ヤンマーサッカー部創部の経緯②
『サッカーマガジン』1985年5月号 p.118-121 より。
“ヤンマーディーゼル・サッカー部は、昭和三十二年初代監督古川能章が中心となって発足させた。古川は広島高師付中(現広大付高)-早大と、インナーあるいはハーフバックとして鳴らした人で、広付中時代には、長沼健(現日本協会専務理事)らとともに全国優勝もしている。
創部当時を振り返って、古川氏は「サッカー部ができた当時はほとんど素人ばかりで、人数も十五人くらいでした。グラウンドもなく、日曜に練習試合をやり、平日は梅田の材料置場で練習しました」と語る。
三十四年には大阪実業団リーグに加盟し、公式戦に出場するようになる。このころになると、三十四年大石正明(尼崎工)、三十五年安達貞至、梶本道明(ともに関学)、三十七年鬼武健二(早大)、中川雄二(関学)、北野修司(甲南大)、三十八年山中昇(関学)、鈴木寛和(早大)など経験者も毎年のように入部するようになった。
関学、尼崎工高の出身者が多かったため、両校のグラウンドを借りての練習もできるようになり、大阪リーグは毎年トントン拍子に上がり、三十八年には一部に昇格した。
全国大会にも三十六年都市対抗、三十七年全国実業団大会に関西代表として参加。「都市対抗のときは、大阪予選で夏の暑い日にダブルヘッダーで、全住金、電々近畿と連勝したのですが、試合後相手チームの補強選手を次の試合にうちのチームで出てくれるように頼んだりしました。それに関西以外への遠征は初めてで、張り切って東京へ行ったのですが、一回戦で長沼や岡野のいた東京トリッククラブと当たりました。それが試合中停電になりましてね、しばらく待って再開しましたけど、結果は1-2で負けました」(古川氏)
三十八年にも、全国実業団の関西代表になったのだが、山岡康人前社長の逝去で辞退。また同年、関西実業団選手権も優勝し、関西での地位を確立していった。”(p.118)
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