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宮城県のサッカー部史、協会史

宮城県内図書館総合目録(宮城県図書館)より作成。

高校

『済美サッカー六十年記念誌 : 仙台一中・一高サッカー部OB会』 OB会有志編 猪苗代忠 1991 106p 27cm (国会所蔵

『完全燃焼 10年のあゆみ』 「完全燃焼」編集委員会/編・制作 石巻市立女子商業高等学校サッカー部後援会 1996 142p 31cm

サッカー協会

『サッカー六十年史』宮城県サッカ-協会編 宮城県サッカ-協会 1986 145p 27cm

『蹴強く逞しく 宮城県サッカー協会75年史』宮城県サッカー協会編 宮城県サッカー協会 2003 295p 31cm

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岩手県のサッカー部史、協会史

県内図書館横断検索システム(岩手県立図書館)より作成。


高校

『盛商サッカー部四十年史』 盛商サッカーOB会 168p 27cm

『じょっぱり魂 -"団塊の名将"齋藤重信と盛岡商業サッカー部全国制覇への軌跡』吉沢康一著 斎藤重信監修 日刊スポーツ出版社 2007 255p 19cm

『栄光への道2007 盛岡商サッカー部〜全国制覇への記録〜』 岩手日報社 2007 38p 34cm

『盛岡商業全国制覇!! 第85回全国高校サッカー選手権大会』恒文社編集部編 ベースボール・マガジン社 2007 41p 30cm

『岩手県立遠野高等学校サッカー部結成50周年記念誌』 遠野高校サッカー部結成50周年記念事業編集委員会 遠野高校サッカーOB会 1999

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青森県のサッカー部史、協会史

県内公共・大学図書館横断検索(青森県立図書館)より作成。


高校

『蹴球部創設四十周年記念誌』青森県立三本木農業高等学校蹴球部OB会編 青森県立三本木農業高等学校蹴球部OB会 1982 150p 26cm (国会所蔵

『山田高輝く「銀」 第88回全国高校サッカー選手権~準優勝への軌跡~ 第88回全国高校サッカー速報グラフ』 東奥日報社 2010 38p 31cm

クラブ

『大樹となって 五戸すずかけ15周年記念誌』 青森県五戸すずかけスポーツ少年団 1984 119p 18 x 27cm

サッカー協会

『青森市サッカー協会40年史:40年の礎。そして躍進の未来へ!』青森市サッカー協会40年史編集委員会編 青森市サッカー協会40年史編集委員会 2004 98p 31cm

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北海道のサッカー部史、協会史

道内の本をさがす「横断検索」 (北海道立図書館)などより作成。

高校

『北海道庁立旭川中学校蹴球部北海道庁立旭川高等学校サッカー部北海道旭川東高等学校サッカー部六十年のあゆみ』 旭川東高サッカー部蹴友会 1997 159p 30cm

『北の闘将』 高橋正弘著 室蘭大谷高等学校サッカー部OB編集 高橋洋子 1997 255p 19cm   

大学

『サッカー部六十年史 : 函師・北二師・函学大・函教大』 母校サッカー部OB会編 母校サッカー部OB会 1986 328p 26cm (国会所蔵

『札幌大学サッカー部20年史』札幌大学サッカー部20年史編集委員会 札幌大学サッカー部OB会 1986 110p 23m

『札幌大学サッカー部30年史』 札幌大学サッカー部30年史編集委員会 札幌大学サッカー部OB会 1997 133p 26cm

『札幌大学サッカー部40年史』 札幌大学サッカー部40年史編集委員会 札幌大学サッカー部OB会 2007 157p 26cm

『藻蹴 北海道教育大学札幌分校サッカー部々誌』 北海道教育大学札幌分校編 北海道教育大学札幌分校 1990 142p 26cm

『北大サッカー部50年史 : 1923-1975』渡部哲夫著 北大サッカークラブ 1977 266p 26cm 

『北海道大学サッカー部80年史 : 1923年-2003年』80年史編集委員会編 北大サッカークラブ 2004 286p 30cm

社会人 

『函館赤十字病院サッカー部創部20周年記念誌』 函館赤十字病院サッカー部創部20周年記念実行委員会 2006 25p 26cm

『函館市役所サッカー部50年の歩み』 函館市役所サッカー部OB会編 函館市役所サッカー部創立50周年記念事業実行委員会 1997 50p

サッカー協会

『財団法人北海道サッカー協会70周年史』北海道サッカー協会70年史編集委員会編 北海道サッカー協会 2000 327p 30cm

『北海道のサッカー : 北海道サッカー協会創立八十周年記念誌』北海道サッカー協会創立80周年記念誌編纂委員会編 北海道サッカー協会 2009 644p 30cm

『函館サッカー協会70年史 誕生、発展、そして未来へ』函館サッカー協会編 函館サッカー協会 2000 133p 27cm

『室蘭地区サッカー80年のあゆみ』室蘭地区サッカー協会編 室蘭地区サッカー協会 2003 578p 31cm

『苫小牧地区サッカー協会創立30周年記念誌』苫小牧地区サッカー協会創立30周年記念誌部会編 苫小牧地区サッカー協会 1996 80p 26cm

『捷 遠軽サッカ-協会10周年記念誌』遠軽サッカ-協会編 遠軽サッカ-協会 1991

『創立40周年誌』創立40周年編集委員会編 帯広サッカー協会 2003 134p 30cm

『釧路サッカ-協会20周年記念』釧路サッカ-協会実行委員会 [編集] 釧路サッカ-協会実行委員会 [1977] 30p 27cm

『釧路サッカー協会創立50周年史』釧路サッカー協会50周年史編集委員会編 釧路サッカー協会 2008 139p 30cm

その他

『北海道高校サッカー 20世紀編』池田達彦編著 池田達彦 2002 9, 568p 26cm


  


 

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国会図書館所蔵のサッカー部史

NDL-OPACより作成


高校

蹴球部創設四十周年記念誌 青森県立三本木農業高等学校蹴球部OB会編 青森県立三本木農業高等学校蹴球部OB会 1982 150p 26cm

おお、勝利 : 山形東高サッカー部三十年の歩み 山形東高等学校サッカー部後援会 1987 276p 26cm

済美サッカー六十年記念誌 : 仙台一中・一高サッカー部OB会 OB会有志編 猪苗代忠 1991 106p 27cm

下妻一高サッカー部六十五年史 下妻一高サッカー部六十五年史編さん委員会編 下妻一高サッカー部OB会 1994 288p 22cm

栄冠かけて : サッカー部創部50周年記念誌 埼玉県立浦和西高等学校サッカー部OB会 2000 334p  27cm

麗和 : 浦和中学・浦和高校サッカー部史 麗和サッカークラブ 1992 366p 27cm

附属中学サッカーのあゆみ 東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984 212p 26cm

西高サッカー部50周年記念誌 : 西高サッカー50年 西高サッカー部OB会有志編 西高サッカー部OB会 1999 142p 26cm

昇れ!旭トータルサッカー 神奈川県立旭高等学校サッカー部15年史編集委員会編 神奈川県立旭高等学校サッカー部後援会 1989 262p 30cm

神奈川県立小田原高等学校サッカー部創部五十年記念誌 神奈川県立小田原高等学校サッカー部OB会 1980 179p 21cm

静岡県立静岡中学・静岡高等学校サッカー部史 静中・静高サッカー部OB会 〔2000〕 197p 31cm

松本県ヶ丘高等学校サッカー部のあゆみ. 2集 松本県ヶ丘高等学校サッカー部のあゆみ2集編集委員会編 松本県ヶ丘高等学校サッカー部OB会 2000 289p 27cm

松本県ケ丘高等学校サッカー部60年のあゆみ 松本県ケ丘高等学校サッカー部60年のあゆみ編纂委員会編 松本県ケ丘高等学校サッカー部OB会 1985 381p 27cm

神戸一中蹴球史 神中蹴球倶楽部 1937 274p 22cm

五十年の歩み 和歌山県立串本高等学校サッカー部OB会 2000 146p 30cm

広島県工サッカー部50年のあゆみ 広島県工サッカー部OB会編 広島県立広島工業高等学校サッカー部OB会 1996 140p 31cm


大学

サッカー部六十年史 : 函師・北二師・函学大・函教大 母校サッカー部OB会編 母校サッカー部OB会 1986 328p 26cm

水戸高等学校蹴球部史 水戸高等学校蹴球会 〔1999〕 475p 20cm

東京教育大学サッカー部史 東京教育大学サッカー部編 恒文社 1974 421p 22cm

中央大学サッカー部80年史 中央大学学友会サッカー部OB会編 中央大学学友会サッカー部OB会 2008 303p 27cm

闘魂90年の軌跡 : 東京大学のサッカー : 東京大学ア式蹴球部90年記念誌 東大LB会 2008 321p 27cm

東京大学のサッカーライトブルーの青春譜 : 東京大学ア式蹴球部90年記念誌 東大LB会,東京大学運動会ア式蹴球部著 東大LB会 2008 239p 26cm

関西大学サッカー部七十年史 関西大学サッカー部OB会編 関西大学サッカー部OB会 1992 236p 27cm


その他

古河電工サッカー部史 : 日本サッカー界の礎を築いた人たち 古河電工サッカー部史刊行委員会編 2004 179,123p 21cm

クラブサッカーの始祖鳥 : 読売クラブ~ヴェルディの40年 読売サッカークラブ~東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会制作著作 東京ヴェルディ1969フットボールクラブ 2010 311p 27cm

アストラクラブ : 輝かしき80年の歴史 アストラ倶楽部 1998 107p 26cm

サッカーのあゆみ 藤枝市役所サッカー部 〔1988〕 62p 31cm

神戸少年サッカースクール二十年の歩み 神戸少年サッカースクール編 神戸フットボールクラブ 1985 80p 19×26cm

  


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FAからのカップ寄贈から大日本蹴球協会創立までの時系列的整理

1919(大正8)年3月12日付『東京朝日新聞』記事でFAからのカップ寄贈→体協の第4回極東大会(1919年マニラ)不参加を報じた『東京朝日新聞』記事

1919(大正8)年3月18日付『東京朝日新聞』体協が第4回極東大会不参加を決定→体協の第4回極東大会(1919年マニラ)不参加を報じた『東京朝日新聞』記事

1919(大正8)年3月28日 英国大使館より嘉納治五郎体協会長がカップ受領

1919(大正8)年4月 関西の日本青年運動倶楽部が極東大会参加→関西の日本青年運動倶楽部が第4回極東大会参加

1919(大正8)年5月 関東の大学が極東大会不参加問題で体協に不満を表明→現役選手(専門学校聯合競技会)の体協への不満

1919(大正8)年6月 体協関西支部からも体協改革論→体協関西支部も実質上の「独立」論

1919(大正8)年12月 東京高師で大学昇格問題勃発 嘉納校長批判される→「高師運動と文相(教育科も教科も設けよ)」『東京朝日新聞』1919年12月17日論説

1920(大正9)年1月9日 嘉納治五郎が東京高師校長を辞職→この間嘉納治五郎は① 東京高師校長を辞職

1920(大正9)年6月8日 嘉納治五郎アントワープ・オリンピック参加と外遊に出発→この間嘉納治五郎は② 外遊

1921(大正10)年1月 第5回極東大会参加をめぐって東西で主導権争い→1921年第5回上海極東大会参加をめぐる東西抗争

1921(大正10)年1月20日 嘉納会長が外遊で不在の体協は岸清一副会長が中心となって大阪の日本青年運動倶楽部と交渉→体協と日本青年運動倶楽部間の東西交渉

1921(大正10)年1月30日 体協と日本青年運動倶楽部とで妥協成立→体協と日本青年運動倶楽部との妥結

1921(大正10)年2月11日 嘉納治五郎帰国→この間嘉納治五郎は② 外遊

1921(大正10)年3月8日 嘉納治五郎体協会長を辞職、新会長に岸清一就任→この間嘉納治五郎は③ 体協会長を辞任

1921(大正10)年9月10日 大日本蹴球協会創立

1919(大正8)年3月28日に体協会長嘉納治五郎がFAからのカップを受領してから1921(大正10)年9月10日に大日本蹴球協会が創立するまで2年半を要しています。上述のように、この間、東京高師の大学昇格問題と体協の極東大会参加問題が並行して発生しています。嘉納治五郎は東京高師校長として大学昇格問題を処理できず校長を辞職し、体協会長としては極東大会参加問題を岸清一に丸投げして外遊していました。嘉納は帰国後まもなく体協会長も辞職してしまいます。

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この間嘉納治五郎は③ 体協会長を辞任

1921(大正10)年2月11日帰国した嘉納は1週間たたないうちに、体協会長辞任の意向を漏らします。

『東京朝日新聞』1921(大正10)年2月17日付

嘉納会長体育協会を辞任せん
    極東大会へ万国オリムピック使節として参加する都合で
        ◇台湾人も参加の希望

来る五月上海で開催される極東オリムピック大会に就ては已に本社特電の報ずる通り支那及び比律賓の意気込みは素晴らしいもので我体育協会や大阪青年運動倶楽部でも亦オール日本の立派な代表選手を派遣すべく目下頻に其の手配や準備に忙殺されて居るが今回は流石に我文部当局でも多少覚醒する所があると見え物質以外に於て出来得る丈け便宜を謀るべく声明したとの事である。又一方先頃帰朝した日本体育協会の会長嘉納治五郎氏は滞欧中万国オリムピックの極東委員に任命されたので今回の極東オリムピック大会には万国オリムピックの使節として参加する事となるべく、従って日本体育協会長の資格は却て種々の不都合を来す事があるとて体育協会側とは此の際断然縁を切るべしとの意見を漏らしたさうである。之は未だ公式辞任ではないが体育協会でも後任者については当然熟考詮議を要する事となるであらう。右に就き副会長岸清一博士は語る『嘉納会長が帰朝後の御意見では何か余程大きい仕事、而も言明はされぬが何か民力涵養の国家的重大事業を計画されて居る様です。そんな関係で体育協会の方は罷めたいと云ふ御希望も漏らされましたが未だ公式に辞任された訳ではありません』と。尚今回の極東大会は台湾人も日本選手として参加したいと云ふ事を上京中の下村民政長官から申込みあり又朝鮮人も参加希望があるとの事であるが此の点に就ても岸博士は次の如く語った『大変結構な事で台湾人はジャンプを得意とするとの事である。又台湾に居る内地人で百米突十一秒五分の一の記録を持って居る者があると下村君が言って居ました。之は都合五人ですが何等かの方法で或は認める事になるでせう。朝鮮人の方は未だ申込はないが希望者があれば朝鮮で第一予選をやり第二予選はこちらへ来て貰ひたいものです』” 

『東京朝日新聞』1921(大正10)年4月19日付

新会長に岸博士
    大会参加資格問題も決定す

嘉納治五郎氏は今春欧米視察より帰朝の後予て大日本体育協会長の職に対し辞意を漏して居たが第五回極東大会の期日切迫と共に愈々辞職と決し理事会維持委員会の協議の結果副会長岸清一博士が会長の職に就き嘉納氏は名誉会長たる事を承認した。かくして上海の大会前東京の予選会の時機の迫った折[?]都下運動記者団より抗議中であった車夫配達夫等を職業者と認める理由如何の件に関し事重大なれば上海大会後直ちに天下の輿論に訴へて決定し今回は従来[?]ろて車夫配達夫等を営業としたる者は参加資格なし」との規定を「一年前に同職業を罷めた者は参加差支なし」と云ふ事と訂正したと同時に従来例外として認めた体育教師及び競技コーチャーを国際競技上此の際参加遠慮して貰ふ事を決議し発表した。”   

新聞記事では会長が代わった日時が不明ですが、『日本体育協会七十五年史』(日本体育協会 1986)には以下の記述があります。

“嘉納会長はアントワープのオリンピック大会からの帰国途中に本会会長辞任の決意を固められたと想像される。

 帰朝歓迎会は大正十年二月十五日帝国ホテルで開かれたが、嘉納会長の辞任申し出に対し三月二日の理事会で留任を懇請したが、辞意固きため、三月八日の評議員会(帝国ホテル)でこれを承認、同時に名誉会長に推薦し、併せて理事、幹事の選任を行い、岸清一新会長が生まれた。”(p.69)

『讀賣新聞』にも会長交替の記事はありませんでした。1921(大正9)年3月8日に新旧会長の交替が正式決定したのですが、記者発表などはなかったのでしょう。『東京朝日新聞』の記事は1カ月以上遅れています。会長交替が円満なものでなく、不本意なものであったろうことが示唆されているように思われます。

「参加資格問題」とは、前年1920(大正9)年11月駒場運動場で実施されたマラソンで1~5位をしめた車夫らを失格とした問題のことです。

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この間嘉納治五郎は② 外遊

嘉納はアントワープ・オリンピックに役員として参加し、翌年2月まで外遊します。

・出発

『讀賣新聞』1920(大正9)年6月9日付

嘉納氏の出発

前東京高等師範学校長嘉納治五郎氏は欧米各国の教育視察方々万国オリツピンク(ママ)大会参列の為め8日午前九時十六分東京駅発正午横浜解續の天洋丸にて出発せり。”

・帰国

『讀賣新聞』1921(大正10)年2月10日付

嘉納氏の帰朝を駅頭に学生大挙して迎ふ
    同氏を拉して大会場に入り徐に昇格の実行方法を講ずる
    文相の言責を握る者は同氏

昇格問題に就て愈々具体的運動を開始する事と決した東京高等師範学校では九日午後六時から本校内第一会議室で実行委員会を開いて教授、茗渓会、学生三派の委員三十名出席先づ一委員から此日の上院の形勢を報告して後具体案の協議を行ひ午後十時散会した。十日夜も更に実行委員会を開き尚審議する事となった。十一日の大会は午後二時から大講堂で出身者の近県大会を開くが出席者五百名の見込で宣言決議を行ひ大に気勢を昴げる。決議は昇格の促進を期する旨に留め実行方法は臨機にしかも厳重な手段を執るとの事である。尚昨年の昇格問題勃発当時当面の責任者で当局の言質をも取って居る前校長嘉納治五郎氏が大会当日たる十一日午前十時横浜入港のコレア丸で欧米漫遊の旅から帰朝するので、学校及び茗渓会の主な人々は横浜埠頭に出迎へ別々に高師全校八百の在学生は当日校内に勢揃ひし隊伍を整へ東京駅に練り込みそこで嘉納前校長の帰京を迎へる事となったが之は当局に対する一大示威運動を意味したもので全学生は非常な意気込である。高師の此の運動は十一日の大会を機会に上院の形勢に応じて白熱化すべく期待されて居る。”

なお、同一紙面には、小樽高商、高等工業、神戸高商の大学昇格運動の記事もあります。嘉納の帰国時は貴族院で大学昇格問題が審議中でしたが、結局この時点では実現しませんでした(高師と高工が昇格するのは1929年)。高師関係者は、昇格問題が一段落したことを理由に校長を辞任し、外遊していた嘉納の食言を質したかったのでしょう。

『東京朝日新聞』1921(大正10)年2月12日付

敗因は旅と不馴れ
    悄気るに及ばぬ日本選手
        高師昇格問題や極東競技問題で嘉納氏の縦横談

嘉納氏は曰く『安府の国際競技に参加した日本選手は技量に置いて外国選手に対し何等遜色はないが十分なる成績を得られなかったのは第一に国民的応援がなかったこと及び遠い旅をした上場所に馴れなかった為めである。併し選手一同各々技量を発揮し殊に金栗選手の如き米国の最も有名な選手の第二位を占めるなど大いに気を吐いた次第だ。又今後支那に開かれる極東オリムピック大会に日本から選手を出す事に就ては米国基督教青年会体育部主事エルウード・エス・ブラウン氏との間にも了解がある事故体育協会と相談の上適当の選手を選んで送る積りで自分も或は委員として上海に行く事になるのかも知れない』と云ひ更に話題を転じ『高師の昇格問題に就いては一昨年問題の起った時中橋文相は明かに言質を与へなかったが文相に昇格の意志のあった事は当時我々は認めてゐたので今度の議会には無論予算が出されてあるものと信じてゐた。何れ直に学校当局と協議の上相当の手段を執る考へでゐる』”

高師関係者に「拉致」されることはなかったようですが、ずいぶん能天気なことを発言しています。

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この間嘉納治五郎は① 東京高師校長を辞職 

体協と日本青年運動倶楽部との交渉に体協会長嘉納治五郎は顔を出さず、副会長の岸清一主導で交渉が進みます。この間嘉納は1920(大正9)年1月9日高師校長の辞表を提出し、アントワーク・オリンピックに出かけます。

『東京朝日新聞』1920(大正9)年1月11日付

嘉納校長勇退して国際競技の見物に
    新校長の三宅博士は白髪の五分刈で教育家らしい落着を見せる

東京高等師範学校長嘉納治五郎氏は九日突然文部大臣まで辞表を差出し後任として同校教頭三宅米吉教授を推薦して辞去し、午前十時より教授会を開いて辞職の理由を述べ、更に午後二時より生徒一同を講堂に集めて告別的演説をした。近日中に公式発表ある筈である。昨日後任校長三宅博士を学校に訪へば、白髪を五分刈にした如何にも教育者らしき落着きを見せた博士は『事実には相違ないが公式の発表のない中は』と頗る遠慮勝ちに語った。『嘉納さんの辞任を昇格問題に因るものと云ふ人があるがそんな筈は断じてない。元来多忙な嘉納さんは昨今益々繁忙を極め遂に健康を害したので愈々静養する事に決心された訳です。今後は十分保養の上戦後の欧米各国の教育制度や体育状態を視察の途に上らるる事になるだろう。丁度八月には万国オリムピック競技もあるから序に之も見て来られるでせう。何しろ嘉納さんの普通教育に尽された功績は偉大なるものだ。在職はさうだ!明治二十六年からだからなァ。私か?、私はまだ古い。明治十四年からだ。その頃は助教授や嘱託であったが教授になったのは明治二十八年だった。永いには永いが生徒を教える事だけで学校行政と云ふやうな校長の事務には一つも経験がない。従って校長としての抱負なんかまア無い。先づ以て任命になれば嘉納さんの計画の続きを間違はぬやう遵奉して行く考へです』”

『讀賣新聞』1920(大正9)年1月11日付

嘉納高師校長突如辞表を提出
    昨日学校で悲痛な別辞
         昇格も片付き宿痾療養

最近例の昇格騒ぎと免官問題に中心となった高等師範校長の嘉納治五郎氏は九日午後文部省に中橋文相を訪ひ突然辞表を提出し昨十日正午より学校に教職員及び学生を別々に集めて悲痛なる告別辞を述べた表面の理由としては昇格に就いて文部当局も好意ある回答を与へたので今はその成行観望の程で一段落し個人的には年来の糖尿病があるので悠り静養したいといふにある。

世界を漫遊する 
    後任は立派な三宅博士あり

◇嘉納治五郎氏談
私には年来糖尿病が持病で、今の内に静養して活動力を将来に貯へたい宿願であったが、学校の懸案であった昇格問題等を控へてゐる矢先なので見合せてゐた。所が今日此の問題も曙光を得て一段落となったのが一理由で殊に在職廿余年育んで来た人の中には立派な人材もあり、自分が留まらなく共後顧の憂ひは少しもなく後任としては人格も学識も共に申分のない主席教授文学博士三宅米吉氏があるから此方も大安心である。最後に私は今後は世界の大勢を知らなければ何事も出来ないと信じてゐるので静養をしつつ最近の機会に是非世界を漫遊して来て新知識を得帰朝後は再び外部より教育界の為尽力をする考へである。

在校三十年の三宅博士
    嘉納氏と同年輩

◇落合幹事談
今回の校長の辞表は個人的に宿痾を根本的に治療されるのと、一つには年来の希望であった世界遊歴を実現される為で昇格問題も一先づ片付いた今日最も好機会とされて辞されたので学生中には留任運動をする向もあったが、それでは校長の本旨にも反するものとして止めさした位で、校長が我校は勿論今日迄教育界の大立物として尽された功労は今更云ふ迄もない事実で、学校としては惜いが其後任に三宅博士の如き立派な校長を迎へられるので協力益々努力して嘉納校長の主意に添ふ考へでゐる。三宅博士は三十余年本校にあり嘉納校長と同年の六十一歳である。”


        

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体協と日本青年運動倶楽部との妥結

“覚書

大日本体育協会代表者と日本青年運動倶楽部代表者と大正十年一月三十日帝国ホテルに会合して協定したる事項左の如し

一、本年上海に開催せらるる極東競技大会には千九百二十一年全日本競技委員会の名の下に前記両団体聯合一致して選手を派遣する事
二、前条の委員会の役員の総数は前記両団体協議の上決定し両団体より各々其の半数を選任する事
三、第一条の選手選定の方法は予選会に依るを原則とし正当の事由ありて予選会に欠席したる者に限り銓考の上入選せしむることを許す事
四、選手派遣に関する費用の分担は両団体に於て之れを協定する事
五、大正十二年以後に開催すべき極東競技大会は総べて大日本体育協会に於て全日本を代表し之に参加する事
六、大正十二年度日本に開催すべき極東競技大会は大阪に於て之れを開催し大正十八年度日本に於て開催すべき極東競技大会は東京に於て之れを開催し爾後大阪及び東京に於て交互にこれを開催すべき事

右協定の正確なることを証するため本証二通を作成し両団体代表者署名の上両団体各々其の一通を保存するものなり

大正十年1月三十日

大日本体育協会代表者
 岸清一
 近藤茂吉
 野口源三郎
 山岸貞一
日本青年運動倶楽部代表者
 兼田嘉蔵
 多久儀四郎
 東口真平
立会人 岡部平太”
大日本体育協会編『大日本体育協会史』(大日本体育協会 1936-37) 上巻 p.41-42


1921(大正10)年1月31日付『東京朝日新聞』

オリムピック選手選出の妥協成る
    いよいよ全日本チームの名称の下に出場
        第二予選は駒場で

極東オリムピック派遣選手の問題に就き東西協定の為め大阪の日本青年運動倶楽部より兼田嘉蔵、東口真平、多久儀四郎三委員は昨朝八時東京駅着。直に神田三河町の森田館に投じ、午後六時から帝国ホテルで体育協会の岸、近藤、山岸、野口、岡部と会見、意見の交換をした結果、左記三条の条件を以て円満なる解決を見るに至った。

 ▲第一 今回の極東オリムピック大会には体育協会又は運動倶楽部の名を以てせず、全日本チームの名称の下に出場の事。但し対外的には千九百二十一年度全日本競技委員会(The All Japan Contest Committee for 1921)と称す。

 ▲第二 次回以後日本に於て極東オリムピック大会が挙行される場合は大日本体育協会の名を以て之を挙行する事。

 ▲第三 次回の日本に於ける極東大会は大阪に於て挙行す。而して其後は東京大阪交互に開催地とすること。

其の他 (イ)選手選出の方法は原則として予選会を開く事勿論だが、実力所有者が正当理由の下に出場し得ない時は推薦の方法に依ることもある事。(ロ)予選会は第一予選は四月中旬東京大阪其他各地に於て行ふ。予選会は全日本チーム主催の下に挙行す。第二予選は五月初旬挙行、会場は東京駒場運動場に決定すべく、選手の出発は五月二十日頃とす。(ハ)今後凡て体育協会の名の下に挙行されるに於ては当然大阪の日本青年運動倶楽部存立の理由が失はれるもんだから多分体育協会近畿支部と合併するだらうと、右に就て岸博士は欣然語る『今夜両協会の代表者互に私心を去り胸襟を開いて語った結果、斯く円満なる解決を得たのは非常に嬉しい。此の上は多数有力なる選手の出場を挙国一致声援したいと思ふ』”

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体協と日本青年運動倶楽部間の東西交渉

1921(大正10)年1月21日付『東京朝日新聞』

諒解を得て
    極東大会両代表懇談の後帰京す

極東大会の選手問題に付在阪中であった日本体育協会の諸氏は別に一つの妥協案を造って青年運動倶楽部に提出する筈であったが、更に協議の結果、個人としては倶楽部の諸氏とも意志の疎通を得た事であるから、廿日夜の懇談会で岸博士から述べた談話の要領、即ち双方から選手を選抜し、臨時に特別の名目を付け、一団となって上海に送る。但し其際は原則として選手は各半[?]宛とするといふ事で倶楽部側に諒解を求むる事となり、岸、近藤、野口の三氏は二十一日午後七時十二分列車にて帰東した。(大阪電話)”

1921(大正10)年1月25日付『東京朝日新聞』

選手派遣の協議円満解決か

大日本体育協会に於て第五回極東競技大会に選手派遣の件に関して協会から岸博士、山岸、近藤、野口の四代表委員が去る二十日来阪し、非公式に大阪の日本青年運動倶楽部員と会談の後、二十四日午後七時から倶楽部の木下博士、春[日? ]、高瀬、兼田、多久、北村、東口の諸氏は体育協会に対する回答問題に就き協議を重ねた結果、第二項
 日本青年運動倶楽部の名に依って選手を派遣する事
を可決したるも、
 次回は関西地方にて開催する事
右三項の決議に就き論議沸騰したが、『体育協会を改造する事』なる希望条件が高瀬委員から発表されたが、結局協会員と協議し、円満なる解決を見る筈。尚日本青年運動倶楽部は二月から第一第三の日曜に阪神沿線鳴尾運動場にて練習会を開き、各委員部署を定めて指導監督の任に当ると云ふ。”

関東(体協)からは体協・日本青年運動倶楽部の双方から選抜した「特別チーム」を日本選手団とするという提案がなされ、関西からは次回開催の極東大会を関西開催とする要求が出されたようです。

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1921年第5回上海極東大会参加をめぐる東西抗争

1919年第4回マニラ極東大会に大阪の日本青年運動倶楽部が体協に代わって参加し、集めた寄付金は」半額しか使わず、組織を存続し、次回1921年第5回上海極東大会にも日本を代表する体育団体として参加することを目指します。関西主導で選手選考することに関東の学生は反発します。

1921(大正10)年1月19日付『東京朝日新聞』

極東オリムピック選手問題
    関東強硬
    関西と交渉

第五回極東オリムピック大会は五月二十五日から五日間上海に於て開催されるが選手選出に就て漸く問題が起らんとして居る。関西運動界の中心大日本青年運動倶楽部(ママ)にては選手七八十名全部を自己の倶楽部から推薦せんとする希望を有し、費用の如きも木下博士一人で引受けるなどと大した鼻息だが、東京では学生競技聯合は大日本体育協会との約束もあり、大阪方の推薦に依って行くを好まず、是非協同協会の下に出馬せんとする意向を有し、十七日夜学生競技聯合参加校東大、一高、学習院、早、明、慶、法、拓、農各大、高師、日歯十一校の委員は体育協会の岸、峰、明石、野口、近藤、岡部諸氏と会して意見を纏め岸副会長、野口、近藤、山口の四氏は東京側を代表して十九日夜下阪し、大坂方と具体的に協調を行ふことに決した。しかし選手選出の方法に就て東京方の意向は頗る強硬で、飽迄体育協会の手の下に行かんことを希望し、若し絶対に不可能なれば、大阪及東京に予選会を開き、更に地を選んで東西聯合して第二予選会を開き、之を通過した選手を送る事(第二予選会は大阪に於て行ふ事は否まない)との妥協案を有するが、若し之も出来なければ、東京方は青年運動倶楽部を離れて勝手に出馬するさうである。”


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『炎のランナー』のハロルド・エイブラハムスとパリ五輪で一緒に走った谷三三五はグリコのトレードマークのモデル

映画『炎のランナー』は実在の1924年パリ・オリンピックの陸上100m金メダリスト、ハロルド・エイブラハムスと400m金メダリスト、エリック・リデルの2人が主人公です。

1924年パリ・オリンピックにはもちろん日本も参加しており、100mには谷三三五(明大OB、当時満鉄勤務、戦後近鉄上本町駅長)がエントリーしており、予選でエイブラハムスと対戦しています。

谷三三五「トラック競技の今後の問題」『オリムピックみやげ 第八回巴里大会記念 第2輯』(大阪毎日新聞社 1924)p.29-38 には以下の記述があります。

“私の相手は、百メートル第一予選では英国のアブラハムスと、オーストラりヤのカールの二選手が強敵でした。”(p.36)

エイブラハムスにいついては、

“英のアブラハムスは両手を横に振り、足を後ろに高く蹴る、ストライドは大きくてピッチが早い。”(p.35)

と述べています。

予選通過を伝えた新聞に掲載された谷三三五の顔写真

Cimg0377_2

写真でもおわかりのように笑顔の素敵な大変にこやかな人だったようで、グリコの「ゴールインマーク」のモデルの1人だそうです。

“Q: グリコの看板で大きく手を広げている男の人はだれ?
A:グリコのトレードマーク「ゴールインマーク」は、子供達が元気にゴールインする姿をヒントにつくられたんだ。当時、初代のゴールインマークは 「顔がこわい」と女学生に不評だったので、極東オリンピックで優勝したカタロン選手や、パリオリンピックに出場した谷三三五選手、マラソンの金栗四三選手らのにこやかなゴールイン姿を参考にして書き直したんだって。”

グリコの看板で大きく手を広げている男の人はだれ?(現在ページ消失 「http://shop.glico.co.jp/malmag/002_04.html#03」はInternet Archiveで2006年6月26日現在のものがアーカイヴされており、再現できます)

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400mにも納戸徳重がエントリーしていますが、リデルと一緒に走ったたかどうかを確定する記述はありませんでした。

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日本人と南米サッカーとの出合い 1924年パリ・オリンピックサッカー決勝ウルグアイ対スイス戦観戦記 竹内広三郎「ウルガイ蹴球チーム」

1924年パリ・オリンピックのサッカー競技は初出場のウルグアイが優勝し、南米サッカーが世界一となったことでサッカー史上に残っている。1917年第3回極東選手権大会に最初のサッカー日本代表として出場した竹内広三郎は大阪毎日新聞社から本オリンピックに派遣され、サッカーの決勝、ウルグアイ対スイスの観戦記「ウルガイ蹴球チーム」を『オリムピックみやげ 第八回巴里大会記念 第2輯』(大阪毎日新聞社 1924)p.131-140 に記している。以下、その全文を紹介する。なお、竹内は三段跳びで織田幹雄が日本初の金メダルを獲得した次回1928年アムステルダム・オリンピックには陸上競技監督として参加している。
 
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 今回の国際競技会に於てウルガイ対スイスの蹴球戦位人気を集めたものはない。翌日の新聞紙が『昨日コロンボの競技場は人で以て充実した、一大楕円形に囲まれ見渡す限り渺茫たる人山を築いた』といってゐたが、実際同様の感じがした。何んでもこの偉大な競技を見なければと態々やって来た熱心家にして入場し得なかったものが数千に上ったといふことだから、場内スタンドはどんなに無理をして押し入ったかは想像し得られる。ゲームの始まった頃には無慮十万を数へ得たといふことである。一九二一年英国対仏国の蹴球戦がぺルシング競技場に於て開催された時観衆二万三千を数へ、これをア式蹴球試合観覧者のレコードとされてゐるのに比して、今回は優にその数倍に上り莫大なる観衆に於て世界新記録を出現したワケである。のみならず両チームの技術の優秀であった事も正に世界一であった。殊にウルガイチームの優秀はその技真に神に入り、奇怪と云はんか、奇異といはんか、不思議な程の速力と精力と正確さとを持ったものであった。されば翌日の新聞は一斉に『鮮やかなるウルガイチームの活躍により仏国に於て、否世界に於てアッソシエーションの神として崇むる程の強き印象を与へた云々』と褒めたたえたのも無理はない。

何故強いのか ウルガイ国は人も知る南米の一弱小国だ、そんな国があったのかと始めて知る人も少くあるまい。その一偏在の小国にして世界最強のチームを出し得た事に対して恐らく奇異の感を抱かぬものはない。されば始めて参加チームの番組が発表された時、優勝国は瑞典か、和蘭か、アメリカか、仏蘭西かと人々が評定し始めた時にも、ウルガイ国が出やう筈がなかった。況や他の参加チームがどうしてウルガイの存在を認め得ようぞ。唯ウルガイ自身が強き勝算の自信をその胸に秘めてゐたのだ。ウルガイ選手が巴里に着いた時既に神技の如き技術と崇高なる運動精神を獲得してゐたのだ。されば現代世界のチャンピョンたるイスパニアは彼等の成功を予言してゐたといふことだ。

 又彼等ウルガイが始めてコロンブ・スタジアムに立った時、互に微笑しながら『栄ある国旗にフットボールの球を置くものは唯吾々あるのみ』と宣言し、ボールは太陽である、その太陽がオリムピック・スタアド上を輝かすために遙々ここに来ったのだ。と、それはそれは堅い堅い自信があったといふことだ。何故ウルガイが強いのか、吾々は欧州大陸に於てア式フットボールの選手権を相争ふ国々を知ってゐる筈だ。併し海のかなたに南米共和国ウルガイのあった事に気づかなかったのは申訳ない事でなければならぬ。

 ウルガイがア式フットボールを始め出してから、廿五年は経過してゐるそうである。そしてこの間競技の性質がその国民性に適する所から愈々盛んになり、その普及は全国に及び今日ナショナルゲームの観を呈するに至ったのである。それ故毎年その国に開かれる競技には、諸団体が集まり何時も華々しいゲームを演じ重要なる年中行事とされてゐる。従ってこの競技に於ては多くの優良選手を有し、又この競技に感奮興起する民衆を有する国家になってゐるのである。学ぶ事なくして何事も知る筈はない。かのウルガイも最初始めて同地通行の英国海軍チームによって競技の要領を覚えたのであるが、爾来同国を旅行するヨーロッパ団体があるならば必ずその指導を受ける事を忘れなかった。鋭敏で従順で活発で注意深く智の閃きを輝かしてゐるウルガイ人は、その温暖なる気候の下にあって、これらの優れた性質を休養させる事なく練習に練磨を重ねて来たのである。勿論今日まで出場の機会はあったのだが、自重に自重を重ね、確固たる自信を得るに及び今回始めて出場したのである。是ある哉遂にアッソシエーションの神として崇められる技量を示す事が出来たのも決して偶然でない。

世界最強の前衛 ウルガイチームがボールを持ち運ぶことに於て、又そのキックの正確なる点に於て、又走力に於てスイスチームに比して遥かに優れてゐた事は万人の認むる所だ。併しスイスチームが強敵ウルガイに対して斯くまで応戦し得た健気な態度を忘れてならないと共に、スイス前衛のレフトインナーであったアブグレン選手が比較的矮小の体格でありながら、その技は巧妙に、その行動は敏速に屡々敵の中衛を破って本塁に迫り、ウルガイチームの肝胆を寒からしめた抜群なる勲功は観衆の悉く感嘆措く能はざる所で、遂に彼はこのゲームにより世界最良の前衛であるといふすばらしい名声を博し得た事を特筆して置く。

チーム・ウォーク チームウォークの必要なることは今更申すまでもないけれど、ウルガイチームの連絡は実に見事なものであった。大げさな云ふ方であるかも知れないが、宛も一人の頭でやるやうに感じられた。一度ボールがウルガイチームの手に渡るや、前衛五人殊に中三人の連絡によってそのボールを奪ふためにはスイスは必死にならねばならなかった。かく前衛同志の横の連絡と共に前衛と中衛の縦の連絡も実に鮮かなところをみせてゐた。前衛が中衛にボールを渡す場合など試合中随分多くあった。そしてパッスするためには、高き大きなキックは一度も見られない。何時でも速力のあって地上を這うボールであった。日本でも段々この傾向になってゐるが、併し尚中衛が前衛に対して大きな高いキックで渡そうとする事はまだ多くあり勝っ(ママ) のよに見てゐる。中衛が前衛のパッスする時には決して不確実な高い大きい高い(ママ)、敵が接近する余裕を与へるやうなボールではなかった。彼等中衛はいつもボールを奪はれる懸念のない範囲においては持って進み、前衛との適当な距離に至って正確にパッスすることを念としてゐたやうだ。さればボールの高く上がる時は恐らく後衛が味方の塁に近づきつつあるボールを蹴る時に、ゴールキックに際しキーパーが正確なる手で持って蹴る場合とコーナーキック位であったらう。

ゴールキック 試合中幾度か行はれたゴールキックは如何なる場合でもキーパーが一度手で持ち強く正確に前衛にパッスを試みたものであった。そしてそのキックが何時でもハーフラインを数間超える強蹴には驚かされた。彼等がここに到達するまでにはその練習の猛烈さも察せられるが、我々が今日まで行ひつつあった、後衛が遠くより走り来って行ふたゴールキックが試合中数多く行ふ中に精力経済の中に損失を招くものであるが、又そのキックが不正確で、時には敵の前衛にシュウトの機会を与へる愚を思はないワケには行かなかった。

 キーパーがボールを持ってキックするまでには、観覧席から見てゐる余には何時の場合でも三歩乃至数歩は踏まれてゐた。スリーステップを何故とらぬかと、一時は思って見たが、それは余の誤りであった。ボールは何時も三歩目の時に手から離れて空中にあったのだ。然も落つき余裕のある態度で、このゴールキックが味方のためにどれだけ有利であるかを思はしめた。

反則 記録を見ると、こうした大試合には余りに反則が多すぎると誰でも思ふだらう。併しこの内には勿論インターフェヌー(ママ)も少しあったが、両チームがボールを奪ふために行ふタックルが極めて微妙に行はれた事と、オフサイドがその大部を占めて居ることを承知して欲しい。こうした責任ある大試合の審判は勿論この道の権威者に相違なからうが、神でない人には矢張り多少の誤審は免れなかった。殊に後半戦に入ってスイスチームに数多く与へたフリーキックには観衆から、かなり烈しく非難された。誰でも弱きものに加勢したいのは人情かも知れないが、ウルガイが鮮かにシュートの機会を作った時、オフサイドを宣告された場合も一度や二度には止まらなかった。その都度観衆からはノー、ノーと喧ましく叫ばれたものだ。併し両選手の口からは何等の抗議も出なかったのは嬉しい。

スローイング 今日まで日本で可成り問題にされてゐるスローイングは膝を曲げてはならない踵を上げてはならぬといはれてゐるが、一体どんなに行はれるものか初めから見のがさずに随分注意したものだ。ラインスマンの指定する地点に立った競技者は、ボールを頭上より強く遠く投げることに感心させられるが、その時踵が上がったり、膝を曲げたりする事は平気でやってゐた。ラインスマンはこれを無視し、審判もこれを見てゐるにかかはらず、一度も反則としなかった。スローイングについて反則が唯二度あったやうだ。それはウルガイチームが投げることをしないで頭上より落した場合であった。万国アッソシエーション・フットボール・フェデレーションの規則を採用してゐる権威ある国際競技でこんなに行はれている小さな問題を、日本では何故やかましくいふのかと、実は不思議に思った程だ。フェデレーションの規則が如何に記述されてゐるか在巴里中には手に入れる事と思ふが恐らくこれは左程問題にすべきものでなくて、唯跳躍を用ひなければよい程度のものではあるまいか。

スポーツマンシップ 両チーム廿二の光栄ある選手が吾を忘れて熱狂せる観衆の下にありながら、正々堂々と鮮かにスポーツマンシップを現はし極力奮闘した事は一般の認むるところであるが、ウルガイが敵スイスに対して終始礼節以て(ママ)敵陣に進み行く崇高さを現はしてゐた事は観衆の最も強く感動された所であった。勿論多くの攻撃防御の中に傷つき倒れるやうな不祥事がないでもなかったが、それは疑ふまでもなく全力を以てそのゴールを落させまいとする勇敢なスイスの防御が遂にかくの如き結果を招くに至ったものである事を思はなくてはならぬ。要するにウルガイは世界中最も卓越したチームであることを高らかに叫ぶ事が出来た。そして彼等の偉大なる奮闘は漸次一般化されつつあるフットボールに対しその美点その長所を遺憾なく示したものであった。又アッソシエーションの神と仰がれた程の完全で貴き技量と、熱烈で真剣になしたその精神は数万の観衆の前で今日までのアッソシエーション・ゲームの記録を見事に粉砕したものであった。
 

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日本の南米サッカーとの出会い 1924年パリ・オリンピックのサッカー決勝観戦記

1924年パリ・オリンピックのサッカー決勝観戦記を見つけました。竹内広三郎「ウルガイ蹴球チーム」『オリムピックみやげ 第八回巴里大会記念 第2輯』(大阪毎日新聞社 1924)p.131-140 です。いずれ日本サッカー・ブック・ガイドの「全文紹介」に加えたいと思います。

このオリンピックはサッカー史上、ウルグアイすなわち南米サッカーが世界一となり、サッカー界に衝撃を与えたことで著名です。ウルグアイは続く1928年アムステルダム・オリンピックでも連続優勝し、1930年第1回ワールドカップ開催国となり、ワールドカップでも優勝します。

著者の竹内広三郎は1917年第3回極東選手権大会、すなわち最初のサッカー日本代表主将です。本職?は陸上競技で、パリ・オリンピックには陸上競技の役員として参加しています。日本が初めて金メダル(織田幹雄 三段跳び)を獲得した1928年アムステルダム・オリンピックの陸上競技監督でした。

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体協関西支部も実質上の「独立」論

『東京朝日新聞』1919(大正8)年6月7日付

体育協会を解散して各都市に自治団
    関西支部の意見
        木下博士等上京し本日協会の幹部と協議せん

日本体育協会関西支部は関東本部の行動、加納(ママ)会長の専断に就き種種協議中なりしが、愈意向も纏まりしを以て偶木下東作博士、武田千代三郎氏等の出京を機とし、嘉納会長、初め岸清一博士その他の幹部は今七日夕頃神田学士会(都合に依りては高等師範校内)に会合して意見の交換をなし、且学生側と協会側との融和を計り、此の際日本体育協会の大改革を断行し、大いに面目を一新する筈である。右に就き木下博士は語る「今度の遣比日本選手は非常な歓迎を受け、武田氏の名に依って日本青年運動倶楽部として認定され、マラソンと庭球に於てはトロフィーを授与された。之れは体育協会の方で引継で貰はねばならない。左もなくばその時こそ関西側は愈分離せねばならぬ事になる。関西側の主張に就てはその発表は本日の会議後にしたい」。一方関西方の消息通の談に依れば日本体育協会を解体して東京、大阪、名古屋等各大都市に個々の体育協会を置き自治団とし、対外競技に際してのみ此等が合同して聯合会長を置き、自治団は委員制度にしたいと云ふのが関西側の意向らしい。”

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現役選手(専門学校聯合競技会)の体協への不満

体協が極東大会脱会を決定したことに対し、現役選手からなる専門学校聯合競技会が反体協運動を起こします。『東京朝日新聞』1919(大正8)年5月17日付記事

聯合競技会選手と体育協会の確執 
    極東オリンピック脱会が原因
       都下専門十一校は協会主催の競技会に絶対出場せずと決定

日本体育協会が極東オリンピックの脱会を発表してより都下各専門学校の選手より成る都下専門学校聯合競技会は体育協会の態度を横暴なるものとなし、極東オリンピック脱会の真意を聞かんものと両会代表者は屡会合する所ありたるが未だ全く了解を見るに至らず、十五日の如きも選手側なる帝大、早大、慶應、法政、明治、日歯、農大、駒場農科、一高、学習院、高師の十一校の代表者は帝大に集合したる上体育協会改革具体案なるものを議了し、代表者七名は同夜八時其意見を具陳する目的にて学士会に体育協会常務委員たる嘉納、明石、野口、赤松、永井、可児の諸氏と会見し、冒頭先ず極東オリンピック参加復活の問題を提出したるに、協会側は運動記者団に発表せる理由の外猶種々の理由ありて復活する事不可能なる旨を述べたり。茲に於て選手側は極東大会大会の規約に基き、当時日本体育協会は規約中寧ろ同会の参加を以て光栄とするが如き明文ありしに拘らず、今日の態度は余りに甚だしき相違なりと慨嘆し、協会側なる明石、可児其他の諸氏が止むるをも肯かず、最早「体育協会改革案」を説明するの要なし、建設か破壊か根本的に改革するに非ずんば我等は之に与する能はずと同所を引上げ、都下専門学校聯合競技会の態度を闡明する為め、爾後日本体育協会主催の競技会には各校の選手は絶対に出場せずと決定し、近く宣言書を発表して全国の各学校へも以上の事情を通知し、反体育協会熱を煽るべしと気概頗る高く、協会側も其善後策に就て考慮しつつありと。”

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関西の日本青年運動倶楽部が第4回極東大会参加

『東京朝日新聞』1919(大正8)年4月9日付

顔触れの内定したる麻尼拉行の選手
    体育協会関西支部の奮起
       新たに倶楽部を起こし廿名を派遣と決議す
          醵金して二百円宛の補助

来五月十日より麻尼拉に於て挙行の第四回極東オリンピックには大日本体育協会は学業の関係上一切選手を派遣せざる事に決定の由既報せるが、右に就き武田千代三郎氏、木下博士以下体育協会関西支部役員は新に日本青年運動倶楽部なるものを起し、其後援に依り選手を参加せしむべく七日夜大阪高商校長室に於て各有志集合協議する所あり。結局「有力家の援助に依り約二十名の選手に対し金二百円宛を補助して麻尼拉へ派遣する事に尽力する事」を決議し、之が実行に就き支部役員等は八日より寄付金の募集に着手したるが、同会にては既に左記十数名の選手を推薦派遣すべく内定し、夫々交渉を開始する筈なりと。

神戸高商 奥山一三 愛知一中 山田鑑 同志社 佐伯巌 商店員 真殿三三五 早大 金成良雄 日本体育協会指導員 野口源三郎 東京高師 斎藤兼吉 同 秋葉祐之 東京農大 内田正練 天王寺師範教諭 多久儀四郎 北野中学 鴻沢吾老 広島中島小学校教員 多田徳雄 早大 生田喜代治 愛知一中 小出鍾之助

而して右の内奥山真殿金成三氏は短距離選手にして佐伯多久二氏は長距離の名手なる事は人の知る所、秋葉山田生田氏は長距離、野口斎藤鴻沢氏は五種及び十種、多田氏は槍及び円盤投、内田氏は水泳選手にして何れも大阪朝日新聞主催の東西対抗競技出場の猛者にして我国に於ける記録保持者なり。尚庭球には大阪ロオンテニス倶楽部の三神岡西両氏及東京より一二名加はるべしと。右に就き木下博士曰く『麻尼拉競技の総点数は百八点にて其中日本より二十名の一流選手を送れば少くとも三十七点を占有し得て本年の東洋選手権を掌握し得る筈。唯困るは出発期日切迫せる事にて遅くも本月廿日以前たるを要し、寄付金額不十分なる時は折角の計画も水泡に期せざる可からず。斯の如きは実に我国運動界の一大恥辱なり。』云々。”

東京の「嘉納」体協がオリンピック優先で極東大会に冷淡であったのに対し、関西の体協支部が極東大会参加のため、日本青年運動倶楽部をわざわざ創立して極東大会参加をめざします。第3回極東大会は1917(大正6)年5月に東京で開催されたのですが、その前年、1916(大正5)年10月に大阪朝日新聞が極東大会予選として鳴尾運動場で東西対抗競技を開催しています。朝日新聞データベース聞蔵ビジュアルⅡをキーワード「東西対抗競技」で大正時代に限定して検索した結果は以下のとおり。明治神宮外苑競技場が完成した1924(大正13)年から内務省主催で明治神宮大会が開催されますが、それ以前に大阪朝日新聞主催の総合運動競技大会である東西対抗競技が1916(大正5)年から開催されていました。

00001 1916年9月12日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
運動界/大阪朝日主催極東体育競技 予選大会 競技参加申込規定
00002 1916年10月21日 東京/朝刊 5頁 4段 記事 ◆書誌詳細
関東方の練習 東西対抗競技に出発の選手四十名帝大に集る<写>/フィールド競技
00003 1916年10月27日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
運動界/東西対抗競技 出場選手決定/トラック競技/フィールド競技/マラソン
00004 1916年10月30日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
運動界/東西対抗競技 鳴尾にて大阪朝日主催/陸上競技
00005 1916年10月31日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
運動界/東西対抗競技/早布第三回戦 本日早大運動場にて/野球
00006 1917年4月13日 東京/朝刊 5頁 4段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の優勝盾<写>
00007 1917年10月24日 東京/朝刊 5頁 10段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技大会の延期 今後は隔年挙行
00008 1918年3月25日 東京/朝刊 9頁 7段 記事 ◆書誌詳細
関東方の練習会 大阪の東西対抗競技の準備
00009 1918年4月1日 東京/朝刊 5頁 10段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技練習会 帝大運動場で選手の意気込
00010 1918年4月3日 東京/朝刊 4頁 6段 記事 ◆書誌詳細
三大陸上競技会 大阪朝日主催の下に来る二十、廿一両日挙行
00011 1918年4月9日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
三大陸上競技会 大阪朝日主催の下に来る二十、廿一両日挙行
00012 1918年4月19日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
第二回東西対抗競技会 選手決定関東選手は明晩堂々東京駅を出発
00013 1918年4月21日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
運動界/本日は東西競技 昨日は一般青年 中等学校予選
00014 1918年4月22日 東京/朝刊 5頁 8段 記事 ◆書誌詳細
優勝楯は西方へ 昨日の東西対抗競技大会 七十七対五十四にて関東方つひに敗戦す
00015 1919年4月27日 東京/朝刊 7頁 7段 記事 ◆書誌詳細
選手の顔独決す 来月三日出発麻尼拉へ いづれも神国男子を代表すべき駿足鳳児
00016 1922年3月6日 東京/夕刊 2頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技派遣選手の予選 締切は来月十七日 競技種目決定す
00017 1922年4月3日 東京/朝刊 3頁 11段 記事 ◆書誌詳細
運動界/興味深い予選会 東西対抗競技/陸上競技
00018 1922年4月20日 東京/朝刊 5頁 11段 記事 ◆書誌詳細
第三回東西対抗競技 関東予選大会/陸上
00019 1922年4月23日 東京/朝刊 5頁 9段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技(予選)成績(第一日) 関西気勢 グラウンド開きの後に
00020 1922年4月24日 東京/朝刊 3頁 8段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技(予選)成績(第二日)/陸上競技夕刊続き
00021 1922年4月24日 東京/夕刊 2頁 7段 記事 ◆書誌詳細
新記緑に火蓋を切つた 関東予選の第二日 槍投に高師の上田君が 極東の記録を破る 関西成績(第二日)/陸上競技=24日付朝刊3面に訂正
00022 1922年4月25日 東京/夕刊 1頁 8段 記事 ◆書誌詳細
今日の問題
00023 1922年4月27日 東京/朝刊 5頁 7段 記事 ◆書誌詳細
関西方代表選手 東西対抗競技出場/陸上競技
00024 1922年5月8日 東京/朝刊 3頁 6段 記事 ◆書誌詳細
努力の賜関東軍が 優秀なる記録 東西対抗競技評<写>
00025 1922年5月8日 東京/朝刊 3頁 9段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技(夕刊つづき) 関東軍大勝す 五十九点の差を以て 見事雪辱優勝楯を受く
00026 1922年5月8日 東京/夕刊 2頁 6段 記事 ◆書誌詳細
本社主催東西対抗競技 全国のフアンに囲まれて 火花を散らす 東西の陸の猛者 千五百に関東先づ勝つ/陸上競技
00027 1924年2月29日 東京/朝刊 7頁 8段 記事 ◆書誌詳細
真剣になつた陸上競技の練習 国際選手の第二次予選と本社の東西対抗競技迫る 興味ある今春競技界
00028 1924年3月19日 東京/朝刊 7頁 5段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の参加章 純真な運動精神の象徴<写>
00029 1924年3月24日 東京/朝刊 7頁 8段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の関西側選手決る 余日いくばくもなく 白熱化して来た練習振り
00030 1924年3月25日 東京/朝刊 7頁 1段 記事 ◆書誌詳細
凄味を加へた選手の猛練習 国際競技第二予選会が近づいて来た 金栗氏又も出馬す
00031 1924年4月4日 東京/朝刊 7頁 1段 記事 ◆書誌詳細
力戦及ばず関東方敗る 六十七点五分対三十四点五分 世界的新記録出づ 本社主催陸上競技大会 得点表<図表>
00032 1924年4月4日 東京/朝刊 7頁 8段 記事 ◆書誌詳細
関東選手帰京
00033 1924年4月4日 東京/夕刊 1頁 3段 記事 ◆書誌詳細
晴れの競技 関東旗色悪し 覇権を争そふ大接戦 本社主催陸上大競技会/競技記録
00034 1924年4月6日 東京/夕刊 2頁 1段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の感想/荒削りの尊さを忘れるな 整つて来たフオーム 関東委員 沢田一郎氏談(2) 新進の活躍で 予想を裏切つた勝利 奥村良一氏の談
00035 1924年4月7日 東京/夕刊 2頁 1段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技の感想 特筆すべき 織田君の走高跳 関東側の敗因に就て 関東委員 野口源三郎氏談
00036 1924年4月10日 東京/朝刊 11頁 1段 記事 ◆書誌詳細
我が代表の栄冠は何人の手に帰するか 真に血湧き肉躍るの感がある 十二三両日駒場に開かれる最終予選会の観測
00037 1926年3月8日 東京/朝刊 2頁 9段 記事 ◆書誌詳細
本社主催第五回 東西対抗陸上競技 四月十七、八両日神宮トラツクに
00038 1926年3月12日 東京/朝刊 3頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技関東予選会
00039 1926年3月22日 東京/朝刊 3頁 3段 記事 ◆書誌詳細
四大陸上競技大会 四月十七、十八両日神宮外苑に
00040 1926年3月29日 東京/朝刊 3頁 1段 記事 ◆書誌詳細
陽春運動界の花 四大陸上競技大会 四月十七日十八日 神宮競技場にて 主催朝日新聞社
00041 1926年3月30日 東京/朝刊 3頁 2段 記事 ◆書誌詳細
近づく東西対抗陸上競技 新進を迎へて 関東軍の猛練習 雪辱の意気すごく 連日にぎはふ駒場トラツク<写>
00042 1926年4月3日 東京/朝刊 3頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技関東予選会 申込は本日締切り
00043 1926年4月4日 東京/朝刊 3頁 5段 記事 ◆書誌詳細
新進老練入乱れ 猛烈な争覇戦 東西対抗競技の関西予選 第一日の成績
00044 1926年4月4日 東京/夕刊 2頁 7段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技 関西予選始る 意外な新進も現れて 大阪市立運動場賑ふ
00045 1926年4月5日 東京/朝刊 3頁 1段 記事 ◆書誌詳細
竹内選手百メートルに見事十一秒を切る 好記録続出に意気あがる 東西対抗競技の関西予選/決勝記録 トラック フイルド/竹内選手<写>/塚本選手<写>
00046 1926年4月5日 東京/朝刊 3頁 2段 記事 ◆書誌詳細
関西代表選手四十四名決定 未定の数氏は更に交渉の上で発表 昨夜の選考委員会=6日付夕刊1面に訂正
00047 1926年4月9日 東京/朝刊 3頁 8段 記事 ◆書誌詳細
関西側更に三名 東西対抗競技に参加快諾
00048 1926年4月11日 東京/夕刊 1頁 5段 記事 ◆書誌詳細
風雨中を勇ましく関東予選火ぶたを切る 肉は躍る出場選手 観衆早くもスタンドに満つ/日本最初の興味ある二つの試み/競技開始
00049 1926年4月15日 東京/朝刊 3頁 2段 記事 ◆書誌詳細
東西対抗競技を眼前に<写>
00050 1926年4月15日 東京/朝刊 3頁 5段 記事 ◆書誌詳細
対抗競技迫り 関西軍あす入京 大阪での猛練習を切上げ いよいよ決戦へ

同大会の優勝盾の写真

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東西対抗競技の主催者、大阪朝日新聞は極東大会への関心も高く、体協関西支部の実質的スポンサーでもあったようです。日本青年運動倶楽部の収支が『大日本体育協会史』(大日本体育協会,1936-37)第1巻p.745に記載されています。100円以上の寄付者は以下のとおりです。

500円 男爵住友吉左衛門 山田藤次郎 阪神電気鉄道会社 大阪毎日新聞社 大阪朝日新聞社
300円 阪神急行電鉄会社 朝吹常吉 中村照子 
200円 男爵藤田平太郎 田中虎之輔
150円 堀田子爵
100円 国光製薬会社 平岡虎之助 伊藤雄一

収入総計 5,177円82銭

支出総額 2,422円99銭

差引残高 2,654円83銭

収入の半額以下しか支出していないことに注目。同倶楽部は第4回極東大会後も解散せず、第5回1921年上海極東大会参加を予定しており、体協が極東大会参加を拒否すれば、体協に代わって日本を代表するスポーツ団体になりえたのです。

武田千代三郎は元内務官僚で当時は大阪高等商業学校(現・大阪市立大学)校長。大学予備門で『Outdoor games』の著者F. W. Strange氏にスポーツの指導を受けた日本スポーツ黎明期の人物、『競技運動 理論実験』(博文館 1904)や『少年競技運動 心身鍛練』(博文館 1904)などのスポーツ書の著者でもあります。『十和田湖』(十和田保勝会 1922)という著作もありますが、武田は青森県知事時代に十和田開発に尽力した、十和田観光開発の功労者でもありました。JRバス青森‐十和田線にはテープによる観光ガイドがあるのですが、武田は、ヒメマス養殖の和井内貞行、小笠原某と並ぶ十和田の3恩人という音声が流れてきてビックリしたことがありました。

木下博士とは木下東作大阪医科大学教授です。

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体協の第4回極東大会(1919年マニラ)不参加を報じた『東京朝日新聞』記事

1919(大正8)年3月18日付『東京朝日新聞』記事

極東大会を脱会
      麻尼拉から延期不可能の回答
         △日本からは選手を送らぬ事に決定す

本年五月麻尼拉に行はるる第四回極東国際競技大会はその時期が日本側の選手にとり甚だ不都合を来すので過般日本体育協会より公式に八月に延期を申込んだ事は既報の通りだが其後先方では再三委員会を開き協議の結果愈今回延期不可能の回答に接した。

其の理由は支那側の不賛成と八月は麻尼拉に於ては雨期であるとの事であるが右に就き嘉納日本体育会長は語る「実際日本では五月は選手に取って困る時期である。文部省でもあまり進まぬらしいし少数の選手を送り相当な金を費って不成績に終る位なら寧し断然脱会した方が好い。そして此の際もっと大きな世界の檜舞台である万国オリンピック大会へ少数でも選手を送り、欧米各国の選手と全然対抗せずとも日本にも是位の技量を持った選手が居るとと云ふ事を示し、尚行く行くは彼等と対等に競技し得る程度まで促進させて見たいと思って居る。興奮剤は之れとして内国では時々競技大会を開き適時滞日外人をも参加し得るオープンの大会をも開いて見たいと思って居る。何れ右の事は協会の常議員会尚一応相談する事になって居るが、主なる評議員連中は大賛成して居る。要するに極東大会から脱会すると云ふ事はそれ程大した悲観ではない。」”

『東京朝日新聞』のこの6日前、1919(大正8)年3月12日付には英国Football Associationから銀盃が寄贈されてきた、以下の記事が掲載されています。

日本の蹴球戦奨励の為英国から銀盃を 来年から純然たる日本学校チームを作り最優勝者に授与する

英国蹴球協会は同国外務省の手を経て我英国大使館へ蹴球優勝銀盃を贈って来た。それは今から二週間許り前の事であるが銀盃の高さは十六吋、口径は七吋で其表面には『英国蹴球協会より日本へ贈る』と英語で彫られてある黒塗の台を付れば十九吋半の高さになる。英国蹴球協会が此銀盃を贈って来た意味は日本に於ける学校チームの発達を促進、奨励する目的であって、昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチの優勝者に[やが]て授与される訳になる。併し本年は大使館員や支那人などが交ってゐるから本年から大使館員などはリーグ戦に参加せず純然たる日本学校チームのリーグ戦とした上優勝者に与へる筈であるといふ。従って本年度迄英国大使館員が中心とも見られてゐたリーグは新しく設立せらる徳川家達公及び英国大使を名誉総裁とする日本蹴球協会の管下に属する事となり将来は東京のみでなく日本全国に大会を開いて最優勝者に名誉総裁から此優勝盃を与へる事になるであらう。斯くしてこそ英国蹴球協会の厚意を初めて満足せしめる訳になるが日本蹴球協会は嘉納高師校長が本年の十月頃迄に委員を選んだ上委員会を開いて総ての具体的草案を拵へる予定である。因に右の銀盃は近日の中三越呉服店に陳列して一般の観覧に供する筈であると云ふ。”

銀盃の写真です。

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日本最初のサッカー・リーグ、日本へのFAカップ寄贈、大日本蹴球協会の創立に記したように、銀盃の寄贈をきっかけとする蹴球協会創立と、極東大会不参加問題をめぐる体協内の紛争、さらに同年12月に勃発する東京高師の大学昇格問題が同時進行した結果、蹴球協会の創立は銀盃の受領から2年半後の1921(大正10)年9月10日までかかることになります。

これからしばらく時系列的に新聞記事を追ってみましょう。

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