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いらぬ親父の捨て処

土曜出勤の代休で本日は休日だが、本降りの冷雨。

いつも代休の平日は映画にあてているが、宮前平に良い日帰り温泉があるとのはなしを聞き、宮前平温泉で朝風呂→BUNKAMURAで『英国王のスピーチ』にしようと計画。

初めて降りた宮前平駅北口の急坂を登ってすぐのところに温泉あり、10:30頃到着。

Cimg0733

平日午前中なのでガラガラかと思いきや、すでにかなりの人数が。お湯は東京の温泉銭湯によくある、いわゆる黒湯で、よく暖まります。まあまあ広いサウナもあります。

入浴後レストランで生ビールと納豆蕎麦を食い、飛行機の上級席のような席のあるレストルームでくつろいでいるとウトウトしてしまい、気づいたら14:00に。各席についているテレビをつけてみると『英国王のスピーチ』がアカデミーの作品、監督、主演男優賞を受賞したとのこと。映画は激混みしそうなので、本日はやめとく。まわりを見るとレストルームは満員。でも意外に若い人も多い。

駅前に成城石井があったので、ワイン、チーズ、ハムを買って帰宅。宮前平って、駅前から坂ばっかで、駅前スーパーが成城石井で、暮しにくそうな街なんでは・・・、とはイソップ寓話の狐のようなw


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FAカップ決勝の観客数 1872-1915

FA Cup History掲載の数値による。

1872 2000
1873 3000
1874 2000
1875-1 3000
1875-2 3000
1876-1 3000
1876-2 3500
1877 3000
1878 4500
1879 5000
1880 6000
1881 4500
1882 6500
1883 8000
1884 12000 1万超
1885 12500
1886-1 15000
1886-2 12000
1887 15500
1888 19000
1889 27000 2万超
1890 20000
1891 23000
1892 25000
1893 45000 4万超
1894 37000
1895 42560
1896 48836
1897 65891 6万超
1898 62017
1899 73833 7万超
1900 68945
1901-1 110820 11万超
1901-2 20470
1902-1 76914
1902-2 33068
1903 63102
1904 61374
1905 101117
1906 75609
1907 84584
1908 74967
1909 71401
1910-1 77747
1910-2 69000
1911-1 69098
1911-2 58000
1912-1 54556
1912-2 38555
1913 120081
1914 72778
1915 49557

19世紀中に7万を超え、1901年には11万人を超える観客を集めています。

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都道府県別サッカー部史、協会史

北海道

青森県
岩手県
宮城県
秋田県
山形県
福島県

茨城県
栃木県
群馬県
埼玉県
千葉県
東京都
神奈川県

新潟県
富山県
石川県
福井県
山梨県
長野県
岐阜県
静岡県
愛知県
三重県

滋賀県
京都府
大阪府
兵庫県
奈良県
和歌山県

鳥取県
島根県
岡山県
広島県
山口県

徳島県
香川県
愛媛県
高知県

福岡県
佐賀県
長崎県
熊本県
大分県
宮崎県
鹿児島県
沖縄県

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沖縄県のサッカー部史、協会史

沖縄県内図書館横断検索による。

大学

『あゆみ(沖縄国際大学サッカー部)』 沖縄国際大学 1977 27p 26cm

サッカー協会

『沖縄県サッカー協会創立15周年記念誌』沖縄県サッカー協会[編] 沖縄県サッカー協会 1981 91p 26cm

『名護市サッカー協会 設立5周年記念誌 5年の歩み』 名護市サッカー協会 1999 81p 30cm

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鹿児島県のサッカー部史、協会史

高校

『熱風!赤いイレブン 全国高校サッカー鹿実V1 写真グラフ 』 南日本新聞社 1996 71p 30cm

サッカー協会

『魂のキックオフを 鹿児島県サッカー50年のあゆみ』鹿児島県サッカー協会編 鹿児島県サッカー協会 1999 306p 31cm
 

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宮崎県のサッカー部史、協会史

宮崎県内図書館横断検索による。

高校

『延岡西高校サッカー部創部40年記念誌 延西サッカー部よ伝説となって永遠のゴールを目指せ!』延西蹴友会編 延西蹴友会 2004 66p 30cm

社会人

『延岡市役所サッカー部10年史』創立10年史編集委員会編 延岡市サッカー部 1979 117p 27cm

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大分県のサッカー部史、協会史

大分県立図書館横断検索システムによる。

特に見当たらず。

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熊本県のサッカー部史、協会史

熊本県内版公共図書館横断検索サイトなどによる。

大学

『五高サッカー史』五高サッカー史刊行委員会編 竜蹴会 1970 246, 20p 26cm

『続五高サッカー史 龍蹴会物語』 龍蹴会 1981 146p 26cm

サッカー協会

『蹴夢 熊本県サッカー協会60周年記念誌』熊本県サッカー協会60周年記念誌編纂実行委員会編 熊本県サッカー協会 2009 255p 31cm

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長崎県のサッカー部史、協会史

長崎県内公共図書館等横断検索サービスなどによる。

高校

『国見発サッカーで「人」を育てる』小嶺忠敏著 日本放送出版協会 2004 217p 18cm

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佐賀県のサッカー部史、協会史

佐賀県内図書館横断検索による。

特に見当たらず。

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福岡県のサッカー部史、協会史

福岡県内図書館横断検索による。

高校

『勝つために何をしたか 高校サッカー史上初!三冠を達成した男・志波芳則22年目のクライマックス』志波芳則著 日刊スポーツ出版社 1999 222p 19cm

サッカー協会

『福岡県サッカーの歩み 福岡県サッカー協会創立50周年記念誌』福岡県サッカー協会[編] 福岡県サッカー協会 1999 531p 27cm

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高知県のサッカー部史、協会史

高知県図書館横断検索システムによる。

特に見当たらず。

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愛媛県のサッカー部史、協会史

愛媛県内公共図書館横断検索システムによる。

高校

『南宇和高等学校サッカー部全国優勝記念誌 完全燃焼28800秒』記念誌編集委員会編 愛媛県立南宇和高等学校 1冊 31cm

サッカー協会

『愛媛県サッカーのあゆみ 創立四十周年記念』愛媛県サッカーのあゆみ編集委員会編 愛媛県サッカー協会
 1988 846p 27cm

『愛媛県サッカー協会五十年の歩み』愛媛県サッカー協会創立50周年記念誌編集委員会編 愛媛県サッカー協会 1998 304p 27cm

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イングランドのフットボールリーグの総観客数

Neil Carter著『The football manager : a history』(Routledge, 2006)に以下の文章がありました。

“One result of these social and economic changes was that aggregate attendances in professional football rose from approximately 602,000 during the first Football Leaague season in 1888-9 to nearly 9 million by 1913-14.”(p.12)
情報源として以下があげらています。

“Mason, Association Football, ppp.2-3, 150; Russel, Football, p.13; G. Williams, The Code War, Harefeld: Yore, 1994, p.50; Vamplew, Pay Up, table 6.2, pp63, 53.”(p.170)

1888-9年度の総観客数60万2千人から、1913-14年度には約900万人に増加しています。

Jリーグの観客数の最多年は2008年の8,756,312人です。現在やっと100年前のイングランドの水準に到達したというところなんですね。

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香川県のサッカー部史、協会史

香川県内公共図書館横断検索による。

特に見当たらず。

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徳島県のサッカー部史、協会史

徳島県内図書館横断検索などによる。

高校

『富西サッカー55年史』富西サッカー55年史編集委員会編 徳島県立富岡西高等学校サッカー部OB会 1985 155, 23p 27cm

サッカー協会

『徳島サッカー60年の歩み』 徳島県サッカー協会事務局 1992 1243p 27cm

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山口県のサッカー部史、協会史

山口県内図書館横断検索による。

サッカー協会

『宇部サッカー協会のあゆみ』宇部サッカー協会〔編〕 宇部サッカー協会 1987 324p 26cm

『宇部サッカー協会のあゆみ 2』宇部サッカー協会〔編〕 宇部サッカー協会 1997 264p 30cm

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湯豆腐・焼穴子鍋

玄関のドアを開けたらそこは雪国だった。

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こんな日は鍋に限る。原材料は

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木綿豆腐1丁 KINOKUNIYA製 357円

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がんもどき3個 KINOKUNIYA製 198円

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焼穴子4匹 カネシン製 1575円

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出汁昆布 奥井海生堂製

水 東京都水道局製

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① 土鍋に出汁昆布を敷き豆腐を入れ、水を張り、焼穴子の頭部(良い出汁が出る)を入れます。

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② まず湯豆腐として豆腐を食べ、開いたスペースに焼穴子を投入

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③ 焼穴子も食べ終ったら、昆布と焼穴子から出た出汁を回収すべく、がんもどきを投入します。

本料理の長所

① 酒に合います。
② 調理が簡単。失敗はありえません。
③ 残飯がほとんど出ません(穴子の頭部の骨のみ)。
④ ヘルシー。
⑤ 焼穴子と煮穴子の両方を味わえます。

ポイント

① 豆腐とがんもどきはケミーな安物は避けましょう。
② 焼穴子は瀬戸内の穴子専門店製に限ります。前は明石の大善(倒産したらしい)か下村(メチャ高い)を使ってましたが、今は池袋西武地下の「瀬戸(姫路のカネシンの出店らしい)」を使ってます。


 


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FAカップ決勝に英国王が初めて臨んだのは

1914年4月25日、クリスタル・パレスにおけるバーンリー対リバプールでした。当時の英国王はジョージ五世。結果はバーンリー 1-0 リバプールでした。

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バーンリーの主将トミー・ボイルにFAカップを手渡すジョージ五世

観衆は72,778人。「日本最初のサッカー・リーグ、日本へのFAカップ寄贈、大日本蹴球協会の創立」に記したように、英国におけるサッカー人気の興隆とそれに着目した英国王室のサッカーへの接近が、日本へのFAカップ寄贈の背景にあるのではないでしょうか。

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広島県のサッカー部史、協会史

広島県内図書館横断検索などによる。

中学校

『為せば成る 広島市立似島中学校サッカー部30年の記録』渡辺定彦[編] 1985 292p 27cm

高校

『広島県工サッカー部50年の歩み』広島県工サッカー部OB会編 広島県立広島工業高等学校サッカー部OB会 1996 140p 31cm

『昭和52年度広島中学校広島第一中学校鯉城高等学校広島国泰寺高等学校サッカー部誌 創立百周年記念号』鯉城蹴球団編 鯉城蹴球団 1977 86p 23cm

『広島観音サッカー部は、なぜ強くなったのか 知将畑喜美夫監督の育成システムを大公開』伊藤和之著 ザメディアジョン 2009 176p 18cm

サッカー協会

『栄光の足跡 広島サッカー85年史』「広島サッカー85年史」編纂委員会編 広島県サッカー協会 2010 239p 31cm

『かがやく明日 福山サッカー30年誌』福山サッカー協会〔編〕 福山サッカー協会 1998 189p 27cm 

『広島県高等学校体育連盟サッカー部のあゆみ』井上國三編 広島県高体連サッカー 2000 215p 30cm

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岡山県のサッカー部史、協会史

岡山県図書館横断検索システムによる。

高校

『サッカー部35年史』サッカー部35年史編集委員会編 勝山高等学校サッカー部OB会 1982 193p 27cm

『岡山朝日高校サッカー部六〇年誌』岡山朝日高校サッカー部六〇年誌編集委員会編 岡山朝日高等学校サッカー部OB会 2003 159, 18p 26cm

社会人

『サッカー部創部20周年のあゆみ』津山市役所サッカー部編 津山市役所サッカー部 1988 27p 26cm

サッカー協会

『活力ある組織めざして 岡山県サッカー協会財団法人化記念誌』岡山県サッカー協会記念誌編集委員会編 岡山県サッカー協会 2003 230p 30cm

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島根県のサッカー部史、協会史

島根県図書館横断検索システムによる。

特に見当たらず。

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伊藤滋は高山英華の弟子

最近テレビでよくお目にかかる大相撲八百長問題の特別調査委員長伊藤滋氏は、東大ア式蹴球部OBで、駒沢陸上競技場などの設計者高山英華氏の弟子筋にあたるそうです。父親は作家の伊藤整

これでサッカーにつながってしまいましたね。

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鳥取県のサッカー部史、協会史

鳥取県図書館横断検索による。

特に見当たらず。

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和歌山県のサッカー部史、協会史

コンソーシアム図書館蔵書検索による。

高校

『新宮高校サッカー部75周年記念』〔新宮高校サッカー部後援会〕〔編〕 〔新宮高校サッカー部後援会〕 1997 1冊 30cm

『五十年の歩み』 和歌山県立串本高等学校サッカー部OB会編 南昭 2000 146p 30cm


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八百長の語源となった人物の死亡記事が讀賣新聞にありました

「相撲社会の名物男死す」『讀賣新聞』1901(明治34)年10月4日付

相撲社会の名物男死す

東京相撲社会で有名な八百長事斎藤長吉(七十一年)は一昨日午後南葛飾郡寺[?]村の縁者を訪ね同家の門口で車から下りる時ウンと一声叫んだまま死去した。同人は以前呼出しであって後太鼓の方に廻されたが太鼓は朝が早いので大儀だとて近年木戸の方に替って余暇ある時は二期大場所の土俵を仲間なる新宿の千代吉と両人して製造するのが勤だ。同人は元回向院前に住居して八百屋を営みし故同社会で単に八百長と呼来った。八百長の囲碁は初段に五六目位を打ち先代伊勢の海太夫より四五目は大丈夫上手なのであるが両人勝負を争ふ時は互ひ先で伊勢の海へ勝を譲るので伊勢海は実地勝利を心得て居る。其処で同業社会では其場を胡魔化し甘く繕ふ事を八百長と言て居る。近年は回向院内の水茶屋島屋と呼ぶが住宅であったが先頃新宿千代吉が死亡したので八百長は非常に落胆して居たから千代が淋しがって迎ひに来たのであらうと年寄九重は真面目で話した。”

元八百屋の長吉は呼出で、有力者の伊勢の海親方に囲碁でわざと負けてゴマスリしていたのが、相撲界内で「其場を胡魔化し甘く繕ふ事」を八百長という業界用語となり、それがさらに一般社会に普及したようです。八百長は実在の人物で、没年月日は1901(明治34)年10月2日ということになります。辞書などには「八百屋の長兵衛」となっていることが多いようですが、本記事では長吉です。

なお、ヨミダス歴史館を「相撲 and 八百長」で検索すると明治時代だけで10件あり、

1 1891.01.21 引き分け相撲の続く小錦と八幡山に八百長の噂 老妓との仲も話題に 朝刊 スポーツ 3    
2 1891.01.25 小錦八十吉、一時廃業の危機 高砂親方が疑惑の引き分けに激怒し面責 朝刊 スポーツ 3  
3 1891.06.10 小松山と笹島の引き分け相撲 検査役に取り直しの理由を聞く 朝刊 スポーツ 3    
4 1901.10.04 相撲社会の名物男「八百長」死す 朝刊 スポーツ 4    
5 1902.01.29 相撲だより 地方興行の成績も給金、番付に反映、八百長、纏頭の悪評に対処ほか 朝刊 スポーツ 4    
6 1909.02.08 三面時事 東京市の在住者162万人▽相撲常設館落成、協会大改革へ、ほか 朝刊 社会 3
7 1910.01.24 日露の回答に米国失望▽ウラジオ在留排日韓人が日本に 大官刺殺目的と帰客談 朝刊 アジア 2    
8 1910.01.30 板垣退助伯が八百長相撲に訓示、広がる波紋 朝刊 社会 3    
9 1910.05.12 大相撲こぼれ話 初日は延期せず▽八百長には厳罰▽場所前の実力診断、ほか
10 1911.02.14 大相撲8日目雑観 太刀山がペテン立ち合い▽困った八百長▽行司吉之助が死去

てな具合です。 東京朝日新聞時代の中野正剛と下村宏(海南)も明治・大正時代に相撲が八百長であることを前提にした文章を書いています。→八百長相撲

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奈良県のサッカー部史、協会史

県内図書館蔵書横断検索による。

サッカー協会

『地域へそして世界へ 奈良県サッカー協会創立50周年記念誌』 奈良県サッカー協会 2001 120p 30cm

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兵庫県のサッカー部史、協会史

兵庫県内図書館横断検索日本サッカー・ブック・ガイドによる。

高校

『サッカー部のあゆみ』サッカー部のあゆみ編集委員会編 兵庫県立芦屋高等学校サッカ−部OB会 1980 255p 27cm

『神戸一中蹴球史』河本春男編 神中蹴球倶楽部 1937 274p 23cm

『ボールを蹴って50年』神中サッカークラブ編 神中サッカークラブ 1966 312p 22cm

大学

『甲南大学体育会サッカー部創部50周年記念誌』甲南大学体育会サッカー部OB会編 甲南大学体育会サッカー部OB会 2002 380p 31cm

『関西学院大学蹴球五十年史』関学大蹴球五十年史編集部編 関西学院大学蹴球後援会 1969 143p 21cm

『神戸大学サッカー部史』田中征五編 凌霜サッカークラブ、神戸大学サッカー部 1967 80, 16p 25cm

『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』御影蹴球団編 御影蹴球団本部 1967 73p 23cm

クラブ

『神戸少年サッカースクール二十年の歩み』神戸少年サッカースクール編 神戸フットボールクラブ 1985 80p 19 x 26cm

『みさきフットボールクラブ10周年記念大会誌』 岡本勇 1987 52, 56p 26cm

サッカー協会

『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』兵庫県サッカー協会70年史編集委員会編 兵庫県サッカー協会 1997 445p 31cm

『姫路市サッカー協会創立50周年記念誌』姫路市サッカー協会創立50周年記念誌編集委員会編 姫路市サッカー協会 1997 120p 30cm

その他

『神戸ア式蹴球奮闘史』棚田真輔著 神戸スポーツ研究会 1991 258p 21cm

『兵庫県におけるア式蹴球の史的研究』棚田真輔著 神戸商科大学経済研究所 1991 258p 21cm


 

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『坊ちゃん』に反映された夏目漱石と嘉納治五郎の出会い

漱石が帝国大学を出て就職したのが東京高等師範学校でその校長が嘉納治五郎でした。漱石の『処女作追懐談』によれば、漱石と嘉納の出会いは以下のとおり。

“話が自分の経歴見たようなものになるが、丁度(ちょうど)私が大学を出てから間もなくのこと、或日外山正一氏から一寸(ちょっと)来いと言って来たので、行って見ると、教師をやって見てはどうかということである。私は別にやって見たいともやって見たくないとも思って居なかったが、そう言われて見ると、またやって見る気がないでもない。それで兎(と)に角(かく)やって見ようと思ってそういうと、外山さんは私を嘉納さんのところへやった。嘉納さんは高等師範の校長である。其処(そこ)へ行って先(ま)ず話を聴いて見ると、嘉納さんは非常に高いことを言う。教育の事業はどうとか、教育者はどうなければならないとか、迚(とて)も我々にはやれそうにもない。今なら話を三分の一に聴いて仕事も三分の一位で済(す)まして置くが、その時分は馬鹿正直だったので、そうは行かなかった。そこで迚も私には出来ませんと断ると、嘉納さんが旨(うま)い事をいう。あなたの辞退するのを見て益(ますます)依頼し度(た)くなったから、兎に角やれるだけやってくれとのことであった。そう言われて見ると、私の性質として又断り切れず、とうとう高等師範に勤めることになった。それが私のライフのスタートであった。”

嘉納が教育と教育者についてご高説を述べ、漱石がそんな大変な仕事はとても務まらないと辞退した体験は、『坊ちゃん』に以下のように反映されています。

“教員が控所(ひかえじょ)へ揃(そろ)うには一時間目の喇叭(らっぱ)が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、追々(おいおい)ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑(の)み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲(むてっぽう)なものをつらまえて、生徒の模範(もはん)になれの、一校の師表(しひょう)と仰(あお)がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及(およ)ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々(はるばる)こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩(けんか)の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇(やと)う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘(うそ)をつくのが嫌(きら)いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断(こと)わって帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから財布(さいふ)の中には九円なにがししかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。惜(お)しい事をした。しかし九円だって、どうかならない事はない。旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底(とうてい)あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇(おどさ)さなければいいのに。”

なお、“月給四十円”というのは漱石の高師時代の給料で、漱石は松山中学ではその倍の80円貰っていました。赤シャツのモデルの帝大出の理学士も80円、高師出の狸校長のモデルは60円でした。ヒラ教師の漱石の方が高師出の校長より給料が高かったのでした。こうした中学校における大学出と非大学出の待遇格差、高師教員の待遇の低さが、大正時代における高師の大学昇格運動の背景にあったのです。

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