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野球、サッカー、ラグビーの対YC&AC戦

☆ はじめに

 YC&AC(Yokohama Cricket & Athletic Club 現・Yokohama Country & Athletic Club)は、日本のスポーツ、特に野球、サッカー、ラグビーのような球技の発展を促した、日本スポーツ史における重要な存在である。3競技の専門書、中馬庚著『野球』(前川善兵衛 1897)、東京高等師範学校々友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書 1908)、慶応義塾蹴球部編『ラグビー式フットボール』(博文館 1909)は、各競技の対YC&AC戦初勝利の直後に刊行されている。対YC&AC戦勝利のノウハウは本にして刊行するだけの値打があるほど、対YC&AC戦勝利は各競技の歴史上、画期的な意味を持っていたのである。 YC&ACは、各競技の日本における「自立」にとって、いわばゲートキーパーの役割を果たしたといえる。

☆ 最初のYC&AC戦

 各競技の最初のYC&AC戦を表にまとめたのが以下である。
種目 開催年月日 対戦校 場所 結果   
野球 1896(明治29)年5月23日 一高 横浜 一高29-4YC&AC
サッカー 1904(明治37)年2月6日 東京高師 横浜 東京高師1-9YC&AC
ラグビー 1901(明治34)年12月7日 慶應義塾 横浜 慶應義塾5-41YC&AC


 野球が最も早く、しかも初戦で大勝している。ラグビーは野球に遅れること5年、サッカーは同8年で惨敗している。ラグビー、サッカーにとって、この対YC&AC戦初戦が日本人にとっての最初の正規のラグビー、サッカー試合であったので、この結果は当然であったともいえる。一方、一高は農学校(現・東大農学部)、明治学院など国内のチームとの試合経験を積んでいた。対YC&AC戦の時点で、後に野球殿堂入りすることになる名投手 青井鉞男を擁し、国内無敵の「成熟した段階」で、「野球の母国」の外国人に挑んだのである。一高対明治学院戦を見物に来た明治学院教師のインブリー氏が、門からではなく垣を乗り越えて入場したことに怒った一高生が同氏に暴行した、いわゆるインブリー事件は対YC&AC戦の6年も前、1890年のことである。

 野球の対YC&AC戦勝利で重要な点は、条約改正前、すなわち不平等条約下で「外国人に勝利」するという、日本人にとっての外国人コンプレックスを払しょくする「力道山効果」があったことで、社会的に大きなインパクトがあったことである。1896年5月23日の試合は『読売新聞』5月25日付で以下のように報道されている。

“第一高等学校学生闘技に外人に勝つ

府下第一高等学校の学生はベース、ボールの遊戯に於て天下に敵なきより闘技を横浜の外人に挑み遂に一昨日午後三時より横浜公園に於てヨコハマ倶楽部及びアマーチワー倶楽部の聯合と闘技し八番の勝負の末四に対する二十九の大多数の入場を以て高等学校の生徒の大勝利に帰せり。”

両チームは同年6月5日に再戦するが、初戦の大勝利が評判を呼んだのか、記事量は大幅に増える。『読売新聞』には試合前日の6月4日には試合予告の記事が出ている。

“高等学校学生再び外人と戦はんとす

第一高等学校学生等が横浜の外人とベースボールの仕合を為し大勝を得たることは過日の本紙に掲載したりしが彼らは己が国技の敗を取りたることとて大に之れを無念に思ひ亦々明五日(金曜日)午後三時より横浜公園に於て仕合を為さんと申込み来れるより同校学生等は学年試験の差掛り居るにも係らず直ちに之に応じたりとぞ。外人等は此度こそ一挙して前敗の恥辱を雪がんと意気込み居れば定めて其鋭を尽して来ることなる可くさ[?]れば今回の仕合こそ随分目醒ましき活劇もあるならんとのことなり。風説には此度の敵手はアマチュア倶楽部のみにあらずして米国東洋艦隊旗艦オリンピヤ号の撰手も之に加勢し居るべしとのことなるが高等学校の撰手は青井鉞男・藤野修吉・井原外助・宮口竹雄・井上匡四郎・村田素一郎・富永敏麿・森脇幾茂・上村行栄・市岡準助の十氏なりとぞ。”

『読売新聞』では、6月5日の試合結果はまず6月6日付で速報されている。この試合も32-9で一高が大勝している。

“高等学校学生再び競技に勝つ

第一高等学校の学生等は予記の如く昨日午後三時より横浜公園に於て再び外人とベースボールの競技をなしたるが昨日は外人も前回の恥辱を雪がんとてヨコハマ倶楽部アマチュアー倶楽部員のみならず同港碇泊中の米国軍艦エドロフ号乗組の米人四人加入して競技したるに結局九に対する三十二の大多数にて又々高等学校学生の勝利に帰したり。当日は内外人の見物者非常に多く高等学校の勝利に帰したるを見て拍手喝采破るる許りなりしと。”

この試合に対する関心はよほど高かったようで、翌6月7日付で詳報が掲載されている。

“○ベースボール競技の詳況(第一高等学校学生の大勝利)

 第一高等学校の学生が一咋五日横浜公園に於て同港在留の外人を第二回のベースボール競技に於て又々九点に対する三十二点即ち二十三点の大勝利を博したる由は不取敢前号に記したるが今其の詳況を聞き得たれば左に記す。

 此度敵は米国東洋艦隊中当時横浜に碇泊せるチャーレストン・デトロイト・ボストン・クレメントの四艦中撰りに撰りたる六選手及び横浜アマチュア倶楽部の三選手より成れる大連合軍のことなれば高等学校学生に取りても由々しき大敵なれど此敵に打負けては我校の名折れと学生は非常の意気込みを以て出陣し外人も亦今回こそは前回の恥辱を雪がんとの意気込みなれば山の如き内外の見物人定刻前よりツメカケツメカケ手に汗握りて開会を待ち受けたり。

 欧米の選手は身の丈何れも六尺に余り燦々たる其鬚髷炯炯たる其碧眼鬼をも拉がんずる面魂。之に引き替へ学生の選手は揃ひも揃て小兵の若武者のみなれば一見したる所にては勝利は愚か取り付く可くも見えざりけり。

 やがて試合ひ初まりぬ。敵は腕力を恃みて無ニ無三と打ち立てんと焦れども此方の投手青井氏と取手藤野氏と共に秘術を尽して戦ひけるに敵も漸く辟易して立往生となすもの引きも切らず、勝に乗ったる味方の殿原鍛へに鍛へし打棒の冴えに息をも継がせず打ち巻くれば敵は愈々狼狽し自由のきかぬ体にて飛び来る球を止めんと右往左往に走り廻りけるも唯々慌て騒ぐのみにて些の効能もなし。

 斯くて学生方は第一線に三点を得たるを手始めとし毎回数点を奪ひつつ第四線迄に於て巳に十点を占めたりけるに憐れや敵は未だ一点だも得る能はざりしが第五線にて漸く三点を取り返へしたり。

 されど第六線以後は学生方一瀉千里の勢にて毎回必ず数点を占め特に第六線第九線は各七点宛を得て終に総計三十二点の多数を得たりしかば拍手喝采一時は鳴りも止まざりし。

 尚ほ当日は非常の激戦なりしゆゑ相方共負傷者三名を生じたりといふ。”

 君島一郎著『日本野球創世記 : 創始時代と一高時代』(ベースボール・マガジン社, 1972)によれば、スポーツ・ナショナリズム感情の高まりと外国人コンプレックスが観客のマナーに悪影響を及ぼしたようである。

“この第二回の試合も三二対九の大差で一高に凱歌が挙がった(アンパイヤーは前回と同じく米人ストーン)。ところが、その後にまずいことが起こった。この試合の前景気が大変だったので、当日一般観衆は前回よりも遥かに多く、殊に地元横浜では、選手が駅からグラウンドに行く道筋で既に民衆の声援に迎えられ、クラブ・ハウスに着くと横浜商工会総代と名乗る人達から激励の言葉と共にビールや菓子の寄贈をうけるなど、地元の関心甚だ強く、グラウンドの柵内には一般市民は入れないので柵外に足台や桟敷のようなものまでつくりつけ、ひしめき合って既に興奮の形相を呈している。試合開始と共に弥次や罵声が乱れ飛び、試合が終ると「柵の内外一万の同胞の狂呼、拍手と相和し、万来の一時に発せるが如く、絶えて前回の静粛に似ず。甚だしきは聞苦しき悪口雑言を吐く者あり」と当時の記事にあるから「毛唐ザマミロ」「クタバレ」「バカヤロー」などが出たのであろう。日頃外人に対して鬱屈していた感情が一時に爆発したというわけであろうか。横浜、神戸の他、長崎の外字新聞までが挙ってこれを責めて運動場裡のエチケットを知らぬ未開発国民の仕業だと非難した。わが方においてもこれにはまいって「君子国の対面に汚点を印した」と恐縮している。熱狂した野次が問題を起こすことは昔も今も変わりはない。”(p.87-88)

 一方、ラグビー、サッカーの対YC&AC戦初戦は、結果が大敗であったことも影響してか、邦字紙に記事はないようである。慶應義塾体育会蹴球部黒黄会編『慶應義塾体育会蹴球部百年史』(慶應義塾大学出版会 2000)によれば、ラグビーの対YC&AC初戦は横浜発行の英字紙『Japan Gazette』でかなり詳しく報道されたようである(p.63-68)。サッカーも同紙が報じた可能性があるが、横浜開港資料館所蔵の『Japan Gazette』1904年2月分は欠号であり、調査できなかった。なお、サッカーの対YC&AC初戦が行われた1904(明治37)年2月6日は、日露戦争が開戦した1904年2月10日の4日前で、大変緊迫した政治情勢の下で行われたのである。

☆ 対YC&AC戦初勝利

 各競技の対YC&AC戦初勝利は以下のとおりである。すでに述べたように、野球は初戦で勝利しているが、サッカーは初戦の4年後、ラグビーは7年後に初勝利している。

種目 開催年月日 対戦校 場所 結果   
野球 1896(明治29)年5月23日 一高 横浜 一高29-4YC&AC
サッカー 1908(明治41)年2月9日 東京高師 東京(高師G) 東京高師2-1YC&AC
ラグビー 1908(明治41)年11月14日 慶應義塾 東京(慶應綱町G) 慶應義塾12-0YC&AC


サッカーの方がラグビーより短期間で勝利しているが、これは国内普及状況と関係しているようである。サッカーの場合、ルーツ校東京高師から青山師範に普及し、 1907(明治40)年11月16日には日本人同士の最初の試合、東京高師対青山師範戦が行われている。同年11月24日にも東京高師対慈恵医院戦が行われている。ラグビーの場合、ルーツ校慶應義塾の次に始めたのは京都の三高で、日本人同士の最初の試合、慶應義塾対三高戦が行われたのは1911(明治44)年4月6日(慶應は2軍)で3-3の引分け、同4月8日に慶應義塾の1軍対三高戦が行われ慶應が39-0で大勝している。サッカーが比較的順調に普及したのに対し、ラグビーは普及が遅れ、しかも東京と京都では簡単に試合できないので、慶應はもっぱら横浜のYC&ACと、三高は神戸のKRAC(Kobe Regatta & Athletic Club)と試合するしかなかった。サッカーでは対YC&AC戦初勝利の前に国内対校戦が行われているのに対し、ラグビーの国内対校戦は対YC&AC戦初勝利の後に行われている。

 サッカーの対YC&AC戦初勝利は『東京朝日新聞』と『読売新聞』で報道されている。

・『東京朝日新聞』1908(明治41)年2月10日付け

“●高等師範横浜外人蹴球競技

二度外人を取って意気大に昴れる高師蹴球部は更に横浜スポーチングクラブの挑戦に応じて昨日午後一時半より同校校庭に於て競技を催せり。此日風なく日暖かに且前チームより優勢なるスポーチングクラブとの仕合なれば好奇心を以て集まるもの引きもきらず。 [ ]て定刻に至りボーイス氏の号笛により高軍先づ攻めしに初め頗る振はず先づ一点を占められしがハーフタイム後に至り急に其勢を挽回し忽ち一点を得て両軍同点となるや何れも茲を先途と火花を散らして奮戦し外人方背黒段だら染のユニホームと高軍白の運動服と入り乱れて東西に馳駆する。状中々に目覚しく外人方三度傷くも屈せず新手を代へて益々勇を鼓して力戦せしも高軍の梅本落合が奇襲に悩まされ遂に再び一点を得られ午後三時半二対一高師の勝にて競技を終れり。両軍のメンバー左の如し。

               (高師方)              (外人方)
△ゴールキーパー     新帯                   コーリス
△フルバック       柳川 唐土                コスタ ワット
△ハーフバック      川崎 重藤 内野             ミーア リベイロ ラアモス
△フォアワード      梅本 重藤 落合 児島 目黒       デンチシ カロール ラアダイン アピーア コスタ”

・『読売新聞』1908(明治41)年2月10日付け

“運動界

▲外人三度び敗る

今春既に二回、横浜在留外人と戦って共に大勝し、連戦悉く敗れたる屈辱を一蹴して意気頓に昴れる高等師範のフットボール部は昨日午後一時、更にスポーティング倶楽部の獰猛チームを自校のクラウントに迎へ戦へり、蓋しスポーティング倶楽部選手は我高師の健児が再度までの大勝を憤慨して今回特に挑戦し来りたるなり。されば昨日の彼等の攻撃の烈しさは勝に乗って意気天を衝かんとする師範方の奮戦と相待って火の如き競技を現出し、外人方の選手がタイムの前後に三人まで脚部に烈しき痙攣を起して戦ひを中止したる如き、以て其奮戦の跡を卜すべし、而して外人はハーフタイム前、既に一点を勝ち得たれば其タイム後一層獰猛に師範の激襲を物ともせず奮ひ戦ひしが師範も此所を先途と力戦克く努め遂にタイム後荒れ狂ふ外人を圧迫して二点を獲得し一対二の折迫戦は勝利を得たるは近来の快競技なりき。奮へ師範のフットボール部よ。今当日の参加者を連名すれば

 ▲ゴールキーパー コレア(外)新帯(師)
 ▲フルバック タツコスタ、ワット(外)柳川、唐土(師)
 ▲ハーフバック メーカー、リバイシコ、ガモス(外)川崎、重藤、内野(師)
 ▲フォアワード デンヂン、カゾール、サー、タイノ、アプカー、ジエー、ダツコスタ(外)梅本、細木、落合、児島、目黒(師)”

ラグビーの対YC&AC戦初勝利も『東京朝日新聞』、『読売新聞』の両紙が報道している。

・『東京朝日新聞』1908(明治41)年11月15日付

“●慶應対外人蹴球試合
△慶應初めて克つ

慶大蹴球部選手は十四日午後三時三田綱町のグラウンドに横浜外人の蹴球チームを迎えへてフットボール試合を挙行したり。慶軍は近頃非常の進歩にて今日こそは外人の度肝を抜かんと大に奮闘したるが、之に反して外軍は軍勢さへ揃はず、スリークォーターに二名の欠員を生じたるまま出陣し、且選手は新顔にて何となく練習も足らざる模様なりし。試合は松岡氏のレフェリーにて慶軍より蹴始め、直に中央線を突き破りて敵の陣地に突撃し、数回のタッチダウンとスクラメーヂを演じて敵を圧迫し、激戦廿分の後スリークオーターの飯塚トライをして三点を収めたるも、トライ後のキックは成功せず、五分を経てスリークオーターの宮澤又もトライを為して三点を得たるが、是又キックは不成功に終りたり。之を見たる外軍は必死となりて戦ひ、漸く中央線を越え敵陣に突進したるにハーフタイムとなり暫時休息。ハーフタイム後は陣地を交換し外軍より蹴球し猛烈に突進したるも忽ちにして追返され、又も圧迫を受けたるが、両軍ともフリーキック一回宛を演じたる後、慶軍はフォアワード柴田のトライにて又も三点を得、最後にスリークオーター竹野奮闘の後トライにて三点を得、共にキックは成功せずしてタイムとなり、十二点対零を以て慶軍の大勝となりたり。是れ慶大蹴球部創設後初めての勝利とて歓声湧くが如く、慶大野球部より寄贈の美麗なる花輪を受けて得々然たり。慶軍のメンバーは前号に記載したるが、外人方は左の如くなりし。 △フォアワード プラスト、ヴィンセント、ワーデン、ヴレゴリー(ママ)、グラナー、デコスター、グラゴリー、カーディフ  △ハーフバック ボックス、ヘーニー △スリークオーター ウォーカー、バーデン △フールバック スカイヤー”

・『読売新聞』1908(明治41)年11月15日付

“●フーツボール競技 慶應対横浜外人のフーツボール仕合は十四日三田グランウンドにて開きしが、九年間連戦連敗せし慶應はパッシングの進歩驚くべきものあり、廿五ヤード線まで終始外人を圧迫し、優勢を続けて遂に0対十二にて大勝す。”

 サッカーの場合は、YC&ACに脚部痙攣を起こして退場した選手が3人いたことが両紙に記載されており、練習量豊富な東京高師が運動量でスタミナ不足の YC&ACに「走り勝ち」したようだ。ラグビーの場合は、YC&ACが選手集めに四苦八苦していたことが記されており、毎年の対YC&AC戦で経験を積んだ慶應義塾に完敗している。

 サッカー、ラグビーの対YC&AC戦初勝利に、野球のような熱狂的反応はなかった。ひとつには、両競技は野球ほど普及していなかったため、注目度が低かったためであろう。もうひとつには、1896年と1908年では日本の国際的地位が大きく変化していたことがあげられよう。1908年は条約改正と日露戦争の後であり、サッカー、ラグビーの母国、英国は日本の同盟国になっていた。日本はすでに欧米と対等の外交関係を確立し、対YC&AC戦勝利がさほどスポーツ・ナショナリズム感情を刺激することもなかったと考えられる。

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