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三菱重工サッカー部創部の経緯

『サッカーマガジン』1984年11月号 p.110-113 より。

“三菱重工サッカー部は、戦前は一本化されておらず、各事業所ごとに当時としては当然ながら、勤務時間外に活動していた。昭和十四年にはベルリン・オリンピック代表の加茂が、十六年には岡野良定(現、三菱自工副社長、サッカー部部長)が入社している。

 戦禍が次第に広がり、当然サッカーどころではない時代に突入。戦後GHQ(連合軍総司令部)の方針で財閥解体が強行され、三菱重工は東日本重工、中日本重工、西日本重工に分割された。

 そんな背景の中で、神戸に本社を置く中日本重工の神戸造船所にチームが生まれ、そのチームを母体に二十六年、新三菱重工神戸として再建された。

 関西学院大学の選手を中心に強化を進め、三十年前後にはGK生駒(二代目監督)、FW井上、村田、北口らが加わり、チームらしくなってきたが、当時プレーイングマネジャーを務めていた岡野氏は「あのころは、毎年一人くらいしかはいってこなくて、高橋(英辰、現日本リーグ総務主事)のいた日立なんかによく負けたねえ」と当時を回想する。

 そして三十一年、東京・後楽園競輪場で行われた都市対抗に当時無敗を誇っていた田辺製薬を下して駒を進めた。

 「田辺に和田といううまい選手がおってね、ボクはこの男と試合中ケンカをしたんだ。しかし当時の都市対抗というのは、いまの野球の都市対抗と同じで選手を補強することができた。それでボクは彼に出場してもらおうと、三顧の礼をとってお願いしたんだ。そうしたらむこうも感激してね、よく頑張ってくれた」(岡野氏)

 和田の活躍もあり、新三菱重工は初めて全国的な大会で決勝に進出した。

 「決勝では、長沼(健、現日本協会専務理事)のいた東京クラブとやってね、長沼にチョコンと入れられて負けましたよ」(岡野氏)

 昭和三十三年、新三菱重工は本社を東京に移して三菱重工となった。都市対抗がメーンの野球部は、各地に残ったが、サッカー部は一本化され、本社に集約された。

 翌三十四年には二宮寛(三代目監督、現三菱自工欧州事務局長)が慶大から加入し、この年の実業団で準優勝を飾る。

 「あのときの実業団は、名古屋でやったんだが、ちょうど伊勢湾台風にぶつかって大雨でねえ、たいへんな試合でしたよ」(岡野氏)

 このころからチーム力は安定しだし、実業団で優勝こそできなかったものの常に上位を占めるようになった。

 「しかし、あのころは仕事との両立はあたり前で、試合や練習に出してもらうにも各職場の部長さんにお願いして、練習や試合に選手を出してもらったり、苦労しましたよ。二宮なんかは、練習が終わってからまた社に戻って仕事をしてましたね」(岡野氏)”(p.110-111)

日本サッカーリーグ時代以降については「三菱重工サッカー部」(Wikipedia)

神戸造船所のチームとして創部、創部時代の中心人物は岡野良定(広島一中→旧制広島高校→京大)。

浦和レッズの発祥の地は神戸で、部を作ったのは広島県人、ということになります。野球部が各事業所に残されたのに、サッカー部が本社に集約されたのは、おそらくサッカー部は大卒ホワイトカラーが主力だったからではないか、と思います。

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