« December 2010 | Main | February 2011 »

大阪府のサッカー部史、協会史

大阪府Web-OPAC横断検索などによる。

高校

『摂津高等学校サッカー部15年誌』大阪府立摂津高等学校サッカー部編 大阪府立摂津高等学校サッカー部 1986 74p 26cm

『明星サッカー六十年史』明星サッカー60年史編集委員会編 明星サッカー部創立60周年記念事業準備委員会 1973 175p 21cm


大学

『関西大学サッカー部70年史』関西大学サッカー部OB会編 関西大学サッカー部OB会 1992 236p 27cm

『大阪体育大学サッカー部10年史』井田国敬[ほか]編 大阪体育大学サッカー部後援会 1977 93p 26cm

社会人

『ヤンマーサッカー部の歴史 1957~1993』「ヤンマーサッカー部の歴史」編集委員会 ヤンマーサッカー部OB会 2002 149p 31cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

京都府のサッカー部史、協会史

京都府図書館総合目録などによる。

大学

『京都大学蹴球部創部七十周年記念誌 満天の星ゆらぐ京都大学蹴球部我が集い』京都大学蹴球部OBクラブ[編] 京都大学蹴球部OBクラブ 1998 311p 27cm

『京都教育大学サッカー部七十年史』京都教育大学サッカー部OB会編 京都教育大学サッカー部OB会 1981 221p 26cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

滋賀県のサッカー部史、協会史

県内図書館横断検索による。

高校

『野洲スタイル』山本佳司著 角川書店 2006 167p 19cm

大学

『滋賀大学サッカー部創設70周年記念誌』豊田一成[ほか]編 的場久城 1975 149p 26cm

『滋賀大学サッカー部創設八十周年記念誌』豊田一成[ほか]編 寺田周作 1986 265p 26cm

『滋賀大学サッカー部創設90周年記念誌』豊田一成[ほか]編 土佐三夫 1996 265p 26cm

サッカー協会

『滋賀の蹴球 滋賀県サッカー協会設立五十周年記念誌』滋賀県サッカー協会設立50周年記念事業実行委員会編 滋賀県サッカー協会 1999 294p 31cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

休み時間中の軟庭ボールを使ってサッカー

昨日サロン2002で賀川浩氏のお話を伺いました。戦前の神戸一中では休み時間中に軟庭ボールを使ってサッカーをしていたとのことです。ベルリン・オリンピック日本代表右近徳太郎(神戸一中 慶大)が後輩たちに書いた「
オリンピック便り」『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部 1937)所収にも以下の記述があります。

“今でも休みの時間に小さなゴム球を蹴ってゐるでせうか。あれこそ一中の人々が他に優れたフットワークを有して居た大きな原因の一つだから、練習の時小さなボールでやって見るのもよい方法でせう。”(p.244)

私も1960年代末に神戸で中学生をしていましたが、当時でも休み時間中に軟庭ボールを使ってサッカーをしてましたw

| | Comments (2) | TrackBack (0)

三重県のサッカー部史、協会史

三重県図書館情報ネットワークシステムによる。

高校

『三重県立四日市中央工業高等学校サッカー部20年の歩み』三重県立四日市中央工業高等学校サッカー部OB会編 三重県立四日市中央工業高等学校サッカー部OB会 1984 221p 27cm

『三重県立四日市中央工業高等学校サッカー部30年の歩み』三重県立四日市中央工業高等学校サッカー部編 三重県立四日市中央工業高等学校 1992 283p 27cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

愛知県のサッカー部史、協会史

愛蔵くん(愛知県内図書館横断検索)による。

高校

『赤ダスキの歩み 刈谷高校サッカー部70年史』愛知県立刈谷高等学校サッカー部OB会編 愛知県立刈谷高等学校サッカー部 1989 260p 27cm

『愛知県立時習館高等学校サッカー部 創立75周年 時習館サッカー部の歩み』北川裕子[編] [時習館サッカークラブ] 2005 1冊 30cm

サッカー協会

『愛知県サッカー協会75年史』愛知県サッカー協会75年史編集委員会編 愛知県サッカー協会 2002 207p 31cm

『あゆみ 創立30周年記念誌』武豊町サッカー協会編 武豊町サッカー協会 2002 107p 30cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

静岡県のサッカー部史、協会史

おうだんくんサーチ(静岡県図書館横断検索システム) による。

高校

『静岡工業高等学校サッカー部60年の足跡』 静岡工業高等学校サッカー部OB会 2009 190p 30cm

『蹴闘(シュート) 清水市立商業高等学校サッカー部創部五十周年誌』清水市立商業高等学校サッカー部OB会編 清水市立商業高等学校サッカー部OB会 2000 175p 30cm

『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会〔編〕 静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会 1986 134p 31cm

『静岡県立清水東高等学校サッカー部史 VOL.2 闘魂から誇りへ』静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会〔編〕 静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会 2005 166p 30cm

『浜名  静岡県立浜名高等学校サッカー部創部三十周年記念誌』静岡県立浜名高等学校サッカー部OB会編 静岡県立浜名高等学校サッカー部OB会 1997 130p 31cm

『40周年の栞』浜松北高校蹴球団編 浜松北高等学校 1964 44p 21cm

『浜松北高校蹴球団創立60周年記念誌』蹴球団編集係編 浜松北高等学校蹴球団 1984 1冊 26cm

『サッカー六十年のあゆみ  創立60周年記念』静岡県立藤枝東高等学校編 静岡県立藤枝東高等学校 1982 152p 31cm

『静岡県立静岡中学・静岡高等学校サッカー部史』 静中・静高サッカー部OB会 〔2000〕 197p 31cm

『イレブンよ熱き大地を駆けろ』勝沢要著 テレハウス 1986 219p 19cm

社会人、クラブ

『サッカーのあゆみ』 藤枝市役所サッカー部 〔1988〕 62p 31cm

『穆清サッカースポーツ少年団15周年記念誌』穆清サッカースポーツ少年団[編] 穆清サッカースポーツ少年団 1989 127p 26cm

サッカー協会

『静岡サッカー70年のあゆみ』静岡サッカー70年のあゆみ編集委員会編 静岡県サッカー協会 1990 905p 31cm

『静岡サッカー90年のあゆみ 夢があるから一歩ずつ』静岡県サッカー協会編 静岡県サッカー協会 2009 135p 30cm

『中西部ヤングサッカーニュース発刊10周年記念誌』静岡県中西部サッカー協会編 静岡県中西部サッカー協会 1997 442p 30cm

その他

『サッカー静岡事始め : 静岡師範、浜松師範、志太中、静岡中、浜松一中…』静岡新聞社編 静岡新聞社 2006 106p 18cm


| | Comments (0) | TrackBack (0)

岐阜県のサッカー部史、協会史

岐阜県総合目録より作成。

高校

『加納高校サッカー部創部40周年・初蹴り30周年記念誌』 加納高校サッカー部 1988 74p 26cm

大学

『国立岐阜工業高等専門学校 サッカー部史  昭和39年~平成7年』 岐阜高専サッカー部OB会 1998 130p 30cm

社会人

『エーザイ・サッカー部10年史』 エーザイ川島工園サッカー部 1978 78p 26cm

サッカー協会

『岐阜のサッカー史』岐阜県サッカー協会編 岐阜県サッカー協会 1980 242p 25cm 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

長野県のサッカー部史、協会史

長野県内公共図書館横断検索サービスによる。

高校

『雄心強く 伊那北高校サッカー部の歩み』伊那北高校サッカー部編集委員会編 伊那北高校サッカー部「父母の会」 2004 119p 26cm

『蜻蛉のゴール 松本中学校・松本深志高等学校サッカー部史』松本中学校・松本深志高等学校サッカー部OB会編 松本中学校・松本深志高等学校サッカー部OB会 1998 554p 31cm

『松本県ケ丘高等学校サッカー部60年のあゆみ』 松本県ケ丘高等学校サッカー部編 松本県ケ丘高等学校サッカー部 1985 380p 27cm

『松本県ケ丘高等学校サッカー部のあゆみ 2集』松本県ケ丘高等学校サッカー部編 松本県ケ丘高等学校サッカー部 2000 289p 27cm

社会人

『松本市役所サッカー部30年のあゆみ』松本市役所サッカー部創立30周年編 松本市役所サッカー部創立30周年 1999 122p 30cm

サッカー協会

『長野県サッカー協会50年のあゆみ』 長野県サッカー協会 1997 362p 27cm
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

山梨県のサッカー部史、協会史

山梨県図書館情報ネットワークによる。

高校

『サッカー物語』山梨日日新聞社編 山梨日日新聞社 1982 499p 22cm 注:韮崎高校のサッカー部史

サッカー協会

『山梨県サッカー50年のあゆみ』山梨県サッカー協会編 山梨県サッカー協会 1990 484p 27cm

その他

『山梨のサッカー : 過去・現在・未来をつなぐパス』「山梨のサッカー」編集委員会編著 山梨日日新聞社 2005 204p 18cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

福井県のサッカー部史、協会史

福井県内図書館横断検索による。

サッカー協会

『福井県サッカーのあゆみ 協会創立50周年記念』福井県サッカーのあゆみ編集委員会[編] 福井県サッカー協会 2003 263p 31cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

石川県のサッカー部史、協会史

石川県内図書館横断検索による。

サッカー協会

『石川県サッカー協会50年史』 石川県サッカー協会 1997 510p 31cm

『30周年記念誌』小松市サッカー30周年記念誌委員編 小松市サッカー協会 1995 88p 26cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

富山県のサッカー部史、協会史

富山県内図書館OPAC横断検索ネットワークシステムによる。

サッカー協会

『富山県サッカーのあゆみ』 富山県サッカー協会 1996 299p 31cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『神戸一中蹴球史』の史料的価値

『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部 1937)が復刻されたそうです。当サイトでも同書に掲載された座談会をアップしています。

『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会(第1、2回)
『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会(第3回)

蹴球部の成立

同校のサッカーの始まりについては第3回座談会で同校1915(大正4)年卒業の相川秀夫氏が以下のように述べています。

“相川氏:大阪では私より前の人で同様の事をお話したろうと思ひますけれども・・・。大体中学校の昼の休み時間があまり短時間で野球は一般に出来ず、冬の遊戯として何もないから、フットボールでも蹴ろうじゃないかといふ事を思ひついて、多分大正の初め位から之を始めたと記憶して居ります。一個乃至二個のボールを持ち出して誰彼なしに蹴り上げたのが初めで、愈々それではやらうといふので、英国人のアーガル先生が見えて、大正三年の一月だったか二月だったかから始めたので・・・大正三年冬、其の十五回卒業生から始めて各学年チームを作って先づ校内試合をやったものであります。まあ大抵のルールを教へてもらって、兎に角クラスマッチといふ事から始めた、神戸では其の時代やってゐたのは御影師範を除いては他には相手がないので、僅か外人倶楽部の第二選手の連中を頼んで練習試合をやって貰った事があります。そういふ具合で極めて幼稚なものでありました。丸いボールを蹴るといふのをやって居た訳で、三年にはそういふ事で校内試合迄に止どまった。成績は当時四年級が一番よかったのであります、記念撮影もあります。それから後大正四年になりまして全校で始めてチームを作りました。其の時には広島一中ともやったと思ひます。そうして皆成績は負け続けの方で一度も勝った事はありません。先般の会合でも大阪で三宅君が話した様で御影師範は年中やってゐたものですが正式に教はったものでなく、自分等の意見ばかりでやって居ったのであります。ルールも、オフサイドなしとしてやった、我々は正式に英人が教えて呉れたものですから、オフサイドも用ひてやった。御影に行った時はオフサイドなしでやったので勝手が違ふ、御影のグラウンドでやった時、抽籤をやったのですが、御影の方が北側に、我々は南側で、キックオフし、風上に向ってやったので条件が悪かったのです、多分一対零だったか二対零だかで負けました。其の時フルバックに居た若林信三でした[ママ]。先生背負ひ投げをしたのです、こちらの応援に御影へ行ったのが十名か、二十名足らずで、向ふは寄宿生全部出て来た、それだもんだから君が悪い。こうなると応援団が承知しない、撃剣、柔道のモサ連が「蹴飛ばせ」「殺ろせ」の乱暴な応援です。其の時は向ふの奴は脛を蹴ったりして、ルールが違ふし勝手が悪かった。背負ひ投げで試合は中止になる。あいつ殺せと云ふ事になって、先生は青くなった、どうやら話が着いて、一対零か二対零で試合が済んだ、其の記録は私共の失敗の記録であって、記念写真に書いてあったのだが、それを失ってしまって蹴球部に対して申訳がありません。三宅君の云ってゐる点と話は大同小異で殆んど合って居ります、今かう考へましたら頗る幼稚なものです。私はそれから卒業して直ぐ京都の同志社に行きました。現在のラグビーフットボールの本家、それに行くなり、アソシエーションの方からラグビーに変りました、京師と同志社と、京都一中とこの三者覇を構へてやって居た。専門部は同志社の中で稽古をよくやってゐた。そこに行って初めてフットボールらしいものをやった。その後神戸一中の蹴球部が盛になって、関西はをろか、日本一の光栄あるチームになったのは、我々の無上の喜びで前途を祝福してゐる次第であります。私は小さい仕事に携はって居る関係上今日迄考へつつ、応援の機会も度々あったのですが、私が転業したりして、そう云ふ事の為めに十分尽されなかったのでありますが今後は自分も同志を誘ひまして、この部に尽して見たいと思ひます。そういふ様な事で初めは話にならない様な幼稚なもので御座いました。

範多氏:第一回の試合は。

相川氏:クリケットです。エリオン兄貴が向ふのウイングで、こいつのコーナーキックにかかったら叶はんね、コーナーから真直に行くやつで、上に蹴り上った奴が這入って来るからどうする事も出来ない。コーナーキックにかかったら点数にならない事なしです。一番初めに私が二点採った。私がレフトインナーでゴールの近くに居て左の足で止めて右で蹴り込んで二点採った。兎に角教えて貰ってゐたのだから勝てる筈はない。昔のフットボールは毛唐の話を聞いても、上海と横浜でやってゐるのは乱暴でして補欠は勿論許しませんから怪我しても其の足を包帯せずに完全の方を包帯する。それを目掛けて蹴りに来るのです。そして一人でも勢力を弱くする。そう云ふ試合で足を怪我して居る奴はうまくカモフラージュせんと試合が出来ません。そう云ふ事をよく聞かされたものです。”

初期には御影師範(1910年からサッカーを始めた)、KRACと試合をしています。蹴球部は野球部から枝分かれして成立しました。

野球部が先行

“相川氏:蹴球部のメンバーの組織、私等のメンバーは野球部の選手でセコ乃至サブ等をやった者ばかり、皆野球選手と併用されてゐる人間ばかりであります。撃剣やら柔道からは選手は出て居りません。

河本氏:当時は野球部の一部に所属してゐたのでせう。

相川氏:五年級には柔道の強い奴が居る。私のクラスは皆五年間通して野球選手の卵をやった連中ばかりでそれがもとですね、全然そう云ふ畠から転換していったのです。”

“相川氏:出来た時スポーツに理解ある者を野球部からピックアップした。

範多氏:私共の時分こう云ふ傾向があった。一中の野球部が非常に強かった。西村、三宅君なんか野球をやってゐた時分・・・。久保田三治君が主将をして居った時分、先輩が出て来て、それこそ火の出る様な練集をした。私なんか野球の練習等やる気が出なかった、兎に角フリーバッティングをやる時でも「なんじゃ今の打ち方は」と非常に激しいやり方でやられて、学校の選手になると恐ろしい練習をやらされるので野球部の選手に引張られる事をいやがった。私のクラスには野球部の選手よりも野球のうまい者が居りました。別所、岩井、有村、米谷、高山。野球部が余り厳しいもんだから、フットボールの方に集まって来た。

相川氏:私等のクラスにもあった。一中は伝統的に野球部が強かった。一中に転校しまして野球部の選手をすれば必ず落第する。落第しなければ乙といふ位だった。選手といえば一、二年落第した。私等は一年練習に行って棄ててしまった。練習は相当激しく晩暗くならんと帰られぬ。それからこつこつ歩かされて、電気がつく様になっておごって貰って帰った。野球オンリーといふ様なものであって、運動第一だけれども、落第するのは叶わぬ。野球部に残って居るのは極く趣味を持つ連中だけで外の者は嫌だといって皆止めよった。

範多氏:それから先に申しました様に一年、二年後の連中は野球部と離れて純然たるフットボールばかりやる人が集まって来たといふ形になったのです。其の勢でずっとフットボールが伸びて来たのです。

山岡氏:私達の時は野球部の選手との交渉は全然なくなりました。各部との関係をいいますと可成虐待せられる形でありまして各部との交際は多少柔道部の方とか、剣道部の方だとか、其の腕力の強いものを入れることが何かと便利なので一、二入れよったのです、大正八年頃ですが・・・。ところがそれから段々それはなくなって来た様です。

範多氏:白洲の次郎あたりから所謂全部がフットボールを熱心にやる者が寄って来たのでせう。それが其の後の発展に非常な貢献をした事と思ひます。”

“範多氏:選手はフットボールの好きな者が寄り集ることに依ってチームが作製された。従って野球もやればフットボールもやるといふ者が多く、中には野球の選手として是非共出場せねばならぬ程の者もあった(久保田等は其の一人である)
部員の中には当時の野球部は実に旺盛で練習が辛く、勉強も出来ない程なので、堪へ兼ねてフリーな蹴球をやらうと云ふ者が多かった。従て部の気分は爽かでよく気が合ひ、互に文句など起らず非常に愉快な部であった。目標は遊園地の外人をやッつけるにあった。”

同校の野球部は全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)で1919(大正8)年に全国制覇したほどの強豪で、野球部のレギュラーになると猛練習で進学、進級に差し支えがあり、生徒が自主的にサッカーに転向しました。大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響に記したように、広島一中(現・国泰寺高)、刈谷中、志太中(現・藤枝東高)、湘南中、東京府立五中(現・小石川高)では校長のトップダウンで「野球に代わるスポーツ」としてサッカーが導入されたのと対照的です。いずれにせよ、サッカーは「野球に対抗するスポーツ」という位置づけだったことに変わりはありません。

御影師範附属小学校OBが始めた

“河本:神中クラブは何時頃から出来たのかね。

赤川氏:小畠さんが音頭を取った。

永野氏:対外試合をしたのは神宮の第一回大会を最初とし、それまでは後輩を指導するのが目的であった。大正十五年の上海行オリンピック予選の時、多分七月二十日頃だったと思ふが、面白い試合をしたね。明治神宮で優勝したのは昭和二年だったと思ふ。

赤川氏:当時選手をしてゐた者は殆ど附属小学校出身の者ばかりで、附属に関係がない者で入部したのは僕を以て嚆矢とするね。三年生の冬から永野氏と一緒に入部した。

永野氏:其の後段々附属に関係のない者が入部した。”

赤川公一(旧姓:西村)は同校1924(大正13)年卒業(白洲次郎は3級上)。それ以前は御影師範附小OBのみだったようです。

師範学校附属小学校がサッカー普及に果した役割は重要です。こうしたパターンは埼玉師範(附属小学校)と浦和中にも見られます。

大学(慶應義塾)へのサッカー普及にも同校OBが貢献

“範多氏:慶應といふのが私共が慶應に行ってから始めたのです。三年たってからです。早稲田は慶應より遅れて始めた。それはなぜ始める様になったかと云ふと、早慶戦をやらうじゃないかといふので、お前の所も拵えよといふ訳で中学でやって居た人を頼って、向ふにチームを拵えさせた。

範多氏:慶應はラグビーが全然押へてゐるからグラウンドが使えない。サッカー倶楽部が認められない。それで芝公園に出て行ってバラスの上でやるのです。ゴールが建てられないので天幕から思ひ付いて竹の棒を両方に立て、其の上へロープを張り、その両端を地面に棒切れで止める様な事を考えてゴールをこしらえた。其の竹があんまり折れるものですから柱を鉄にして地面につき刺し横木を竹にした。そして矢張ロープで引張り倒れない様にしたものです。”

範多龍平は同校1918(大正7)年卒、1921(大正10)年の第1回全日本選手権(現在の天皇杯)の予選に慶應アッソシエーションフットボール倶楽部主将として出場しています。『大日本蹴球協会会報 第1号』p.12

大学系と師範系との対立、大学リーグの成立

“範多氏:日本の蹴球協会といふのは師範系統で牛耳られてゐた。師範出の連中が牛耳るが為めにサッカーの発達を阻害せられてゐるといふので、何とかしてブチ破らうじゃないかといふ考へか大分あった。そこで大学に片端からサッカーを拵えて行った。東京帝大なんか其の時に出来た。大村、佐伯なんかも居たので引掴んでお前とこもやれといふので大学にサッカーが出来た。初めそれ等が蹴球協会を牛耳ろうといふのでやって見たがどうしても師範出の奴は物が判らない・・・。東京に蹴球団といふものがあって、之が日本蹴球協会を左右して居た。それが不愉快でたまらない、それでとうとう別れるより仕方がない。別の物を拵えて、大学リーグを始めた。その方から蹴球協会の理事とか何かが這入って行って余程よくなったと思ひます。其の大学のリーグを拵えた時、何でも無理だらうからといふ話しがあったのですが、ヤレヤレといふ事で気の合った連中がいふものですから、各大学から出て行って押し切ってしまった。そういふ様な事を対大毎大会に対して、今後神中クラブとして一つの仕事にしてはどうかと思ふ。
 東京のリーグ戦はカチヌキ、システムは経費の関係や、グラウンドの関係がどうしてもうまく出来なかったから、かまわないから分けてしまえといふので、四校づつ第一部、第二部と云う風に分けてしまった。分けたのは英国の職業団が大会でやってゐるシステムを真似たのですが、「第一部、第二部、第三部に分けて私等が勝手に其の時の各学校の力量によって、一番強そうなやつを第一部に、次を第二部に入れる、それから第三部に・・・・。前以て或程度まで内部の諒解を得ておいたがそれでも非常に反対が出た。なぜ俺の所が第二部であれのところが第一部かと非常に反対が出たが兎に角それを押し切った」東京のリーグは今は五部か六部迄あるでせう。各部から最高点チームが一部上って、最低点チームが一部下る規則だとか皆英国通りに拵えて始めたのです。
 中学でもそんな風にやって行けば面白いと思ふ。”

1929年の大日本蹴球協会の理事選挙で、師範系理事を駆逐し、大学系が主導権を握ります。1924年の東京コレッヂリーグは最初からディビジョン制だったのですが、最初は強引に決定したことが述べられています。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

新潟県のサッカー部史、協会史

県内図書館の横断検索(新潟県立図書館)による。

大学

『銀蹴 旧制新潟高等学校蹴球部六十年のあゆみ』新潟高等学校蹴球部編集委員会編 新潟高等学校蹴球部編集委員会 1987 151p 26cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

神奈川県のサッカー部史、協会史

県内公共図書館等の横断検索(神奈川県立図書館)による。

高校

『神奈川県立小田原高等学校サッカー部創部五十年記念誌』神奈川県立小田原高等学校サッカー部OB会編 神奈川県立小田原高等学校サッカー部OB会 1980 179p 21cm

『昇れ!旭トータルサッカー』神奈川県立旭高等学校サッカー部15年史編集委員会編 神奈川県立旭高等学校サッカー部後援会 1989 262p 30cm

『湘南サッカー半世紀を経て 岩淵二郎追悼記念』湘南サッカー部OB会編 湘南サッカー部OB会 1981 179p 26cm

サッカー協会

『茅ケ崎市サッカ-協会20年誌』茅ケ崎市サッカ-協会編 茅ケ崎市サッカ-協会 1991 80p 26cm

『蹴友 相模原市サッカー協会創立30周年記念』 相模原市サッカー協会 1999 136cm 30cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

東京都のサッカー部史、協会史

東京都公立図書館横断検索Webcat Plus日本サッカー・ブック・ガイドより作成。

高校

『附属中学サッカーのあゆみ』 東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984 212p 26cm

『西高サッカー部50周年記念誌 : 西高サッカー50年』西高サッカー部OB会有志編 西高サッカー部OB会 1999 142p 26cm

『石神井高校蹴球部五十年史 1945-1996』石神井高校蹴球部OB会五十年史編集委員会編 石神井高等学校蹴球部OB会 1997 266p 26cm

『誕生十年』吉木利光編 東京府立第五中学校紫友会蹴球部 1935 286p 23cm

『サッカ-で学べ!おまえたち』古沼貞雄著 講談社 1983 243p 19cm

『古沼貞雄情熱 全国制覇9度帝京サッカーの真実』元川悦子著 学習研究社 2006 191p 19cm

大学

『東京教育大学サッカー部史』東京教育大学サッカー部編 恒文社 1974 421p 22cm

『茗溪サッカー百年』筑波大学蹴球部編 [筑波大学蹴球部] 1996 270p 22cm

『中央大学サッカー部80年史』中央大学学友会サッカー部OB会編 中央大学学友会サッカー部OB会 2008 303p 27cm

『闘魂90年の軌跡 : 東京大学のサッカー : 東京大学ア式蹴球部90年記念誌』 東大LB会 2008 321p 27cm

『東京大学のサッカーライトブルーの青春譜 : 東京大学ア式蹴球部90年記念誌』東大LB会,東京大学運動会ア式蹴球部著 東大LB会 2008 239p 26cm

『S.P.S : 創部70周年』立教大学体育会サッカー部編 立教大学体育会サッカー部 1993 150p 31cm

『Passion for football : Tokyo University of Foreign Studies Soccer Club history of 80 years』東京外国語大学サッカー部OB会編 東京外国語大学サッカー部OB会 2004 207p 21cm 

『創立六十周年記念誌』法政大学体育会サッカー部法友サッカークラブ編 法政大学体育会サッカー部法友サッカークラブ 1985 316p 31cm

『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』WMW五十年史編集委員会編 早稲田大学WMWクラブ 1977 356p 22cm

『早稲田大学ア式蹴球部75年史』WMW75年史編纂委員会編 早稲田大学WMWクラブ 1998 258p 22cm

『成城蹴球・サッカー60年史』成城蹴球・サッカー60年史編集委員会編 成城蹴球・サッカー60年史編集委員会 1988 229p 26cm

『風呼んで翔ける荒鷲よ 慶応義塾体育会ソッカー部50年』慶応義塾体育会[編] 三田ソッカー倶楽部 1978 362p

社会人、クラブ

『古河電工サッカー部史 : 日本サッカー界の礎を築いた人たち』古河電工サッカー部史刊行委員会編 2004 179,123p 21cm

『クラブサッカーの始祖鳥 : 読売クラブ~ヴェルディの40年』読売サッカークラブ~東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会制作著作 東京ヴェルディ1969フットボールクラブ 2010 311p 27cm

『アストラクラブ : 輝かしき80年の歴史』 アストラ倶楽部 1998 107p 26cm

『創立10周年誌』保谷市役所サッカー部編 保谷市役所サッカー部 1981 18p 26cm

『東蹴六十年史草稿』 東京蹴球団 [1977] 220p 27cm

『豊島サッカー史』関根作三著 豊島サッカー倶楽部 1960 170p 22cm

サッカー協会

『東京都サッカー協会五十年史』 東京都サッカー協会 1996 567p 27cm

『東京都サッカー協会審判委員会創立20周年記念誌』東京都サッカー協会審判委員会編 東京都サッカー協会 1997 120p 31cm


| | Comments (0) | TrackBack (0)

千葉県のサッカー部史、協会史

千葉県内図書館横断検索による。

高校

『高校サッカー勝利学  "自立心"を高める選手育成法』本田裕一郎著 カンゼン 2009 261p 19cm

サッカー協会

『30周年記念誌』 千葉県サッカー協会 1976 122p 26cm

『千葉県サッカー協会創立40周年記念誌』千葉県サッカー協会編 千葉県サッカー協会 1986 56p 26cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

埼玉県のサッカー部史、協会史

埼玉県内公共図書館等横断検索システムによる。

中学校

『秩父市立秩父第二中学校サッカー部創立30・・・』秩父市立第二中学校サッカー部OB会編 秩父市立第二中学校サッカー部OB会 1981 54p 26cm

高校

『栄冠かけて サッカー部創部50周年記念誌』埼玉県立浦和西高等学校サッカー部OB会編 埼玉県立浦和西高等学校サッカー部OB会 2000 334p 27cm

『埼玉県立大宮東高等学校サッカー部史 中村崇監督の偉業を称えて』中村崇監督ご勇退記念行事実行委員会編  大宮東高等学校サッカー部 2003 197p 26cm

『麗和 浦和中学・浦和高校サッカー部史』 麗和サッカークラブ  1992 366p 27cm

社会人

『NTT関東サッカー部30年の歩み』 NTT関東サッカー部 1999 130p 30cm

『Mitsubishi Motors football club』 三菱自動車工業サッカー部  [1991] 48p 23X10cm

クラブ

『創立20周年記念誌』 北浦和サッカー少年団20周年記念誌発行委員会 1986 102p 26cm

サッカー協会

『輝く埼玉サッカー75年の歩み』輝く埼玉サッカー75年の歩み 埼玉県サッカー協会 1983 1547p 27cm

『埼玉サッカー100年史』埼玉県サッカー協会著 2009 DVD-ROM2枚 19cm

『児玉町サツカ-の歩み』 児玉町サツカ-協会 1983 26cm

『熊谷サッカー協会30周年記念誌』 熊谷サッカー協会編 熊谷サッカー協会 1997 53p 26cm

『創立10周年記念誌』 所沢市サッカー協会 2010 32p 30cm

その他 

『日本の伝統とサッカー : 浦和に於ける一蹴球志』石原守一著 石原守一 1999 772p 27cm

『日本の伝統とサッカー : 浦和に於ける一蹴球志 第2版』石原守一著 石原守一 2000 887p 27cm


| | Comments (0) | TrackBack (0)

栃木県のサッカー部史、協会史

栃木県図書館総合目録による。

サッカー協会

『栃木県サッカー協会創立50周年記念誌』栃木県サッカー協会編 栃木県サッカー協会 1995 215p 31cm

『創立50周年記念誌 宇都宮サッカー協会創立50周年記念誌』宇都宮サッカー協会編 宇都宮サッカー協会 1999 193p 30cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

1938(昭和13)年第20回全国中等学校蹴球大会優勝校神戸一中の優勝メンバー

高校選手権で滝川二高が兵庫県代表としては73年ぶりに優勝しました。73年前の大会については『蹴球』6巻3号に小長谷亮策「第二十回全国中等学校選手権大会観戦記」(p.13-19)があります。また、この大会の神戸一中については、当時神戸一中1年生だった賀川浩氏が賀川サッカーライブラリーの「大戦争前の光彩(1)」、「大戦争前の光彩(2)」に記されています。優勝メンバーについては、上記『蹴球』誌記事に決勝のメンバー表があります(p.19)が、姓のみです。フルネームと写真は賀川サッカーライブラリーの「賀川太郎」にあり、「昭和13年、全国中等学校蹴球選手権大会優勝の神戸一中チーム。前列左から荒木雄二郎、森武史、皆木忠夫、友貞健太郎、水沢淳也、小畑儀宏、玉木和之、後列左から松浦巌、宮田孝治、田島祐三、向井清之、加藤、加藤勝郎先生、河本春男先生、岡田稔、菱田武、芦田信夫、賀川太郎」とあるので、フルネームがわかります。

優勝イレブンは

GK 小畑儀宏
FB  荒木雄二郎
   森武史
HB 芦田信夫
   松浦巌
   水沢淳也
FW 友貞健太郎(Cap.)
   田島祐三
   賀川太郎
   皆木忠夫
   加藤?

だったようです。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

なぜ兵庫県代表がかくも高校選手権優勝から遠ざかったのか

コタツ観戦することが多い高校選手権決勝ですが、兵庫県代表が出場し、相手も近畿勢ということで、観戦してきました。

Cimg0697

Cimg0695

試合評については他でいくらでもご覧になれるでしょうから、戦前のサッカー王国だった兵庫県がなぜ1938年の神戸一中以来70年以上優勝できなかったことについて存念を述べてみます。

上記リンク先でわかるように、兵庫県の中等サッカーは御影師範と神戸一中の2強が引っ張り、兵庫県予選の勝者がそのまま選手権優勝校となっていました。神戸一中の蹴球部(1913年創部)は御影師範附属小学校OBによって創部されました。兵庫県小学校教員の養成機関であった御影師範は御影師範附小以外の小学校でもサッカーを普及させ、それらの小学校OBが中学校に進学して「サッカー王国」兵庫を作ったのです。

ところが、1937(昭和12)年御影師範と姫路師範が合併して兵庫師範が誕生した際、蹴球部が廃部となります。理由の詳細はよくわかりません。以来、兵庫県はサッカー指導者の供給源を失ってしまいます。兵庫師範の後継である神戸大学教育学部から埼玉や静岡のようなサッカー指導者は出ていません。神戸大学サッカー部は強豪ですが、御影師範ではなく、神戸商大の後継です。

対照的に戦後サッカー王国となった埼玉県や静岡県は戦前の師範学校サッカーが埼玉大学教育学部や静岡大学教育学部に引き継がれ、県のサッカー指導者を生んでいます。一例を挙げれば、浦和南高3冠に導いた松本暁司氏は埼玉大学教育学部OB、清水FCの堀田哲爾氏は静岡大学教育学部OBです。

指導者人材供給システムがいったん崩壊すると、回復までに70年かかるという例といえましょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

温泉と鰻 諏訪紀行

暮の旅行で使った18切符(東京→大阪、広島→徳島、伊賀上野→東京)が2日分余っているので、消化してきました。

3日分でモトはとったはずなので、ソフトな日程で諏訪に行ってきました。底冷えの日に溝の口→立川→高尾→甲府。Cimg0679

昼飯はうまいもんだよカボチャのほうとう。思ったより量多し。根菜多くてヘルシー。

Cimg0678

甲府城址からみた富士山と南アルプス

Cimg0680

Cimg0684

甲府→小淵沢→上諏訪

Cimg0687

諏訪湖は一部凍結していましたが、お神渡り状態にはほど遠い

Cimg0688

宿に入って温泉で温まり、うなぎの古畑へ まずは肝焼き

Cimg0690

そして鰻重梅 ご飯の下にも関西でゆうところのマムシで蒲焼が隠れています。

Cimg0691

鰻を堪能し、後は温泉に入りまくって、2日目は上諏訪→甲府→高尾→東京→渋谷で直帰。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

群馬県のサッカー部史、協会史

群馬県内図書館横断検索より作成。

サッカー協会

『創立三十周年記念誌』 群馬県サッカー協会 〔1979〕 153p 26cm

『創立五十周年記念誌』 群馬県サッカー協会 2000 387p 31cm

『高崎市サッカー協会史』高崎市サッカー協会〔編〕 高崎市サッカー協会 2008 123p 27cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

茨城県のサッカー部史、協会史

茨城県内図書館蔵書横断検索などによる。

高校

『下妻一高サッカー部六十五年史』下妻一高サッカー部六十五年史編さん委員会編 下妻下妻一高サッカー部OB会 1994 288p 22cm

『水工サッカー部七十年のあゆみ 水戸工高サッカー部 創部70周年記念』水戸工高サッカー部創部70周年記念誌編集委員会編 茨城県立水戸工業高等学校サッカー部OB会 1998 169p 26cm

大学

『水戸高等学校蹴球部史』 水戸高等学校蹴球会 〔1999〕 475p 20cm

『茗溪サッカー百年』筑波大学蹴球部編 [筑波大学蹴球部] 1996 270p 22cm

社会人

『茨城日立サッカー部の歩み』茨城日立サッカー部創立70周年記念誌編集 日立日立製作所日立工場 1994 229p 26cm

サッカー協会

『茨城県サッカー協会30周年記年誌』県サッカー協会記念誌編集委員会編 茨城県サッカー協会 1982 221p 26cm

『茨城サッカー五十年の歩み』茨城県サッカー協会50年史編集委員会編 茨城県サッカー協会 1996 279p 31cm
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

大正時代の大阪毎日新聞の発行部数

大阪毎日新聞は1918(大正7)年から、現在のサッカー、ラグビーの高校選手権に続く日本フートボール大会を開催します。こうしたイベント事業の積極展開の背景には同紙の急激な成長がありました。『大阪毎日新聞社史』(小野秀雄著 大阪毎日新聞社 1925)の「第二編 第五章 発行部数百万部を突破す」によれば、1912(大正3)年~1924(大正13)年の元旦の発行部数は以下のとおりです。(p.140-141)

1914(大正3)年 321,455
1915(大正4)年 392,106
1916(大正5)年 451,303
1917(大正6)年 491,106
1918(大正7)年 541,843
1919(大正8)年 513,414
1920(大正9)年 602,408
1921(大正10)年 686,539
1922(大正11)年 824,941
1923(大正12)年 920,759
1924(大正13)年 1,111,159

同時期にライバルの大阪朝日新聞も百万部を超えています。

資本金も増資して株式会社になるのもこの頃です。。『近代日本新聞小史 : その誕生から企業化まで 改訂版 』岡満男著 ミネルヴァ書房 1973 (p.203)によれば、

資本金50万円の合資会社だった大阪毎日新聞は、
1918(大正7)年12月21日に株式会社に改組し、資本金を120万円に増資、 
1922(大正11)年5月10日250万円に増資、
1924(大正13)年10月10日500万円に増資
しています。

大阪朝日新聞も資本金60万円の合資会社だったのが、
1919(大正8)年7月31日株式会社に改組し、資本金を150万円に増資、
1920(大正9)年4月2日200万円に増資、
1922(大正11)年5月23日400万円に増資
しています.

| | Comments (0) | TrackBack (0)

福島県のサッカー部史、協会史

福島県内図書館蔵書目録横断検索による。

高校

『四十年の歩み サッカーに賭けた青春』安積高校サッカー部OB会〔編〕 安積高校サッカー部OB会 123p 26cm

大学

『サッカー部の歩み』日本大学工学部体育会サッカー部編  日本大学工学部サッカー部 1974-  19cm 創刊号:昭和39年〜昭和48年 第2号:昭和49年〜昭和55年 第3号:昭和56年〜平成5年
 
社会人

『呉羽化学サッカー部 四十年史』呉羽化学サッカー部編 呉羽化学サッカー部  1990 128p 26cm

『蹴球呉羽サッカー 闘魂50年の歩み』50年史編集委員会編 呉羽化学サッカー部OB会 2000 132p 26cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

山形県のサッカー部史、協会史

山形県公立図書館横断検索より作成。

高校

『おお、勝利 山形東高サッカー部三十年の歩み』 山形東高等学校サッカー部後援会編 山形東高等学校サッカー部後援会 1987 276p 26cm

サッカー協会

『山形県サッカー協会四十年誌』山形県サッカー協会記念誌編集委員会編 山形県サッカー協会 1988 249p 27cm


| | Comments (1) | TrackBack (0)

秋田県のサッカー部史、協会史

秋田県図書館資料横断検索システムより作成。

サッカー協会

『秋田県サッカー協会50年史』秋田県サッカー協会編 秋田県サッカー協会 1998 345p 26cm

『25年のあゆみ』秋田市サッカー協会編 秋田市サッカー協会 1984 293p 26cm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

高校選手権3回戦

滝川二 2-0 青森山田

Cimg0661

両チームともバックラインを押し上げ、狭い地域に選手がひしめき、ボールのキープがままなりません。滝川二がワンタッチのミドルパスの連続で右サイドから崩し、樋口がビューティフル・ゴール。青森山田は何度もあったペナルティ・エリア付近でのFKをものにできず、後半ロスタイムにもカウンターを喰らって失点、そのままタイムアップ。柴崎はあいかわらずパスを出すだけで、フォローの動きがありませんでした。滝川は兵庫県代表として戦前の神戸一中以来の優勝をめざしてもらいたいです。

Cimg0662

第2試合の立正大淞南と新潟西は前半0-0で終わったのが不思議なほど地力の差が見えた試合で、後半3-0になった時点で帰路につきました。

Cimg0663


| | Comments (0) | TrackBack (0)

ボギーになったカントナ 『エリックを探して』

エリックを探して』を観てきました。

ダメ男の主人公の前に崇拝するヒーローが突然現れて主人公を励ます、というシチュエーションはウディ・アレン主演の30年以上前の『ボギー! 俺も男だ』と同じです。誰しも同じように感じたのか、「"Looking for Eric" "Play it again, Sam"」でググルとたくさんのページにヒットします。ハンフリー・ボガートのそっくりさん俳優が『カサブランカ』のリックの姿で出てきた『ボギー! 俺も男だ』に対して、カントナ本人がカントナ役で出てきます。この映画の製作者でもあるカントナは、フランス語で格言を連発し、フランス語を解さない主人公のマンチェスターの郵便配達夫のために英訳もします。俳優としてもなかなかの貫禄ぶりです。

英国の底辺に生きる人々を描くことが多いケン・ローチ監督作品にはサッカーがよく出てきます。『マイ・ネーム・イズ・ジョー』の主人公はグラスゴーのヘボサッカーチームのコーチでした。このチームのユニが何故かベッケンバウアーがいた頃の全盛時代の西ドイツ代表ユニでした。カントナがいた頃のマンUユニの胸スポンサーはSHARP、本作の時代はリーマン・ショックで政府に救済された金融保険業のAIG。友人同士が胸スポンサーをめぐって言い争いをしたり、ギャングとつるんだ義理の息子がナマ試合観戦できるのに主人公はパブでTV観戦しかできない、などのプレミアの現実もケン・ローチ作品らしく描かれています。ほろ苦い結末の『マイ・ネーム・イズ・ジョー』と違って、本作の結末はハッピー・エンドです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

瀬戸内紀行

青春18切符で大阪まで

Cimg0383

大阪南港22:30発のおれんじ7特等に乗船

Cimg0535

室内から見た明石海峡大橋

Cimg0536

BSでマンUの試合を観る

Cimg0394

翌朝6:10東予港着も高速松山道は雪で閉鎖、R11はチェーン規制、ということで、連絡バスはシタミチを2時間かかって松山へ。松山のお約束

Cimg0545

3階個室を利用 1500円也

Cimg0539

床の間

Cimg0540

お茶と団子がつきます

Cimg0542

同じ3階にある漱石の間

Cimg0543

レトロ調の伊予鉄道道後温泉駅

Cimg0546

Cimg0547

坊ちゃん列車

Cimg0549

道後温泉から松山観光港までリムジンバスで移動 石崎汽船で広島宇品港へ

Cimg0550

平清盛が開鑿したといわれる音戸瀬戸

Cimg0555

音戸の渡し

Cimg0553

大和を作った元呉海軍工廠

Cimg0568

いくさぶねたち

Cimg0566

Cimg0567

大和ミュージアム

Cimg0574

自衛隊潜水艦の広報施設てつのくじら館

Cimg0575

呉港外の秘密基地めいた島

Cimg0584

『仁義なき戦い』ファンはこのホテルに泊まりましょう

Cimg0581

宇品港の真正面にあるのが、サッカーの島、似島

Cimg0588

広島電鉄宇品駅

Cimg0590

私が学生時代にはまだ京都市中を走行していた懐かしの元京都市電に乗車

Cimg0591

宿泊したホテルの部屋から見た広島駅 眼下に昭和の横丁 晩飯はお好み焼き

Cimg0592

再び18切符で徳島へ 瀬戸大橋

Cimg0600

Cimg0601

徳島泊、翌朝南海フェリーで和歌山へ

Cimg0607

日本唯一?の鉄道連絡切符

Cimg0638

沼島

Cimg0611

鳴門海峡

Cimg0610

紀淡海峡

Cimg0614

僚船との反航

Cimg0616

和歌山港

Cimg0634

かつては函館、青森、宇野、高松駅にもあった、日本唯一?の鉄道と桟橋の連絡橋

Cimg0642

南海の特急サザンで難波まで

Cimg0640

千日前のアメリカンでビーフカツサンドとコーヒーのランチ 近鉄で伊賀神戸へ

Cimg0648

伊賀鉄道で上野市へ

Cimg0649

上野城の石垣

Cimg0652

Cimg0653

ホテルの部屋から見た上野城

Cimg0654

テレビをつけたら天皇杯準決勝をやっていた

Cimg0656

伊賀牛の晩飯を食い、翌朝はJR伊賀上野から18切符で帰宅

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« December 2010 | Main | February 2011 »