1921年第5回上海極東大会参加をめぐる東西抗争
1919年第4回マニラ極東大会に大阪の日本青年運動倶楽部が体協に代わって参加し、集めた寄付金は」半額しか使わず、組織を存続し、次回1921年第5回上海極東大会にも日本を代表する体育団体として参加することを目指します。関西主導で選手選考することに関東の学生は反発します。
1921(大正10)年1月19日付『東京朝日新聞』
“極東オリムピック選手問題
関東強硬
関西と交渉
第五回極東オリムピック大会は五月二十五日から五日間上海に於て開催されるが選手選出に就て漸く問題が起らんとして居る。関西運動界の中心大日本青年運動倶楽部(ママ)にては選手七八十名全部を自己の倶楽部から推薦せんとする希望を有し、費用の如きも木下博士一人で引受けるなどと大した鼻息だが、東京では学生競技聯合は大日本体育協会との約束もあり、大阪方の推薦に依って行くを好まず、是非協同協会の下に出馬せんとする意向を有し、十七日夜学生競技聯合参加校東大、一高、学習院、早、明、慶、法、拓、農各大、高師、日歯十一校の委員は体育協会の岸、峰、明石、野口、近藤、岡部諸氏と会して意見を纏め岸副会長、野口、近藤、山口の四氏は東京側を代表して十九日夜下阪し、大坂方と具体的に協調を行ふことに決した。しかし選手選出の方法に就て東京方の意向は頗る強硬で、飽迄体育協会の手の下に行かんことを希望し、若し絶対に不可能なれば、大阪及東京に予選会を開き、更に地を選んで東西聯合して第二予選会を開き、之を通過した選手を送る事(第二予選会は大阪に於て行ふ事は否まない)との妥協案を有するが、若し之も出来なければ、東京方は青年運動倶楽部を離れて勝手に出馬するさうである。”
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