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日本最初の小学生サッカー大会と有島武郎・森雅之父子

日本最初の小学生サッカー大会、第1回関東少年蹴球大会(東京蹴球団主催、東京朝日新聞社後援)は1922(大正11)年10月15~16日に日比谷公園大運動場で開催されました。→関東少年蹴球大会(東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)の記録

10月15日の成城小学校対青山師範附属小学校戦には、後年の名優森雅之(本名・有島行光)が成城小学校のLFとして出場し、息子の応援に有島武郎も来場しています。10月16日付『東京朝日新聞』には、

選手の父として 有島武郎氏の声援振り

成城学校の一選手として令息の行光君が後衛を承ったので有島武郎氏は朝早くから、来賓席の椅子をはなれず、『ヤ、しっかり』などと思はず「父」らしい声を出して声援につとめた〔写真、上は鎬を削る四谷対青師附属、下は左から有島武郎氏、行光君、永井会長〕”(永井会長は永井道明東京蹴球団団長)

とあります。その写真は

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メンバー表まで掲載されています。

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藤田潯吉「牛込・成城小学校と第1回少年蹴球大会」(『成城蹴球・サッカー60年史』(成城蹴球・サッカー60年史編集委員会,1988)所収)によれば、“この大会で成城は青山師範に第1回戦で2-0で敗れてしまいましたが、日比谷公園内の松本楼で有島君のお父様、小原先生にライスカレーを御馳走になったことが思い出されました。”とのこと。小原先生とは小原国芳

新聞記事によれば、有島武郎は“思はず「父」らしい声を出して声援につとめた”とのことですすが、8カ月後には波多野秋子と心中してしまいます。

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「蹴球ローマンス」

1920(大正9)年3月の新聞映画広告にあった映画の題名。

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allcinemaには該当作品は見当たりません。“ブッシュマン氏演”とあるので、Bushmanという映画俳優をIMDbで調べてみると、Francis X. Bushman(1883-1966)が該当しそうです。クラーク・ゲーブル以前に「映画王(King of the Movies)」と呼ばれた大スターで、1918年だけでも7本の主演作があります。出演作の題名に「football」を含むものがない上、ストーリーラインも未記載なので、原題は不明です。この時代なので、すべてサイレント映画です。『蹴球ローマンス』という題から学園スポーツものらしい感じがしますが、そうなると競技はアメフトでしょうか。ブッシュマンの代表作はサイレント版「ベンハー」(1925)のメッサラ役、息の長い俳優で、「麗しのサブリナ」(1954)では、脇役ですがオードリー・ヘプバーン、ハンフリー・ボガート、ウィリアム・ホールデンと共演しています。

allcinemaを「蹴球」で検索すると、最も古い例は「蹴球王」(1926)、原題は「The quarterback」でアメフトものだとわかります。

「蹴球ロマンス」の原題は不明ですが、1920(大正9)年段階で、「蹴球」は洋画の邦題に使用されるほど定着していたことだけはわかります。

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討ち入りの前日ですが

忠臣蔵に行ってきます。

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恥ずかしながらこれまで1F席で歌舞伎を観たことがなかったので、1等席を奮発してみました。
上演されるのは三段目、四段目、七段目、十一段目です。

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上方落語に芝居噺という歌舞伎をパロディ化したジャンルがあり、当然モトネタとしては忠臣蔵が最も多いわけです。

質屋芝居 三段目
蔵丁稚 四段目
狐芝居(新作) 四段目
蛸芝居 六段目がごく一部
七段目 七段目

演目が、落語のモトネタをナマで観たいという人にピッタシ!

吉朝の師匠、よね吉の大師匠にあたる米朝の「地獄八景」でも六道の辻の蓮華座で初代から十一代目までの団十郎全員で忠臣蔵の通しを演る、というギャグがありましたな

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南座の顔見世でも夜の部で七段目を、由良之助:吉右衛門、おかる:玉三郎、平右衛門:仁左衛門、という顔見世らしい顔ぶれで。

こちらは1等席2万5千円、昼夜通しだと5万円か、ふー

顔見世で七段目観た後で、一力で茶屋遊び、なんて人もこの世にいるんでしょうなあ


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クーベルタンとパブリック・スクール教育

近代オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン(Pierre de Coubertin)はパブリック・スクール、特にラグビー校の校長トマス・アーノルドに関心をもっていました。ピエール・ ド・ クベルタン著 大島鎌吉訳『オリンピックの回想 新版』(ベースボール・マガジン社 1976)中のカール・ディームによる「ピエール・ド・ クベルタンという人」によれば、ソルボンヌ大学で学んだ後、

“彼は次いでイギリスを訪ねたが、ウインゾアにあるジーススカレッジ Jesus College でゲルマン時代以来伝統のイギリス教育学を知って多くの収穫を得た。その教育学はスポーツの言葉でいえば、ヨーロッパの教育学よりも遥かに先の方に飛び出たものであった。クベルタンは得業士の学位をとるに当って、イギリスの精神主義者であり教育家であるラグビー公立学校長トーマス・アーノルド Thomas Arnold (1795-1842) をとり扱った。クベルタンには、現代イギリス教育に及ぼしたアーノルドの影響は、ある種のラジウム光線のように思われたからである。”(p.9-10)

英語版WikipediaのPierre de Coubertinには以下の記述があります。

“The subject which he seems to have been most deeply interested in was education, and his study focused in particular on physical education and the role of sport in schooling. In 1883, he visited England for the first time, and studied the program of physical education instituted by Thomas Arnold at the Rugby School. Coubertin credited these methods with leading to the expansion of British power during the 1800s and advocated for their use in French institutions. The inclusion of physical education in the curriculum of French schools would become an ongoing pursuit and passion of Coubertin's.[1]

In fact, Coubertin is thought to have exaggerated the importance of sport to Thomas Arnold, whom he viewed as “one of the founders of athletic chivalry”. The character-reforming influence of sport with which Coubertin was so impressed, is more likely to have originated in Tom Brown’s School Days rather than exclusively in the ideas of Arnold himself. Nonetheless, Coubertin was an enthusiast in need of a cause and he found it in England and in Thomas Arnold.[citation needed] “Thomas Arnold, the leader and classic model of English educators,” wrote Coubertin, “gave the precise formula for the role of athletics in education. The cause was quickly won. Playing fields sprang up all over England”.[9]

Intrigued by what he had read about English public schools, in 1883, at the age of twenty, Coubertin went to Rugby and to other English schools to see for himself. He described the results in a book, L’Education en Angleterre, which was published in Paris in 1888. This hero of his book is Thomas Arnold and on his second visit in 1886, he reflected on Arnold’s influence in the chapel at Rugby School.[10]”

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体協加盟競技団体の設立年月日

『日本体育協会七十五年史』(日本体育協会 1986)「加盟競技団体略史」(p.587-736)による。

日本陸上競技連盟 1925(大正14)年2月7日
日本水泳連盟 1924(大正13)年1月31日
日本サッカー協会 1921(大正10)年9月10日
全日本スキー連盟 1925(大正14)年2月15日
日本テニス協会 1922(大正11)年3月31日
日本漕艇協会 1920(大正9)年6月1日
日本ホッケー協会 1923(大正12)年11月18日
日本アマチュアボクシング連盟 1926(大正15)年7月14日
日本バレーボール協会 1927(昭和2)年7月31日
日本体操協会 1930(昭和5)年4月13日
日本バスケットボール協会 1930(昭和5)年9月30日
日本スケート連盟 1929(昭和4)年11月23日
日本アマチュアレスリング協会 1932(昭和7)年4月22日
日本ヨット協会 1932(昭和7)年11月27日
日本ウェイトリフティング協会 1936(昭和11)年5月31日
日本ハンドボール協会 1938(昭和13)年2月2日
日本アマチュア自転車競技連盟 1934(昭和9)年12月12日
日本軟式庭球連盟 1924(大正13)年4月5日
日本卓球協会 1931(昭和6)年7月12日
全日本軟式野球連盟 1946(昭和21)年8月26日
日本相撲連盟 1946(昭和21)年9月1日
日本馬術連盟 1946(昭和21)年9月1日
日本フェンシング協会 1936(昭和11)年10月23日
全日本柔道連盟 1949(昭和24)年5月6日
日本ソフトボール協会 1949(昭和24)年3月31日
日本バドミントン協会 1946(昭和21)年11月2日
全日本弓道連盟 1949(昭和24)年5月22日
日本ライフル射撃協会 1925(大正14)年2月8日
全日本剣道連盟 1952(昭和27)年10月14日
日本近代五種・バイアスロン連合 1955(昭和30)年2月2日
日本ラグビーフットボール協会 1926(大正15)年12月2日
日本山岳協会 1960(昭和35)年4月1日
日本カヌー連盟 1938(昭和13)年3月17日
全日本アーチェリー連盟 1966(昭和41)年3月24日
全日本空手道連盟 1964(昭和39)年10月1日
日本アイスホッケー連盟 1972(昭和47)年9月29日
全日本銃剣道連盟 1956(昭和31)年4月1日
日本クレー射撃協会 1949(昭和24)年9月15日
全日本なぎなた連盟 1955(昭和30)年5月 (注:日付記載なし)
全日本ボウリング協会 1964(昭和39)年5月17日
日本スポーツ芸術協会 1954(昭和29)年4月13日

体協加盟競技団体中、JFAは日本漕艇協会に次いで2番目に古く、陸連や水連よりも早く創立されています!

協会創立のキッカケをつくった英国大使館員ウィリアム・ヘーグ氏が日本サッカー殿堂入りしているのもむべなるかな。

創立年月日順にトップ10をリストすると

1) 日本漕艇協会 1920(大正9)年6月1日
2) 日本サッカー協会 1921(大正10)年9月10日
3) 日本テニス協会 1922(大正11)年3月31日
4) 日本ホッケー協会 1923(大正12)年11月18日
5) 日本水泳連盟 1924(大正13)年1月31日
6) 日本軟式庭球連盟 1924(大正13)年4月5日
7) 日本陸上競技連盟 1925(大正14)年2月7日
8) 日本ライフル射撃協会 1925(大正14)年2月8日
9) 全日本スキー連盟 1925(大正14)年2月15日
10) 日本アマチュアボクシング連盟 1926(大正15)年7月14日


競技団体創立年は競技の歴史の古さと必ずしも一致していません。アイスホッケーのように別の団体から分離独立したものや、武道系競技団体のように戦前は政府の外郭団体である大日本武徳会に統制されていて、競技団体がなかった例もあります。

体協(大日本体育協会)の創立は1911(明治44)年、翌年の1912年オリンピック・ストックホルム大会参加を目的として設立されました。個別競技団体より先に体協ができてしまったところに、日本スポーツの後進性を見出すことができます。

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「高師運動と文相(教育科も教科も設けよ)」『東京朝日新聞』1919年12月17日論説

1918年の大学令により私立大学、国公立の単科大学の設置が公認されました。以前から東京帝大の経済学部として東京帝大に統合する計画のあった東京高等商業が東京商業大学(現・一橋大学)に、大阪、名古屋の医学専門学校が医科大学(現・阪大医学部、名古屋大医学部)に昇格がいちはやく決定します。早慶を始めとする私立大学も続々「正式の大学化」を実現していきます。「文部省直轄学校」として東京高等商業と同格だった東京高等工業(現・東工大)、東京高師も「全校一丸」となって大学昇格運動を起こします。「高師運動と文相(教育科も教科も設けよ)」は『東京朝日新聞』1919年12月17日のこの問題に関する論説です。

“学校の昇格運動は、近来の流行物となり、最近高等工業の昇格運動に次で、東京高等師範の大学昇格運動起り、広島高等師範もまた風を望んで立ち、昇格の決議を為すと共に遥に応援運動に着手す。風雲重重畳旬日、十五日中橋文相と嘉納校長、三宅教授の会見に於いて、文相の声明を得て、該運動は一段落を告げたり。文相の声明なるものは、好意を以て大学特設を聴き取るも当局の意見は明言の時期に非ずと言ふと、高等諸学校の組織変更は、目下相対的に調査中と言ふなり。吾人文部当局の意志を察するに、一の昇格運動を片付くれば、他の昇格運動起り、他の昇格運動を落着せしむれば、又次の別運動起るべく、要は根本的に全国の高等程度学校の位置組織に就き、系統的の統一案を確定せざれば已まざるべし、高等師範の問題は其の後に於て解決せんとに在るが如し。此の如きは当然の事にして、高工の運動に会ひ、高師の紛憂に邂逅して初めて考へつくべきに非ず。文相は此の声明を以てして、僅かに一時を弥縫したるも、他日根本案成るの暁、若し今日まで文部当局者が非公式に発表せるが如く、高等師範は教員養成の機関にして、学術の蘊奥を究むる大学とは別なりとの方針を定まらんか、恐らく高師関係者も黙して従ふことを為さざる可し。而して茲に注意すべきは、文相の説明に於て大学昇格と言はずして、大学の特設と言へることなり。是より見れば文相は矢張り南次官の言へる如く、師範大学、教育大学と言へる如きは、大学令に適当せずとの意見なるが如し。然れども是は問題なり。勿論大学は「学術の理論応用を研究し更に其の蘊奥を究む」るにあるも、高等師範は精神教育の基礎にして、此に於て養へる確固たる根底に立つ精神教育を以て、出てて之を師範教育、若くは普通教育に応用するものなれば、物質文明に関する学術を究むる諸大学と相併んで、之れを大学令の下に収容するは何等の差障なかるべきなり。若し之を以て不可なりとせば、高等技師を養成する高等工業の大学昇格を如何にすべきや。又医師を養成する医科大学を如何にすべきや。更に又商人を養成する商科大学を如何にすべきや。[キ ニンベンに者 ]て又高等師範の当局者が言ふが如く、文科大学にて教育講座を設け、高等学校教員を養成しつつあるを如何にすべきや。文相並に文部当局の意見は、物質偏重にして精神方面を閑却せる、因習固陋の狭隘なる見解に囚はれたるものに非ずや。

 吾人はこの見地よりして、今の大学令にも感心せざるものなり。大学令第二条には、大学の学部を法学、医学、工学、文学、農学、経済学及商学の学部に制限せり。高等師範は以上の理由に依って、当然大学昇格を認めて、差支なしと信ずるも、若し飽迄夫れでは大学令に反すとの見解を取らば、須らく同令を改正して教育学部の一部を開いても可なるに非ずや。而して吾人は更に此等の学部の外に教学部の一部を置かんことを唱道す。欧米には夙に大学に神学部あり、我国に於ては文科大学の中なる哲学科に於て宗教学の講座を設くるも、過般の大学令改正に当ても竟に之を認めざりしなり。抑宗教学は宗教家並に宗教学者養成の為に必要なり、宗教家は国民の高位にあるべきものにして、其の学識識見の浅深は、国民精神の指導に大関係あり。故に吾人は国家の見地よりして高等の宗教家及び宗教学者を養成することの、国家の品位と消長との上に少からざる消息を有するものと思ふ。此の意味に於て教科大学の必要を信ずるも、こは他日改めて論ずべし。

 文部当局は臨時教育会議に於て定められたる大学令を、完膚なきものの如く説くも、現今の時代は凡て改造の時代なり。若し大学令に於て欠点を発見せば、更に会議を招集し、更に全国識者の輿論に問ひ、其改正に吝ならざるべきを勧告せんと欲す。要するに教育は国家の基礎なり、大戦以後世界の大勢に徴して、之に応回すべく十分の考慮を費さざる可らず。殊に現時思想混乱し、国民其の帰趨を知らざる時、教育の如き、宗教の如き、精神的方面の学術に於て深く注意を払はざる可らず。高等師範を以て只職業的教員の養成所と考ふる如きは、浅薄の見にして、此の如くんば人格識見を以て立つべき立派なる教員は竟に養成するに遠からん。

 顧みて現在の教育界を見よ。醜陋、卑屈、人の範たる資格あるもの洵に寥々たるに非ずや。是れ従来の師範教育が余りに窮屈なる鋳型に嵌められ、自由快活の天地を見せざる余毒なり。須らく他校と同じく大学昇格の機会を与へ、自由の空気に開放し、生々たる活力を教育界に送らざる可らず。是れ現今の教育者をして、其の志操を向上せしめ、其の意気を壮快ならしめ、以て世界に処する日本国民を造る原動力たらしむべきなり。而して又之が為に、新進の人材を師範教育に吸収し、竟に大学派、茗渓派などの、井底蛙的の学閥を打破し、今の教育界の幣風を拭ふにも功あるべし。

 只従来此種の運動には、学生結束するも教員之を戒め、教員之に参加するも校長之を宥むるを常とす。然るに今回の高工といひ高師といひ、学生、教授、校長一致団結して文部省に当るの現象を呈す。即ち世界の趨勢に同ずる団体精神の発動なり。文部当局は之に対して不足を託つも、大勢は如何ともす可からず。要するに是労働運動の趨勢が、教育界に及ぼせる影響なり。随って一度指導宜しきを得ざれば、思想界の混乱は更に憂ふべきものあるを加へん。一致して騒げば事は成るべしとの浅慮を以て世を行かば、我国の将来は如何。此点に就ては文教当局者は別に深く考ふる所なかる可からず。”

東京朝日は東京高師の大学昇格に賛同しています。“大学令第二条には、大学の学部を法学、医学、工学、文学、農学、経済学及商学の学部に制限せり。”とあるので、文部省はこの範囲で単科大学昇格を線引きしたかったと考えていいでしょう。従って、高商、医専、高等農林はそのまま単科大学になる可能性があったのですが、「教育学部」は対象外になっています。結局東京高師は1929年、東京高工と一緒に大学昇格し、東京文理科大学となります。文学と理学を統合した文理科大学とし、教員養成機関としての高等師範も併存することになります。戦後、両校を統合して東京「教育」大学となった時、研究志向の文理科大学系は猛反発したそうです。大学は教育機関なのか「学術の蘊奥を究むる」研究機関なのかという古今東西で見られる論争がここでもあったということです。

“只従来此種の運動には、学生結束するも教員之を戒め、教員之に参加するも校長之を宥むるを常とす。然るに今回の高工といひ高師といひ、学生、教授、校長一致団結して文部省に当るの現象を呈す。<中略>要するに是労働運動の趨勢が、教育界に及ぼせる影響なり。”と述べて、学生、教員、校長(さらに同窓会も)一丸となった運動は労働運動の影響だと述べています。校長が付和雷同したことを批判しているのですが、こうした批判が堪えたのか、嘉納治五郎は1カ月後の1920年1月11日高師校長を辞任します。

この問題に関しては、鈴木博雄著『東京教育大学百年史』(日本図書文化協会 1978)の「昇格運動」(p.197-251)に詳しく記述されています。

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このたびの旅 高山と富山

高速バスで高山へ

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八ヶ岳

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松本インターを降りて野麦街道(R158)を行きます

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平湯温泉は積雪でした

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紅葉の高山 昼食はラーメン

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宿泊したビジホの最上階大浴場から見た北アルプス 晩飯は朴葉味噌、飛騨牛串焼などに地酒

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高山本線の車窓から見た紅葉

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富山ライトレールで岩瀬浜へ 昼食は刺身定食

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越中宮崎の海辺の旅館に宿泊

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晩飯 名物のたら汁はこの後出たが、蟹の解体で手が汚れていたので写真なし

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朝飯

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旅館の前の浜はめのうで有名とのこと 

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めのうを探す人々

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越後湯沢駅で見つけた八海山のワンカップ


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『大日本体育協会史』における大日本蹴球協会の創立

『大日本体育協会史 下巻』大日本体育協会 1937に体協傘下の各協会史があり、「第二 大日本蹴球協会史」(p.1012-1047)がJFAです。「一 協会の創立」の記述は以下のとおりです。

“大日本蹴球協会が創立されたのは大正十年九月十日であった。協会創立の動機はさかのぼって大正八年三月となってゐる。同年三月十二日の東京朝日新聞紙上に英国蹴球協会からわが蹴球協会に大銀盃が寄贈された記事が掲げられた。然し当時はこの寄贈銀盃を受ける協会の如き機関を持たなかった蹴球界は、蹴球協会の設立される迄といふ条件の下に大日本体育協会長嘉納治五郎の手を煩はして三月二十八日英国大使館に於て授受されたのであった。この時英国大使グリーンは銀盃寄贈の辞として
 「之に因って日本の運動競技界が一層興隆を来すであらう。これと共に日英国際関係も大層親密になる事を希望する」
旨を述べられてゐる。英国蹴球協会から銀盃が寄贈されるに至った経緯は詳にされてはゐないが大正七年二月東京蹴球団主催、東京朝日新聞後援の下に行はれた関東中等学校蹴球大会の砌、英国大使グリーンが臨席されたのがキッカケとなり大正十二年大震災の折不幸横死を遂げたヘーグの尽力が与ってゐるようである。
 寄贈銀盃を擁してここに協会設立運動が開始された、内野台嶺を中心にして武井群嗣、渡辺年、大滝正寛、熊坂圭三、吉川準治郎の諸氏が大評定の末、英国大使館ヘーグから貰った英国蹴球協会規約や参考になる英国蹴球界の事情を聴取して草案を作成したが、会長推戴が案外手間どって発会式を挙げる迄に約二年半を閲してしまった。”(p.1012)

この記述は内野台嶺「協会設立の顛末」『大日本蹴球協会会報 大正10年度』p.3-5 の

“これより前大正七年春二月、関東にも関西にも第一回蹴球大会が催された。殊に関東大会には時の英国大使グリーン氏が来場された。それらの関係から日本の蹴球の様子が英国に伝はり、其の結果此のシルバーカップの寄贈といふ段取になったらしい。”

を継承したものでしょう。

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FC東京1-1ガンバ大阪

お日柄もよいので、飛田給まで出かけてきました。上位3着以内に残りたいチームと下位3着以内に入りたくないチームの、この時期ならではのガチンコ勝負。

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前半はFC東京の両ボランチが大健闘して、ガンバのパスを寸断。石川も完全復活して安田をチンチンにしてました。石川起点のチャンスから1点でも取っていればFC東京は勝ち点3ゲットだった試合。ガンバは遠藤がイマイチでした、というかFC東京ボランチがよくチェックしてました。川崎、神戸が勝ったので、当分混戦が続きそうです。

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「蹴球」という語が2番目に現れたのは

先に朝日と読売の「蹴球」初出記事で「蹴球」という語の初出はいずれも1902(明治35)年4月9日付の『東京朝日新聞』、『讀賣新聞』記事で、1902年4月5日グラスゴー・レンジャーズの本拠アイブロックス・パークで起きたスコットランド対イングランド戦の観客席崩壊事故を扱ったものでした。

2番目に「蹴球」という語が紙面に現れるのは、同年5月6日付の『東京朝日新聞』の「蹴球会」という記事で、内容は以下のとおりです。

蹴球会

先に英蘇聯合蹴球会のありたる節事行違ひより非常の間違起りたりとありしが此間違に依り難渋の地位に陥りたる人々の為に再び勝負を決することになりし処引分となりたれども英側並び蘇格蘭側共に得点各二なりしなり。而して蘇格蘭側が一点先得の為め斯業界の覇権を得ることになりたり。”

4月9日の試合は中止になったようですが、被害者救済を名目に1902年5月3日に再戦し、2-2のドローになりました。当時はドロー・ゲームの優劣は先取点によって決定したらしいです。

FAのホームページではこのゲームは

03/05/1902 England 2 - 2 Scotland International Match Draw

となっています。FAの代表ゲーム結果一覧は代表TIMELINEと似てますね。

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