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関西の日本青年運動倶楽部が第4回極東大会参加

『東京朝日新聞』1919(大正8)年4月9日付

顔触れの内定したる麻尼拉行の選手
    体育協会関西支部の奮起
       新たに倶楽部を起こし廿名を派遣と決議す
          醵金して二百円宛の補助

来五月十日より麻尼拉に於て挙行の第四回極東オリンピックには大日本体育協会は学業の関係上一切選手を派遣せざる事に決定の由既報せるが、右に就き武田千代三郎氏、木下博士以下体育協会関西支部役員は新に日本青年運動倶楽部なるものを起し、其後援に依り選手を参加せしむべく七日夜大阪高商校長室に於て各有志集合協議する所あり。結局「有力家の援助に依り約二十名の選手に対し金二百円宛を補助して麻尼拉へ派遣する事に尽力する事」を決議し、之が実行に就き支部役員等は八日より寄付金の募集に着手したるが、同会にては既に左記十数名の選手を推薦派遣すべく内定し、夫々交渉を開始する筈なりと。

神戸高商 奥山一三 愛知一中 山田鑑 同志社 佐伯巌 商店員 真殿三三五 早大 金成良雄 日本体育協会指導員 野口源三郎 東京高師 斎藤兼吉 同 秋葉祐之 東京農大 内田正練 天王寺師範教諭 多久儀四郎 北野中学 鴻沢吾老 広島中島小学校教員 多田徳雄 早大 生田喜代治 愛知一中 小出鍾之助

而して右の内奥山真殿金成三氏は短距離選手にして佐伯多久二氏は長距離の名手なる事は人の知る所、秋葉山田生田氏は長距離、野口斎藤鴻沢氏は五種及び十種、多田氏は槍及び円盤投、内田氏は水泳選手にして何れも大阪朝日新聞主催の東西対抗競技出場の猛者にして我国に於ける記録保持者なり。尚庭球には大阪ロオンテニス倶楽部の三神岡西両氏及東京より一二名加はるべしと。右に就き木下博士曰く『麻尼拉競技の総点数は百八点にて其中日本より二十名の一流選手を送れば少くとも三十七点を占有し得て本年の東洋選手権を掌握し得る筈。唯困るは出発期日切迫せる事にて遅くも本月廿日以前たるを要し、寄付金額不十分なる時は折角の計画も水泡に期せざる可からず。斯の如きは実に我国運動界の一大恥辱なり。』云々。”

東京の「嘉納」体協がオリンピック優先で極東大会に冷淡であったのに対し、関西の体協支部が極東大会参加のため、日本青年運動倶楽部をわざわざ創立して極東大会参加をめざします。第3回極東大会は1917(大正6)年5月に東京で開催されたのですが、その前年、1916(大正5)年10月に大阪朝日新聞が極東大会予選として鳴尾運動場で東西対抗競技を開催しています。朝日新聞データベース聞蔵ビジュアルⅡをキーワード「東西対抗競技」で大正時代に限定して検索した結果は以下のとおり。明治神宮外苑競技場が完成した1924(大正13)年から内務省主催で明治神宮大会が開催されますが、それ以前に大阪朝日新聞主催の総合運動競技大会である東西対抗競技が1916(大正5)年から開催されていました。

00001 1916年9月12日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
運動界/大阪朝日主催極東体育競技 予選大会 競技参加申込規定
00002 1916年10月21日 東京/朝刊 5頁 4段 記事 ◆書誌詳細
関東方の練習 東西対抗競技に出発の選手四十名帝大に集る<写>/フィールド競技
00003 1916年10月27日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
運動界/東西対抗競技 出場選手決定/トラック競技/フィールド競技/マラソン
00004 1916年10月30日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
運動界/東西対抗競技 鳴尾にて大阪朝日主催/陸上競技
00005 1916年10月31日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
運動界/東西対抗競技/早布第三回戦 本日早大運動場にて/野球
00006 1917年4月13日 東京/朝刊 5頁 4段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の優勝盾<写>
00007 1917年10月24日 東京/朝刊 5頁 10段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技大会の延期 今後は隔年挙行
00008 1918年3月25日 東京/朝刊 9頁 7段 記事 ◆書誌詳細
関東方の練習会 大阪の東西対抗競技の準備
00009 1918年4月1日 東京/朝刊 5頁 10段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技練習会 帝大運動場で選手の意気込
00010 1918年4月3日 東京/朝刊 4頁 6段 記事 ◆書誌詳細
三大陸上競技会 大阪朝日主催の下に来る二十、廿一両日挙行
00011 1918年4月9日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
三大陸上競技会 大阪朝日主催の下に来る二十、廿一両日挙行
00012 1918年4月19日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
第二回東西対抗競技会 選手決定関東選手は明晩堂々東京駅を出発
00013 1918年4月21日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
運動界/本日は東西競技 昨日は一般青年 中等学校予選
00014 1918年4月22日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
優勝楯は西方へ 昨日の東西対抗競技大会 七十七対五十四にて関東方つひに敗戦す
00015 1919年4月27日 東京/朝刊 7頁 7段 記事 ◆書誌詳細
選手の顔独決す 来月三日出発麻尼拉へ いづれも神国男子を代表すべき駿足鳳児
00016 1922年3月6日 東京/夕刊 2頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技派遣選手の予選 締切は来月十七日 競技種目決定す
00017 1922年4月3日 東京/朝刊 3頁 11段 記事 ◆書誌詳細
運動界/興味深い予選会 東西対抗競技/陸上競技
00018 1922年4月20日 東京/朝刊 5頁 11段 記事 ◆書誌詳細
第三回東西対抗競技 関東予選大会/陸上
00019 1922年4月23日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技(予選)成績(第一日) 関西気勢 グラウンド開きの後に
00020 1922年4月24日 東京/朝刊 3頁 8段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技(予選)成績(第二日)/陸上競技夕刊続き
00021 1922年4月24日 東京/夕刊 2頁 7段 記事 ◆書誌詳細
新記緑に火蓋を切つた 関東予選の第二日 槍投に高師の上田君が 極東の記録を破る 関西成績(第二日)/陸上競技=24日付朝刊3面に訂正
00022 1922年4月25日 東京/夕刊 1頁 8段 記事 ◆書誌詳細
今日の問題
00023 1922年4月27日 東京/朝刊 5頁 7段 記事 ◆書誌詳細
関西方代表選手 東西対抗競技出場/陸上競技
00024 1922年5月8日 東京/朝刊 3頁 6段 記事 ◆書誌詳細
努力の賜関東軍が 優秀なる記録 東西対抗競技評<写>
00025 1922年5月8日 東京/朝刊 3頁 9段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技(夕刊つづき) 関東軍大勝す 五十九点の差を以て 見事雪辱優勝楯を受く
00026 1922年5月8日 東京/夕刊 2頁 6段 記事 ◆書誌詳細
本社主催東西対抗競技 全国のフアンに囲まれて 火花を散らす 東西の陸の猛者 千五百に関東先づ勝つ/陸上競技
00027 1924年2月29日 東京/朝刊 7頁 8段 記事 ◆書誌詳細
真剣になつた陸上競技の練習 国際選手の第二次予選と本社の東西対抗競技迫る 興味ある今春競技界
00028 1924年3月19日 東京/朝刊 7頁 5段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の参加章 純真な運動精神の象徴<写>
00029 1924年3月24日 東京/朝刊 7頁 8段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の関西側選手決る 余日いくばくもなく 白熱化して来た練習振り
00030 1924年3月25日 東京/朝刊 7頁 1段 記事 ◆書誌詳細
凄味を加へた選手の猛練習 国際競技第二予選会が近づいて来た 金栗氏又も出馬す
00031 1924年4月4日 東京/朝刊 7頁 1段 記事 ◆書誌詳細
力戦及ばず関東方敗る 六十七点五分対三十四点五分 世界的新記録出づ 本社主催陸上競技大会 得点表<図表>
00032 1924年4月4日 東京/朝刊 7頁 8段 記事 ◆書誌詳細
関東選手帰京
00033 1924年4月4日 東京/夕刊 1頁 3段 記事 ◆書誌詳細
晴れの競技 関東旗色悪し 覇権を争そふ大接戦 本社主催陸上大競技会/競技記録
00034 1924年4月6日 東京/夕刊 2頁 1段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の感想/荒削りの尊さを忘れるな 整つて来たフオーム 関東委員 沢田一郎氏談(2) 新進の活躍で 予想を裏切つた勝利 奥村良一氏の談
00035 1924年4月7日 東京/夕刊 2頁 1段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の感想 特筆すべき 織田君の走高跳 関東側の敗因に就て 関東委員 野口源三郎氏談
00036 1924年4月10日 東京/朝刊 11頁 1段 記事 ◆書誌詳細
我が代表の栄冠は何人の手に帰するか 真に血湧き肉躍るの感がある 十二三両日駒場に開かれる最終予選会の観測
00037 1926年3月8日 東京/朝刊 2頁 9段 記事 ◆書誌詳細
本社主催第五回 東西対抗陸上競技 四月十七、八両日神宮トラツクに
00038 1926年3月12日 東京/朝刊 3頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技関東予選会
00039 1926年3月22日 東京/朝刊 3頁 3段 記事 ◆書誌詳細
四大陸上競技大会 四月十七、十八両日神宮外苑に
00040 1926年3月29日 東京/朝刊 3頁 1段 記事 ◆書誌詳細
陽春運動界の花 四大陸上競技大会 四月十七日十八日 神宮競技場にて 主催朝日新聞社
00041 1926年3月30日 東京/朝刊 3頁 2段 記事 ◆書誌詳細
近づく東西対抗陸上競技 新進を迎へて 関東軍の猛練習 雪辱の意気すごく 連日にぎはふ駒場トラツク<写>
00042 1926年4月3日 東京/朝刊 3頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技関東予選会 申込は本日締切り
00043 1926年4月4日 東京/朝刊 3頁 5段 記事 ◆書誌詳細
新進老練入乱れ 猛烈な争覇戦 東西対抗競技の関西予選 第一日の成績
00044 1926年4月4日 東京/夕刊 2頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技 関西予選始る 意外な新進も現れて 大阪市立運動場賑ふ
00045 1926年4月5日 東京/朝刊 3頁 1段 記事 ◆書誌詳細
竹内選手百メートルに見事十一秒を切る 好記録続出に意気あがる 東西対抗競技の関西予選/決勝記録 トラック フイルド/竹内選手<写>/塚本選手<写>
00046 1926年4月5日 東京/朝刊 3頁 2段 記事 ◆書誌詳細
関西代表選手四十四名決定 未定の数氏は更に交渉の上で発表 昨夜の選考委員会=6日付夕刊1面に訂正
00047 1926年4月9日 東京/朝刊 3頁 8段 記事 ◆書誌詳細
関西側更に三名 東西対抗競技に参加快諾
00048 1926年4月11日 東京/夕刊 1頁 5段 記事 ◆書誌詳細
風雨中を勇ましく関東予選火ぶたを切る 肉は躍る出場選手 観衆早くもスタンドに満つ/日本最初の興味ある二つの試み/競技開始
00049 1926年4月15日 東京/朝刊 3頁 2段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技を眼前に<写>
00050 1926年4月15日 東京/朝刊 3頁 5段 記事 ◆書誌詳細
対抗競技迫り 関西軍あす入京 大阪での猛練習を切上げ いよいよ決戦へ

同大会の優勝盾の写真

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東西対抗競技の主催者、大阪朝日新聞は極東大会への関心も高く、体協関西支部の実質的スポンサーでもあったようです。日本青年運動倶楽部の収支が『大日本体育協会史』(大日本体育協会,1936-37)第1巻p.745に記載されています。100円以上の寄付者は以下のとおりです。

500円 男爵住友吉左衛門 山田藤次郎 阪神電気鉄道会社 大阪毎日新聞社 大阪朝日新聞社
300円 阪神急行電鉄会社 朝吹常吉 中村照子 
200円 男爵藤田平太郎 田中虎之輔
150円 堀田子爵
100円 国光製薬会社 平岡虎之助 伊藤雄一

収入総計 5,177円82銭

支出総額 2,422円99銭

差引残高 2,654円83銭

収入の半額以下しか支出していないことに注目。同倶楽部は第4回極東大会後も解散せず、第5回1921年上海極東大会参加を予定しており、体協が極東大会参加を拒否すれば、体協に代わって日本を代表するスポーツ団体になりえたのです。

武田千代三郎は元内務官僚で当時は大阪高等商業学校(現・大阪市立大学)校長。大学予備門で『Outdoor games』の著者F. W. Strange氏にスポーツの指導を受けた日本スポーツ黎明期の人物、『競技運動 理論実験』(博文館 1904)や『少年競技運動 心身鍛練』(博文館 1904)などのスポーツ書の著者でもあります。『十和田湖』(十和田保勝会 1922)という著作もありますが、武田は青森県知事時代に十和田開発に尽力した、十和田観光開発の功労者でもありました。JRバス青森‐十和田線にはテープによる観光ガイドがあるのですが、武田は、ヒメマス養殖の和井内貞行、小笠原某と並ぶ十和田の3恩人という音声が流れてきてビックリしたことがありました。

木下博士とは木下東作大阪医科大学教授です。

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