« 最初の日本代表の出身校 | Main | 1930(昭和5)年第9回極東選手権大会対中華民国戦引分の経緯 »

草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書

【目次】
はじめに
正式のサッカーの開始
対YCAC戦 1904(明治37)年
対YCAC戦 1905(明治38)年
対YCAC戦 1906(明治39)年
最初の国内対校戦 1907(明治40)年
対YCAC戦初勝利 1908(明治41)年
対YCAC戦初勝利の高師メンバー
『アッソシエーションフットボール』と『フットボール』
草創期東京高等師範学校OBによるサッカーの普及


☆ はじめに

 日本サッカーのルーツ校である東京高等師範学校の草創期については、東京教育大学サッカー部編『東京教育大学サッカー部史』(恒文社, 1974)があるが、内容は校友会誌からの引用やOBの回想の列挙で、いささかまとまりに欠けるように思える。本稿では、

1) 対YCAC(Yokohama Cricket & Athletic Club)戦初対戦から初勝利まで過程
2) 日本最初のサッカー専門書『アッソシエーションフットボール』(1903)と2番目のサッカー専門書『フットボール』(1908)の内容の進化

を中心に草創期の東京高等師範学校のサッカーと日本サッカー史におけるその役割をまとめてみたい。


☆ 正式のサッカーの開始

 『東京教育大学サッカー部史』には『茗渓』誌882号(1967年)に掲載された堀桑吉氏の回想「サッカー(ア式蹴球)草創のころ」が掲載されている。

“私が明治35年4月、高師1年に入学した時、4年の中村覚之助君が、米国の『アッソシエーション・フットボール』を翻訳してア式蹴球部を作り、新入生に入会を勧誘した。私が真先に入会し、次いで同級の桜井賢三・瀬口真喜郎・渡辺英太郎・石川文平・栗野信一・嶺豊雄・江坂広雄、2年の塩津環の諸君が入会し合計9名が部員となった。”(p.18) 

 上記には、

 ・「4年の中村覚之助君」→3年(本科2年)
 ・「米国の『アッソシエーション・フットボール』を翻訳」→『アッソシエーション・フットボール』は英国の諸文献を参考に著述された
 ・「ア式蹴球部」→フットボール部

のような事実誤認があるが、『アッソシエーション・フットボール』の刊行は1903(明治36)年であることから、正式のサッカーに取り組み始めたのは1902(明治35)年であるのは間違いないであろう。


☆ 対YCAC戦 1904(明治37)年

 最初のYCAC戦は1904(明治37)年2月6日、横浜で行なわれた。日露戦争の開戦は2月10日であり、その4日前にあたる。『東京教育大学サッカー部史』p.48に高師の出場メンバーが記載されているが、姓しかない人もいるので、『東京高等師範学校一覧 大正4年度』の卒業生名簿で姓名、出身校、卒業年月、専攻を調べてた。さらに大正4(1915)年時点での就職先を末尾に付した。

GK 塩津環 岐阜中 M38.3 英語 千葉安房中教諭
FB 粟野信一 茨城師範 M39.3 博物 福井師範教諭
FB 小島美津次 福島会津中 M39.3 選科 死亡
HB 奥津修平 神奈川一中 M39.3 数物化学 神奈川町立小田原高女嘱託
HB 江坂廣雄 福井中 M39.3 英語 福井中教諭
HB 牧野信壽 愛媛師範 M38.3 修身体操専修 広島高師助教授兼教諭
FW 上田芳郎 三重一中 M39.3 博物 広島尾道高女教諭
FW 平島貞廉 宮崎中 M38.3 修身体操専修 在米国加州
FW 桜井謙三 岐阜師範 M39.3 英語 山口室積師(小?)校長
FW 瀬口真喜郎 大分師範 M39.3 国語漢文 福岡小倉高女教諭
FW 渡辺英太郎 群馬前橋中 M39.3 博物 茨城土浦高女教諭

なお、本来この試合には堀桑吉(岐阜師範 M39.3 博物 岐阜女師教諭主事)が出場するはずであったが、病気のため塩津環が出場した。試合は30分ハーフの計60分だったが、1-9で東京高等師範学校の敗北に終わった。


☆ 対YCAC戦 1905(明治38)年

 第2回目のYCAC戦は1905(明治38)年1月28日、横浜で行なわれた。45分ハーフの計90分で行なわれたが、前半と後半で別チームが対戦する変則マッチであった。『東京教育大学サッカー部史』p.55に記載された高師メンバーは以下のとおり。

第1組:堀・栗野・新帯・江坂・藤井・デハヴィランド・上田・瀬口・渡辺・桜井・前田
第2組:石川・嶺・栗山・重山・大橋・荒木・目黒・奥津・中川・富田・渡辺

前半は1組、後半2組が出場して、前半0-5、後半1-1、計1-6で高師の敗北に終わった。デハヴィランド(Walter Augustus De Havilland)氏はケンブリッジ大学修士の学位をもつ英語教師で、高師には1904(明治37)~1906(明治39)年に在籍し、“本場”のサッカーを伝授した。氏の事跡については、柴田勗「黎明期・北海道のフットボールの胎動-伝道師役を果たした2人のデ・ハビランドの謎-」『比較文化論叢』 no.12 2003 p.1-24 を参照のこと。


☆ 対YCAC戦 1906(明治39)年

 第3回のYCAC戦は1906(明治39)年1月30日、横浜で行なわれた。『東京教育大学サッカー部史』p.61に記載された高師メンバーは以下のとおり。

フォワード:上田・落合・堀・細木・重藤
ハーフバック:嶺・渡辺英・栗山
フルバック:藤井・栗野
ゴールキーパー:新帯

30分ハーフの計60分で、前半0-0、後半0-1、計0-1で高師の敗北に終わった。

 第4回のYCAC戦は1906(明治39)年12月29日、東京(高師校庭)で行なわれた。『東京教育大学サッカー部史』p.71-72に記載されたYCACと高師メンバーは以下のとおり。

横浜選手
Gaolkeeper:Gregory
Fullbacks:Neville(R), Holmes(L)
Halfbacks:Kilby(R), Tresize(C), Valentire(ママ)(L)
Fowards:Vincent(R), Jewett(R), Hearnne(C), Gorman(L), Scott(L)

本校選手
ゴールキーパー:土公
フルバック:藤井(R)、重藤(L)
ハーフバック:重山(R)、前田(C)、内野(L)
フォワード:大木(R)、児島(R)、落合(C)、細木(L)、目黒(L)

45分ハーフの計90分で、0-6でまたもや高師の敗北に終わっている。この試合は読売新聞が報じている。

1906(明治39)年12月31日付け『読売新聞』記事

“運動界

高等師範対横浜在留外人蹴球試合

 先達て行はるる筈であった同試合は外人方の不参の為め中止となって残念であったが其後高師方の撰手は委員を選んでわざわざ横浜へ出掛け数度交渉の末遂に一昨日午後三時より予定の通り試合は高師方のグラウンドに開始せられた。その結果は高師方が勇往奮戦したにも関らず六点対零と云ふ零試合に了ったのは実に残念であった。然し外人方のオフサイドの多かりしに引かへ高師方は非常に少なく常に整々として競技を続けたのはルールを厳守する同校の美風に依れる事と感心した。

 さて同校対外人の之れまでの試合の結果は何う云ふ風であったかと云へば残念ながら高師方は連敗の屈辱を蒙って居るそうだ。殊に横浜方のチームは其最強のチームではなく之れまで常に少年組であったのだ。所が今度の押寄せて来た外人方のチームは十四五才から廿歳前後の人々であるから無論青年組も多少混合して居るようであった。聞けば近来高師方は非常に進歩して彼等外人方でも少年組ではとても勝てぬと見て青年組を加へたとの話しである。毎度記した様に我国ではフットボールと云ふ運動は慶應義塾に唯一つ(ラグビー式)蹴球部を有するのと此高師の(アソシエーション式)のが在る計りである。所がラグビー式とアソシエーション式は其競技のルールに大差があって自然ラ式とア式の両競技は行はれぬ所から両校は同じフットボール部を有しながら対抗マッチなどを開始して互に競技の呼吸などを練磨する事が出来ぬ。吾人は慶應方と在留外人とのフットボールマッチを見る度に常に此感を抱いて残念に思って居たが此度の高師のマッチを見て一層此感を深くしたと云ふのは高師方が練習の時の競技振りとマッチの時の態度では丸で別物の様に見ゆる其連絡の取り方、パスの仕方、或は咄嗟の間の働き振りが何うも思はしくない。吾人の素人目を以てしても技術は決して外人に劣って居る様には見えぬ(只足の短き為めキックは彼に及ばぬ)。只々敗因は対抗マッチに多くの経験を持たぬ為めであると思ふ。夫れは一昨日の勝負の時高師方が数度奮闘して敵のペナルチーアリアの辺まで押し寄せて今一息と云ふ好機は幾度もあったにも係らず一度も成功せず敵のゴールキーパーたるジェウエットに何時も大勢を挽回せられたのに徴しても分る。兎に角慶應にしても高師にしても外人とのマッチを開く毎に彼等に一籌を輸するのは此対抗マッチに就ての微妙なる掛引きの不足が其有力なる敗因を為して居る様に思はるる。此点は如何に慶應其物、高師其物を攻むるも益のない事で其都度云ふ様に各学校で早く蹴球部を設立して彼の野球や庭球の様に対校マッチを行って練習の功を積むより外に仕方がない。何故に慶應、高師以外今に至るも此フットボールが普及せぬかと云へば元来此フットボールと云ふ競技は他の運動に比較して世人は過激なり危険なりと観じて此技に多少の恐れを抱いて居るのが其原因に相違ない。然し冬季の運動として男らしく、勇壮にして而かも興味のある団体運動は先づ現今の所此フットボールを外にしては別に格好の運動術はない。吾人は其試合の都度両校撰手に同技に対する危険の度を聞いて見れば只激しき競技の後擦過傷を生じたり、鼻血を出したりする位の事は往々あるが之までの経験では少しも危険を認めし事なしと。之れ両校撰手が経験を土台としたる答へであるから確かなる証明である。野球などでも指を挫いたり、指の股を割いたりする事は往々にして見る事だからフットボールのみが際立て危険であるとは云へぬ。よしんば多少危険であるにしても活気燃んとする青年の時代に蒼い顔をして火鉢にかじり付いて居るよりは何れ程肉体精神に効果を与ふるか知れぬ。吾人は各学校が此運動に向て消極的の態度に出でて居るのは全く俗に云ふ食はず嫌ひの結果だらうと信ずる。食って後其辛い甘いは始めて分るのだ。冬期の運動として単に剣道、柔術の個人的運動のみを有して居る各学校生徒諸君よ卿等は一日も早く冬期の吾運動界に此フットボールを採用して一は身体精神の完成を期し一は慶應、高師の先輩と競技を開き対外マッチの敗因を一掃せん事に努められよ、至嘱々。(矢峯)”

敗因は試合の経験不足であり、高師以外の学校にも普及させることを提言している。ちなみに野球の一高は商業学校、明治学院、農学校などと対校試合で“無敵”を誇り、1896(明治29)年に初めて対戦したYCACと2戦して2勝している。


☆ 最初の国内対校戦 1907(明治40)年

 1907(明治40)年11月16日に高師グラウンドで行なわれた高師対青山師範戦が我が国における最初の日本人チーム同士の対校戦である。この試合は8-1で高師が勝利したので、高師の対校試合初勝利の試合でもある。8日後の1907(明治40)年11月24日にも、高師グラウンドにおいて、高師対慈恵医院戦が行なわれ、高師が1-0で勝利している。この試合は翌日11月25日付けの『読売新聞』に記事が掲載されている。

“▲慈恵院対高等師範フートボール試合

 昨日午後二時半より高師方グラウンドに開れしが両軍よく戦ひハーフタイム前には得点なくハーフタイム後師範方奮戦し漸く一点を獲して勝利を得たり。而して当日の慈恵院の奮闘は非常に目醒しくして流石の師範方も持て余したりと。序に記す慈恵院のフートボール部は直接外人の示導を受け大に進歩発展し居れり。”

 慈恵医院には外国人コーチがいたようである。こうした東京市内における“ライバル”の出現と試合経験の蓄積が翌年の対YCAC戦初勝利につながることになった。


☆ 対YCAC戦初勝利 1908(明治41)年

 第5回のYCAC戦は1908(明治41)年1月11日、横浜で行なわれ、前半0-2、後半0-5、計0-7で高師が完敗している。しかし、1月25日の横浜外人戦(YCACトップチームではない 高師で開催)には前半0-0、後半1-0で計1-0で勝利し、“我が蹴球部ありてより外人を破る蓋し之れを以て嚆矢とす。”(『東京教育大学サッカー部史』p.88)と横浜の外人チームに対する初勝利をあげている。2月1日の横浜外人戦(YCACトップチームではない 高師で開催)にも4-1で勝利しており、これを聞いたYCACは、“外人再び敗るの報伝わるや、横浜よりの挑戦頻りなり”(『東京教育大学サッカー部史』p.90)と高師に試合を挑んできた。

 第6回のYCAC戦は1908(明治41)年2月9日、高師で行なわれた。『東京教育大学サッカー部史』p.90-91に記載されたYCACと高師メンバーは以下のとおり。

横浜
Goalkeeper:C. Correa
Fullbacks:W. H. da Costa (Caot), W. N. Watt
Halfbacks:L. Mecre, C. Ribeiro, R. M. Rmso
Fowards:P. Dentici, R. Carroll, L. Sardaigne, M. Apcar, J. da Costa

本校
ゴールキーパー:新帯
フルバック:柳川、唐土
ハーフバック:川崎、重藤、内野
フォワード:梅本、細木、落合、児島、目黒

 前半0-1、後半2-0、計2-1で高師の対YCAC戦初勝利となるのだが、本試合は『東京朝日新聞』、『読売新聞』が報じているので、その記事を紹介する。

1908(明治41)年2月10日付け『東京朝日新聞』記事

“●高等師範横浜外人蹴球競技

二度外人を取って意気大に昴れる高師蹴球部は更に横浜スポーチングクラブの挑戦に応じて昨日午後一時半より同校校庭に於て競技を催せり。此日風なく日暖かに且前チームより優勢なるスポーチングクラブとの仕合なれば好奇心を以て集まるもの引きもきらず。[ ]て定刻に至りボーイス氏の号笛により高軍先づ攻めしに初め頗る振はず先づ一点を占められしがハーフタイム後に至り急に其勢を挽回し忽ち一点を得て両軍同点となるや何れも茲を先途と火花を散らして奮戦し外人方背黒段だら染のユニホームと高軍白の運動服と入り乱れて東西に馳駆する。状中々に目覚しく外人方三度傷くも屈せず新手を代へて益々勇を鼓して力戦せしも高軍の梅本落合が奇襲に悩まされ遂に再び一点を得られ午後三時半二対一高師の勝にて競技を終れり。両軍のメンバー左の如し。

               (高師方)              (外人方)
△ゴールキーパー     新帯                   コーリス
△フルバック       柳川 唐土                コスタ ワット
△ハーフバック      川崎 重藤 内野             ミーア リベイロ ラアモス
△フォアワード      梅本 重藤 落合 児島 目黒       デンチシ カロール ラアダイン アピーア コスタ”

Cimg0173_2
1908年2月10日付『東京朝日新聞』

“好奇心を以て集まるもの引きもきらず”とあるようにかなりの観衆を集めたことがわかる。実は試合前日にも“予告先発メンバー”付き試合予告記事が同紙に掲載されている。

1908(明治41)年2月8日付け『東京朝日新聞』記事

“●運動界  ▲高師蹴球部は横浜外人スポーチングクラブの挑戦に応じ明九日午後一時より同校校庭にてフートボール競技を催す筈なるが高師方選手は左の如し。

 ゴールキーパー 新帯
 フルバック 柳川、唐土
 ハーフバック 川崎、重藤、内野
 ファーンード(ママ) 梅本、重藤、落合、児島、目黒”

おそらく他紙にも同様の“広報”を行なったであろう。このような“広報”をするくらいなので、「無様な試合はしない」、「必ず勝利する」という確信が高師の側にあったと考えられる。

1908(明治41)年2月10日付け『読売新聞』記事

“運動界

▲外人三度び敗る

今春既に二回、横浜在留外人と戦って共に大勝し、連戦悉く敗れたる屈辱を一蹴して意気頓に昴れる高等師範のフットボール部は昨日午後一時、更にスポーティング倶楽部の獰猛チームを自校のクラウントに迎へ戦へり、蓋しスポーティング倶楽部選手は我高師の健児が再度までの大勝を憤慨して今回特に挑戦し来りたるなり。されば昨日の彼等の攻撃の烈しさは勝に乗って意気天を衝かんとする師範方の奮戦と相待って火の如き競技を現出し、外人方の選手がタイムの前後に三人まで脚部に烈しき痙攣を起して戦ひを中止したる如き、以て其奮戦の跡を卜すべし、而して外人はハーフタイム前、既に一点を勝ち得たれば其タイム後一層獰猛に師範の激襲を物ともせず奮ひ戦ひしが師範も此所を先途と力戦克く努め遂にタイム後荒れ狂ふ外人を圧迫して二点を獲得し一対二の折迫戦は勝利を得たるは近来の快競技なりき。奮へ師範のフットボール部よ。今当日の参加者を連名すれば

 ▲ゴールキーパー コレア(外)新帯(師)
 ▲フルバック タツコスタ、ワット(外)柳川、唐土(師)
 ▲ハーフバック メーカー、リバイシコ、ガモス(外)川崎、重藤、内野(師)
 ▲フォアワード デンヂン、カゾール、サー、タイノ、アプカー、ジエー、ダツコスタ(外)梅本、細木、落合、児島、目黒(師)”

両紙ともYCACに脚部痙攣を起こして退場した選手が3人いたことを伝えている。スタミナに難のあるYCACに高師が後半走り勝ったといったところであろうか。


☆ 対YCAC戦初勝利の高師メンバー

 日本サッカー史に記憶されるべき対YCAC戦初勝利の高師メンバーを、『東京高等師範学校一覧 大正4年度』の卒業生名簿で姓名、出身校、卒業年月、専攻、及び大正4(1915)年時点での就職先を末尾に付した。

GK 新帯(にいのみ)国太郎 愛知第一師範 M41.3 博物 滋賀師範教諭
FB 柳川石次郎 富山師範 M42.3 博物 新潟高田師範教諭主事
FB 唐土(もろこし)齋治 兵庫龍野中 M42.3 数物 香川師範教諭
HB 川崎喜一 千葉安房中 M43.3 物化 秋田師範教諭
HB 重藤省一 山口中 M42.3 物化 京都第一高女教諭
HB 内野台嶺 私立郁文館中 M42.3 国漢 東京高師講師
FW 梅本八郎 兵庫柏原中 M43.3 博物 山形師範教諭
FW 細木志朗 兵庫柏原中 M41.3 博物 埼玉師範教諭
FW 落合秀保 山口豊浦中 M42.3 国漢 滋賀師範教諭
FW 児島基徳 宇佐中 M43.3 博物 死亡
FW 目黒藤吾 福島師範 M41.3 数物 高知師範教諭

 構成上目立つのは師範学校出身者(小学校勤務を経て入学するので年齢が高い)が3人のみで、8人が比較的若い中学出身者。「走り勝ち」の原動力となったのかもしれない。試合とは関係ないかもしれないが、文科系が内野、落合の2人のみで残りは理科系である。卒業年次は1908(明治41)~1910(明治43)年で、1908年:3人、1909年:5人、1910年:3人である。当時の高師は4年制なので、1904(明治37)年~1906(明治39)年に入学したものが対YCAC戦初勝利のメンバーである。先に引用した堀桑吉の回想「サッカー(ア式蹴球)草創のころ」には、

“翌年4月、更らに新入生を勧誘して、新帯国太郎・落合秀保・細木志朗等の優秀な諸君多数を迎え、総部員ニ十数名となり蹴球部が確立した。”(『東京教育大学サッカー部史』p.18)

とあり、1902(明治35)年に部員9名で始まったのが、1904(明治37)年になって部の体制が整ったことが記されている。当時はYCACなどの外国人チーム以外に対戦相手がなかったので、紅白戦が可能な“総部員ニ十数名”は画期的な意味をもつはずである。


☆ 『アッソシエーションフットボール』と『フットボール』

両書との書名をクリックすれば無料全文アクセス可能である。

1. 『アッソシエーションフットボール

 本書の内容で最も重要な点は、本書は最初の対YCAC戦(1904年)の1年前に著されていること、すなわち対YCAC戦の実戦経験はまったく反映されていない、ということである。「凡例」に、

“「フットボールゲーム」の経験に就ては今日未だ充分ならず且つ此の書は倉卒の間に編したれば従って欠如するところ少からざるべし、若し夫れ幾多欠謬の点に至りては世の識者の教を乞ふや切なり。”(p.1)

とあるように「経験不足」は著者の自覚するところで、本書はあくまで“「フットボールゲーム」の仕方”を記述したものである。

2. 『フットボール

 一方、日本2番目のサッカー専門書、東京高等師範学校校友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書, 1908)は1908(明治41)年6月刊行、1904(明治37)年以来の毎年の対YCAC戦、そして同年2月の対YCAC戦初勝利をふまえた内容になっているのが最大の特徴である。目次は、

第1編 第1節:緒論 第2節:フットボールの歴史
第2編 第1節:フィールド 第2節:競技者の人数と位置 第3節:競技者の任務 第4節:レフェリーとラインス・マン 第5節:ゲームに用ふる言葉の意味 第6節:用具
第3編 第1節:ゲームの規定
第4編 第1節:ゲームの例 第2節:ゲーム以外の練習 第3節:服装に就いて
附録 著者の経験 第1節 小引 第2節:ゴール・キーパーに就いて(新帯国太郎) 第3節:フルバックに就いて(重藤省一) 第4節:ハーフ・バックに就いて(落合秀保) 第5節:フォーアワードに就いて 甲 アウトサイド・フォ-アワード(細木志朗) 乙 センター・フォーアワード(落合秀保) 丙 インナー・フォーアワード

 蹴球部主事の新帯国太郎と落合秀保による「自序」は以下のとおり。

“近来フットボールについては多くの識者の注意をひき、此の技の漸く発展して行く有様を見て吾々は大に喜ばしい事に思ふ。然るに本技に関してその方法注意等を書いたものには曩の我が部の著「アッソシエーション・フットボール」があるけれども、元来之は本邦に於ける此の技創設の当初、重にその方法だけを説いたのに止まり、其の真髄を知るに由なかったのである。且多少在来の運動遊戯と趣を異にして居る為め実際の場合幾多の方法上の疑問を生じて居った。

 そこで吾々は始終その不備の点を十分に補ひたい覚悟で、数年間毎年一二回づつ外人等と競技を重ね、少いながら実際上から其の真髄と興味とを味ひ得たと信じ、茲に前著を全然改訂する必要を生じた。・・・”

『アッソシエーションフットボール』を“その方法だけを説いたのに止まり”と位置づけ、新著を“実際上から其の真髄と興味とを味ひ得たと信じ、茲に前著を全然改訂する必要を生じた”ものとしている。  対YCAC戦勝利については、「第1編 第2節:フットボールの歴史」の末尾で、

“殊に今年二月の高等師範と横浜外人とのマッチに、高等師範が外人を破ってより、急にフットボールの声が高くなり、大いに勃興する形勢を現はして来た。”

と、これがサッカー興隆のきっかけになっていることを記している。

 本書は本編(p.1-126)と「附録 著者の経験」(p.127-193)からなっているが、本書を特徴づけているのは後半の「附録 著者の経験」である。 GK:新帯国太郎、FB:重藤省一、HB:落合秀保、OF:細木志朗、CF:落合秀保と対YCAC戦勝利のメンバーが分担執筆しており、 1904(明治37)~1908(明治41)年の対YCAC戦の戦訓と練習の工夫が反映されている。

 「第5節:フォーアワードに就いて 甲 アウトサイド・フォ-アワード」を担当した細木志朗のウイングに関する記述を具体的にみてみよう。本項は以下のように細分されている。

(一)任務に就て
(二)資格に就て
   (イ)動作の軽快なること
   (ロ)ボールを扱ふに巧なること
   (ハ)駆くる事の速きを要すること
(三)攻勢にある場合の心得
(四)守勢にある場合の心得
(五)パッスの仕方及びボールの止め方

ウイングの本領である「(三)攻勢にある場合の心得」から一部を抜粋すると、

“ボールを敵陣深く運ぶには、アウトサイドの者は比較的行ひ易い。即ち一方はタッチラインであるから、此の方面から敵が来て妨害する気遣ひはない。只他の一方及び前方から妨害に来るのであるが、他のセンターインナーの如く四方から敵の妨害を受けるのに比して、甚だ少いといってよろしい。而しタッチラインからフィールドの外にボールを逸する事があるが、之は習熟すれば左程な心配もなくなる。此の如くにして敵のコーナーに近く進んだならば、直にセンターに渡して、ゴールに蹴込ましめるのであるが、若しセンターの近所に敵が居て妨害しさうであると、インナーに渡して蹴込ましむるのも亦一策である。センターはゴールへ蹴込む役目のある事であるから、敵も中々注意して容易にその機会を与へないから、傍らのインナーのものと共同して敵を牽制するとか、或は敵の注意のおろそかになって居る自分と反対のサイドの味方の者に渡して虚に乗ぜしむるとか、適宜の法をとらなければならぬ。”(p.171-172)

単純なCFへの折り返しだけでなく、CFがマークされている場合の2列目との連係やサイドチェンジなど戦術的な「駆け引き」にも言及している。『アッソシエーションフットボール』の「第五節 フォアワード」の抽象的な記述と比較すれば、5年間の長足の進歩がおわかりいただけるであろう。

 『アッソシエーションフットボール』と中村覚之助の世代が「サッカーのやり方」を習得したのに対し、『フットボール』と内野台嶺の世代は「サッカーの勝ち方」を習得した世代であるといえよう。


☆ 草創期東京高等師範学校OBによるサッカーの普及

 対YCAC戦に出場、勝利し、『フットボール』を編纂したメンバーは、サッカーの普及の面でも日本サッカー史に足跡を残している。また、同時代の非部員からもサッカーの普及の面で貢献した人物が出ているのも、東京高等師範学校のユニークなところであろう。年表化すると以下のようになる。

1902(明治35)年 サッカーを開始
1903(明治36)年 『アッソシエーションフットボール』刊行
1904(明治37)年 最初の対YCAC戦 中村覚之助卒業
1905(明治38)年 伊藤長七東京府立五中(現・小石川高)初代校長卒業
1906(明治39)年 堀桑吉卒業(愛知第一師範就職 愛知・岐阜両県の中等サッカー普及に貢献)
1908(明治41)年 対YCAC戦初勝利 『フットボール』刊行 細木志朗卒業(埼玉師範就職 埼玉県サッカーの祖) 新帯国太郎本科卒業(研究科在籍を経て滋賀師範就職)
1909(明治42)年 内野台嶺卒業(豊島師範就職 同校にサッカーを伝える) 玉井幸助卒業(御影師範就職 同校にサッカーを伝える) 落合秀保卒業(滋賀師範就職 滋賀県サッカーの祖) 錦織兵三郎志太中(現・藤枝東高)初代校長卒業
1911(明治44)年 松本寛次卒業(広島一中(現・国泰寺高)就職 同校にサッカーを伝える)

 上記のうち、伊藤と錦織は部員ではなかったが、大正時代にそれぞれ東京府立五中と志太中の初代校長として、野球部を作らせず、サッカーを校技に採用した。伊藤は最初の対YCAC戦時、錦織は対YCAC戦初勝利時に在籍しており、おそらく在籍中にサッカーを中学生にふさわしいスポーツとして理解したものと考えられる。校長となって采配を振るった中学校の校技としたことで、日本サッカー史に大きな影響を残している。

 過去、現在に「サッカー王国」といわれた埼玉、静岡、広島、兵庫の各県におけるサッカー普及のキーパーソンが、この僅かな期間に東京高師から輩出しているのは瞠目すべきであろう。また、新帯、落合が就職した滋賀師範からは、 1917年第3回極東大会出場メンバー、すなわち最初の日本代表のうち実に4人が出ている。対フィリピン戦で2ゴール、すなわち日本代表初ゴールを決めた藤井春吉も滋賀師範OBであり、新帯、落合の指導を受けたはずである。

 このように、中村覚之助とそれに続く人々により、東京高等師範学校で正式のサッカーが始まってから明治末までの僅かの期間で、「サッカーのやり方」から「サッカーの勝ち方」までを習得し、サッカー本に結実させ、自ら指導者となって日本全国にサッカーを普及させることになった。この時期の回想として本サイトに内野台嶺著『蹴球思ひ出話』も収録しているので、興味のある方はご参照いただきたい。

|

« 最初の日本代表の出身校 | Main | 1930(昭和5)年第9回極東選手権大会対中華民国戦引分の経緯 »