体協と日本青年運動倶楽部との妥結
“覚書
大日本体育協会代表者と日本青年運動倶楽部代表者と大正十年一月三十日帝国ホテルに会合して協定したる事項左の如し
一、本年上海に開催せらるる極東競技大会には千九百二十一年全日本競技委員会の名の下に前記両団体聯合一致して選手を派遣する事
二、前条の委員会の役員の総数は前記両団体協議の上決定し両団体より各々其の半数を選任する事
三、第一条の選手選定の方法は予選会に依るを原則とし正当の事由ありて予選会に欠席したる者に限り銓考の上入選せしむることを許す事
四、選手派遣に関する費用の分担は両団体に於て之れを協定する事
五、大正十二年以後に開催すべき極東競技大会は総べて大日本体育協会に於て全日本を代表し之に参加する事
六、大正十二年度日本に開催すべき極東競技大会は大阪に於て之れを開催し大正十八年度日本に於て開催すべき極東競技大会は東京に於て之れを開催し爾後大阪及び東京に於て交互にこれを開催すべき事
右協定の正確なることを証するため本証二通を作成し両団体代表者署名の上両団体各々其の一通を保存するものなり
大正十年1月三十日
大日本体育協会代表者
岸清一
近藤茂吉
野口源三郎
山岸貞一
日本青年運動倶楽部代表者
兼田嘉蔵
多久儀四郎
東口真平
立会人 岡部平太”
大日本体育協会編『大日本体育協会史』(大日本体育協会 1936-37) 上巻 p.41-42
1921(大正10)年1月31日付『東京朝日新聞』
“オリムピック選手選出の妥協成る
いよいよ全日本チームの名称の下に出場
第二予選は駒場で
極東オリムピック派遣選手の問題に就き東西協定の為め大阪の日本青年運動倶楽部より兼田嘉蔵、東口真平、多久儀四郎三委員は昨朝八時東京駅着。直に神田三河町の森田館に投じ、午後六時から帝国ホテルで体育協会の岸、近藤、山岸、野口、岡部と会見、意見の交換をした結果、左記三条の条件を以て円満なる解決を見るに至った。
▲第一 今回の極東オリムピック大会には体育協会又は運動倶楽部の名を以てせず、全日本チームの名称の下に出場の事。但し対外的には千九百二十一年度全日本競技委員会(The All Japan Contest Committee for 1921)と称す。
▲第二 次回以後日本に於て極東オリムピック大会が挙行される場合は大日本体育協会の名を以て之を挙行する事。
▲第三 次回の日本に於ける極東大会は大阪に於て挙行す。而して其後は東京大阪交互に開催地とすること。
其の他 (イ)選手選出の方法は原則として予選会を開く事勿論だが、実力所有者が正当理由の下に出場し得ない時は推薦の方法に依ることもある事。(ロ)予選会は第一予選は四月中旬東京大阪其他各地に於て行ふ。予選会は全日本チーム主催の下に挙行す。第二予選は五月初旬挙行、会場は東京駒場運動場に決定すべく、選手の出発は五月二十日頃とす。(ハ)今後凡て体育協会の名の下に挙行されるに於ては当然大阪の日本青年運動倶楽部存立の理由が失はれるもんだから多分体育協会近畿支部と合併するだらうと、右に就て岸博士は欣然語る『今夜両協会の代表者互に私心を去り胸襟を開いて語った結果、斯く円満なる解決を得たのは非常に嬉しい。此の上は多数有力なる選手の出場を挙国一致声援したいと思ふ』”
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