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日本人と南米サッカーとの出合い 1924年パリ・オリンピックサッカー決勝ウルグアイ対スイス戦観戦記 竹内広三郎「ウルガイ蹴球チーム」

1924年パリ・オリンピックのサッカー競技は初出場のウルグアイが優勝し、南米サッカーが世界一となったことでサッカー史上に残っている。1917年第3回極東選手権大会に最初のサッカー日本代表として出場した竹内広三郎は大阪毎日新聞社から本オリンピックに派遣され、サッカーの決勝、ウルグアイ対スイスの観戦記「ウルガイ蹴球チーム」を『オリムピックみやげ 第八回巴里大会記念 第2輯』(大阪毎日新聞社 1924)p.131-140 に記している。以下、その全文を紹介する。なお、竹内は三段跳びで織田幹雄が日本初の金メダルを獲得した次回1928年アムステルダム・オリンピックには陸上競技監督として参加している。
 
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 今回の国際競技会に於てウルガイ対スイスの蹴球戦位人気を集めたものはない。翌日の新聞紙が『昨日コロンボの競技場は人で以て充実した、一大楕円形に囲まれ見渡す限り渺茫たる人山を築いた』といってゐたが、実際同様の感じがした。何んでもこの偉大な競技を見なければと態々やって来た熱心家にして入場し得なかったものが数千に上ったといふことだから、場内スタンドはどんなに無理をして押し入ったかは想像し得られる。ゲームの始まった頃には無慮十万を数へ得たといふことである。一九二一年英国対仏国の蹴球戦がぺルシング競技場に於て開催された時観衆二万三千を数へ、これをア式蹴球試合観覧者のレコードとされてゐるのに比して、今回は優にその数倍に上り莫大なる観衆に於て世界新記録を出現したワケである。のみならず両チームの技術の優秀であった事も正に世界一であった。殊にウルガイチームの優秀はその技真に神に入り、奇怪と云はんか、奇異といはんか、不思議な程の速力と精力と正確さとを持ったものであった。されば翌日の新聞は一斉に『鮮やかなるウルガイチームの活躍により仏国に於て、否世界に於てアッソシエーションの神として崇むる程の強き印象を与へた云々』と褒めたたえたのも無理はない。

何故強いのか ウルガイ国は人も知る南米の一弱小国だ、そんな国があったのかと始めて知る人も少くあるまい。その一偏在の小国にして世界最強のチームを出し得た事に対して恐らく奇異の感を抱かぬものはない。されば始めて参加チームの番組が発表された時、優勝国は瑞典か、和蘭か、アメリカか、仏蘭西かと人々が評定し始めた時にも、ウルガイ国が出やう筈がなかった。況や他の参加チームがどうしてウルガイの存在を認め得ようぞ。唯ウルガイ自身が強き勝算の自信をその胸に秘めてゐたのだ。ウルガイ選手が巴里に着いた時既に神技の如き技術と崇高なる運動精神を獲得してゐたのだ。されば現代世界のチャンピョンたるイスパニアは彼等の成功を予言してゐたといふことだ。

 又彼等ウルガイが始めてコロンブ・スタジアムに立った時、互に微笑しながら『栄ある国旗にフットボールの球を置くものは唯吾々あるのみ』と宣言し、ボールは太陽である、その太陽がオリムピック・スタアド上を輝かすために遙々ここに来ったのだ。と、それはそれは堅い堅い自信があったといふことだ。何故ウルガイが強いのか、吾々は欧州大陸に於てア式フットボールの選手権を相争ふ国々を知ってゐる筈だ。併し海のかなたに南米共和国ウルガイのあった事に気づかなかったのは申訳ない事でなければならぬ。

 ウルガイがア式フットボールを始め出してから、廿五年は経過してゐるそうである。そしてこの間競技の性質がその国民性に適する所から愈々盛んになり、その普及は全国に及び今日ナショナルゲームの観を呈するに至ったのである。それ故毎年その国に開かれる競技には、諸団体が集まり何時も華々しいゲームを演じ重要なる年中行事とされてゐる。従ってこの競技に於ては多くの優良選手を有し、又この競技に感奮興起する民衆を有する国家になってゐるのである。学ぶ事なくして何事も知る筈はない。かのウルガイも最初始めて同地通行の英国海軍チームによって競技の要領を覚えたのであるが、爾来同国を旅行するヨーロッパ団体があるならば必ずその指導を受ける事を忘れなかった。鋭敏で従順で活発で注意深く智の閃きを輝かしてゐるウルガイ人は、その温暖なる気候の下にあって、これらの優れた性質を休養させる事なく練習に練磨を重ねて来たのである。勿論今日まで出場の機会はあったのだが、自重に自重を重ね、確固たる自信を得るに及び今回始めて出場したのである。是ある哉遂にアッソシエーションの神として崇められる技量を示す事が出来たのも決して偶然でない。

世界最強の前衛 ウルガイチームがボールを持ち運ぶことに於て、又そのキックの正確なる点に於て、又走力に於てスイスチームに比して遥かに優れてゐた事は万人の認むる所だ。併しスイスチームが強敵ウルガイに対して斯くまで応戦し得た健気な態度を忘れてならないと共に、スイス前衛のレフトインナーであったアブグレン選手が比較的矮小の体格でありながら、その技は巧妙に、その行動は敏速に屡々敵の中衛を破って本塁に迫り、ウルガイチームの肝胆を寒からしめた抜群なる勲功は観衆の悉く感嘆措く能はざる所で、遂に彼はこのゲームにより世界最良の前衛であるといふすばらしい名声を博し得た事を特筆して置く。

チーム・ウォーク チームウォークの必要なることは今更申すまでもないけれど、ウルガイチームの連絡は実に見事なものであった。大げさな云ふ方であるかも知れないが、宛も一人の頭でやるやうに感じられた。一度ボールがウルガイチームの手に渡るや、前衛五人殊に中三人の連絡によってそのボールを奪ふためにはスイスは必死にならねばならなかった。かく前衛同志の横の連絡と共に前衛と中衛の縦の連絡も実に鮮かなところをみせてゐた。前衛が中衛にボールを渡す場合など試合中随分多くあった。そしてパッスするためには、高き大きなキックは一度も見られない。何時でも速力のあって地上を這うボールであった。日本でも段々この傾向になってゐるが、併し尚中衛が前衛に対して大きな高いキックで渡そうとする事はまだ多くあり勝っ(ママ) のよに見てゐる。中衛が前衛のパッスする時には決して不確実な高い大きい高い(ママ)、敵が接近する余裕を与へるやうなボールではなかった。彼等中衛はいつもボールを奪はれる懸念のない範囲においては持って進み、前衛との適当な距離に至って正確にパッスすることを念としてゐたやうだ。さればボールの高く上がる時は恐らく後衛が味方の塁に近づきつつあるボールを蹴る時に、ゴールキックに際しキーパーが正確なる手で持って蹴る場合とコーナーキック位であったらう。

ゴールキック 試合中幾度か行はれたゴールキックは如何なる場合でもキーパーが一度手で持ち強く正確に前衛にパッスを試みたものであった。そしてそのキックが何時でもハーフラインを数間超える強蹴には驚かされた。彼等がここに到達するまでにはその練習の猛烈さも察せられるが、我々が今日まで行ひつつあった、後衛が遠くより走り来って行ふたゴールキックが試合中数多く行ふ中に精力経済の中に損失を招くものであるが、又そのキックが不正確で、時には敵の前衛にシュウトの機会を与へる愚を思はないワケには行かなかった。

 キーパーがボールを持ってキックするまでには、観覧席から見てゐる余には何時の場合でも三歩乃至数歩は踏まれてゐた。スリーステップを何故とらぬかと、一時は思って見たが、それは余の誤りであった。ボールは何時も三歩目の時に手から離れて空中にあったのだ。然も落つき余裕のある態度で、このゴールキックが味方のためにどれだけ有利であるかを思はしめた。

反則 記録を見ると、こうした大試合には余りに反則が多すぎると誰でも思ふだらう。併しこの内には勿論インターフェヌー(ママ)も少しあったが、両チームがボールを奪ふために行ふタックルが極めて微妙に行はれた事と、オフサイドがその大部を占めて居ることを承知して欲しい。こうした責任ある大試合の審判は勿論この道の権威者に相違なからうが、神でない人には矢張り多少の誤審は免れなかった。殊に後半戦に入ってスイスチームに数多く与へたフリーキックには観衆から、かなり烈しく非難された。誰でも弱きものに加勢したいのは人情かも知れないが、ウルガイが鮮かにシュートの機会を作った時、オフサイドを宣告された場合も一度や二度には止まらなかった。その都度観衆からはノー、ノーと喧ましく叫ばれたものだ。併し両選手の口からは何等の抗議も出なかったのは嬉しい。

スローイング 今日まで日本で可成り問題にされてゐるスローイングは膝を曲げてはならない踵を上げてはならぬといはれてゐるが、一体どんなに行はれるものか初めから見のがさずに随分注意したものだ。ラインスマンの指定する地点に立った競技者は、ボールを頭上より強く遠く投げることに感心させられるが、その時踵が上がったり、膝を曲げたりする事は平気でやってゐた。ラインスマンはこれを無視し、審判もこれを見てゐるにかかはらず、一度も反則としなかった。スローイングについて反則が唯二度あったやうだ。それはウルガイチームが投げることをしないで頭上より落した場合であった。万国アッソシエーション・フットボール・フェデレーションの規則を採用してゐる権威ある国際競技でこんなに行はれている小さな問題を、日本では何故やかましくいふのかと、実は不思議に思った程だ。フェデレーションの規則が如何に記述されてゐるか在巴里中には手に入れる事と思ふが恐らくこれは左程問題にすべきものでなくて、唯跳躍を用ひなければよい程度のものではあるまいか。

スポーツマンシップ 両チーム廿二の光栄ある選手が吾を忘れて熱狂せる観衆の下にありながら、正々堂々と鮮かにスポーツマンシップを現はし極力奮闘した事は一般の認むるところであるが、ウルガイが敵スイスに対して終始礼節以て(ママ)敵陣に進み行く崇高さを現はしてゐた事は観衆の最も強く感動された所であった。勿論多くの攻撃防御の中に傷つき倒れるやうな不祥事がないでもなかったが、それは疑ふまでもなく全力を以てそのゴールを落させまいとする勇敢なスイスの防御が遂にかくの如き結果を招くに至ったものである事を思はなくてはならぬ。要するにウルガイは世界中最も卓越したチームであることを高らかに叫ぶ事が出来た。そして彼等の偉大なる奮闘は漸次一般化されつつあるフットボールに対しその美点その長所を遺憾なく示したものであった。又アッソシエーションの神と仰がれた程の完全で貴き技量と、熱烈で真剣になしたその精神は数万の観衆の前で今日までのアッソシエーション・ゲームの記録を見事に粉砕したものであった。
 

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