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ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー

【目次】
-はじめに-
戦前の学制とサッカー
東京高師附中
神戸一中
ボトム・アップによる普及
戦前と戦後の比較
むすびにかえて


-はじめに-

 1917年極東大会で初めて国際試合を経験した日本は10年後極東大会フィリピン戦で初勝利をあげ、13年後極東大会初優勝、19年後ベルリン・オリンピックでスウェーデンを破るまでにいたる。こうした急成長の背景には、代表選手が高等師範・師範学校から大学に移ったことがある。サッカーがカレッジ・スポーツ化したわけであるが、サッカーの場合、同じ“フットボール”のラグビーと違って、大学で始める選手はおらず、大半は小学校、中学校で始めている。特定の年代層が中学校から旧制高校へ、さらに大学へと進学するにつれて、代表チームも強化されていった。

 日本サッカーのルーツ校東京高等師範学校から直接東大や早慶などの大学に普及したのではなく、東京高等師範学校からまず師範学校や中学校に普及し、その中学生が旧制高校、大学に進学して大学サッカーが始まったのである。中学校から上級学校に普及するに際しては、サッカーを「校技」としていた東の東京高等師範学校附属中学校(以下、東京高師附中と略す)と西の兵庫県立神戸第一中学校(以下、神戸一中と略す)の2校がとりわけ重要な役割を果した。例えば、早慶の両校でサッカー部を創設したのはこの2校のOBである。

 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂メンバー6人のうち新田純興と鈴木重義が東京高師附中OB、大谷四郎が神戸一中OBなのであるが、自身の出身校の役割の重要性を強調するのは「美学」に反するとでも考えたのか、『日本サッカーのあゆみ』はこの2校の役割を具体的に記していない。そこで、この2校を中心に、戦前のサッカーの普及を辿ってみたい。


戦前の学制とサッカー

 戦前の学制といっても明治から太平洋戦争頃までにかなり変遷があるが、ここではサッカーが普及しはじめた、1920年代(大正から昭和にかけて)のサッカーに関係する諸学校のみを紹介する。

 初等教育は6年制の尋常小学校で義務教育。中学校に進学しない者は2年制の高等小学校に進学した。小学校の中でもサッカーが盛んな師範学校の付属小学校は、学童サッカーの水準も高かった。付属小学校はまた中学進学率の高い地域の「名門」小学校でもあり、付属小学校OBが進学先の中学校で蹴球部を創設する場合もあった。山田午郎著『ア式蹴球』(杉田日進堂,1925)によれば、当時関東では東京蹴球団(青山師範系OBクラブ)、豊島サッカークラブ(豊島師範系OBクラブ)、埼玉師範が主催する小学生大会があった。

 中等教育は義務教育ではない。中学校は5年制で、尋常小学校から進学した。現在の中学校・高等学校に相当する。師範学校も5年制だが、尋常小学校から2年制の高等小学校経て入学するシステムだったので、師範学校の最上級生は中学校の最上級生より平均して2歳年上だった。中学校と師範学校は「中学選手権」などで同列に置かれていたが、十代後半で2歳差のハンデはかなり大きく、だいたいにおいて師範学校優勢だった。大会によっては、中学校の部と師範学校の部を分けたものがあったくらいである。戦術的には、師範学校は体力差を生かしたキック・アンド・ラッシュをとる場合が多く、中学校は体力差を克服するためにショート・パス戦術をとるものがあった。後者の代表例が東京高師附中と神戸一中であった。

 年齢差に加えて師範学校のもうひとつの強みは全寮制だったことで、年中強化合宿状態で、しかも蹴球部に入ってしまうと練習をサボることはできなかった。師範学校は学費無料だったが、卒業後は小学校教員になる奉職義務があり、中学生のように上級学校に進学してより高いレベルでプレーすることはできなかった。その代わり就職の心配はまったくなく、サッカーに専心できた。師範学校OBが「代表」でプレーできたのは1920年代前半までで、大学サッカーが普及するとその敵ではなくなる。師範学校は戦後、学芸大学、教育大学、地方国立大学の教育学部に昇格した。

 中学校の大会は、大日本蹴球協会設立前の1918年に関東は東京蹴球団、関西は大阪毎日新聞主催で始まっている。

 (旧制)高等学校は3年制で、大学に進学することを前提にした、語学を中心にした高等教育の一般教育課程だった。高校と大学の定員はほぼ同じだったので、大学、学科を選ばなければ進学・就職の心配もなく「青春を謳歌」することができた。知的好奇心が強い年代で時間的余裕もあったので、「舶来」のスポーツでまず高校から普及したものは多い。第一次大戦前まではいわゆるナンバー・スクール、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)・・・に学習院のみであったが、大戦後大増設される。水戸、浦和、新潟、松本・・・など、地名を冠した高校が当時の新設校である。高校のない地域の大学や私立大学には、高校に相当する課程として大学予科が設けられた。

 1923年には当時東大の学生だった野津謙(後第4代JFA会長)の奔走により高校の全国選手権が始まる。この大会は初期には東大が全国の高校生をリクルートする役割を果し、東大が東京学生リーグ6連覇するのに貢献したが、後に早慶を始めとする私学(大学と予科が一体なので予科学生も大学リーグ戦に出場できた)が台頭すると、東京学生リーグに所属する私学にとっては新人戦的な意味しかなくなる。地方の高校の方がモチベーションが高く、最多優勝は岡山の六高、次いで広島高校だった。

 大学は3年制の専門教育機関、高校または大学予科を修了した者のみが入学できた。戦前の高校と大学は、アメリカのリベラル・アーツ・カレッジと専門大学院(ロー・スクールのような)に似ているといえよう。関東、関西で大学リーグ戦が始まるのは1924年。初期には全国の高校から有望な選手をピック・アップできた東大や京大が優勢だったが、やがて中学卒業生をトップ・リーグ戦を体験させながら6年間一貫指導できた早慶や関学の私学勢の独壇場になっていく。なお、戦前の大学サッカーでは野球のようなスポーツによる入学や学費免除はなかった。

 高等師範学校は4年制の高等教育機関、東京と広島に2校あった。どちらも戦前に文理大学に昇格している。中学校・師範学校の教員養成機関だったので、サッカーのルーツ校東京高等師範学校卒業生が各地の中学校、師範学校にサッカーを普及させ、さらに師範学校卒業生が小学校に普及させた。競技の性格にもよるが、こうした垂直方向の普及はラグビーにはみられない。1899年ルーツ校慶應で始まったラグビーは1910年京都の三高が始めるまで対戦校がなかった。サッカーの場合は東京高師から卒業生によってすぐに青山、豊島の両師範に伝わり、さらに両師範の付属小学校に普及している。東京、広島の各高師は現在筑波大学、広島大学になっている。

 第一次世界大戦後に成立した原敬の政友会内閣は中・高等教育の量的拡大を国策として推進した。以下は大戦をはさんだ12年間の各学校の校数の比較である。

             大学   高等学校  中学校
大正3(1914)年     4      8     319
大正15(1926)年  37     31     518

中学と高校は純増だが、大学の場合早慶をはじめとする私学が大学として正式に認定された(卒業生に学士号を授与できるようになった)ことによる。こうした中・高等教育人口の拡大がスポーツ・ブームをもたらした。1920年代前半に実質的なわが国最初の商業スポーツ総合誌『運動界』(1920年創刊)、『アサヒスポーツ』(1923年創刊)が登場したのは、このスポーツ・ブームを背景にしている。朝日新聞社がグラビア印刷機の導入を機に『アサヒグラフ』とほぼ同時に創刊した『アサヒスポーツ』の写真のキャプションには英語もつけており、中等教育以上の教育を受けた読者を対象にしていることは明らかである。この時期に新設された中学校の中には、東京府立五中、大連中、志太中、刈谷中のように蹴球を「校技」とした学校も現われる。

 5年制の中学校を卒業して進学した者は、高校・大学予科で3年、大学で3年とさらに6年間より上のレベルでサッカーをすることができた。1927年極東大会以降1936年ベルリン・オリンピックまで日本代表は、朝鮮から選ばれた金容植を除いて全員大学生(予科・高校在学中を含む)または大学OBになる。


東京高師附中

 東京高師附中の蹴球部が校友会の正式の部になったのは1924年だが、1919年の東京蹴球団主催の第2回関東蹴球大会にすでに出場している。1921年第5回極東大会日本代表となった全関東蹴球団(東京高師、東京蹴球団+東大の学生だった野津謙)の練習相手は東京高師附中だった。全関東蹴球団は日本にショート・パス戦法を伝えたビルマ人留学生チョウ・ディンの指導を受けたが、同時に東京高師附中もディンの指導を受けることができた。ディンの著作『フットボール』(平井武,1923)(『フットボール』は巻頭の書名、表紙の書名は『How to play association football』)の謝辞に鈴木(重義)、児島(英二)、本田(長康)、春山(泰雄)、真鍋(良一)とあるのは同校OBまたは在学生である。当時ディンにサッカーを学んでいた竹腰重丸(山口高校在学中、後東大に進学して東大を東京学生リーグ6連覇に導く。1925年、1927年、1930年極東大会日本代表選手、1934年極東大会日本代表監督、ベルリン・オリンピック日本代表コーチ、戦後も2回にわたって日本代表監督を務める。日本蹴球協会理事長)も草創期の同校コーチを務めている。部の正式発足前に「日本代表」を相手に練習試合をし、日本サッカー史に一時代を画した名コーチの指導を受けていたのである。

 鈴木重義は同校1921年卒、早稲田に進学しア式蹴球部を創設する。1927年極東大会日本代表、優勝した1930年極東大会、ベルリン・オリンピック日本代表監督、戦前大日本蹴球協会の事務方のトップである主事を務めた。春山泰雄は同校1924年卒、水戸高校を経て東大に進学、戦後日刊スポーツを経て日刊スポーツ出版社社長。1927年と1930年の極東大会日本代表。本田長康は同校1925年卒で早稲田に進学、1927年と1930年の極東大会日本代表。1927年極東大会対フィリピン戦で日本は歴史的な国際試合初勝利をあげるのであるが、この試合のイレブンには上記3人に加えて、近藤台五郎(1925年卒、水戸高校、東大)、西川潤之(1926年卒、法政)の計5人がいた。中学時代にディンの薫陶を受けて旧制高校・大学に進学したた同校OBが日本の国際戦初勝利の原動力になったのである。

 同校OBは日本代表で活躍しただけでなく、鈴木のように進学先で蹴球部創設に関係した人物が多い。鈴木と同じ1921年卒の峰岸正雄は立教大、岸本英夫は東大、1年先輩で1920年卒の中島道雄は水戸高校、井染道夫は明治大、1926年卒の竹内至は新潟高校というように各地の高校、大学で蹴球部を創設している。

 上記のように同校OBは日本代表で大活躍しているのであるが、関東蹴球大会では青山師範、豊島師範に押されてあまり好成績を残していない。1924年に始まった東京高師主催の中学校ア式蹴球大会は中学校の部と師範学校の部に分かれていたこともあって同校の独壇場で、1924年から1930年まで7連覇している。決勝の相手は豊山、暁星、成城、府立五中、湘南中、1931年静岡の志太中(現藤枝東)が初優勝して、サッカー王国勃興の気配をみせている。大阪毎日新聞主催の中学選手権(現在の高校選手権の前身)にも出場しているが、東京高師主催の大会のような好成績は残していない。

 上記以外の戦前の同校OBで活躍した人物として、岸本武夫(1916年卒、東大、大日本蹴球協会設立時の理事、野津とともに高校選手権の創設に尽力)、中島健蔵(1920年卒、東大、文芸評論家)、大崎辰弥(1927年卒、慶應、慶應が東京学生リーグ1932年初優勝時の主将)、市田左右一(1928年卒、九州大、蹴球部OBではないが、戦後日本蹴球協会常務理事、日本最初のFIFA理事)、岩崎玄(1928年卒、慶應、大日本蹴球協会機関誌『蹴球』編集責任者)、高山英華(1928年卒、東大、1934年極東大会、ベルリン・オリンピック代表候補)、立原元夫(1929年卒、早稲田大、1934年極東大会、ベルリン・オリンピック代表)、有馬洪(1935年卒、東大、戦後日本代表)などがいる。


神戸一中

 神戸一中のア式蹴球部創部は1913年、広島高師OBの岩田久吉、イギリス人教師アーガルが指導した。神戸では一中に先駆けて御影師範が明治時代に始めており、創部から1920年頃まで蹴球部員は全員御影師範付属小学校OBだった。御影師範の蹴球部は1899年創設だが、やはり東京高師の系譜に連なり、初代部長は豊島師範にサッカーを伝えた内野台嶺と同期の東京高師OB玉井幸助が1910年に就任している。人脈的には東京高師→御影師範→御影師範付属小→神戸一中という経路で普及したことになる。初期の部員は全員野球部員、野球部から枝分かれして蹴球部ができた。同校は当時野球部が強く1919年の中等選手権で全国制覇(現在の夏の甲子園、当時は甲子園はまだ誕生しておらず、鳴尾球場で開催)するほどだったが、野球部でレギュラーになってしまうと進級、進学に差し支えたので、同好会的に発足したとのこと。1921年卒業で主将だった白洲次郎の伝記には野球のユニフォーム姿の写真があるが、白洲も野球部からの転進組だったようだ。

 1920年代前半までは御影師範の敵ではなかったが、1923年にディンの指導を受けてショート・パス戦法を習得してから第1次黄金時代を迎える。御影師範に指導に来たディンを、1918年卒業で主将だったOB範多龍平が宝塚に観劇に誘い、宝塚のグラウンドで待機していた部員を指導させたという逸話がある。1924年には大阪毎日新聞の日本フートボール大会(この年まで実質的には近畿大会)、神戸高商、関西学院、第八高等学校主催の各中学校蹴球大会に優勝、練習試合では早稲田高等学院(早稲田の予科、1923年、1924年の高校選手権を連覇)、松山高校、八高、東大に勝つなど、1年間不敗を誇った。1925年卒業の北川貞義は「第一回黄金時代はどうして生れたか」(『ボールを蹴って50年』所収)でその要因として、1)サッカー部員の充実、2)強力なライバルの存在、3)先輩の叱咤激励、4)チョーディン氏のコーチ、の4点をあげている。ディンのコーチについては以下のように述べている。

“それまでのわれわれは先輩達の掛声に追い廻されるように、我武者羅に走り蹴り滑っていたのだが、チョーディン氏のコーチによっていろいろな基礎プレーの型を教わった。インステップ・キック、サイド・キックなどキックの基本、正面タックル、スライディング・タックルなどタックルの基本、ショートパス、スルーパスなどパスの基本、等々を理路整然と教わったのであった。僅か半日のコーチではあったが、以後われわれは懸命にこの基本の型を身につけたのである。持前の器用さに熱心な研究と修練は、折角チョーディン氏を招いた肝心の御影師範以上にその基礎プレーをマスターし、やがてはこの「ミカゲ」を見事打倒したのである。後年サッカー界で恐れられた「神戸一中のショートパス戦法」はかくして生れたのである。”

 御影師範にフィジカルで劣る神戸一中としては、球離れの速いショート・パス戦法でできるだけボールを止めずにゲームを進めること、そのための基礎技術を習得しなければならないことを自覚していたのである。ディン仕込みのショート・パス戦術は東の東京高師附中とともに神戸一中のお家芸となる。ショート・パス戦術はこの2中学だけでなく、OBが進学した東大や早稲田、そして日本代表の基本戦術になる。1924年前後の卒業生からは1930年極東大会優勝時の代表に高山忠雄(1922年卒、東大)、若林竹雄(1925年卒、東大)、市橋時蔵(1927年卒、慶應)の3名が入っている。

 ディンを神戸一中に紹介した範多龍平は、同じくディンを東京高師附中に紹介した鈴木重義と似た役割を果している。早稲田にア式蹴球部を創設した鈴木に対して、範多は慶應に進学しソッカー部を創設した。範多によれば、サッカーでも早慶戦をやろうと2校はほぼ同時に創部したとのこと。範多とは珍しい姓だが、祖父は現在の日立造船の創業者で、神戸市北野地区を住宅地として開発し、ハンター坂や北野から王子動物園に移築された国指定重要文化財ハンター邸にその名を残すEdward H. Hunter氏、父は帰化して範多姓を名乗った範多龍太郎氏。鈴木は戦前大日本蹴球協会主事を務めたのに対し、範多は戦後日本蹴球協会で戦前の主事に相当する理事長を務めている。範多と関係があるのかどうかはわからないが、神戸一中のOBで慶應に進学した人は多く、濱田諭吉(中学時代は蹴球部に入っていなかった)、千野正人(1920年卒、日本協会機関誌『蹴球』初代編集長)、市橋時蔵(1927年卒、1930年極東大会日本代表)、右近徳太郎(1931年卒、1934年極東大会、ベルリン・オリンピック日本代表)、播磨幸太郎(1933年卒)、津田幸男(1935年卒、戦後日本代表)、二宮洋一(1935年卒、戦後日本代表、日本代表監督)などがいる。

 戦前大阪毎日新聞主催の中学選手権(現在の高校選手権の前身)で日本内地の中学校で優勝したのは同校と広島一中だけで、他は師範学校か朝鮮の中学校だった。中学校レベルでは他を圧する強さで、日本が国際復帰した1951第1回年アジア大会代表15名のうち、実に10名が同校OB(1935年~1944年卒)だった。田辺五兵衛は「神戸一中のサッカー 私の見たその足跡」(『ボールを蹴って50年』所収)で次のように述べている。

 “ある時計算したら日本代表選手の六割余が一中出身者(その八割位が御影師範附属小学校出身)であった。小学校の一年坊主のときから、御影師範の先生に教えられた附属の卒業生が、神戸一中へ入って磨きをかけられた。この理想的な環境に加えるに、サッカーの技術革命が入った。サッカー史上における重要な存在はかくして生まれたのである。”

御影師範附属小が選手の供給源として存在し、小学校から中学校にかけて一貫的に育成できたのが、神戸一中の強さの源泉だった。戦後の6・3・3制への学制改革は中等教育を中学と高校で分断することになり、戦前のような一貫的育成が困難になる。進学校としての神戸一中のノウハウは私立灘中・高に移植されたが、サッカー選手育成のノウハウはどこにも移植されることはなかった。


ボトム・アップによる普及

 東京高師附中、神戸一中に加えて、戦前のサッカー普及に重要な役割を果した中学校は広島一中である。同校にサッカーを伝えたのは東京高師主将で、1911年同校に赴任した松本寛次。教え子から、高校選手権や東京学生リーグの創設に貢献し、JFA第4代会長になる野津謙や関西学院蹴球部を創部する平田一三が出る。

 サッカーがカレッジ・スポーツ化し、日本代表が大学生またはそのOBになった1927年極東大会以降、代表の大部分をしめたのは、東大、早大、慶大、関学だが、それぞれの伝播を単純に図式化すると(団体競技なのでこのような単純化は問題があるとは思うが)、

東大:東京高師→東京高師附中→東大
早大:東京高師→東京高師附中→早大
慶大:東京高師→御影師範→御影師範附小→神戸一中→慶大
関学:東京高師→広島一中→関学

 東大の場合、全国各地の旧制高校に進学した東京高師附中や神戸一中OBが大学で再結集している。東大は1926年から東京学生リーグを6連覇し、優勝した1930年極東大会代表の主力になる。東京学生リーグで東大の7連覇を阻んだのは1932年の慶應、1933年から早稲田が4連覇し、1937年から慶應が4連覇と、1930年代には早慶時代になる。レベルの低い旧制高校(関東や関西では学生リーグの下部リーグに所属、地方では対戦相手に恵まれなかった)からしか選手を供給できなかった東大に対して、早稲田や慶應は大学と予科が一体で、中学校から予科に入学した選手を当時のトップ・リーグである東京学生リーグ1部に出場させながら、6年間一貫して育成することができた。

 日本サッカー史の金字塔となった1936年ベルリン・オリンピック対スウェーデン戦の先発イレブンのうち、堀江忠男、加茂健、加茂正吾は浜松師範附属小 →浜松一中→早大、右近徳太郎は御影師範附属小→神戸一中→慶大と、少なくとも4人は小学校でサッカーを始め、中学校を卒業すると同時に当時日本のトップ・リーグだった東京学生リーグで揉まれるている。加茂健と右近はオリンピックでも国際級選手と評された。他の選手も遅くとも中学校でサッカーを始めている。戦前、サッカーが短期間に垂直的に小学校まで普及したことにより、それらの選手が成長した段階でサッカー先進国に負けないキャリアを積んでいたことになる。また、東京高師附中や神戸一中が師範学校に対抗するためショート・パス戦術を採用したことにより、両校OBで東大、早慶に進学し、日本代表に選抜された者は、中学、大学、日本代表と一貫した戦術の下でプレーすることができた。

 1936年ベルリン・オリンピック代表の平均年齢は23歳、1913年前後に生まれ、学齢期にサッカーが普及した1920年代を迎えている。1913年生まれの堀江忠男、立原元夫、右近徳太郎、1914年生まれの川本泰三は2年前の1934年極東大会代表でもある。堀江、立原、右近は21歳、川本は20歳でアウェーの代表戦を体験している。この4人はいずれも中学卒業と同時に早慶に入学し、当時のトップ・リーグだった東京学生リーグ1部に所属していた。中学を出たばかりの“ワンダー・ボーイズ”たちにトップ・リーグを体験させ、さらに代表に抜擢できるシステムが存在していたのである。


戦前と戦後の比較

 戦前比較的短期間に「世界水準」に到達したのに対し、戦後長く低迷が続いた理由について考察してみたい。まず、前提として1920年代後半から1960年頃まで、サッカーはカレッジ・スポーツであり、日本代表は実質的には「日本大学選抜」であったことに留意する必要がある。この時期日本代表のレベルは大学サッカーが決定していたのである。戦前の場合高等教育が6年課程で、大学と予科が一体化していた早稲田、慶應、関学などの私学では実質的に6年制だったといえる。戦後は4年課程に短縮され、その分大学サッカーは弱体化したと考えられる。また、戦前の中等教育が5年制で一貫指導が可能だったのに対し、戦後の6・3・3制では中学と高校で中等教育が分断されることになった。一貫的育成が困難になっただけでなく、新設の中学校では指導者を欠いたり、そもそもサッカー部が存在しないこともあった。中学と高校それぞれ3年間という短い期間の上に、進学希望者は受験勉強の負担が加わり、中等教育レベルでのサッカーも戦前と比較すればかなり弱体化したのではないかと考えられる。

 1960年代以降、古河電工や東洋工業をはじめとする社会人チームが力をつけ、1965年に日本サッカー・リーグ(JSL)が始まると日本サッカーの中心は大学から社会人に移行する。日本のトップ・リーグはJSLになるのだが、これはまた別の問題を生じることになった。JSLの中心メンバーは古河、日立、三菱のような財閥系大企業であり、初期の中心選手はメキシコ・オリンピック代表をみればわかるようにほとんど全員大学OBだった。終身雇用制下の大企業における引退後の処遇を考えれば、高校生は直接JSL入りするよりも、まず大学卒の学歴を入手することを優先するようになる。日本代表クラスの有望高校生がトップ・リーグのJSLではなく、今や2流のリーグになった関東、関西の大学リーグでプレーすることにより、伸び悩む傾向があった。JSLの誕生は、必ずしも最高の素材が最高のリーグでプレーしない、というジレンマを生じることにもなったのである。

 少年時代からの一貫指導、若い年代でトップ・リーグを経験させることの重要性を具体的に示してみせたのは、1980年代に全盛時代を迎える読売クラブで、戸塚、都並、松木などをクラブで育成し、日本代表入りさせている。結局、この問題に決着をつけたのはナショナル・センター制度による一貫指導とプロ化で、Jリーグ発足以降は、ユース日本代表のほとんどがプロ入りするようになる。


むすびにかえて

 歴史書のジャンルに国や地域、産業などの「興亡」とその原因を考察したものがある。後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』を読んで、戦前の短期間の「興」と戦後の長期間の「亡」の原因はいったい何なのか、と考えたのがこのコラム執筆のきっかけだった。同書を読めば、メキシコ・オリンピック銅メダルも、東京オリンピックのため代表選手を固定して潤沢な強化費を使用して強化した結果で、「構造的」に長続きするものではなかったことがわかる。国や地域のサッカーの長期間にわたるサッカーのレベルを決定するのは選手のタレントのようなミクロの要因ではなく、それらを継続的に生み出す制度的なものであろう。サッカーは典型的な学校スポーツなので、戦前と戦後の学制の変化が代表のレベルに影響を及ぼしたのではないか、と考えた。


参考文献

・『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)
・神中サッカークラブ編『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)
・『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会,1984)
・兵庫県サッカー協会70年史編集委員会編『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』(兵庫県サッカー協会,1997)


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