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『神戸一中蹴球史』の史料的価値

『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部 1937)が復刻されたそうです。当サイトでも同書に掲載された座談会をアップしています。

『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会(第1、2回)
『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会(第3回)

蹴球部の成立

同校のサッカーの始まりについては第3回座談会で同校1915(大正4)年卒業の相川秀夫氏が以下のように述べています。

“相川氏:大阪では私より前の人で同様の事をお話したろうと思ひますけれども・・・。大体中学校の昼の休み時間があまり短時間で野球は一般に出来ず、冬の遊戯として何もないから、フットボールでも蹴ろうじゃないかといふ事を思ひついて、多分大正の初め位から之を始めたと記憶して居ります。一個乃至二個のボールを持ち出して誰彼なしに蹴り上げたのが初めで、愈々それではやらうといふので、英国人のアーガル先生が見えて、大正三年の一月だったか二月だったかから始めたので・・・大正三年冬、其の十五回卒業生から始めて各学年チームを作って先づ校内試合をやったものであります。まあ大抵のルールを教へてもらって、兎に角クラスマッチといふ事から始めた、神戸では其の時代やってゐたのは御影師範を除いては他には相手がないので、僅か外人倶楽部の第二選手の連中を頼んで練習試合をやって貰った事があります。そういふ具合で極めて幼稚なものでありました。丸いボールを蹴るといふのをやって居た訳で、三年にはそういふ事で校内試合迄に止どまった。成績は当時四年級が一番よかったのであります、記念撮影もあります。それから後大正四年になりまして全校で始めてチームを作りました。其の時には広島一中ともやったと思ひます。そうして皆成績は負け続けの方で一度も勝った事はありません。先般の会合でも大阪で三宅君が話した様で御影師範は年中やってゐたものですが正式に教はったものでなく、自分等の意見ばかりでやって居ったのであります。ルールも、オフサイドなしとしてやった、我々は正式に英人が教えて呉れたものですから、オフサイドも用ひてやった。御影に行った時はオフサイドなしでやったので勝手が違ふ、御影のグラウンドでやった時、抽籤をやったのですが、御影の方が北側に、我々は南側で、キックオフし、風上に向ってやったので条件が悪かったのです、多分一対零だったか二対零だかで負けました。其の時フルバックに居た若林信三でした[ママ]。先生背負ひ投げをしたのです、こちらの応援に御影へ行ったのが十名か、二十名足らずで、向ふは寄宿生全部出て来た、それだもんだから君が悪い。こうなると応援団が承知しない、撃剣、柔道のモサ連が「蹴飛ばせ」「殺ろせ」の乱暴な応援です。其の時は向ふの奴は脛を蹴ったりして、ルールが違ふし勝手が悪かった。背負ひ投げで試合は中止になる。あいつ殺せと云ふ事になって、先生は青くなった、どうやら話が着いて、一対零か二対零で試合が済んだ、其の記録は私共の失敗の記録であって、記念写真に書いてあったのだが、それを失ってしまって蹴球部に対して申訳がありません。三宅君の云ってゐる点と話は大同小異で殆んど合って居ります、今かう考へましたら頗る幼稚なものです。私はそれから卒業して直ぐ京都の同志社に行きました。現在のラグビーフットボールの本家、それに行くなり、アソシエーションの方からラグビーに変りました、京師と同志社と、京都一中とこの三者覇を構へてやって居た。専門部は同志社の中で稽古をよくやってゐた。そこに行って初めてフットボールらしいものをやった。その後神戸一中の蹴球部が盛になって、関西はをろか、日本一の光栄あるチームになったのは、我々の無上の喜びで前途を祝福してゐる次第であります。私は小さい仕事に携はって居る関係上今日迄考へつつ、応援の機会も度々あったのですが、私が転業したりして、そう云ふ事の為めに十分尽されなかったのでありますが今後は自分も同志を誘ひまして、この部に尽して見たいと思ひます。そういふ様な事で初めは話にならない様な幼稚なもので御座いました。

範多氏:第一回の試合は。

相川氏:クリケットです。エリオン兄貴が向ふのウイングで、こいつのコーナーキックにかかったら叶はんね、コーナーから真直に行くやつで、上に蹴り上った奴が這入って来るからどうする事も出来ない。コーナーキックにかかったら点数にならない事なしです。一番初めに私が二点採った。私がレフトインナーでゴールの近くに居て左の足で止めて右で蹴り込んで二点採った。兎に角教えて貰ってゐたのだから勝てる筈はない。昔のフットボールは毛唐の話を聞いても、上海と横浜でやってゐるのは乱暴でして補欠は勿論許しませんから怪我しても其の足を包帯せずに完全の方を包帯する。それを目掛けて蹴りに来るのです。そして一人でも勢力を弱くする。そう云ふ試合で足を怪我して居る奴はうまくカモフラージュせんと試合が出来ません。そう云ふ事をよく聞かされたものです。”

初期には御影師範(1910年からサッカーを始めた)、KRACと試合をしています。蹴球部は野球部から枝分かれして成立しました。

野球部が先行

“相川氏:蹴球部のメンバーの組織、私等のメンバーは野球部の選手でセコ乃至サブ等をやった者ばかり、皆野球選手と併用されてゐる人間ばかりであります。撃剣やら柔道からは選手は出て居りません。

河本氏:当時は野球部の一部に所属してゐたのでせう。

相川氏:五年級には柔道の強い奴が居る。私のクラスは皆五年間通して野球選手の卵をやった連中ばかりでそれがもとですね、全然そう云ふ畠から転換していったのです。”

“相川氏:出来た時スポーツに理解ある者を野球部からピックアップした。

範多氏:私共の時分こう云ふ傾向があった。一中の野球部が非常に強かった。西村、三宅君なんか野球をやってゐた時分・・・。久保田三治君が主将をして居った時分、先輩が出て来て、それこそ火の出る様な練集をした。私なんか野球の練習等やる気が出なかった、兎に角フリーバッティングをやる時でも「なんじゃ今の打ち方は」と非常に激しいやり方でやられて、学校の選手になると恐ろしい練習をやらされるので野球部の選手に引張られる事をいやがった。私のクラスには野球部の選手よりも野球のうまい者が居りました。別所、岩井、有村、米谷、高山。野球部が余り厳しいもんだから、フットボールの方に集まって来た。

相川氏:私等のクラスにもあった。一中は伝統的に野球部が強かった。一中に転校しまして野球部の選手をすれば必ず落第する。落第しなければ乙といふ位だった。選手といえば一、二年落第した。私等は一年練習に行って棄ててしまった。練習は相当激しく晩暗くならんと帰られぬ。それからこつこつ歩かされて、電気がつく様になっておごって貰って帰った。野球オンリーといふ様なものであって、運動第一だけれども、落第するのは叶わぬ。野球部に残って居るのは極く趣味を持つ連中だけで外の者は嫌だといって皆止めよった。

範多氏:それから先に申しました様に一年、二年後の連中は野球部と離れて純然たるフットボールばかりやる人が集まって来たといふ形になったのです。其の勢でずっとフットボールが伸びて来たのです。

山岡氏:私達の時は野球部の選手との交渉は全然なくなりました。各部との関係をいいますと可成虐待せられる形でありまして各部との交際は多少柔道部の方とか、剣道部の方だとか、其の腕力の強いものを入れることが何かと便利なので一、二入れよったのです、大正八年頃ですが・・・。ところがそれから段々それはなくなって来た様です。

範多氏:白洲の次郎あたりから所謂全部がフットボールを熱心にやる者が寄って来たのでせう。それが其の後の発展に非常な貢献をした事と思ひます。”

“範多氏:選手はフットボールの好きな者が寄り集ることに依ってチームが作製された。従って野球もやればフットボールもやるといふ者が多く、中には野球の選手として是非共出場せねばならぬ程の者もあった(久保田等は其の一人である)
部員の中には当時の野球部は実に旺盛で練習が辛く、勉強も出来ない程なので、堪へ兼ねてフリーな蹴球をやらうと云ふ者が多かった。従て部の気分は爽かでよく気が合ひ、互に文句など起らず非常に愉快な部であった。目標は遊園地の外人をやッつけるにあった。”

同校の野球部は全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)で1919(大正8)年に全国制覇したほどの強豪で、野球部のレギュラーになると猛練習で進学、進級に差し支えがあり、生徒が自主的にサッカーに転向しました。大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響に記したように、広島一中(現・国泰寺高)、刈谷中、志太中(現・藤枝東高)、湘南中、東京府立五中(現・小石川高)では校長のトップダウンで「野球に代わるスポーツ」としてサッカーが導入されたのと対照的です。いずれにせよ、サッカーは「野球に対抗するスポーツ」という位置づけだったことに変わりはありません。

御影師範附属小学校OBが始めた

“河本:神中クラブは何時頃から出来たのかね。

赤川氏:小畠さんが音頭を取った。

永野氏:対外試合をしたのは神宮の第一回大会を最初とし、それまでは後輩を指導するのが目的であった。大正十五年の上海行オリンピック予選の時、多分七月二十日頃だったと思ふが、面白い試合をしたね。明治神宮で優勝したのは昭和二年だったと思ふ。

赤川氏:当時選手をしてゐた者は殆ど附属小学校出身の者ばかりで、附属に関係がない者で入部したのは僕を以て嚆矢とするね。三年生の冬から永野氏と一緒に入部した。

永野氏:其の後段々附属に関係のない者が入部した。”

赤川公一(旧姓:西村)は同校1924(大正13)年卒業(白洲次郎は3級上)。それ以前は御影師範附小OBのみだったようです。

師範学校附属小学校がサッカー普及に果した役割は重要です。こうしたパターンは埼玉師範(附属小学校)と浦和中にも見られます。

大学(慶應義塾)へのサッカー普及にも同校OBが貢献

“範多氏:慶應といふのが私共が慶應に行ってから始めたのです。三年たってからです。早稲田は慶應より遅れて始めた。それはなぜ始める様になったかと云ふと、早慶戦をやらうじゃないかといふので、お前の所も拵えよといふ訳で中学でやって居た人を頼って、向ふにチームを拵えさせた。

範多氏:慶應はラグビーが全然押へてゐるからグラウンドが使えない。サッカー倶楽部が認められない。それで芝公園に出て行ってバラスの上でやるのです。ゴールが建てられないので天幕から思ひ付いて竹の棒を両方に立て、其の上へロープを張り、その両端を地面に棒切れで止める様な事を考えてゴールをこしらえた。其の竹があんまり折れるものですから柱を鉄にして地面につき刺し横木を竹にした。そして矢張ロープで引張り倒れない様にしたものです。”

範多龍平は同校1918(大正7)年卒、1921(大正10)年の第1回全日本選手権(現在の天皇杯)の予選に慶應アッソシエーションフットボール倶楽部主将として出場しています。『大日本蹴球協会会報 第1号』p.12

大学系と師範系との対立、大学リーグの成立

“範多氏:日本の蹴球協会といふのは師範系統で牛耳られてゐた。師範出の連中が牛耳るが為めにサッカーの発達を阻害せられてゐるといふので、何とかしてブチ破らうじゃないかといふ考へか大分あった。そこで大学に片端からサッカーを拵えて行った。東京帝大なんか其の時に出来た。大村、佐伯なんかも居たので引掴んでお前とこもやれといふので大学にサッカーが出来た。初めそれ等が蹴球協会を牛耳ろうといふのでやって見たがどうしても師範出の奴は物が判らない・・・。東京に蹴球団といふものがあって、之が日本蹴球協会を左右して居た。それが不愉快でたまらない、それでとうとう別れるより仕方がない。別の物を拵えて、大学リーグを始めた。その方から蹴球協会の理事とか何かが這入って行って余程よくなったと思ひます。其の大学のリーグを拵えた時、何でも無理だらうからといふ話しがあったのですが、ヤレヤレといふ事で気の合った連中がいふものですから、各大学から出て行って押し切ってしまった。そういふ様な事を対大毎大会に対して、今後神中クラブとして一つの仕事にしてはどうかと思ふ。
 東京のリーグ戦はカチヌキ、システムは経費の関係や、グラウンドの関係がどうしてもうまく出来なかったから、かまわないから分けてしまえといふので、四校づつ第一部、第二部と云う風に分けてしまった。分けたのは英国の職業団が大会でやってゐるシステムを真似たのですが、「第一部、第二部、第三部に分けて私等が勝手に其の時の各学校の力量によって、一番強そうなやつを第一部に、次を第二部に入れる、それから第三部に・・・・。前以て或程度まで内部の諒解を得ておいたがそれでも非常に反対が出た。なぜ俺の所が第二部であれのところが第一部かと非常に反対が出たが兎に角それを押し切った」東京のリーグは今は五部か六部迄あるでせう。各部から最高点チームが一部上って、最低点チームが一部下る規則だとか皆英国通りに拵えて始めたのです。
 中学でもそんな風にやって行けば面白いと思ふ。”

1929年の大日本蹴球協会の理事選挙で、師範系理事を駆逐し、大学系が主導権を握ります。1924年の東京コレッヂリーグは最初からディビジョン制だったのですが、最初は強引に決定したことが述べられています。

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