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1984年当時の日本サッカーリーグ(JSL)1部社会人チームの創部の経緯

はじめに

1984年当時の日本サッカーリーグ(JSL)1部10チームのうち、クラブ系チームの読売クラブを除く社会人系9チームの創部の経緯を調べてみた。情報源は部史と『サッカーマガジン』1984年10月~1985年7月号に連載された「日本リーグ強豪の歴史」。おおむね、本社の大卒ホワイトカラーが創部・発展にかかわっており、広島御三家(広島一中、広島高師附中、修道中)や刈谷中など戦前からのサッカー名門校でかつ進学校の出身者が目立つ。

三菱重工 岡野良定(広島一中→広島高→京大)
日立製作所 高橋英辰(刈谷中→早大)
ヤンマー 古川能章(広島高師附中→早大)
フジタ工業 藤田正明(修道中→早大)

なお下記9例中Jクラブ化しなかった本田技研と日本鋼管は他とは異なって本社系チームでなく、事業所(工場)系チームであった。プロ化プロセス(Jリーグの形成)が単なるサクセス・ストーリーとしてだけではなく、サッカーが社会人スポーツとしては特殊な本社系スポーツであったこととの関係が再検討されるべきではないだろうか。

なお、本記事の作成において、所蔵資料の閲覧について蹴球亭さまに格別の配慮をたまわりましたことを感謝いたします。

古河電工

『古河電工サッカー部史 : 日本サッカー界の礎を築いた人たち』古河電工サッカー部史刊行委員会編 古河電工サッカー部OB会 2004 より。

“本社サッカー部の流れを振り返ると、初代部長となったのが昭和十二年入社の青木圭太郎だ。自己紹介があると、必ず「京都大学サッカー部卒」という一文を加えるほどのサッカー好きだった。その後、昭和二十六年にいったんは部長職を退いたが、三十三年にふたたび同職に就くなど、サッカー部の草創期を支えた人物である。

 青木圭太郎を部長に活動された草創期のサッカー部には、いろいろな形で選手が集められた。昭和十九年入社の西村章一に誘いをかけたのは山田尚だった。昭和十七年に入社したサッカーの専門家で、兵庫県の神戸二中出身。同じ二中の後輩が、西村章一だった。サッカーの経験がある人物を探していた山田尚が、西村章一に声をかけたのである。”(p.37)

“様子が変わってきたのは、昭和二十七年にサッカー部を強化する目的で二人の新入社員が入ったころからだ。ひとりは篠宮清、もうひとりは平川栄一である。ともに大学でサッカーをやっていた選手で、この両名がサッカー部強化のために採用した第一号の選手になる。”(p.39)

『サッカーマガジン』1984年10月号 p.110-113 より。

“古河電工サッカー部は、昭和九年から活動を開始した。が、当時は、まだ本格的にチームに力を注ぐということはなかった。

 古河の場合は、寧ろサッカー部よりもアイスホッケー部の方が実力的に全国レベルで上位にあり、会社も、両者の比重として、アイスホッケーに重きを置いていたのである。

 サッカー部の進出は戦後だった。二代目監督、西村章一氏は当時をこう振り返る。

 「昭和二十六、七年でしょうか、本格的にやっていた連中がはいってきまして、実業団でも一部に上がってきたんです。当時は、田辺が全盛で二十年代後半まで独走していました。古河が、サッカーに力を入れようと決めたのは、三十年ですね。中大から長沼がはいり、さらに内野、平木らがはいってきたわけです」

 しかし、当時は会社が力を入れるといっても、限度があった。

 「あらゆるアマチュア・スポーツがそうでしたが、就業時間内は仕事が優先でした。丸の内にある、日立、三菱も同じで、仕事が終わったあとよく皇居を走ったものです」(西村氏)

 戦後、ヤミでしかスパイクを買えない時代もあり、経済復興とともに、クラブ活動にも力が注げるようになってきた。古河の場合も同様で、戦後、一段落ついたところで、サッカー部もその形を表してきたといえるだろう。

 こうして、古河は昭和三十年にサッカー部強化のために、初めて人材を補強した。現日本協会専務理事・長沼健が、その第一号だった。この補強作戦がその後の日本サッカーの主流を大きく変えた。古河はその後も、内野(前監督)、八重樫(現富士通部長代理)、平木(現日本協会理事)、さらに、保坂等を加え、昭和三十五年に、天皇杯初優勝を飾ったのだった。これが日本サッカーのターニング・ポイントとなった。”(p.110-111)

日立製作所

『サッカーマガジン』1984年12月号 p.110-113 より。

“日立製作所のサッカーは戦前、茨城県の日立工場、水戸工場、多賀工場の選手が集まり、茨城日立と称したチームが非常に強かった。

 現在の日本リーグ総務指示で、日立製作所サッカー部の監督を三度に渡って務めた高橋英辰も、昭和十六年入社のときには、多賀工場に配属されている。

 話は前後するが、現在のサッカー部の前身である本社のサッカー部が結成されたのは昭和十四年のことだった。歴代のサッカー部長を務めた木谷満州男や林文二が中心となり、当初は同好会としてスタート。翌年、正式に部に昇格した。

 昭和十六年には第二次世界大戦が勃発、選手たちも次々に召集され、残った者で六人制サッカーなども行われたが、それもかなわない時代になっていった。

 戦後の復興に伴って、サッカー部も昭和二十一年に再スタート。翌二十二年には高橋英辰が多賀工場より転属され、新時代の幕開けとなった。当時は関東実業団リーグの三部にいた日立も、トントン拍子に一部へと上がっていった。

 同時に選手の駒も揃いはじめ、二十五年に東大から高橋敏彦、二十六年にはニューデリーで行われた第一回アジア大会の日本代表だった堀口英雄、松永碩(せき)の両選手、二十七年現在のサッカー部部長・松岡巌、二十八年三代目監督の鈴木徳衛がそれぞれ慶大から入社した。

 その鈴木氏は「当時は、既成の選手を集めてそのままチームにあてはめるようなチーム作りで、高校出の選手を育てるようなことはできなかったのですね」と振り返る。

 そして、これら大学出の好選手を揃えた日立は一気に全国のトップチームに成長した。しかしながら、どうしても破れない壁があった。その壁とは当時全盛を誇った田辺製薬で連続して実業団選手権決勝に進みながら、いずれも田辺の軍門に降った。「当時の田辺は全日本選手が多く、実力の差はかなりありました。それにうちはほとんど練習ができませんでしたから」(鈴木氏)

 当時、どこの会社でもそうだったように仕事が第一。とくに日立は現在まで一貫してその傾向が強く、単にサッカー部の発展だけを考えると、常に他チームに一歩遅れをとってきたように見える。高橋英辰氏も「昼休みに皇居を走ったり、階段の昇り降りをしたり、夜、家の周りを走るのも、いまと違ってジョギングブームなんてありませんから、大の男が夜中に走っていれば怪しまれるようなご時勢で、わざわざ犬を飼って走ったりしたものです」と苦笑する。

 昭和三十年、三十一年は選手の補強がなかったこともあり、四年連続準優勝だった実業団選手権でも好成績をあげることができなっかった。しかし、三十二年宮崎正義、三十三年脇川弘が入社、ついに実業団の覇権を握ることになる。

 三十三年の実業団選手権は、東京小石川サッカー場で行われ、連日雨にたたられながら決勝で古河を2-0と下しての優勝だった。

 「あのときは、当時部長だった永地(ながとり(ママ))さんが、湯島の旅館に合宿させてくれたり、全面的にバックアップしてくれまして、これは当時としては異例のことで、みんなの士気が高まりましたね。また田辺の力が落ちてきて、古河などの力がつく前のちょうど切れ目の時期で運も良かった。しかし、やはり非常に嬉しかったですね」(鈴木氏)

 三十四年には現副部長の服部幸太郎が早大から、耳野篤広が慶大から入社。翌三十五年には監督の座が高橋英辰から鈴木徳衛にバトンタッチされた。そして、島原で行われた実業団選手権では、八幡製鉄を破り、二度目の優勝を遂げた。

 監督就任早々の優勝を果たした鈴木氏は「私は三十五年四月に肝炎で入院しましてね。選手を引退したいと高橋さんに話すと、それなら監督をやれと言われました。しかし、実業団のころには体の調子も良くなり、結局全試合に出場しました。そんなことがあって、やはり一番印象に残っていますね」と語る。

 三十七年、現在の監督中村義喜、メキシコ五輪代表の鈴木良三が入社。この年初の海外遠征を行っている。ホンコン、マレーシア、タイ、ビルマを回って一勝一引き分け六敗の成績だった。

 三十八年は都市対抗で浦和クラブを下し初優勝、実業団、天皇杯は準優勝と当時の三大タイトルの全てに決勝進出を果たしている。

 東京オリンピックの年、三十九年には中大からテクニシャン野村六彦、大型GK片伯延弘を迎えた。国内有数のチームであることに揺るぎはなかったが、実業団選手権では前年に続いて八幡製鉄に決勝で敗れた。この年が最後になった実業団選手権だが、日立は実に十七回中七回準優勝という記録を残した。”(p.110-111) 

三菱重工

『サッカーマガジン』1984年11月号 p.110-113 より。

“三菱重工サッカー部は、戦前は一本化されておらず、各事業所ごとに当時としては当然ながら、勤務時間外に活動していた。昭和十四年にはベルリン・オリンピック代表の加茂が、十六年には岡野良定(現、三菱自工副社長、サッカー部部長)が入社している。

 戦禍が次第に広がり、当然サッカーどころではない時代に突入。戦後GHQ(連合軍総司令部)の方針で財閥解体が強行され、三菱重工は東日本重工、中日本重工、西日本重工に分割された。

 そんな背景の中で、神戸に本社を置く中日本重工の神戸造船所にチームが生まれ、そのチームを母体に二十六年、新三菱重工神戸として再建された。

 関西学院大学の選手を中心に強化を進め、三十年前後にはGK生駒(二代目監督)、FW井上、村田、北口らが加わり、チームらしくなってきたが、当時プレーイングマネジャーを務めていた岡野氏は「あのころは、毎年一人くらいしかはいってこなくて、高橋(英辰、現日本リーグ総務主事)のいた日立なんかによく負けたねえ」と当時を回想する。

 そして三十一年、東京・後楽園競輪場で行われた都市対抗に当時無敗を誇っていた田辺製薬を下して駒を進めた。

 「田辺に和田といううまい選手がおってね、ボクはこの男と試合中ケンカをしたんだ。しかし当時の都市対抗というのは、いまの野球の都市対抗と同じで選手を補強することができた。それでボクは彼に出場してもらおうと、三顧の礼をとってお願いしたんだ。そうしたらむこうも感激してね、よく頑張ってくれた」(岡野氏)

 和田の活躍もあり、新三菱重工は初めて全国的な大会で決勝に進出した。

 「決勝では、長沼(健、現日本協会専務理事)のいた東京クラブとやってね、長沼にチョコンと入れられて負けましたよ」(岡野氏)

 昭和三十三年、新三菱重工は本社を東京に移して三菱重工となった。都市対抗がメーンの野球部は、各地に残ったが、サッカー部は一本化され、本社に集約された。

 翌三十四年には二宮寛(三代目監督、現三菱自工欧州事務局長)が慶大から加入し、この年の実業団で準優勝を飾る。

 「あのときの実業団は、名古屋でやったんだが、ちょうど伊勢湾台風にぶつかって大雨でねえ、たいへんな試合でしたよ」(岡野氏)

 このころからチーム力は安定しだし、実業団で優勝こそできなかったものの常に上位を占めるようになった。

 「しかし、あのころは仕事との両立はあたり前で、試合や練習に出してもらうにも各職場の部長さんにお願いして、練習や試合に選手を出してもらったり、苦労しましたよ。二宮なんかは、練習が終わってからまた社に戻って仕事をしてましたね」(岡野氏)”(p.110-111)

ヤンマー

『ヤンマーサッカー部の歴史 1957~1993』「ヤンマーサッカー部の歴史」編集委員会 ヤンマーサッカー部OB会 2002 の「ヤンマーサッカー部の誕生」より。

“昭和22年、全国中学サッカー大会で広島県代表の広島高師付中(現広大付高)が優勝した。付中はそのあと博多での国体でも栄冠に輝いた。メンバーに卒業後、関学に進み、古河電工に入社、全日本でも活躍した長沼健がいた。長沼の守備位置はインナー。そのうしろ、ハーフバックに古川能章という選手がいた。

 古川は小柄だったが、得点能力もあり、2度の優勝にも貢献した。卒業後、早大に入った。当初は公式戦にもでていたが、足を痛め卒業時はマネジャーをしていた。29年、ヤンマーディーゼルに入社。営業企画課に配属された。

 市場調査も兼ねていたが、毎日が物足りなかった。「会社でサッカーはやれないか」という思いが日増しに強くなっていった。そのころヤンマーにはテニス、軟式野球、スキー部などがああったが、どれも同好会の域を出なかった。古川が描くヤンマーの運動部はそんな低いレベルのものではなかった。世界に通じるもの。もちろん全国レベルのものでないといけない。となるとサッカーしかなかった。同部で机を並べる同期生の澤田昭志と木村均も古川の考えに共鳴した。澤田は北海道大の出身でサッカー部ではゴールキーパーをしていた。木村は早大ではボデービルに力を入れ「元祖」といわれた。サッカーは高校(山口)でやっていた。3人は選手集めに乗り出した。

 思うような経験者などいるはずがなかった。若くて元気な社員に「サッカーをやらないか」と勧誘に回った。9人が仲間になった。それに古川ら4人、監督兼選手として河瀬浩正が加わり14人をサッカー部員として登録、会社に申請、活動が認められた。ヤンマーサッカー部はこうして誕生した。”(p.43-44)

『サッカーマガジン』1985年5月号 p.118-121 より。

“ヤンマーディーゼル・サッカー部は、昭和三十二年初代監督古川能章が中心となって発足させた。古川は広島高師付中(現広大付高)-早大と、インナーあるいはハーフバックとして鳴らした人で、広付中時代には、長沼健(現日本協会専務理事)らとともに全国優勝もしている。

 創部当時を振り返って、古川氏は「サッカー部ができた当時はほとんど素人ばかりで、人数も十五人くらいでした。グラウンドもなく、日曜に練習試合をやり、平日は梅田の材料置場で練習しました」と語る。

 三十四年には大阪実業団リーグに加盟し、公式戦に出場するようになる。このころになると、三十四年大石正明(尼崎工)、三十五年安達貞至、梶本道明(ともに関学)、三十七年鬼武健二(早大)、中川雄二(関学)、北野修司(甲南大)、三十八年山中昇(関学)、鈴木寛和(早大)など経験者も毎年のように入部するようになった。

 関学、尼崎工高の出身者が多かったため、両校のグラウンドを借りての練習もできるようになり、大阪リーグは毎年トントン拍子に上がり、三十八年には一部に昇格した。

 全国大会にも三十六年都市対抗、三十七年全国実業団大会に関西代表として参加。「都市対抗のときは、大阪予選で夏の暑い日にダブルヘッダーで、全住金、電々近畿と連勝したのですが、試合後相手チームの補強選手を次の試合にうちのチームで出てくれるように頼んだりしました。それに関西以外への遠征は初めてで、張り切って東京へ行ったのですが、一回戦で長沼や岡野のいた東京トリッククラブと当たりました。それが試合中停電になりましてね、しばらく待って再開しましたけど、結果は1-2で負けました」(古川氏)

 三十八年にも、全国実業団の関西代表になったのだが、山岡康人前社長の逝去で辞退。また同年、関西実業団選手権も優勝し、関西での地位を確立していった。”(p.118)

日産自動車

『サッカーマガジン』1985年7月号 p.110-113 より。

“日産自動車サッカー部の創立は、昭和四十七年である。すでに全国的なレベルで活躍していた野球部のほかにも、全従業員が応援できるスポーツをということで、将来性、底辺の広さなどからサッカー部の創立が決まった。

 当初は、鶴見工場の同好会を母体に、四十七年に入社の鈴木保(立大、現監督)、早瀬修二(東教大)の二人の大卒と十二人の高卒選手を加えてスタート。監督には、社内から浦和高校時代には全国優勝の経験があり、東大でも主将として活躍した安達二郎が就任した。

 この年所属した神奈川県リーグ二部はレベルに開きがあり難なく優勝、翌四十八年には永井利幸(明大)、今井孝雄(法大)、松本喜美夫(室蘭大谷)らを加え、県リーグ一部も順調に制した。しかし、関東社会人大会では準々決勝で電電関東に敗れ、関東リーグ入りに待ったをかけられた。

 この年、本格的に日本一を目指すチームを作るために外部から一流の指導者ということで前年ヤンマーを退社していた加茂周に白羽の矢がたった。

 「当時サッカーの現場からは足を洗って、スポーツ用品関係の仕事をしていたのですが、安達さんに熱心に誘われまして、また急いで日本リーグに上がらなくてもいい、じっくり長期的に日本一を、というチーム作りの考え方が自分の考えと一致していたので、引き受けることにしました」と、今季からは総監督となった加茂氏は、入社のいきさつについて語った。

 四十九年、正式に加茂監督が就任し、関学から中山知明、東教大から山出邦男(現コーチ)らを加え、県リーグはもちろん、関東社会人大会にも優勝、関東リーグとの入れ替え戦に自信を持って臨んだ。

 古河千葉を相手に第一戦はワンサイドゲームで進め、残り15分まで3-0とリード。ここで気の緩みが出て、2点を奪われたものの3-2で勝ち、昇格への自信は揺るぎなかった。ところが、第二戦は、やはり押しまくりながら、ことごとく逆襲で失点し、スコアの上では0-3の完敗を喫した。

 加茂総監督は、このときのことを振り返って、「日本リーグ二部くらいまでは楽に行けると思ってましたので、この負けはすごいショックでした。しかし、この敗戦はその後のためには貴重な糧になりました」と語る。

 思わぬつまづきにあった加茂監督は、チームを二つに分け、レギュラーチームは関東リーグ入りに全力を尽くし、サブチームは若手の育成に専念させた。このサブチームの指導のため前年まで主将を務めていた鈴木がコーチ専任となった。”(p.110)

ヤマハ発動機

『サッカーマガジン』1985年6月号 p.126-129 より。

“ヤマハ発動機が本格的にサッカー部をスタートさせたのは、昭和四十七年のことだった。当時の小池久雄社長を始めとする上層部の発案によるもので、親会社の日本楽器が野球部を持って都市対抗などで活躍しているという背景もあり、ヤマハもなにかメーンのスポーツをもってイメージアップを、という声があがった。

 それによって従業員の士気を高め、社内に活気を与えるという効果も考えられ、そしてサッカー王国静岡に社会人のチームがないということで、サッカー部創設が決定した。

 初代監督も務めた現サッカー部代表の荒田忠典重役(当時総務部長)を中心に環境作り、指導者探し。選手集めが行われた。地元関係者にも度々相談に行くうちに、“黄金の足”杉山隆一が三菱を辞めて静岡に帰ってくるといううわさを耳にした首脳陣は、さっそく杉山に接触した。

 「初めに声がかかったのは四十八年で、まだその年は三菱でやると決めていましたのでお断りしました」と杉山監督。しかし「その後も荒田さんが何度も訪ねて来られ、天皇杯で三菱が優勝したときにも国立で見ておられました。私は清水に帰って家業を継ぐつもりだったので、お手伝いならさせて頂くという返事をしました」(杉山監督)。

 日本リーグ、天皇杯優勝という花道を飾って静岡に帰った杉山だったが、待ち受けていたのはサッカー関係の依頼や相談ばかりで、家業(酒店)に専念するヒマもなく、やはりサッカーから離れられないという実感、ヤマハの熱意、さらに自分自身の監督業への興味もあり、四十九年五月、ついにヤマハサッカー部の監督を引き受けることになった。実質的にはこの決意こそがヤマハサッカー部の始まりといえるかもしれない。

 四十七年スタートのときは、社内の同好会のメンバーが主体だったチームも、会社が力を入れだすと、島田学園時代にはユース代表にもなった市川三雄、解散した日軽金の主力だった長谷川篤、四十五年度の全国高校選手権で準優勝した浜名高の主力だった沢柳光雄、大村嘉宣らが集まってきていた。

 また杉山と明大時代同期で、偶然広島の営業所で勤務していた藤田正博は、コーチ兼任で本社に呼び寄せられていた。

 そして四十九年には、現コーチの小長谷喜久男(明大)、現マネジャーの辻鎮雄(日体大)など大卒のプレーヤーも多数加わり、一応チームの体裁は整った。”(p.126) 

フジタ工業

『サッカーマガジン』1985年3月号 p.110-113 より。

“フジタ工業クラブ・サッカー部の始まりは、昭和四十二年、フジタグループの一つである藤和不動産の当時の社長、藤田正明氏の構想によるものだった。藤田氏は修道中(現修道高)-早大とサッカー選手として鳴らした人で、当時のサッカーブームの背景もあり、企業のイメージアップを狙ってサッカー部を作った。

 初代監督の黒木芳彦は、東洋工業で選手として活躍した後、母校の修道高監督を経て、先輩にあたる藤田社長を頼って藤和不動産に入社、チームをまかされた。そして四十三年、過去東洋工業で日本代表にも選ばれた石井義信をコーチに迎え、スタッフを整えるとともに安藤正俊(立教大)、脇洋一(同大)、吉田健二(山口大)ら大学での即戦力をはじめ十人の新人を加えた。これにそれまで同好会として活動していたチームから数人をピックアップして藤和不動産サッカー部がスタートした。

 栃木県那須高原に本拠地を置く構想になっていた藤和は、とりあえず栃木県リーグの四部に所属し、那須の施設が完成するまでの間、東京の仙川にある会社の寮の近辺で活動を開始、グラウンドを借り歩きながら練習。そして試合のたびに栃木まで出かけるという初年度であった。

 しかしながら、大学の準レギュラークラスを揃えた藤和は、栃木県リーグの四部チームでは、相手がいなく、一試合平均15得点の猛威をふるい全勝で優勝。強豪でも新加盟のチームは四部からという不合理を是正するために設けられた三部、二部、一部の最下位との入れ替え戦にも文句なしの勝利を収め、翌年の一部リーグ入りを決めた。

 四十四年には、佐藤喜一(水戸商)、小方静夫、池田陽二(ともに広島工)ら高校出の有望選手を集めた。佐藤は後に東京で行われるユース大会に日本代表として出場したストッパー、小方、池田は日本リーグで活躍した荒井公三(古河)、小原秀男(マツダ)、河本博(新日鉄)らと広島工時代同期で、ともにコーチを受けた石井を親って[ママ]藤和に加わった選手たちである。”(p.110-111)

本田技研

『サッカーマガジン』1985年4月号 p.110-113 より。

“本田技研サッカー部が、日本のトップをめざすチームとしてスタートしお他のは、昭和四十六年のことである。それ以前にも浜松工場の浜友会、埼玉工場の明和会など各事業所単位で同好の士を集めたサッカー部は活動していた。そして浜松に日本リーグをめざすチームを作るということで、現在のチームの母体となったのは浜友会のサッカー部だった。

 浜松にサッカー部を作るという構想が持ち上がったのは、社員に共通の話題を提供する事によって、社員の意識を強化し、士気を高めることにあった。これは埼玉の野球部がすでに実績をあげており、鈴鹿工場でもそれにならって野球部が設立されていた。

 浜松でも当初、野球部をという声もあったが、すでに埼玉と鈴鹿に野球部があること、そしてなによりも静岡という土壌を考えサッカーに決定された。まず監督保崎昌訓、主将望月修司という浜友会のメンバーを中心に、四十六年春新入社の西ヶ谷豊、大河原伸一、小林勝(以上日大)、石井均、稲葉勝男、小林要(以上日体大)ら関東大学リーグの経験者を大量に加えたチームで、それまで浜友会が所属していた静岡県リーグ二部西部リーグからスタートした。”(p.110)

日本鋼管

『サッカーマガジン』1985年2月号 p.110-113 より。

“昭和七年、神奈川県川崎市にあった赤レンガ作りの日本鋼管事務所の前で同好の士が集まり、ボールをけり始めたのが鋼管サッカー部のルーツであった。

 翌八年には、後に監督も務めた津村信正が慶大から入社、対外試合も行うようになる。この頃の相手はもっぱら横浜の外人クラブだった。

 昭和十年には、会社にも認められ、日本鋼管サッカー部として関東実業団リーグに加盟、十三年に一部に上がった。現社長の金尾実氏もこの頃サッカー部のメンバーだった。

 昭和十六年には、片岡次夫が入社している。片岡は戦後、監督、総監督としてチームが日本リーグにはいるまで、面倒を見た人物。明治薬専を卒業し、五年間薬剤師としての経験を持つ変わり種でもあった。”(p.110)

“片岡が、プレーイングマネジャーを務めながら、二十六年手塚健一郎(鎌倉学院高)、二十七年竹村信治(立教大)、二十八年早川純生(東大)らが入部してチームの形が整った。二十七年には、仙台で行われた国体で三位になっている。”(p.110)、
“三十一年には、メルボルン・オリンピック代表の高森泰男が入部。高森は当代随一のフルバックで、キック力と激しいタックルは天下一品だった。高森の激しいサッカーは、のちに鋼管のチームカラーになるほどの影響を与えた。この年の全国実業団は、東洋工業が田辺六連覇の牙城を崩して優勝を遂げたもだが、鋼管はこの東洋に準決勝で敗れ三位になった。”(p.110-111)

“三十五年、中大黄金時代の中心選手だった千田進、三十七年立大のエース田中久が入部し、高森がプレーイングマネジャーとなって、チーム力では全国でも五指にはいるものを持っていた。

 三十九年日本リーグ発足に際し、鋼管にもリーグ加盟の話があったのだが、会社の状況が芳しくなかったこと、バレーボール、バスケットボール、野球に会社が力を入れていた背景もあり、発足メンバーに名を連ねることは見送られた。”(p.111)

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