事が出来るかと本当に其ればかり研究して居るからで「蹴球の柔術」といったものは本当に進んで居ます。英人とビルマ人は身体に差があるから斯うしたものを考へたのです。過日支那ティームの対比軍の時に用ゐた手(一人は病院に、四人はキックが出来ない様にされた)は一番やさしい怪我の少ない手です。柔術で永久にグランドに立てなくする手は沢山にあるがビルマ人は知って居ても決して用ゐない。だからビルマ人は紳士だ。相手が非紳士的に来た場合はレフェリーにわからない様に用ゐます」とお国自慢がボツボツ出だした。話を変へて「御影師範はキックが上手ですか」ときいたら面白い答をしてくれました。

「日本のフットボラーの中には足とボールがぶつかればキックだと思って居る人が居ます。キックは

Toe kick
Instep kick
The front side kick
The back side kick

の四つあって皆使ひ処がちがひます。キャプティン井上さんのキックは好いです本当に上手です」

「高橋さんは」

 Reliable shots あれはミスしない。私は今迄見て知って居るセンターハーフでは北辰の守屋さんと、附属中学の本田さんが本当に上手だと思って居ます。高橋さんも二人と同じ位上手ですと語ってきましたが個人評は相手に欠点を知らせると同じだから試合前は申し上げ悪いと逃げて六日間コーチした順序をザッとつまんで話してくれました。

「御影は一人一人は割合に上手です。然しフットボールは一人で出来るものではなくてコンビネーション(Combination)を必要とします。大切なこれが欠けて居た上にデフェンス(defence)のポジションもわからなかった其れ故に

 第一日には キック四種とヘディング
 第二日には 一人一人に就いてタックリングとコンビネーション

 第三日以後は以上のものをトレーニング(Training)して悪い処をなほした。(Feeding, Passing)はどんな風に使ふかも理解してくれたので本当に嬉しく感じて居ます。

秋の大会迄練習を続けたら

I have every confidence that the Mikage boys will do very well in this years townament, in fact I think although they are young boys, they will beat the strongest team in kansai.

とニッコリ笑った。彼の涼しい眼には近く聳えてる六甲山が映って居る。

 六甲山の峰吹く風に身も心も澄んだ好い心地で共に中食を取って別れました。


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チョー、ディン(アストラ、クラブコーチァ)「勝敗を断ずる三原則 優勝者アストラは斯の特長を有して居た」
『運動界』5巻3号(1924年3月)p.95-99,94


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 全国ア式蹴球大会の最終日に行はれた名古屋蹴球団対アストラ倶楽部の優勝戦は、優勝戦は余り面白いものではありませんでした。勿論グラウンドが泥の為めに良く無かったと云ふ事は一理由かも知れませんでしたが私は其仕合には余り技巧を表したプレーが少かったのが一大理由であったと思ひます。

 名古屋蹴球団は東海地方の決勝戦で全八高と出会って其れを打破って選手権を得て来たのだから上手らしいと思って居りました。然し高師校庭での準決勝戦即ち商神サッカークラブとの仕合を見て私は大変に驚きました。観衆及び其の他の人は何と思はれたか知りませんが私は其の仕合を見てアストラは確かに優勝カップを握ると思ひました。

-勝利に要する三点-

 私は常に次の三点を念頭に置いて何のクラブが仕合に勝利を得るかと云ふ事を判断致します。

即(第一)技巧、(第二)身体の重量及ビ大サ、(第三)試合場の様子。

 第一、技巧に於てはフォアワードはコンビネーション、ポジションを注意に入れて個人個人でするプレーは注意に入れません。又バックメンではタックリング(球を奪ふ事)とポジションと、キックの仕方を注意に入れます。然してバックメンでは以上述べた三項の内何としても二項は出来なければなりません。即ちタックリングとポジション或はタックリングとキックの仕方等であります。此の仕方を見て其の人達を判断致します。

 第二、身体の重量及び大さと云ふのは選手の敵にチャージ(突進)する時、或は高い球を自分の味方の者に渡したりする時に必要であります。何となれば以上の様な場合が仕合の最中に幾度も来く(ママ)からであります。

 第三、試合場の様子と云ふのは場か(ママ)乾いて居るか或は泥濘であるかと云ふ事であります。

 -三チームの比較-

 △第就一にて(ママ)、フォアワードの技巧の点から云へばアストラの方が名古屋より上手でありました。然し商神サッカーが第一位にあります。又個人の技量から云ひますと名古屋のライトウイング、レフトインナー及び商神のライトインナー、ライトウイングの様な上手な人はアストラ倶楽部には居りません。

 バックメンは即ち後衛を見れば、アストラ倶楽部はポジションと小さいが正確なシュートを有して其の点では他の何れよりも勝れて居ります。

 △第二身体の重量及び大さの点から云へば三クラブ共に大差はありません。

 △第三試合上の様子から云へばアストラ倶楽部は私が決勝戦の場合の様な泥濘で滑る場合のコーチを特別になしましたから其の点ではアストラ倶楽部は他に勝って居りました。私はまだ小さかった時から自分の国で左様な滑る試合場になれて居ります為め特別なコーチを為めておいたのであります。名古屋蹴球団の人達は前日の試合で疲れて居ると思はれるかも知れませんが、只疲れて居るだけで怪我をして居なければ一晩の熟睡で其の疲れは全快するものであると云ふ事は経験のある人はご存知だらうと思ひます。

 只私がアストラ倶楽部の為めに心配した事は下出氏がセンターハーフをするかどうかと云ふ事でした。若し氏がセンターハーフを勤めたならばアストラ倶楽部は優勝する事は出来なかったかも知れません。然し其の日下出氏がスウェターを来て出て来られたからゴールキーパーをすると思ってアストラ倶楽部の為めに安心をしました。

-ア軍に気遣はれた点-

 勿論名古屋蹴球団にも沢山の不利益な点も有りましたでせうけれどアストラ倶楽部にもありました。即ちセンターフォアワードの山内氏とライトインナーの大畑氏が共に病気で出場不可能だった事と、其の上にライトフルバックの渋川氏が怪我の為めに出場不可能だった事との二つの為めに其の補ひとして暁星中学校から三年及び四年の小さな未完成の選手を入れなければならなかった事はアストラ倶楽部の為めに大なる不利益でありました。

 私は此の四人の暁星中学校の人達が入って呉れた為めにアストラが優勝出来た事を感謝して居ります。又此の四人の人達は年が未だ若く、身体の点から見ても他の人よりおとって居るにもかかわらず他の人達におとらないプレーをして呉れました事は将来のアストラ倶楽部に大なる信頼を与へるものであります。此の様な不利益な点のあると云ふ事は表には現はれませんけれど其の倶楽部としては各持って居るものだと云ふ事をここにつけ加えておきます。

餘言  私がコーチしたチームは乱暴で勝たのだと云ふ人達もあります。然の(ママ)早稲田高等学院と八高との試合の時にも観衆は二千或は三千位もありました。若し只乱暴丈で早高が勝たのなれば其れ等の観衆特に其の日に八高を応援してゐた観衆は面白い試合を見たと話し乍ら帰る筈はありません。

 又其上秩父宮殿下の御台臨あって試合を御観覧ある時、其の前で左様な非日本人的な行為をするとは私の様な東洋人的考へから行きますと何うしても或人が書いた様な乱暴をしたとは思へないのであります。又早高の時に或る人が行ったと或新聞に書いた様なファウルプレーを早高がしましたとすれば、秩父宮殿下が其の御附きの者までにフットボールは乱暴な遊びだと御言葉がある筈だと思ひます。何故なれば夫等の学生達も皇室の子供の様なものでありますから、又其の上秩父宮殿下が私もア式フットボールをやって見度いと御附きの者に仰在ったと聞きましたがそれを見ても乱暴で無かったと云ふ事が解ると思ひます。勿論ア式フットボールも男性的なゲームでありますから少し位の危険性はあるものだと思ひます。若し少しの危険も無いゲームでなければないなれば、此の大正十三年の春から日本では六百年前から外国で行はれて来た男性のゲームのア式フットボールのお株を女子に譲って、男子は炬燵の中でスウェターでも編んで居た方が良いと思ひます。

 現在は非紳士的行為の栄える時代ではありません。現在は紳士的行為の行はれて居る時代であります。読者諸君が早高及びアストラ倶楽部が乱暴をした為めに優勝したのか何うかを御一考願ひ度いのであります。

 私は何れにしても全国の優勝権を握ったアストラ倶楽部とノンターハイスクール(ママ)に優勝した早稲田高等学院とのコーチャーである事が私の一生涯忘れ得られない歓びであります。譬へ或る新聞に書いた様な批評があったにしましても以上の喜びと比べて見ましたら比較にならないと思って居ります。私が自国に帰りましても日本に居た時の此の名誉を忘れる事は出来ないと思ひます。たとへ外の批評は忘れたにしましても。


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チョーディン「左様なら 親しいフットボラーに」
『運動界』5巻5号(1924年5月)p.88-89


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 運動界を通じて日本フットボーラに御挨拶をいたします。

 国へ帰る日が段々と近くなりました。国へ帰るのは嬉しいのですが、私の好きな日本のフットボラーとお別れするのは反対に大きな悲しみです。

 悲しくてもコーチをした人達が優勝する得意の様を思ひ浮べるとこの悲しみも幾分か薄らいできます。

 日本のフットボラーと兄弟同様に親しんで仲よくなった今、お別れするのは本当に残念です。私は心から日本フットボラーが第七回極東大会に優勝なさる様に祈って居ります。

 私の事を招いて下すったティームに私は感謝いたします。私の名誉で本当にうれしゅう御座います。

 私は日本に来て教育といふ尊いものを教へ導いて貰って一個の人となりました。御恩返しに私はフットボールを以てしました。御恩がへしとはならないかもしれませんが私はこれを最大の御恩返しといたします。

 お別れしてもう会ふ機会はないかも知れません。

 御機嫌よろしゅう、さようなら。

 遥か離れたビルマから早高、アストラ、御影はじめ日本蹴球ティームの成功を祈ります。


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竹腰重丸「ショート・パス戦法(Short-pass system)」
『サッカー』(旺文社,1956)第二編 第一章 (五)p.32-37

本書の構成は、

第1編 サッカーの概要 第1章 ボール・ゲームとしてのサッカー 第2章 サッカーの発達史 第3章 日本における発達史
第2編 サッカ-の理論 第1章 戦法の変遷 第2章 現代戦法の理論と実際 第3章 各ポジションのプレー
第3編 基礎技術とその練習法 第1章 基礎技術の修得と体力の養成 第2章 キッキング 第3章 トラッピング 第4章 ドリブリング 第5章 ヘッディング 第6章 タックリング 第7章 パッシング 第8章シューティング 第9章 スロー・イン 第10章 ゴール・キーピングの技術
付録 1.基礎トレーニングとしての運動 2.競技規則の解釈と適用について 3.用語解説 4.競技規則 5.競技記録

第二編第一章「戦法の変遷」の細目は、

(一)戦法理解に必要な基本的事項 (二)ドリブリング・ゲーム (三)キック・アンド・ラッシュ戦法 (四)ロング・パス戦法 (五)ショート・パス戦法 (六)三F・B制戦法 (七)ボルト戦法、その他最近の発展


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 前項で述べたように、ロング・パスもショート・パスもあらゆる段階の戦法に用いられるから、ショート・パスのほうがロング・パスより一段上の進歩したパスだというわけでなく、敵に妨害されないように味方に渡すことの困難さの程度はロング・パスのほうが高い。

 しかし戦法としてみると、わが国の戦術史の上からいえば、ショート・パス戦法のほうがあとから出てきたものであり、また味方に正確にボールを渡す厳密な意味でのパスが多く用いられるに至ったので、冒険的な攻撃から精密な攻撃に移り、攻撃するときと防御に回るときとがかなり明確に区別できるように変ったし、漫然と位置をとるやり方から、精細な動きを組み合わせるいき方に移った点では、近代サッカーへの一大進歩であったというべきであろう。

 大正十二年(一九二三年)一月に開始された第一回全国高校(旧制)大会に早稲田高等学院が優勝したが、同校の優勝によって、そのチームをコーチしたビルマの留学生チョー=ディン(Kyaw Din)氏の名が全国に伝わり、多数の者がその指導を受けた。いわゆるショート・パス戦法は、同氏の指導を受けた人たちによって普及され、拡充されたものであって、同氏がわが国サッカーの近代化に貢献したところは多大であった。

 同氏の教えたショート・パス理論は「むりにドリブルで抜かなくても、二人でパスを用いて一人の敵をたたけば、けっきょくゴール前で一人をあましてフリー・シュートできる」ということに要約されるもので、戦術理論としてはすこぶる単純なものであった。

 しかし、同氏にキックやヘッディング、ドリブリング、タックリングなどの正確な方法と、その理論を教示された結果、基礎技術が急激に進展したことは大きな収穫で、キック・アンド・ラッシュ式のやり方から、従来よりもはるかに確実にボールを保持して侵入する攻撃方法の技術的な裏づけができたわけである。

 大正十一年(一九二二年)の秋、山口高等学校で筆者もはじめて同氏の指導を受けたが、ペナルティー・エリア線付近からのキックで、十回中に六、七回ぐらいは確実にバーにあてる美技や、ヘッディングの正確さには目を見はったものであるが、それにもまして大きな収穫であったのは、キックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用して考えることを教えられ、 サッカーは考えることができるスポーツであることを知ったことであった。

 それまでのサッカー練習では円陣を作って蹴り、ドリブルをし、ゴール・シュートの練習をしてのち、練習試合をするといった、単に前から行われていた練習方法をまねるに過ぎないもので、バーを越すシュートをすれば「下げて、下げて」と主将なり先輩にどなられるだけであり、なぜバーを越したかまたどうすれば上がらないですんだかを反省し、くふうすることははなはだまれであったといっても過言ではなかった。それが同氏の指導を機として「精神力と慣れ」のサッカーから、フォームやタイミングなどと照らし合わせて原因・結果を追求する科学性を加えた練習方が進歩したので、種々の技術が飛躍的に向上していったわけである。

 ショート・パス戦法は、その名の示すように短いパスが多く用いられたのであるが、それは表面に現れた形からみたところで、その内面にある基本的な作戦-意図-は、冒険的に突進するよりも確実にボールを保持して進み、一定線に達してのち、鋭く最後の突込みを行うという考え方であった。「中盤(ミッド・フィールド)作戦」と最後の「寄せ」ということばが、サッカー用語として現れたのも、このショート・パス戦法(英国でいうクローズ・パッシング・ゲーム Close passing game に相当)時代にはいってからである。

 この戦法では、ロング・パス戦法に多く用いられた深いW字形のフォワード線では不便なので、浅いW字形でパスを交えながら、まず、敵のハーフ・バック線をくずして、比較的余裕をもった自由な態勢でフル・バック線にかかり、敵のハーフ・バックとフル・バックが浅くなる(おおむね横に一線となる)に至って、鋭く突込むことを基本的な方針とした。

 もちろんハーフ・バック線を破っても、そのハーフ・バックが置き去りにされず後退してしまえば、好ましい態勢にはならないので、攻撃に相当のスピードを必要としたが、以前はいかなる場合でも前へ前へと努力したのに比較して、ハーフ・バック線を破るまでは、スピードよりも確実にボールを回すことが主眼となったわけである。

 三人のハーフ・バックは、攻撃に当ってはフォワード線の一〇~二〇メートルぐらい後方に三人が前進して、フォワードと敵守備者との争奪から漏れる漏れ球を拾ってフォワードに送ることを主とし、時に(ことにセンター・ハーフは)フォワード線と同じ線に加わって直接得点するといういき方がとられた。

 守備に当ってのハーフ・バックは、ウィング・ハーフは敵にボールが渡れば、ただちに後退してウィング・フォワードをマークする体勢をとり、センター・ハーフは常にボールを追って敵の攻撃を局限して、ウィング・ハーフやフル・バックの前に追い込んでタックルするとか、パスをインターセプトするようにすることを主要任務とした。したがってセンター・ハーフはセンター・フォワードと両インナーの三人を一人で追い回すことが必要で、他の位置に比較してその活動はことに激烈で、一流チームのセンター・ハーフは九十分間の試合中に五マイルは走るものとされていた。英国でロービング・C・Hゲーム(The Roving C. H. game)というのはこのことである。

 この三人のハーフ・バックの分担は、ロング・パス戦法の場合も同様であったが、いかに強力なセンター・ハーフでも完全に中三人のフォワードをおさえることは困難なので、実際上はインナーの一人が適宜さがって穴を埋めるか、あるいはフル・バックの一人が、ハーフ・バック線に加わって敵のインナーに当るいき方が採用された。

 オフ・サイド規則が三人制から現在の二人制に改まった一九二五年(日本ではその翌年より実施)ごろまでは、フォワードの最前線を深く進出させておくことはできなかったのと、攻撃側のキックの不正確なことや、その動作に時間がかかったりあるいはトラッピングのまずさに助けられたりして、図上作戦では防ぎきれないはずのこの守備法も、実際問題としてはさして破綻を起さないですんだ。

 あとに説くセンター・ハーフが第三フル・バックとなるやり方のように、一人が一人をはっきりマークする守備法ではないので、守備の方法としてただ後退して位置をとるだけでは不十分で、敵のパス・ワークを切断するよう敵を追い込む必要があり、ボールを持つ敵の右側をおさえて左のほうに追いやるとか、その逆というように一方の側をおさえる追い方が発達し、またパスを許しても決定的な箇所にはパスさせないように、巧妙な間合をとることなどが研究された。

 中盤戦の攻撃においては、ドリブルするにも必ずしも前進を急がず、パスしうる角度にドリブルし、また、ボールを持たない者は疾走して前に出るというよりは、パスの通りうる角度のところに移動するというような精密な動きが重んぜられた。さらにまた、ロング・パスをした場合よりも、ショート・パスをした後にはただちに折返しのパスを受ける機会が多いので、パスした直後に敵を置きざりにするよう、ただちに鋭いダッシュに移ることなどの練習がとりたてて行われた。

 正確なパスを交えて、確実にボールを保持するというこの戦法の基本的な考え方を成功させるためには、試合の運び方や戦術的な動き、あるいはそれを可能にする基礎技術に幾多の改良を要する点があったので、この戦法に移ってのちは急速にゲームの分析が進んだ。

 その時代に日本の参加する唯一の国際試合であった極東選手権競技大会には、常に敗退を続けていたのであったが、昭和二年(一九二七年)上海での第八回大会に至って、早大W・M・Wを中心とする日本代表が初めてフィリピンに勝ちえたのは、このショート・パス戦法の発展期に当っていた。

 オフ・サイド規則の改新によって、わが国でもファォワードの浅いW形は深いW形に移行する傾向を生んで、そのために、ウィング・ハーフがウィング・フォワードに当ることは困難になってきたが、センター・ハーフには最も強力なものを配置する習慣があった関係から、センター・ハーフが広く動き回る方針を捨てきれなかったので、フル・バックはゴール前を離れてタッチ・ライン近くに広がることができないため、がっちりした対人防禦の守備には容易に移行できず、ただ試合の流れを追って(前後の関係で)適宜に回転する守備法を採用したのである。

 たとえば、敵の左側のプレーヤーがボールを持つ場合を説明すると、味方ライト・ハーフがレフト・ウィングに追いつけないときは味方ライト・バックがレフト・ウィングにつき、味方ライト・ハーフはレフト・インナーをマークし、一方センター・フォワードに対しては味方のレフト・バックかセンター・ハーフが適宜にこれをマークするというような守備法をとったのである。

 東京大学を中心に編成した昭和五年(一九三〇年)の東京での第九回極東大会への出場チームは、中華民国に対して常に一点リードしながら、ついに三対三の引分けに終ったのは、中華民国の強力なウィング・フォワードに対する日本側のマークが徹底せず、その活躍を許した結果であると思われる。

 ショート・パス戦法と呼ばれるいき方は、昭和五年(一九三〇年)ごろがその完成期であったといってもさしつかえなかろう。

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英国立公文書館の第一次世界大戦メダル・カードの「Kyaw Din」情報

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英国立公文書館の第一次世界大戦メダル・カードには4名のKyaw Din情報が記録に残っていた。豊島梢著「怖い蹴球の柔術 チョー、ディンさんの蹴球談」『運動界』4巻9号(1923年9月) p.127-129 には、

“「私は蹴球に就いては十五ボールのポケット付の玉突よりランニングハイジャムプよりも経験が多いだけに自信がある」と小学校時代の思ひ出話から戦争中エジプト、メソポタミヤ等で英国の聯合ティームを破った得意の話を随分長い間聞かされました。”

とあり、来日したディンも第一次世界大戦で中近東方面に従軍しており、4名中に含まれている可能性がある。

1)
Medal card of Kyaw Din. Corps: Burma Rifles. Regiment No: 5086. Rank: Lance Naik.

War Office: Service Medal and Award Rolls Index, First World War. Jobling J - Langley P. Medal card of Kyaw Din. Corps Regiment No Rank Burma Rifles 5086 Lance Naik.
Held by: The National Archives - War Office, Armed Forces, Judge Advocate General, and related bodies
Date: 1914 - 1920
Reference: WO 372/11/212010

Cimg8406

カード情報を整理すると、

Name(氏名):Kyaw Din
Cops(所属):3-70 Burma Rifles(3-70ビルマライフル部隊  Burma Rifles Regiment?)
Rank(階級):L-N 英国立公文書館によれば、Lance Naik。Lanceは伍長、上等兵に相当。
Regitr No.(登録番号):5086
Medal(メダルの種類):G.S. Medal 英陸軍のメダル公式サイトによれば、General Service Medalのアクロニムであると考えられる。GSM その右のGSMも同様。
Roll.(名簿?):India 65
Page:(ページ).12
Remarks(所見):Clasp Iraq 英和辞典によれば、claspは

“[軍事] a 戦闘記章[クラスプ](battle clasp)(参加した会戦名を刻んだ棒状の金属片;従軍記章の綬に付ける) b 勤務記章[クラスプ](service clasp)(戦闘以外の勤務に従事した戦地の名を刻むほかはaに同じ)”

このKyaw Dinはイラクにおける軍功でメダルを授与されたらしい。

2)
Medal card of Kyaw Din. Corps: Burma Rifles. Regiment No: 1564. Rank: Rifleman.

War Office: Service Medal and Award Rolls Index, First World War. Jobling J - Langley P. Medal card of Kyaw Din. Corps Regiment No Rank Burma Rifles 1564 Rifleman.
Held by: The National Archives - War Office, Armed Forces, Judge Advocate General, and related bodies
Date: 1914 - 1920
Reference: WO 372/11/212009

Cimg8405

氏名:Kyaw Din
所属:3-70ビルマライフル部隊 1)と同じ所属。
階級::Rifleman(ライフル銃兵)
登録番号:1564
メダルの種類:G.S. Medal GSM
名簿?:India 65
ページ:11
所見:Clasp Iraq

3)
Medal card of Kyaw Din. Corps: Burma Rifles. Regiment No: 6782. Rank: Rifleman.

War Office: Service Medal and Award Rolls Index, First World War. Jobling J - Langley P. Medal card of Kyaw Din. Corps Regiment No Rank Burma Rifles 6782 Rifleman.
Held by: The National Archives - War Office, Armed Forces, Judge Advocate General, and related bodies
Date: 1914 - 1920
Reference: WO 372/11/212011

Cimg8407

氏名:Kyaw Din
所属:3-70ビルマライフル部隊 1)、2)と同じ所属。
階級:ライフル銃兵
登録番号:6782
メダルの種類:G.S. Medal GSM
名簿?:India 65
ページ:12
所見:Clasp Iraq


4)
Medal card of Kyaw Din. Corps: Supply and Transport Corps. Regiment No: 065215. Rank: Driver.

War Office: Service Medal and Award Rolls Index, First World War. Jobling J - Langley P. Medal card of Kyaw Din. Corps Regiment No Rank Supply and Transport Corps 065215 Driver.
Held by: The National Archives - War Office, Armed Forces, Judge Advocate General, and related bodies
Date: 1914 - 1920
Reference: WO 372/11/21200

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氏名:Kyaw Din
所属:S & T Corps
階級:Driver(運転兵)
登録番号:065215
メダルの種類:GSM GSM
名簿?:India 4/6
ページ:470(410?)
所見:Clasp Iraq & Kurdistan

これだけの情報では、来日したKyaw Dinがこの中にいるかどうか判別できない」ということが判明。

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『東京高等工業学校一覧. 大正11-12年』におけるチョー・ディン

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「生徒氏名」の項、紡織科選科に

“モンチョウディン 緬”(p.59)

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がある。

東京高等工業学校は1929年に東京工業大学に昇格するが、その第1年目の『東京工業大学一覧. 昭和4至5年』の卒業者氏名及就職先の「選科終了者ー紡織科選科」の項に

“大正十三年四月修了(一名)
 未詳   Kyaw, Din. 緬”(p.214)

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となっている。卒業(修了)は1924年4月であることを確認できるが、5年後の1929年時点で経歴不明になっている。

知られざる偉人 ウ・チョーディン」によれは、帰国後工場技師として勤務していたようだが、紡織関係の工場かどうかは明記されていない。

“中でも特筆すべきは、製鉄釜や金型といったまさに工業の基礎となる開発をミャンマーで初めて行ったことです。そしてその技術は、何と現在にまで引き継がれているのです。このようにさまざまな功績を残してミャンマー工業のパイオニア的存在となった彼は、初の国産ジープを生産するなどして、独立国家ミャンマーにとって重要な存在となっていきました。”

あまり紡織とは関係ない分野で活躍したらしい。

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『アストラクラブ 輝かしき80年の歴史.』におけるチョー・ディン

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チョー・ディンは日本では早稲田高等学院、アストラ倶楽部を指導した。前者は第1、2回(1923、1924年)全国高等学校蹴球大会(インターハイ)で連続優勝、後者は第3回(1923年)全日本選手権(現・天皇杯)で優勝と、当時全国的なサッカー大会が少なかったにもかかわらず、短期間ながら傑出した成績を残している。

『アストラクラブ 輝かしき80年の歴史.』(アストラ倶楽部 1998)は刊行が遅かったので、ディンの指導を受けた人物があまり残っておらず、天皇杯優勝の項でもディンへの言及がない。「第1回座談会<戦前編・大正から昭和20年まで>」(pp.75-82)で渡辺良吉(1929年卒)が以下のように言及しているのみである。

渡辺 私が中学のころ、チョーディンという外人、ビルマ人でしたがアストラでサッカーを教えてもらいました。30歳ぐらいでしたが、はだしでボールを蹴り、インサイドステップのシュートはものすごかった。”(p.79)

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『水戸高等学校蹴球部史』におけるチョー・ディン

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水戸高等学校は、茨城県出身の実業家内田信也の寄付100万円によって1920年開校した。体育指導者は、これも内田の援助によって米国留学していた岡部平太が招聘され、岡部の指導により1周400m、直線200mのトラック、それとは別に野球グラウンドのある全国屈指の運動施設を有する高等学校となった。

『水戸高等学校蹴球部史』(水戸高等学校蹴球会 [1999])によれば、1921(大正10)年夏、竹腰重丸の紹介でチョー・ディンがコーチに訪れたことが記されている。同年東京高等師範学校附属中学卒の中島道雄が2回生として入学した。

“この年の夏、ビルマから日本に留学していたチョー・ディン氏がサッカーのコーチに水高にみえた。木村康一(2回)はつぎのように記している。「ア式蹴球部は一応石川講師を部長に練習し、夏には山口高校の名手竹腰重丸君案内で東京高工(現東京工大)のビルマの留学生モン・チョー・ディン君を案内して来水した。ビルマは当時英領であった為めかイギリスの競技ア式蹴球に関しては日本の先輩であったが、それにしてもそのサッカー技は驚くべきものであり、時には裸足で我々生徒のスパイクサッカーシューズの間を縫って球を運ぶ身軽さ、キック、シュートの正確さ、強さに驚かされ、競技運び、作戦等も教えられ、大いに得る所があったが、そのコーチを受けた他の高校もサッカー技の向上に益したことである」(「旧制水戸高等学校のア式蹴球部の草創」『蹴球会誌』復八)。

 チョー・ディン氏について、島田秀夫(14回)は次のように記している。「チョー・ディンは大正九年ビルマから来日した東京高等工業(現在の東京工大)の留学生三人の内の一人でサッカーの外陸上競技のジャンプにも秀でていた。当時ビルマは英国の植民地であったのでサッカーは英国流の本場のサッカーであることは勿論。このチョー・ディンが早稲田でコーチの後、付属中学に来て(というより東京高師のグランドでといった方がよいかも知れない)本腰のコーチを始めたようだ。これが縁で春山さん(当時中学五年)や真鍋さん等の付属の選手たちも真剣に取組んだようだ。ここでチョー・ディンはコーチをしながら「How to play Association Football」という小冊子を書いている。チョー・ディーン(ママ)がこの本を世に出す(大正十二年)に当っては春山さんや真鍋さん等も神楽坂の下宿につめかけ翻訳に当ったり協力これ努め写真取りのモデルにもなっておられるのである」(「春山さんの一年祭に出席して」『蹴球会誌』復一〇)。”(pp.8-9)

木村康一は府立四中OB。島田秀夫は東京高師附中OB、水戸高を経て東北帝大卒、三菱重工勤務。JFA第7代会長

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『附属中学サッカーのあゆみ』におけるチョウ・ディン

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竹内至「チョー・ディンさん」『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984) p.22

チョー・ディンさん
                         (35回) 竹内至

 チョー・ディンが日本で始めてボールに触れたのは大正9年頃と思われる。彼の著書にサッカー歴を14年と書いて居るが、ビルマでの様子は知る由もない。東京高等工業(蔵前)に留学して居る或日、日本の蹴球代表選手が東京高師のグラウンドで練習して居る事を知り、ぶらりと遊びに来たものと思われる。「全関東蹴球団」(極東大会の日本代表チーム)に附属中学在校選手が練習台となってお相手していた。代表チームには附属の卒業生で井染さんと後藤さん(共に29回)がおり、高師では佐々木等さん、大新田勝海さん、森悌次郎さん、後藤素直さん、佐藤実さんと半数以上が東京高師関係者で占められていたので、練習相手としてはお誂え向きのチームであったろう。大正9年の秋から10年5月の極東大会へ出発する迄の間であろう。附属中学も大正10年の関東蹴球大会(2月11日~13日)に出場して第2回戦で善戦し抽籤で負けている。当時の選手としては鈴木重義さん、峰岸春雄さん、川上俊雄さん、樋口長雄さんは亡くなられているが、岡山俊雄さん、山路誠さんは健在である。そんな或日チョー・ディン氏は東京高師のグラウンドで「全関東蹴球団」や附属の生徒達にキック、シュート、タックルと云った基本の技術を教えてくれた。日本に来てボールに触れるチャンスのなかった彼にとっては、日本のサッカーマンにコーチ出来たのは一つの気晴らしであったかもしれない。「日本で過ごした3年間に於ける、プレーヤーの欠点を見」この著書を書いたと記しているから、大正10年から3年目の12年に著書を出版した事になる。チョー・ディンは痩型長身で走高跳にも優れ、上海大会で走高跳で優勝した早大の平井武さんとの出合は平井さんが帰朝してからである。10年に早稲田高等学院に入学された鈴木重義さんは平井さんを通して早高の蹴球部にチョー・ディンを招いて本格的な指導を受けられる事になり、大正12年1月第1回インターハイで早高が優勝する基因となる。”

【注】

全関東蹴球団:体協の蹴球委員会委員長、岡部平太が結成したピックアップ・チーム。東京高師、東京蹴球団、及び野津謙(東京帝大)からなる。代表予選で関西代表関学を破り、初の代表アウェー戦となった1921年第5回極東選手権に出場、も対フィリピン1-3対中華民国0-4で2戦2敗。

井染さん:井染道夫。附中1920年卒。明大サッカーの祖。東京蹴球団員。
後藤さん:後藤基胤。附中1920年卒。東京高師に進学、卒業後湘南中学蹴球部の初代部長となり、同校を関東屈指の強豪に導く。
鈴木重義:附中1921年卒。早大サッカーの祖。ベルリン・オリンピック日本代表監督。
峰岸春雄:峰岸春雄は附中1918年卒なので、同1920年卒の峰岸正雄ではなかろうか。峰岸正雄は立大サッカーの祖。
川上俊雄:附中1922年卒。四高から東北大に進学。
樋口長雄:附中1922年卒。慶応に進学。
岡山俊雄。附中1921年卒。松本高から東大に進学。
山路誠:附中1923年卒。一高から東大に進学。

竹内至「[How To Play Association Football]について」『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984) pp.23-24

[How To Play Association Football]について

     著作者 チョー・ディン

       (真鍋良一蔵書)

                  (35回) 竹内至

 此の本はビルマよりの留学生であったチョー・ディン氏によって、大正12年8月23日発行されたサッカーの教科書とう云うべき聖書である。この本の序文に次の事が書かれている。「私は又他の人々の意見も聞き、十分に取り入れているので、この本を読まれる諸君が満足を得られるものと信じている。この本を発行するにあたり、ビルマのモン・エッペ、早稲田の鈴木氏、寿谷氏、附属中学校の児島、本田、春山、真鍋氏の親切な御援助、および東京高工の高松氏の日本語への翻訳、平井武氏のこの本に対する、色々の援助に対し、厚く御礼申し上げるものであります」

 文中の鈴木氏は30回の故鈴木重義氏であり、児島→故児島英二(33回)、春山→春山泰雄(33回)、本田→本田長康、真鍋→真鍋良一(34回)であります。この本の製作に就ては、附属の方々が実技の上で関係されたのであります。大正12年から云えばサッカーのルールは何回か改訂されていますので、この教科書はその侭では現在に通用しませんが、まだまだ立派に学ぶべき処もありますし、其の精神は今日も生きていると云えるでしょう。

 しかし何と申すにも大正12年の著作であり、現在の方々には読み辛いし、或は理解が難かしい処もありますので、全文を現代語に意訳する作業を篤志家の御協力で完成しました。

 全文を本書に掲載する事は紙面の都合で不可能でありますので、別の機会に譲る事としチョー・ディン氏の書かれた本書の精神の一部を記載する事と致します。

 サッカーマンに対する忠告

① 競技中は、絶対に利己的、即ち自分だけの功名を考えないようにすること。なぜならば、自分だけの功名は、決して全チームに勝利をもたらすものではなくて、結合・統一された全体の努力が、はじめて成功するものであるからです。故に良いチームの美点は、完全に統一された所のチームワークなのです。

     Union is strength

② Play the Games and not the Gallery。この一句が総てのサッカーマンのモットーでなければならない。観衆からの拍手喝采を考えると、兎角自分自身の功名に走りたくなるものである。チームが獲得した栄冠は、又そのチームを形成するメンバーの名誉なのであるから、公正なる競技によって勝利を得るよう努力すべきである。

③ いわゆる、スポーツマンであってほしい。たとえ敵がファールをしても決して怒ってはならない。各競技者は同胞愛を堅くもたねばならない。

④ 敵を背中から攻撃してはならない。これは紳士として、最も恥ずかしい事であるから。

⑤ 奇声や、不快な声を出さないようにすること。この様なチームと競技することは、最も不愉快なことである。

⑥ レフェリーに対しては絶対に従う事。そぢてその判断については決して苦情を言わない事。”

『How to play association football』は日本サッカーミュージアムのサイトで全文アクセス可

藤岡端「チョー・ディンとその頃」『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984) pp.24-25

チョー・ディンとその頃

                          (36回) 藤岡端

 「ア式蹴球は日本において未だ正当な評価を受けていない - これは他の競技については多くの著書があるのに、ア式蹴球に関する良書が少ないためと思われる。著者は自らの14年間の経験をもとに、日本で過ごした3年間に気付いたプレーヤーの欠点について出来る限りの指摘をして来た。」私の知る範囲ではキック、タックル、ヘッドなどの各個のプレーについての良い指導書は見当らない。本書で各プレーの目的と技術を説明した。

 チョー・ディンは、本論に入って攻撃、守備の概説、各ポジションの役割、各プレーについての技術的な指導、攻撃、防禦の構成などに及ぶ。殆どのチームが蹴って走り、ドリブルして突っ込むといったプレーを主としてパッシングなど念頭になかった時代の日本のプレーにはじめは当惑したに違いない。当時山口高校の選手としてコーチを受けた故竹腰重丸氏は、“大きな収穫はキックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用することを教えられ、サッカーは考えることが出来るスポーツであると知ったことであった”と述懐している。これは同氏がメルボルン・オリンピック参加を前に旺文社スポーツ・シリーズ中の一巻として著作された“サッカー”からの引用である。同書は氏の経験と研究をもとに日本人の立場から書き下ろされたものであり、個人プレー、チームプレーを細かに分解して説明し、戦術にまで及ぶ丁寧なもので、その懇切さには類書をみない。しかしそのバックボーンにチョー・ディンの姿がチラつくと云っても著者に対して非礼とはならないと確認する。

 震災前後のわが蹴球界を回顧する。東京育ちには東京高師と日比谷公園の仮設グラウンドが檜舞台であった。フルバックがハーフ・ラインを超す長蹴を放つと観衆は“わァーッ”、ウィングフォワードがドリブルで相手を抜くたびに拍手と感嘆のどよめき。強豪豊島師範の応援は“蹴っ飛ばせやー”の怒号乱舞。こんな時代に分析された技術を基としたキック、ヘッド、タックルを身につけ、ショート・パスを主軸とする攻撃の組み立てがもちこまれたのである。近代サッカーの脱皮の時機であった。そして1925年オフサイド規則の変更(3人制から現行の2人制へ、日本では翌年から実施)により攻防の動きが一層緻密になり、キック・アンド・ラッシュやドリブルを主とするゲームの展開は過去のものとなってしまった。しかも第二次世界大戦後は世界的なプロチームの興隆によってサッカーはまさにスポーツ界の王座にある。オリンピック大会といえどもサッカーをプログラムから外しては経済的に成立しない時代になった。この間日本代表チームの活躍や日本リーグの向上などわがサッカー界も空前の活況にある。したがっが(ママ)わが国のとくに青少年の人気は恐らく野球につぐものであろう。書店には色とりどりのサッカー手引書が並んでいる。そして少年たちが憧れる名選手の写真や、ハデなプレー(リフティング、トラッピングなどなど)の解説などが紹介されている。なんの場合でもファンダメンタルズを習い覚えさせることは困難ではあるが、成功に近道はない。その意味でつたない表現であっても各プレーの基礎をを網羅したチョー・ディン氏の小著は、わがサッカー史に黎明をもたらしたものである。本書が発行されて一週間後が関東大震災、そしてその60周年を記念するように附属中学蹴球部史が編集される。明治生れの老童連はチョー・ディンを追憶しつつ感無量である。”

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