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明治時代の4:3:3

高橋忠次郎著『実験普通遊戯法』(榊原文盛堂 1901-2)のフートボールのフォーメーションは4:3:3になっています。図だけでなく本文も後尾班4人、中央班3人、先頭班3人になっています。

トータル・フットボールの発明者は1970年代のオランダ人、リヌス・ミケルスではなく、20世紀初頭の日本人、高橋忠次郎だったのです!

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佐渡紀行

今年はまだ船に乗ってないので、塩分補給に佐渡に行ってきました。

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東京発9:12のとき313号は新潟までノンストップ。

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新潟の山間部はまだ雪景色

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駅から佐渡汽船乗り場まで歩けないこともないのですが、小雨だったのでバスで行きます。

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12:45発おおさど丸まで時間があるので、朱鷺メッセの展望台に(無料)。おおさど丸入港中。

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新潟は河と橋の町

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ビッグスワン。新潟県は東北電力圏内だったんですな。

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展望台に願掛け札コーナーがありました。「震災復興」系が多かったのですが、中にはこんなのも。このチームは果たして「復興」するのでしょうかw

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無駄に広い感じの朱鷺メッセ。フットサルコートがたくさん取れそう

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乗船

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佐渡汽船名物「禁酒室」。以前乗船したときは午前中でも「できあがってる」オッチャンが大勢いました。

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2時間半の航路ですが、売店、レストランともフル営業。食堂車がレッドデータ化した現在、貴重な供食サービスです。磯海苔ラーメン800円。

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反航する船。

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姫崎灯台。

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両津港に接岸します。

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おおさど丸。

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雨が本降りになってきたので、宿へ直行。泊まった部屋の窓の真ん前が佐渡汽船の航路です。

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1泊2食7500円の割りに良かった夕食。

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翌朝は快晴だったので、宿から港まで歩いていきます。

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桜が満開です。

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佐渡出身の北一輝、玲吉兄弟の碑。

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両津の町の裏側は加茂湖という汽水湖で、牡蠣の養殖筏があります。

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加茂湖と海をつなぐ水道。

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帰りはおけさ丸

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天気がいいのでデッキで過ごしました。

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万代シティバスセンターから高速バスで池袋へ。越後川口SAの展望台から見た魚野川。

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「日本陸上競技連盟創立」『日本陸上競技連盟七十年史』より

日本陸上競技連盟創立

 1925(大正14)年3月8日、全日本陸上競技連盟が創立された。それは陸上競技のみならず、日本のスポーツ史を飾る画期的な快挙であった。

 陸連の結成は、1911(明治44)年以来日本のスポーツを専制的に支配統制してきた大日本体育協会(体協)の民主的改革につながり、しかもその民主化運動の先頭に立ったのは早慶明3大学の陸上競技部員であった。

 1911(明治44)年7月、日本初代のIOC(国際オリンピック委員会)委員、嘉納治五郎によって創立された体協は、1912年ストックホルムの第5回オリンピックに日本初参加を実現し、陸上競技に2人の選手を派遣したが、その後体協の運営に当たった役員は東京帝大(東大)や東京高等師範学校(高師)の出身者が大半を占め、陸上競技をはじめ、水泳、スキーなど、明治末期から日本で発達してきたスポーツを直轄支配していた。

 私学のスポーツ関係者はこれに批判的であったが、1924(大正13)年、パリの第8回オリンピックに派遣する陸上競技の選手・役員の人選に対して、大学関係者の体協非難は頂点に達した。

 早慶明3大学の陸上競技部員は、4月23日午後7時から慶大に集合し、「不徹底極まりなき大日本体育協会の改造を期す」として、次のような決議文を発表した。

「第6回極東大会2次予選大会において将来は反省するとの契約があるにもかかわらず、その後いささかの改革の実を認めず、かえって大日本体育協会の不遜不敗を認む。吾人は多年大日本体育協会の不公平なる屈辱に忍従し来たれり。しかるに今日ついに体育協会の根本的な大改革案を掲げて奮起するのやむなきに至れり。事態ここに至りしは、けだし当然の趨勢にして、吾人今日の提案は真に日本運動界の発達進運に貢献するの大なるものたることを信ず。よって決議す。
 ①不徹底極まりなき大日本体育協会の改造を期す。②吾人の正義絶叫に対し要求をいれられざるときは、断固として初志の貫徹に努め、今後いかなる理由あるも体育協会主催の競技会ならびに会合には一切参加出場せざることを決議す」

 その夜遅く代表者が決議文を手渡すため、岸清一体協会長を芝伊皿子の私邸に訪ねたが、就寝中で面会を断られ、翌日京橋の体協事務所へ持参したが、面会した辰野保理事は、体協役員は数日後に迫ったパリ・オリンピックへの出発準備で、協議の時間がないという理由で、決議文の受取りも拒んだ。

 3大学側は、体協に誠意がなく、このうえは体協と絶縁するほかないと決意を固めた。全国学生競技連盟の加盟高のうち、農大、中大、法大、東大農学部実科、立大、慈恵、拓大、日医、日歯、横浜高専の10校は、3大学の決議に賛成して同一行動をとることを決定した。

 この年の秋、新設の明治神宮外苑競技場で、内務省主催の第1回明治神宮体育大会が開催された。しかし、大会の陸上競技の運営に当たったのは、依然として体協役員だったので、13校は結束して大会参加を拒否した。

 一方、13校以外の東大、高師、一高、学習院、青山学院、水戸高、浦和高の7校は、13校決議の趣旨に賛成するが、神宮大会は体協主催ではなく、内務省主催で明治天皇をしのぶ大会であるから、参加拒否は過激であるとして、大会には出場した。

 後にこの問題が「13校7校問題」といわれるゆえんだが、このため全国学生競技連盟も解体同然の状況に陥った。

 パリ・オリンピックでは、体協が国際陸連(IAAF)に加盟を申請したのに対抗して、満州体協の岡部平太が、地方体協有志を代表して「全日本陸上競技連盟」を名乗り、IAAFに加盟を申し込んだ。しかし、IAAFは体協に陸上協議組織の実績が」あるとして、体協の加盟を承認した。

 このとき、独自の服装と直立走法で、金栗四三の向こうを張り「マラソン翁」といわれた愛知一中の校長日比野寛も、岡部平太の同志に加わっていた。

 パリから帰国した体協会長岸清一は、体協改革を主張する学生運動とこれを支持する世論にショックを受け、ついに体協を競技別団体の加盟組織とすることを決意し、東大教授(労働法)で水泳の代表役員だった末広厳太郎を委員長とする「改造案起草委員会」を設け、その答申を受けて、競技別全国組織(競技団体)を加盟団体とする新規約を作成し、新生体協が成立した。

 陸上関係者は体協組織に対応する全国組織の結成について協議を重ねていたが、1924(大正13)年12月21日、まず関東陸上競技協会が生まれ、翌年2月21日に名古屋市の名古屋ホテルで、関東陸協、大阪、奈良、熊本、松江の体協役員20人が出席して、全日本組織の規約案を協議した結果、「本連盟は全日本陸上競技連盟と称し、本部を東京に置く」以下の規約を決定し、3月8日に東京日本倶楽部で創立総会、4月18日に神宮競技場で発会式を行った。

全日本陸上競技連盟規約

(略)

第3条 本連盟ハ前条ノ目的ヲ達スルタメニ左ノ事業ヲ行ウ
 1 毎年1回陸上競技選手権大会ヲ開催ス
 2 国際競技派遣選手予選会ヲ開催ス
 3 前2号ノ大会開催ノ場合ハ本連盟ノ名ヲ以テ選手役員設備等ヲ考慮シ、本連盟加盟団体交互ニ行ウヲ以テ原則トス、但シ開催地ハ2年前ノ予告ヲ以テ之ヲ決ス
 4 陸上競技ニ関スル指導奨励
 5 陸上競技ニ関スル調査研究
 6 其他本連盟ノ目的ヲ遂行スル為必要ナル事項

(略)

 全日本陸上競技連盟の誕生は、日本におけるスポーツ組織の民主化成功を告げるものであった。民主革命の原動力となったのは、まさに若い力と情熱であった。

 陸連創立と同じ年の4月「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、翌年から中学校以上大学まで軍事教練が正科となり、軍国主義教育が公然と体育科教育に浸入した。

 さらに文部省は、「学生の思想善導のため体育運動競技を奨励する訓令」を出し、併せて大学高校生の社会科研究を禁止した。内務省の治安維持法と同時進行である。

 このような情勢の中で、体協の民主化を推進し、そのために内務省が主催する明治神宮大会をボイコットした13校学生の自治精神は、衰えることなく次代に継承された。

 1928(昭和3)年に創立した日本学生陸上競技連合は、その規約に「本連合は独立学生自治団体にして、その規約によりてのみ支配せらるるものとす」と明記して、あらゆる政治的・商業的・宗教的弾圧に抵抗する姿勢を明らかにしたのである。 (川本信正)”(p.153-155)

規約の第3条に

1 毎年1回陸上競技選手権大会ヲ開催ス
2 国際競技派遣選手予選会ヲ開催ス

があり、①日本選手権の開催、②国際大会日本代表の選考が陸連の主要機能と考えられていたようです。陸上競技の場合、この2つは体協が直轄していました。

1921年に誕生した大日本蹴球協会は1921年から日本選手権(現在の天皇杯)を主催し、1923年第6回極東選手権では協会が代表を選考しています。これは体協にサッカーに口を挿むほど関心のある人がおらず、体協がJFAまかせにしたものと考えられますが、サッカーは他の競技に先んじて体協から独立した競技団体としての先行モデルであったともいえます。

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鳩山一郎のサッカー観「最も理想的なシステム 蹴球」

鳩山一郎は1932(昭和7)年の野球統制令発令時の文部大臣であり、その著書『スポ−ツを語る』(三省堂 1932)でも野球を始めとして各種競技の統制に関してページを割いています。各スポーツに関してもかなり通暁しており、オープンなディビジョン制をとるサッカーを「理想的なシステム」として高く評価しています。

最も理想的なシステム 蹴球

 そこへゆくと、大学スポーツの制度として、一番早く、そして最も完全な体系を備へてゐたものが、僕はサッカー、即ち蹴球であらうと思ふ。野球もラグビーも、強チーム同志が自然に集まって、個々に対抗試合をやってゐたものが、段々膨大な機関となった結果、リーグ戦形式を採る様になったもので、例へば、野球など、いま東京に、かりに早・慶・明・法・立・帝以上の強い大学チームがあった所で、六大学のリーグ戦が頑ばって居る以上、なかなかそのお仲間入りが出来にくい。

 サッカーは、大正十三年に東都大学専門学校連盟、つまりインター・カレッヂ・リーグを拵へた。この組織方法が、また非常に合理的である。ABCD以下、各クラスを作って、その何れのクラスも校数を限る。Aクラスの最下位になったチームは、次の年Bクラスに陥落する。代って、Bクラスの首位チームが、Aクラスに新しく仲間入りする。以下、BCDEクラス、何れも之に準ずるから、実力なきチームで、徒らに空位を擁し、ゲームに惨敗し続ける様な不始末は決してない。

 関西にも、同じインター・カレッヂ・リーグがある。凡て、同じやり方である。昭和六年のシーズンから、関東、関西のナムバア・ワン同志が、東西リーグ代表者の対抗ゲームを行って、ここに名実相伴なふ日本の選手権を争ふ事にした。僕は、現在の学生スポーツの統制機関として、このサッカーが最も合理的であると思ふ。出来ない相談かも知れないが、東京の大学野球リーグなども、このシステムを採用したら、更に面白い結果が見られるであろうと信ずる。サッカーは、東京帝大が非常に強く、昭和三年以来、まだ一度も首位を他チームに譲った事がない。

 サッカーで、忘れる事の出来ぬのが極東大会である。支那は、他の競技が不振のどん底にある時代でも、蹴球だけはいつも強かった。日本は、大正六年、芝浦で開かれた大会以来、支那は元より比律賓にも、ずっと負け続けであった。辛うじて、始めて日本が比律賓を二対一で破り、初日を出したのが昭和二年、上海の大会である。そのうち次第に時を得て、この間、神宮競技場で開かれた極東大会には、比律賓を破り、支那と引分て、つひに一勝一引分同志が、選手権を保留する所まで躍進した。

 サッカーと同じく、苦く、くるしい思ひ出を持って居る競技が、バスケットとヴァレー・ボールである。大正十三年から、東京にもバスケット・ボールの大学リーグ戦が出来た。早稲田・立教・商大が、交るがわる優勝して来た。東京商大がスポーツで第一線に立つものと云へば、このバスケットとボートとホッケー位なものであらう。之も極東大会には、大正六年以来、一度も勝星を得たことがない。それを、昭和六年の大会に始めて支那を破り、比律賓に惜敗する所まで漕ぎつけた。

 バスケット・ボールは、女学校の団体競技として、全国的に普及されて居る。大正十三年、明治神宮競技大会の開催によって、一層この気勢は旺になった。ヴァレー・ボールも、女子の方は盛であるが、男子では、神戸商大が頭抜けて強いだけで、東京にもリーグ戦なく、極東大会では、これこそ全敗、まだ初日の出ぬ状態にある。”(p.128-131)

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岡部平太のイングランド・リーグ、1924年パリ・オリンピックサッカー観戦記

岡部平太の略歴とサッカー

岡部平太のイングランド・フットボール・リーグ観戦記 「英国の蹴球」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記① 「ア式蹴球開始」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記② 「伊太利対イスパニア」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記③ 「仏蘭西レトニアに勝つ」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記④ 「チェコスロバキア対瑞西」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑤ 「ウルガイ対米国」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑥ 「瑞西対チェコスロバキア」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑦ 「瑞典対埃及(塁手の神経)」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑧ 「決勝戦の壮観」『世界の運動界』より

岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑨ 「ウルガイ選手の話」『世界の運動界』より

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戦前の小学生サッカー大会に関する『朝日スポ−ツ叢書 第1 ホツケ−・ラグビ−・蹴球・籠球・排球』の記述

戦前の小学生サッカー大会については「関東少年蹴球大会(東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)の記録」と「豊島サッカー倶楽部主催全国少年蹴球大会に関する新聞記事」に記しましたが、それ以外にも大会があったことが、『朝日スポ−ツ叢書 第1 ホツケ−・ラグビ−・蹴球・籠球・排球』(東京朝日新聞社運動部編 朝日新聞社 1930)に述べられています。

“斯うした機会は度重って自然全国的にチームがチームが著しく増加し、諸所に中等学校大会が挙行され、一方、東西呼応してカレヂ・リーグが成立するといふ有様で蹴球界は興隆の一途を邁進する事になりました。この中に見逃せないのは少年蹴球の発達であります。就中、大正十一年に東京蹴球団が主催で東京朝日新聞社後援の下に関東小学校蹴球大会を開いたのが全国的にセンセイションを捲き起して今日では北に函館、南は広島と十数ケ所にこの種の大会が催されて、未来の大選手の卵である少年選手は頻りに活躍して、青年選手も及ばぬ妙技を示して観衆をアッと言はせて居ります。”(p.125)

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元祖なでしこ 女子サッカー事始め

原島好文著「ソッカー十年の思ひ出」『運動界』10巻4号(1929年4月)p.36-45に、女子サッカーについて以下の記述があります。

“その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。長岡君の紹介で入団したのだったらう。一人は丸顔一人は細面で一寸可愛い娘であった。二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。或日の東京日日新聞紙上に、絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。

 その二人をメンバーに入れて試合した。肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、相手の中学テームはさんざんに悩まされたことがあった。

 だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、噂だけはしばらく残して置いたが、今は誰かのお母様になってゐるだらう。”

新聞は東京日日新聞ではなく、東京朝日新聞で1921(大正10)年5月8日付。

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婦人蹴球の魁に
  起たんとする二女学生

    ―昨日豪雨中予選の蹴球見物―

つい此程東京蹴球団へ二女学生が入団を申込んだ。意外の事に一驚した幹部は種々研究もし相談もした揚句彼女等の希望は頗る真面目に競技を研究し婦人チームを組織したい目的だと判って入団を許した。両女は共に桜井女塾の生徒で本科一年生小笹浅子(十八)と阿部かね(十八)と云ふ性来の女ファンで極東大会の蹴球予選開始以来一日も欠かさず軽快な揃ひの洋装で豊島師範のグラウンドに詰めかけ昨日の如き土砂降を物ともせず熱心見物して居た。蹴球団の佐々木氏は『驚いたもので十四、五人婦人のメムバーも拵へ上げ先づランニングから初めてキックに進むなどと頗る科学的にやってゐる』と語った。”

桜井女塾はミッション系の英語教育が特徴の女子専門学校だったようです。「洋志向」の女性が入学したと思われますが、上記のファッションは当時(現在でも)目立ったに違いありません。

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岡部平太の略歴とサッカー

略歴

岡部平太(1891-1966)は、1891(明治24)年玄界灘に臨む福岡県糸島郡志摩村生、1908年福岡師範入学、1912年同卒業し久留米市の小学校教師となる。1913年東京高師体操専修科入学、講道館入門初段を相手に5人抜きで二段、翌1914年7人抜きで四段に昇格、嘉納治五郎に付いて各地で模範演技を行う。1916年高師体操専修科卒、同研究科に進学。1917年高師研究科を卒業、神戸の実業家内田信也の援助により米国留学、シカゴ大学のAmos Alonzo Stagg教授の指導の下、アメリカン・フットボール、バスケットボール、水泳、陸上競技を学ぶ。1918年ペンシルバニア大学で運動生理学、ハーバード大学で女子体育、スポーツ史を研究。

1920年帰国し、東京高師体操科講師となる。米国のプロレスラーサンテルと柔道の異種格闘技試合の開催をめぐって嘉納と対立、講道館を破門される。1921年内田信也のフィランスロピーで設立された水戸高校のグラウンドを設計、同校講師に就任。同年突然講師を辞任し、満鉄に入社。1922年満州体育協会を創設、理事長なになる。1923年欧米体育事情の視察に出発、1924年のパリ・オリンピックを観戦。

1925年全日本陸上競技連盟(陸連)結成、同年マニラで開催された第7回極東選手権の陸上競技監督となるが、同大会の審判トラブルで日本チームがボイコット、それを批判した体協と決定的に対立する。著書『世界の運動界』刊行。

1928年皇太子御成婚を記念した日仏対抗陸上競技大会を大連で開催。張作霖の親分の遺児馮庸と親しくなり、奉天の馮庸大学教授となる。

1931年満州事変勃発、馮庸を欧州に亡命させようとするが、馮庸は上海で下船し蒋介石と合流、岡部は関東軍に逮捕される。満鉄を退社、体育関係の職も辞す。

1937年北京国立師範大学体育科教授に就任。

1945年帰国、福岡へ帰郷。1948年福岡国体事務局長に就任、競技場の新設に奔走、新競技場を「平和台」と命名。

1950年「オリンピック・マラソンに優勝する会」を結成。1951年ボストン・マラソンに監督として初参加、田中茂樹が優勝。1952年福岡学芸大学(母校・福岡師範の後身)講師に就任、1955年教授となる。

1961年『年齢別にみた水泳のエネルギー代謝』で久留米大学より医学博士号授与。

伝記として『日本スポーツを救え : 野人岡部平太のたたかい』(田中館哲彦著 平凡社 1988)と『岡部平太小伝 : 日本で最初のアメリカンフットボール紹介者 : 附改訂版関西アメリカンフットボール史』(川口仁著 関西アメリカンフットボール協会フットボール史研究会 2004)の2冊がある。

上記に記したように、嘉納治五郎からは破門され、「体協の国際陸連加盟の経緯」で記したように、1924年パリでは体協に対抗してパリで即席の「全日本陸上競技連盟」(竹内広三郎も発起人に名を連ねている)を結成して体協の面子をつぶし、さらに1925年マニラ極東選手権ではボイコット事件を起こし、岸体協と決定的に対立する、まさにスポーツ界の「野人」であった。

サッカーとの関係

サッカーとの関わりは、日本が復帰した第5回上海極東選手権大会で、蹴球委員会の委員長(委員に山田午郎、吉川準治郎)に就任している。この時点で大日本蹴球協会は設立されておらず、サッカーも体協直轄で、岡部が責任者となった。同年設立された大日本蹴球協会では「委員」の一員となっている。

柔道出身だが、米国留学中に様々な競技、特にフットボール(アメリカン・フットボール)を体験しており、当時体協内で「蹴球」を担当できるのは岡部しかいなかったのではないだろうか。

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑨ 「ウルガイ選手の話」『世界の運動界』より

“ウルガイの小供に土産をもって行ってやるならば、蹴球のボールが一番喜ばれる。

 それ程ウルガイの者は子供の時から蹴球がすきだ。小学校の子供達は学校の帰り道、三十分位は野原であろうが、処かまわず球を蹴って遊がので、自動車の運転手泣かせといふ綽名をつけられて居る。十五六才になると必ず最寄りのクラブかティームに這入ってそこで選手になる。今度の優勝選手達もそうした連中で年齢は大抵十九から二十六位迄の間である。ウルガイでは外のスポーツも無論盛んであるが、フットボールは全くウルガイの国技であって銀行会社官庁、の連盟があり、大学には各部中学校、小学校に到る迄それぞれフットボールのティームを持たぬ処は殆んどないと云ってよい位である。今度の選手の学歴は皆小学校を終ったばかりのものが多い。大抵は店員をやって居る。大会の花形であった、黒人のアンドラーデはピアノの修繕屋をして居る。

 十二月二十一日から南米の夏が来る。三ケ月だけ蹴球のシーズンが休みになるが、他の季節は皆蹴球の季節である。ウルガイの人口は現在百十万であるけれ共田舎はあまり盛んと云ふ方ではなく首府のモンテビデオが最も盛んである。やって居るものの総数は二千人も居るだろう。其人数で、スエーデンの五万のプレーヤーに対せねばならなかった。

 モンテビデオには大きなスタデウムが三つ、中位のが十二あって不足はしない。其上優勝テームは必ず独占のスタデウムを作るといふ約束になって居るので年々其数は増して行く。政府も今度の勝利前はあまり熱心にやってくれず、今度の派遣にも補助金を貰えなかったが、優勝の報を得てから、急に乗気になった様だ。六月九日の優勝日を以て国祭日と定めたそうだ。

 スポーツの世界でも改造紛糾は免れぬものと見へる。ウルガイでも、ア式蹴球のフェデレーションと、アッソシエーションの二つに分立して居る。今度の選手は、全くアッソシエーションの方の選抜ティームで、若し両方が結合して選手を送って居たら、もっと強いティームになったかも知れぬ。

 南米に於ける、吾々の強敵アルゼンチンでもやっぱり同様の問題の為妥協が出来ず、政府の補助金が出ず遂に大会にやって来る事が出来なかった。

 ウルガイの蹴球の歴史は始まって丁度二十四年になる。1900年スコットランドからプールといふ人が来て、教へてくれた。其後英国のティームが模範試合に来たり、軍艦が来た時試合をやったりして居たが1910年から、アルゼンチンと国際競技をやり出した。1916年に南米全部のティームが集まって優勝試合をやった。アルゼンチン、ブラヂル、チリー、パラグワイ、ウルガイの五テームでウルガイが優勝した。

 1917年に再び優勝したが1919年には1対0でブラヂルに敗れ第二位になった。1920年と昨年優勝する事が出来た。

 ウルガイティームの強味は持久戦に慣れて居る事であった。南米ではタイムアップの時に同点であればそれから先は何時間でも打つ通しの試合をやって決して引分けと云ふ事をやらぬ。だから長時間のゲームには慣らされて居る。1919年の優勝戦には三時間の試合をやった。今度の試合の中、フランスとのゲームは実際を白状すれば最初の二十分迄は慥かに圧迫されて居て仏蘭西が有利であった。然しそれ以後仏蘭西は弱ってしまった。仏蘭西の時はあまりに相手を見縊った為油断した其かわり優勝戦には全力を挙げて闘った。やはり全試合を通じて、スイスが一番強かった。

 技術作戦に就いて別に詭計を弄する様な事は考へなかった。ただ練習中パスには重きを措いた。パスを重んずるといふ事は、ドリブルを重んずるといふ事である。パスはドリブルの延長である。それ故ドリブルの出来ない者はア式蹴球の選手としては資格ないものと思ふ。敵の防御線までは出来るだけ低く球を運びそれから強くシュートする。

 ホワワード、センターのペトローネは全くうまいプレーヤーである。今度のティームが編成されて満一年になるが、南米の選手権試合と国際的の試合を合せて、十七回の試合をした。其中、十六回の試合、に彼は必ずゴールした。そうして二十一点の得点をした。彼がスコーアーしなかった、ゲームはただ一回和蘭の試合があったばかりである。彼は国を出る時彼の父に誓って何の試合にも必ずゴールを入れると云って別れて来たので和蘭戦の後では其約束に違ったのを残念がって泣いて居た。”(p.296-299)

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑧ 「決勝戦の壮観」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

決勝戦の壮観
(朝日新聞電報)

六月九日 午後二時半、コロンボ競技場で第八回万国オリンピック大会のア式蹴球優勝戦たる、ウルガイ対スイスの試合及び第三位を決する、スエーデン対和蘭の試合が挙行された。恰も祭日の事とて観集殺到し六万人を越へ、満場立錐の余地なき迄の盛況を極めた。最初のスエーデン対和蘭の試合は八日1対1の成績で引分けとなり其後を承けて、再試合のこととて少なからぬ興味をそそり試合も白熱し満場を唸らせた。

 第三位決定戦
 瑞典 3 和蘭 1

 試合は前半戦に瑞典先づ2点を先取し優勢に見へたが、和蘭はペナルティー・キックで一点を挽回し戦はまた大接戦となった。後半戦に入り両軍必死の奮闘をつづけたが、タイムアップ前十分に瑞典又一点を入れて大勢を決し遂に3対1で瑞典勝ち、第三位となった。

 優勝戦の経過
 ウルガイ 3-0 瑞西

 ウルガイ対スイスの優勝戦は満場破れんばかりの拍手を受けつつ先づウルガイ軍入場しついで真紅に白十字のユニホームを著した、スイス選手入場し、戦前既に熱驚の極に達した。ウルガイは既に定評ある優勝候補ティームだが、瑞西も亦強敵、瑞典を破って益々其自信を強め、其奮闘も目覚しいものがあった。

 前半戦 ウルガイは開戦後僅かに一分にして前衛ペトローネ、巧みなドリブルの後ゴールシュートに成功し先づ一点を占め其後独特の水も漏らさぬ巧みなティームワークで常に敵のゴールを圧迫し容易に敵にチャンスを与へず、遂に1対0で前半戦を終った。

 後半戦 に入って戦は愈々息もつまる様な白熱戦となったが、 スイス方は常にチャンス少なく後半戦開始後二十分でウルガイの前衛、チェヤーは右翼よりのパスを受けゴールインして一点を加へた。 斯くて形勢既に決し従ってスイスが漸くあせり気味なるに反してウルガイは益々其妙技を発揮し試合終了前五分にコーナーキックを受けた前衛のロマノ更に一点を加へスイス最後の奮闘も甲斐なく3-0の成績でウルガイ遂に優勝した。

 やがて軍楽隊の国歌吹奏裡にウルガイ国旗は檣頭高く掲げられ光栄に満ちた十一人の勇士は場内を一周した。嗚呼勝者の誉れ。純真なるスポーツの感激に打たれた満場の観集は最早や国境もなく民族の差別もなくただ其栄へある優勝者に万腔の熱誠なる祝意を表するのみで拍手喝采鳴りもやまず流石の大スタンドも、ゆるがんばかり。軍楽隊の奏楽と共に、今次オリンピック大会開始以来未曾有の盛況を呈した。

 さあれ破れたる、スイス、ティームも亦誰一人として悪びれた様子なく、優勝者の後に従って場内を一周したのは敗者として見上げた態度であった。斯くて南米の一小邦ウルガイは斯界の強剛二十一ケ国のティームを蹴破し遂に世界の覇権を掌握したが、同ティームは全く欠陥を見出せない程整った立派なテームであった。”(p.292-296)

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑦ 「瑞典対埃及(塁手の神経)」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

“第二勝戦には瑞典と埃及が第一に打突かった。一はスカンヂナビヤの雪に鎖された処からやって来たティームで、一は砂漠に落つる夕陽の影長きナイルの岸から遙々遠征を企てたティームである。そうして実力はまだどちらも未知数とせられてゐるのであった。

 今日はボアの公園でテニスの練習に夢中になってゐたものだから郊外の遠いパーシング競技場に駆けつけた時は試合開始十分を過ぎ瑞典が既に一点を入れ、埃及が猛烈にスエーデンのゴールに迫って行く処であった。

 何ちらもティームワークは粗い。ボレーや塁蹴は高く揚って夏雲の中に這入った。三十分した頃瑞典はレフトより廻した球を右翼塁前にシュートしてまた一点を加へた。埃及のティームは個人個人の技量は相当であった。特に前衛間の連絡はよい。けれ共前衛と中衛の間に脈絡をかき、後衛の守備は極めて粗雑だった。右フルバックの大きすぎるストライドは最大の欠陥でそこで常に瑞典の左翼に球を取られた。左フルバックの黒人も痛快なキックはあるがモーションがわるくよく抜かれ常に同様の方法で得点された。即ち瑞典の左翼は走力を利してサイドを廻りそこから少し斜にゴールを越へて右翼に送る。右翼はそれを塁手の背後からゴールした。思ふに埃及は恐らく今日迄ハードゲームをやった事のない楽に勝って来たティームだらう。常に前衛戦だけで勝ち通して来たに相違ない。後衛及び塁手の技巧稚拙で、フルバックもハーフも圧迫され出すとすぐ塁前に集まって来て自らゲームを混乱に導いた。瑞典は相手の弱点を衝き、強大な体力で悠々と圧迫を続け乍ら5-0で勝った。

 僕はこのゲームを見乍ら、始終ゴールキーパーの神経といふ事を考へた。瑞典の得た五点の得点の中最初の一点は何うしてスコーアされたのか知らないが後の四点は若しその責任の所在を厳密に批評的に見るならば殆んど全部埃及の塁手の神経の遅鈍にあったと思ふ。よし形の上からは常に必ずしもさうでなかったとしても、事実上責任は全部塁手が負ふべきものと思ふ。

 元来塁手が塁を守る時、若し塁を離れて守備しようとすれば其の距離が遠ければ遠いだけ相手のゴールに対する蹴射角は縮められ、従って得点の率は少なくなる。其かわり若しドッヂングかパスされて抜かれたら相手の得点率は百分の百にまでなる危険性がある。又若し塁手が退いて守備に就く時は一歩二歩とだんだん退く程、蹴射角は開いて来てゴールの線上では九十度即ち百分の百の危険率となる。そのかわりにこの時塁手自身の身体を以て防ぎ得る守備の可能性は正比的に増して来る。この理論の適用は塁手の防御の技巧ではなくて寧ろ其神経の資質に対して要求せられる根本的のものであらねばならぬ。

 スポーツは何にかぎらず或一点に於ては必ずこの種の危険性を帯びてゐる。肉体的にか精神的にかこの危険の一線に対して冒険を企てる処にスポーツ本来の興味がある。即ちサイエンテフヒックに思慮し尽しても、もうこれより先は一歩も踰へられぬと感じた次の瞬間に俗に云ふ一か八か乗るか反るかといふ場合が残る。所謂クライシスに見舞はれた時である。そこは理屈ではない。寧ろ神経である。

 ア式蹴球にあって相手が味方の後衛線内に這入った時から塁手は常にこの危険と冒険に直面して居らねばならぬ。相手のシュートが成功した時其時の場面だけ見ると普通塁手には己を得なかった得点の様に見へる事がある。けれ共一歩深く衝き込んでそれ以前の経過を考へ、それに処する塁手の神経をまで批評的に見る場合には必ずしも得点出来ないといふ場面をも想像されるのである。塁手はペナルティーエレア内ではただ一人両手を使用する事を許されたプレヤーである。従って活動の範囲は前後上下、両側に対し最も広い。例へばコーナーから飛んで来た球に対し密集の中に其防御の効を全ふする事も判断である。然し密集に来る前に其最も広い活動力を以て飛び出してより安全に守り得るかも知れない。フルバックが抜かれた時前進すべきか退いて守るべきか其危機一髪の際に処する判断は全く塁手一人の天地で千萬語の理論だって何の役にも立たないであらう。そのかわりその塁手を資格づける厳正な批評はこの際に於ける塁手の神経にまで及ぶであらう。丁度ベースボールで遊撃手がゴロを掴んだ時、一塁に投げて万全を期するか二塁への走者を刺してダブルプレーの冒険に出づるか、そこには思慮が要る。而し思慮だけでは行かぬ神経が要る。鍛ひ練られた敏感にして強靭な神経が要るのである。

 この日コロンボでは巴里市民の熱烈な応援も其効なくフランスティームは遂に強敵ウルガイに5-1のスコーアで破れた。

 和蘭 2-1 愛蘭
 瑞西 2-1 伊太利
 ウルガイ 5-1 フランス
 瑞典 5-0 埃及”(p.289-292)
 

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑥ 「瑞西対チェコスロバキア」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

瑞西対チェコスロバキア チェコスロバキア遂に敗る

五月三十日

 延長戦に入って勝敗決せず引分けとなった両ティームは一日静養の後今日ベルゼール競技場で再び相対峙した。ゲームは最初から緊張戦であった。野性を帯びたスラブ魂が委員会に禍ひしたのだらう。チェックの闘将センター、ホワードのノバックはこの前の試合の時塁前でやった反則が問題となって、今度のオリンピック会期中出場禁止といふひどい懲罰を受けて終った。瑞西軍も前回の経過に見て中老株の選手を全部退けて新進気鋭のプレヤーを以て陣容を堅めた。中堅の主将シュメッデンさへ変ってゐる。両軍共、相手の弱点を十分呑み込んでゐる。チェコスロバキアは早くもスイスのレフトより廻り始めて塁を脅かした。然しチェコスロバキアにも亦右翼に欠陥があった。そこを衝く目的で、スイスはレフトウイングに素敵なスプリンターを配置して急迫した。特にスイスは第一回戦に比して前衛の連絡よく中堅も極めて攻撃的戦法を取って敏捷なティームワークを示した。

 チェック左、右に隅蹴を得たるもインナー、ヘッデングの機会を逸す。前半戦の終りにスイス、サイドを廻しレフトよりライト、ライトよりインナーに送りたるも塁前のシュート柱を越へ機会去る。好戦好防、得点なくして前半戦のタイムは尽きた。チェ軍稍有利也。

 後半戦、チェコスロバキアはまぶしい夕陽に向って立った。キック、オフの球をライトより抜きゴール前の混戦となりたるも大きいキックに盛り返さる。中堅の圧迫たらず、スイスも亦肉迫したれ共インナー、シュートをあやまる。戦ひは殆んど互角に進んでタイムは残り十分となった。スイスは闘将の左翼フェスレル負傷して退場し、チェコスロバキアのフルバックは左右共全く疲労し切ってゐる。ゴールキーパーは共に美事なプレーをやった。誰の目にもゴールインと見へる熱球を危機一髪の間に防ぎ止めた事が何度であったか知れない。タイムはもう残り五分となった。

 三分も過ぎた。さうして今日も亦延長戦かと思はれた時、機会が持って来た様なヒョロヒョロした球がチェコスロバキアの陣の右の隅からフラフラとゴールへ向って飛んで来た。前進してゐたキーパーの上を越へて柱の横木の前面に当り、滑り気味に丁度そこに待ってゐたスイスの右翼のすぐ前に落ちた。ライトは極く軽く蹴った。塁手は身を隼の様に翻へしたが其時球は一呎の前を通ってゴールインした。

 さしもの混戦も斯くして終った。この試合によって廿二のティームが八つになった。”(p.287-289)

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑤ 「ウルガイ対米国」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

ウルガイ対米国

 五日目は予想を裏切ったスコーアと思ひも掛けぬ結果となった。コロンバスでは前七回オリンピックの優勝ティームである白耳義がスエーデンに破れた。然も8-1といふ惨憺たるスコーアであった。巴里競技場では優勝候補のハンガリーが3-0で埃及に破れた。

 ウルガイ 3-0 米国
 エジプト 3-0 ハンガリー
 伊太利 2-0 ルクセンブルグ
 瑞典 8-1 白耳義

 若し千九百三十二年、ロスアンゼルスにオリンピックが開かれる時、日本のティームが米国を圧迫し得るものがあったらそれはアッソシエーションフットボールではない? 僕はそんな空想せへ描いて実はベルゼールに来たのでった。実際米国ではこのゲームはそれ程重きを置かれてゐない。然し僕の考へは全く幻影に過ぎなかった。米軍はこの強敵を向ふに廻し破れたりと雖、勇敢に戦った。

 試合開始五分、米軍は先づ例によって強大な体格と、質素なメリヤスのユニホームに星章旗のマークをつけて出場した。之に続いて水色のユニホームをつけたウルガイのティームは国旗を捧げてフヰールドに這入って来た。さうして片手を肩より挙ぐる彼等独特の礼を四囲の観衆に送った。

 米軍トスに勝ちキック、オフ。左翼に蹴りセンター出でたるもコンビネーション破れウルガイはセンター、インナー、ウイングと巧妙なるパスを続けて早くも米軍のゴールを襲って来た。混戦数合の後ウルガイの左翼火の出る様な球を塁に向って放ちたるも柱の上辺を擦めて惜しくもアウトす。米軍の塁手なかなか目覚ましく活動する。ウルガイ左の隅蹴を得、正確に塁前に蹴りたるも長身の米軍はヘデング巧みに入れしめず。次で左コーナーよりの隅蹴塁前のヘデングの試合となれる中ウルガイのセンター、ペトローネ中央よりゴールの左隅に蹴込んで塁手見事なるヂャムプをなすも及ばず(十三分)得点する。

 米軍のティームワークに一つの重大な欠陥がある。それはフルバックの位置が悪い事だ。常にウルガイの前衛を恐れ定位置を固守し過ぎてゐる。其為完全せるウルガイの前衛の突進は容易に中央線を越へて、フルバック線までオフサイドの心配なく斬進出来る。二人のフルバックが定位置で守備する事は今日の進んだ、蹴球術では到底完成されないとされてゐる。一人のフルバックは機を見て突進し、それと同時にハーフが其欠ををぎなう。さうすれば敵前衛の共同動作はオフ、サイドによって十分阻まれる。然し米国は未だ欧州のこのシステムを知らないと見へて敵前衛の進出に対して飽くまでフルバック線で堅く守らうとした。二人に五人然もオフサイドの心配がないとすれば防御の方が負けるに極ってゐる。オフサイドルールは更に三人のフルバックに相当するといふ理論を米軍は知らなかった。

 ウルガイの右翼はライン近くを廻り進みゴール戦上殆どアウトと見えし球を線に沿ふてキックした。米軍は既にアウトと思って油断した処を其球はライト、インサイドから見事にシュートされた(廿分)。

 ウルガイ軍のショート・パス、ドッジングは実に自由自在で米軍は全く奔命に労れた。機会は殆んど米軍にはなかった。ただ彼等は優れた体力を以て奮闘する勇気があった。無茶苦茶にキックする蛮勇を有ってゐた。ウルガイは巧みにそれを避けて攻めて攻めて攻め抜いて行った。ライトウイングのネーヤとレフトウイングのロマノーは大会の花である。サイドラインを廻しては両翼から蹴って来る。球は常に塁前に飛んで絶間なく米軍の心胆を寒からしめた。

 ウルガイのライト、インナー、ドリブルで塁前まで進み、シュートすると見せて球は巧みにセンターへ送られた。ペトローネ見事な一蹴をやってまた一点。ハーフタイム。

 後半戦は米軍死物狂ひに奮闘して一点も入れしめなかった。然しウルガイの塁を襲ふ事は殆んど出来なかった。米軍は実力の限りを出して戦った。さうして敗るべき敵に敗れたのであった。覇業成らず悲しげなエールを残して帰り行くティームは流石に観衆の同情を惹ゐた。

 それにしてもウルガイの前衛は巧者であった。小さいパスを繰り返してゐるかと思ふと一線になって敵塁に迫って行く。其前進の雄々しさは軽騎兵が一列に前進して行く様な見事さである。”(p.283-287)

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記④ 「チェコスロバキア対瑞西」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

チェコスロバキア対瑞西

五月二十八日

 優勝候補、第一圏内に数へられるこの両テームの試合は第四日目、巴里の大市街を一望の裡に下瞰し得るベルゼール丘上の競技場で行はれた。

 チェコスロバキアか、ウルガイか、瑞西か、ハンガリーか集評はだんだんと一致して来た。この試合は或は準決勝戦位に相当する試合だとの観測で、今日は競技場は一ぱいの人で埋まった。

 試合開始前、メガホンはコロンバスで愛蘭対ブルガリーの前半戦0-0と報告した。

 五時、チェコスロバキアは白に赤い縦縞に紺のパンツ、瑞西は真赤に白十字」のマークをつけたユニホームで、入場した。審判はノルエーの名選手だと称賛されて居るアンダソン軽快に立った。トスは瑞西が勝った。

 キック、オフ。スイスは前衛の中央が強く、チェコスロバキアは両翼が強いとの評判であった。英国の職業ティームにも似たチェコスロバキアのティームワークは楽に、スイスを圧迫して行った。足の横、足の裏で弄球するパスが自由自在であった。スイス軍は其ショートパスとドッヂを恐れてチャーヂを躊躇する間隙に乗じてチェ軍はゴールを急迫して左右に二回の隅蹴を得たが物にならなかった。僕は寧ろレフトのインナーがうまいと思った。

 然しスイス軍もチェコスロバキアの中堅線と前衛線に連絡の粗雑な点ある事を看破して其処を衝いて行ってゴールに迫ったがチェ軍の塁手に阻まれた。

 チェコスロバキアの塁手は素敵なキッカーだった。体は大して大きくはないが軽いキックは左右共常に中央線より深く敵陣に飛び其一蹴で容易に味方を有利に導く事が出来た。

 開戦卅分、チェコスロバキアの左翼より右インナーに渡った球にスイス軍其罰則エレア内にて反則し、ペナルティーキックを与へられる。ペナルティー・キックはインナーのスローブが蹴った。ペナルティー・マークの石灰を長く尾に引いて塁手の左肩上高くコーナーに飛び美事なネットインした。

 次でスイスに好機ありしも入らず、チェ軍再びペナルテー線外にて自由蹴は得たるも、スイスの三人前面十碼の処に並立して動かず自由蹴は其頭上を擦めてアウトとなる。

 後半戦に入ってス軍急迫したるも惜しい処でオフ・サイドとなりホワード・センター見事なるシュートを試みたるもチェックの塁手身を投げて好守した。

 この頃になってスイスのテームワークに存する大きい欠陥が次第に著しく眼につき出した。それは各前衛間のコンビネーションの欠陥である。それはキックとパスの不正確から来る。抑もア式蹴球に於ける攻防は機会に左右されて変化し易いものである。然し其機会をよりよく導いて行くものは決して機会ではない。洗練されたテクニックに俟つより外に道はない。特に斯の如き、国際競技場に於ての試合では機会の持続によって局面を展開さして行く様な事は殆んど望めない事である。飽く迄理詰の戦法で最後迄押して行くより外に方法はない。一度掴んだ機会を飽く迄も有利に進めて相手の防御線を迫窮して行かねばならぬ。さうなってくるとキックの正確、パスの正鵠といふ事が優勝ティームの具備すべき必須の条件となる。

 スイスの後衛はよく守った。前衛の活動も個人的には目覚ましかった。然し連絡に欠くる点あるが為好機は直ぐ失はれる。ゴールシュートは単独なプレーとなって相手方の塁手のファイン、プレーを見るばかりである。

 チェコスロバキアの右翼セドラークが敵塁前の反則から退場を命ぜられてからスイスの攻撃は見違へる程整って来た。流石は国際ティームで与へられたペナルティーは黙って受けチェコスロバキアはタイム・アウトさへ要求しなかった。

 試合があと五分となった。見物は電車の混雑を恐れて立ちかけるものが多かった。この時であった。スイスのハーフセンターから右翼に蹴った球がうまく、バウンドしてそれがレフトインナーに行き、センターにかへりセンターの強蹴がポストをかすめて塁手の右に這入った。

 国際感情はこんな時に爆発する。猛烈な拍手が潮の様に四囲から起って立ちかけた見物は再び座席に戻って来た。

 やがて一時間半のタイムは尽きて審判、主将会議の上五分休憩ゴールをかへて十五分分宛二回の延長戦に入った。時は既に七時、夕陽はあれ共薄色はローンの上に立ち迷った。両軍は疲れ切って居る。然し之から後はただ意気で闘はんといふ決意が両軍の上に見へる。この仕合は最初の前半は両軍あまりに其技巧にたよりすぎて熱を欠いて居た感があったが、延長戦に入ってからゲームは漸く熱して来た。チェック迫りて隅蹴を得たが盛り返されスイスも亦急激な突進を試みた。負傷者は相次いで出た。オフサイドは盛んに取られた。塁前ではヘッデングの肉弾戦がつづけられた。

 十五分のタイムがつきてゴールを更へて更に戦った。もうただ意気と残された最後の体力の頑張り合だ。民族と民族、ネーションとネーションの意地の張り合ひである。

 チェコスロバキアはハーフのセンターをホワードセンターに出し、フルバックの一人をハーフに出し全くの背水の陣容である。スイスの主将二十五碼線にハンドしチェコスロバキア自由蹴を得たるもオフサイドとなり好機を逸した。然し間もなくス軍を襲った危機は非常なものだった。右翼の球が左翼に渡り左翼がシュートしたのはスイスの塁前三碼位の処だった。塁手は体も砕けよとばかり線上に飛び、身を以てカバーした。無論、この球はゴールだと思はれたが、この塁手の一英断でスイスは安全だった。

 すぐ次の瞬間にチェコスロバキアの左翼は転倒して気絶した。どのプレーヤーも気は張って居るが体力は既尽きかけて居る。倒れたらパタリと行って怪我をする。二人の闘士を失ってチェコスロバキアは受太刀とならざるを得ぬ。時間はまだ七分ある。次でスイスに機会が来た。センター、ホワードは手薄になったチェコスロバキアの後陣を縫って突進した。塁手は仕方がないからペナルティー線外のフルバック線にまで進んで防がうとした。 大きいヴォレーが頭上を越へてゴールに入った。見物は動揺めいた。然し審判は其突進の際に反則があったと主張して席を蹴って立ちかけた群集の威喝も平然として其点に動かず、チェコスロバキアに其場所から自由蹴を与へてしまった。それからこんな激戦はタイムが尽きる迄つづけられたが遂に勝敗は決せなかった。

 其儘引分けとして委員会で次の日割を決定するといふ事で今日の試合は無勝負となった。

 人間が自分といふ小さいものから離れ切って或感激に動いて居る時、そこには何か人間の力以上のすさまじいものを見る。チェコスロバキアのこの奮闘の様を見ながら万感胸に迫るものがあった。若い者が一国、一民族の強い意気を背負って居るといふ純一な強い感激に動いて居る様がとても平然として見てゐられない位であった。

 電車で帰る途々よくも巴里に来た事の幸福を心から喜んだ。

 瑞西 1-1 チェコスロバキア
 愛蘭 1-0 ブルガリア”(p.278-283)

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記③ 「仏蘭西レトニアに勝つ」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

仏蘭西レトニアに勝つ

五月二十七日 巴里球技場といふのは工場裏の板囲ひの芝生で国際競技の晴れの舞台としては気の毒な程貧弱なものであった。見物も亦今日の試合を見縊ってか、仏蘭西の応援が三千人ばかり集まって居るに過ぎなかった。

 定刻五時、仏蘭西は例によって縹色に緋色の華々しいユニホームで入場した。レトニアは海老茶に白絹のパンツで体格は立派だった。ゲームはレトニアのキック・オフで始められたが非常に鈍いテームワークだった。キックは不正確だし、パスは方向を誤り敵に取られ仏蘭西のシュートも常に機会を失し国際競技級のティームとしてはひどく見劣りがした。

 仏蘭西軍の主将ダブレー左翼より好蹴を放ちたるも右翼ゴール前のヘデングを失して入らず、仏蘭西軍は常に派手なプレーを好み見物も亦長いボレー等が飛ぶと無性に喜ぶ。さうして稍乱暴な突撃に試合慣れて居ないレトニアのテームは何時もスタートを誤り其長身長脚をもてあます様に見へた。仏蘭西軍敵のペナルテー・エレア内の混戦からレフト・インナーに行きシュートして一点を先取した。

 続いて左翼よりセンターにパスし其球は地を辷って居るのに塁手滑り倒れ簡単なゴール・インとなった。三十分。

 レトニアのティームはフルバックあたりで時々長蹴するが本当に下手なテームであった。現在の日本テームだって慥かに勝てる位のテームだった。

 仏蘭西も前後合計七点を入れたがあまり光栄ある得点ではなかった。コンビネーションの技巧を心得て居るといふ外上手ぢゃない。極東大会に於ける比律賓、支那級のテームに見へた。ただ相手が弱いので、仏蘭西の見物は得意だった。

 この日コロンバスフヰールドでは、和蘭がルーマニアに勝った。

 仏蘭西 7-0 レトニア
 和蘭 6-0 ルーマニア”(p.277-278)

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記② 「伊太利対イスパニア」『世界の運動界』より

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

伊太利対イスパニア

 三時半球場に入れば早くもパーシングではスイスが前半戦にリスアニアを四対〇で負かしたといふ高声電話の通告があった。

 国歌の奏楽に送られてイスパニアと伊太利のテームが芝生に現はれた。一は南方の血に勇む闘牛士を想はせる鮮紅に黄金の胸にV字形、黒のパンツのユニホーム。一は南欧の晴れ渡った空色の見る眼も軽いユニホームであった。トスの銀貨が高く上げられてイスパニアが勝った。

 ライトのインナー先づ高く一蹴してチャンスを覗ったが、両軍共大試合の劈頭戦で固くなれるものの如くつまらないミスやエラーが多い。イスパニア機を見てゴールに迫り最初の猛蹴をゴールに試みたけれ共塁手身を挺して巧みに防ぐ。この頃雨脚速き巴里の空は何時しか曇り、豪雨沛然として来り物凄いばかりの光景を呈した。

 伊太利ライトのウイングより抜きレフトにパスし、レフト、シュートしてコーナーキックを得たるも入らず。次でイスパニアゴールシュートしたるも伊太利の名塁手デ・パラ巧みに受け止むればイスパニアのセンター飛び込んで共に負傷す。イスパニア二十碼辺の反則に自由蹴を得たるも入らず。次でセンター巧にドリブルしレフトインナーにパスしたるも惜しくアウトす。両軍共猛烈なファイテング也。

 両軍共戦法は積極的なれどもパスが大き過ぎる。数刻の後雨はれたるも芝生滑りドリブル、チャーヂ共に困難也。伊軍に三度ばかり機会ありしも西軍の塁手ファインプレーに喰ひ止む。一度は伊軍の前衛と衝突し二人ゴール前一尺の処に共に倒れ指先にてポスト外に突き出しコーナーキックとして防ぎとめた。

 斯くて前半戦は両軍、無得点の儘終った。雨はすっかり晴れてグリーンの色は益々鮮かに両軍のユニホームを浮き立たせた。サイドをかへて伊太利のキックオフに戦は再び開始された。伊太利はショートパスによって肉迫した。漸くスペインの弱点を発見したらしい。ゴールを脅かす事数度なれどもチャンス未だ来らず。ただ一人巧防して居たイスパニア軍の塁手は遂に負傷退場した。ゲームは益々ラフになりイスパニア軍の一選手は退場を命ぜられた。こうなれば選手も見物ももう本能性を発揮して来て負傷につぐ負傷、反則につぐに反則が行はれた。

 時間はあと十分、この時伊太利軍のセンター、マルティーンが縫ふて西塁に迫って行った球は彼が最も得意とする球でこれまでもしばしば機を逸して居たのであった。塁手を釣り出す為大きくシュートすると見せては小さいドリブルに変化して巧みにゴール近くまで肉迫して行った。この時西軍の塁手は思ひ切って其球に飛び込んだ。マルティーンは巧みにそれを外すべく小さいドッヂをやった。丁度其時ゴール危しと見たイスパニアの主将フルバックが、塁手の後方に走らうとするときそのドッヂされた球が塁手の陰から抜けて来て膝の辺に当って運命をころがす様にころころとスピード無くポスト後方のネットに触れた。イスパニア軍は其球を抱ゐて其儘ゴールの中で泣き伏した。吁それは、人間にはどうともならない運命的なボールであった。

 伊軍の華々しい退場に比してイスパニアは見るも悄然として競技場を去った。”(p.274-277)

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岡部平太の伝記におけるFIFA関連の記述

岡部平太の伝記『日本スポーツを救え : 野人岡部平太のたたかい』(田中館哲彦著 平凡社 1988)に、体協の国際陸連加盟のいきさつ(体協対アンチ体協の日本の2団体が加盟申請して体協の加盟が認められた→「体協の国際陸連加盟の経緯」)の記述の後に以下の記述があります。

“なおこのとき、大阪体協の竹内広三郎は同様の問題がゆく先日本の蹴球協会(現在の日本サッカー協会)にふりかかることを懸念し、岡部に相談をもちかけた。そこで岡部は竹内と連れ立って国際サッカー連盟の会長の下を訪れ、彼が数ポンドの加盟金を納めて日本蹴球協会が国際連盟に加入する手続きをサポートした。それは日本の競技団体がIFに加盟した最初の出来事であった。”(p.95)

竹内広三郎は1917年極東大会サッカー日本代表のCH、すなわち最初の日本代表で、岡部と同様1924年パリ・オリンピックのサッカー観戦記「ウルガイ蹴球チーム」も残しています。1921年の大日本蹴球協会結成時に「委員」(p.63)として名を連ねています。

大日本蹴球協会がFIFAに加盟するのは1929年なので、この記述は完全な間違いであると考えられます。1925年に結成されることになる陸連は上記のいきさつから体協とは犬猿の仲となるのですが、同様の問題がサッカーにも生じないかと心配した人がいても不思議ではありません。

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岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記① 「ア式蹴球開始」『世界の運動界』より

ア式蹴球開始
(五月二十四日巴里發朝日新聞電報)

 五月二十四日 アッソシエーション・フットボール・オリンピック競技は愈々コロンボ、パーシング、ベルゼールの三ケ所に
分れて開催、ラグビーが僅か三国だったのに反し、今度は参加国廿二、選手の総数五百六十人に上る大規模のもので今後毎日予選をやり三十日より最強ティームの準優勝戦に移り六月九日コロンボで優勝戦を行ふ筈。目下の処、最も強く思はれるのはチェコスロバキアでウルガイも強いといふものがある。尚英国が前のラグビーにも今度のア式にも出ないのは注目すべきだ。コロンボでやる伊太利対スペイン競技は去る三月ミランに於ける試合に際し〇対〇で無勝負に終ったものだけに非常な興味で迎へられて居る。

 五月二十五日 打ち囲むスタンドの屋根を遠く層雲動かず。巴里の夏今日より漸く酷ならんとする蒸熱き日の午後コロンボ球場では第八回オリンピックア式蹴球の劈頭戦イスパニア対伊太利の決戦が開始された。この日第二会場パーシングフヰールドではスイス対リスアニア及び米国対エストニアのゲームがあり第三会場のベルゼール球場ではチェコスロバキア対トルコの試合があった。然し観衆は優勝候補の一と目せらるる伊太利対イスパニアの試合に集中された。”(p.273-274)

参考:1924年パリ・オリンピック記録(FIFA)

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岡部平太のイングランド・フットボール・リーグ観戦記 「英国の蹴球」『世界の運動界』より

岡部平太は柔道出身であるが、1921(大正10)年の極東選手権では体協の蹴球担当役員を務めるなど、サッカーにも精通した人物であった。著書『世界の運動界』(目黒書店 1925)には、世界各国のスポーツ情報が記載されている。

「英国の蹴球」(p.169-175)ではイングランドのフットボール・リーグ、FAカップ、代表戦の概略を記し、1924年3月29日のウェストハム対ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦の観戦記が記載されている。日本人による最も早いイングランドのフットボール・リーグ観戦記であろう。

「英国の蹴球」『世界の運動界』(目黒書店 1925) p.169-175

三月二十九日 英国の蹴球の季節は九月に始まって翌年の四月に終る。さうして最も盛んなのはプロフェショナル・フットボールでそれはアッソシエーション又はサッカーと称せられる我が国のア式蹴球でアマチュアも無論盛んにやるが各地に職業団体が発達して居るのでアマチュアーのゲームとしては寧ろラグビーの試合に本当の試合が見られる。

 アッソシエーションの盛んな事は全く驚異に値する。テームの総数は迚も数へられぬが特に職業テームはテームの強弱によってデビジョンと称し、1・2・3の三つの等級が別れて居る。各級に二十二宛のテームがあり年々の成績率によって1のデビジョンから2に下る事もあり、2から1に昇る事もある。シーズンの間デビジョンの中での試合が土曜日毎に各都市で行はれ一テーム総計四十二回の試合をやり、其結果によって優勝テームを定め次年度の級位を決定する事になって居る。

 このリーグ戦の間にフットボールアッソシエーションカップと称してデビジョンに関係のない他のカップ争奪戦が行れる。それにはデビジョンに属して居る選手でもデビジョンに関係なきカップ・タイの選手となってシーズンの間其方の争奪戦にも参加する事が出来る。

 この外にインターナショナル・ゲームと称してイングランド・ウェルス、アイルランド、スコットランドが各ピック・アップ・テームを編成して試合をしてナショナル・チャムピョンを法める試合もある。今は丁度シーズンの終りに近くカップタイは次の週の土曜日が決勝戦になって居るインターナショナルではイングランドの選手選銓衡委員の見解が間違ってゐる為イングランドが弱いのだと矢釜しく議論されて居る。或土曜日一日のイングランド・リーグだけの入場者の数を計算したら六十三万二千人であった。この外にラグビーもやって居るのだから驚くべき数だと感心した。

 今日はロンドン市のテームで昨年の優勝テームであるウェストハムと1919から1920年迄の優勝テームである北方のウェスト・ブロウッヒ・アルビンとの試合なので午後二時アプトムパークの競技場に出掛ける。

 三月末だけれども風はなかなか冷たい。この気候が一つは英国のシーズンを斯く長くし、斯くフットボールを盛んにさせる大きい原因でもあるのだらう。

 スタンドはアメリカで見る様な宏大なものではないが、正規のサイド・ラインから六尺を隔てて高さ三尺の堅固なコンクリートの囲ひがあり、其周囲に十七八段になった観覧席があるが、二万人位収容し得る見物は殆んど立見である。

 キック・オフの五分前楽隊が競技場を退くと両チームは相手に迎へられて同じゲートから出て来て別々のゴールに向ってシュートの練習をする。ホワード・ウイングのシュートが特に目覚ましく冴えて居る。ゴールを越えて見物席にビューと蹴込む球が凄まじい。レフェリーが新らしい試合球を抱いて出て来る。主将にトスをやらせてすぐ試合が開始される。タッチ・ジャッヂが白い小旗を以て両方に別れて立つ観覧席はもう一人分の余地もない程の顔で埋まった。

 ユニフォムはウェストハムは海老茶に脇だけが白、テルビン(ママ)は白と藍の立縞だから一見して区別が出来、ゴール・キーパーだけ両方とも青いオヴァー・スエターを着てゐる。

 キック・オフはホワード・センターに渡しインナーは相手のチャージをよけて軽く味方のセンターに渡しそれから混戦になる。盛んなヘッディングが行はれる。前後左右自由自在に利く。巧妙なドッチング。」正確なパス。ドリブルは決して長くやらぬ。パスが早い。

 さうして一番著しく目につく点はア式蹴球のけ傾向が要するにコンビネーションの問題になって居るといふ事である。彼等のキックは恐らく一人一人四十碼は利くだらう。然しそれらを使はぬ。コンビネーションなきキックは常に無効であるのみならず容易に味方を不利に導くものである。日本で応援団が喝采する様なボールが飛ぶと附近の見物はプァーだと囁く。事実其球の効力は貧弱に終る。同様に時宜に適せないロング・シュートも空しくゴール・キックを迎へるに過ぎない。之は長い間の事実から導かれた実戦上の決論であらう。

 米国のバスケット・ボールも今や勝敗はシュートの技巧の時代を過ぎて全くコンビネーションの問題に到達して居る様である。然も其コンビネーションは小さい技巧に堕したテクニックではなく、テーム全体の頭の連絡になって居るといふ事を茲に明記して置き度い。それはア式蹴球も全く同一である。

 職業ア式の勝敗はコンビネーションの熟否で左右される。その為ハーフの活動が非常に変って来て居る。ハーフは或時はホワードであり或時はフル・バックである。前衛線、後衛線が従来のポヂション論の時代の様に固定した任務に止まらず、関係が非常に密接でホワードが前進した時ハーフは直ぐにそれに次ぎ、フル・バックは常に中央線の向ふに迄進出してハーフとの連絡を失はない。即ちフル・バックは防御の任務を持つといふ考へから一躍して今日では攻撃的な任務に立つ様になって居る。然もそれが一面に非常な防御となるのである。之はキックの利かない日本チームにあっては更に其れ以上にフル・バックが前進しなければチームとしての本当の任務は尽せまいと思ふ。研究を要する。

 今日の試合は両チーム共巧戦し前後のハーフ・タイムを通じて殆どチャンスらしいチャンスは来なかった。三四回宛コーナキックになったが両方共実によく危機をのがれた。ゴール・キックは大抵ハーフ・ウェーラインを越えて相手のハーフバック線位まで飛ぶ。

 ウェストハムはただ一つの機会を掴んだ。敵陣近く迫った時、レフト・インナからウイングへパスされた球を矢のやうなシュートで左からゴール・ポストの根元に一点ゴール・インしたのが時間を通して只一つの得点であった。この時潮が寄せる様な拍手が場の四周から起った。

 然し此の時ゴール・シュートしたバッフルといふレフト・ウイングの位置は日本ならば明かなオフ・サイドの位置に立って居た。相手の一選手は手を挙げてオフ・サイドと審判に注意した程だった。審判は省みなかった。それは審判の陰になって居た関係もあるが。

 僕はこの試合を通じて如何に日本に於けるオフ・サイド・ルールが今日日本のア式蹴球の当事者に難解なそしてゲームの進行を遅滞させる暗礁となってゐるかといふ事を感ずるが故に茲に簡単に之に対する私見を挿んで見やうと思ふ。

 元来今日迄のオフ・サイド・ルールなるものは現在本場の英国でもゲームの実際に当って甚だ不都合と考へられる様になって来た。何故ならば、やはり之に依ってホワードの活動は非常に制限され、ゲームが不活発になるを免がれぬ。だから・・・・相手の四十碼線内にある時前方に三人以上の相手なき時・・・・といふ規定を二人と改正しやうといふ意見が既に屡次繰り返されたが愈シーズンの終りから実際化しやうといふ機運にまで進んでゐるのである。

 所が日本の蹴球界で条文の解釈にあまり拘泥し過ぎた事と、極東大会其他で公正とは思はれない外人の下にゲームを行った経験からこのルールがいやに難解なものになり遂にはオフ・サイドを見逃さず取る事を以て審判の明、不明を云々する条件の如くさへ考へる習慣になって益々ア式蹴球のホワード・プレーを委縮させてしまった。

 僕はよく注意してオフ・サイドに於ける場合の審判の態度を見たが審判はボールの飛ぶ方向にプレヤーが実際に活動を起しフォローした時は極めて厳正にフリー・キックをやるが例へオフ・サイドの位置にあっても全くプレーに関与しない、又は出来ない位置にあるプレヤー、例へばレフトのサイドで球が競技されて居る時、之に干渉せざるライト・ウイングのオフ・サイド又はテームがバックしつつある時のホワードの位置については日本の習慣よりも遥かに寛大であるといふ事実を見た。それで念の為ゲーム終了後倶楽部ハウスに行ってこのクラブのマネヂャーエス・キング氏に其疑義を正して見たらやはり『ボールをチャーヂもしなければ、相手を妨害する事もない者はオフ・サイドを取らない』・・・・それは慥かだと断定した。

 こんな事はなかなか簡単に条文では表はせない実際上の見解の相違で或は英国にも異った見解を有して居る人がないとも限らぬ。ただ僕のこのルールに対する見解だけを述べて困って居る日本蹴球界に送る。

 この外ファウルや、ハンドに対する審判者の見方も可なり日本の習慣とは異った点を見受けたが之はゲームをゲームらしくするといふ態度がプレヤーと審判が共に持てゐたら自ら解決出来る問題と思ふから茲には書かない。”
 

 

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豊島サッカー倶楽部主催全国少年蹴球大会に関する新聞記事

はじめに

 戦前の小学生サッカー大会としては、東京蹴球団(主として青山師範系OBチーム)が1922(大正11)年~1940(昭和15)年に関東少年蹴球大会を19回開催(東京朝日新聞後援)しており、その記録については「関東少年蹴球大会(東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)の記録」に記した。豊島師範系OBチームである豊島サッカー倶楽部も1924(大正13)年から全国少年蹴球大会を主催(時事新報後援)しており、少なくとも1931(昭和6年)まで8回開催していることを新聞記事で確認できる。

豊島サッカー倶楽部主催全国少年蹴球大会に関する新聞記事

『読売新聞』1924(大正13)年5月21日付

全国少年蹴球大会

豊島サッカー倶楽部主催の全国少年蹴球大会(ア式)は来る三十一日(土)六月一日(日)の両日に亘り豊島師範学校々庭にて開催。種類は第一部(尋常科)第二部(高等科)で申込み所は麹町富士見小学校野田草雄氏宛廿四日までに申込んでほしいと。”

『東京朝日新聞』1925(大正14)年5月17日付

少年蹴球大会

全国少年蹴球大会第一日は十六日午後一時から豊島師範校庭で挙行、成績左の通り

 桃園 7-0 十思
 本田 10-0 高師附属
 豊師附属 3-0 金曾木
 青山 8-0 日野”

『東京朝日新聞』1925(大正14)年5月25日付

全国少年蹴球大会

第二回全国少年蹴球決勝戦は廿四日午前豊島師範グラウンドに挙行、結果左の如し

△準決勝第一部
青山師附小 1-0 青山小
豊島師附小 1-0 桃園小

△準決勝第二部
桃野小 1-0 浦和小
青師附小 1-0 埼玉師附小

△決勝第一部
青山師小 1-0 豊島附小

△決勝第二部
青山師小 1-0 桃野小”

『東京朝日新聞』1927(昭和2)年11月14日付

少年蹴球大会
  浦和尋高小優勝

豊島サッカークラブ(ママ)主催時事新報後援の全国少年蹴球大会は十三日午前八時半から豊島師範球場に挙行、成績左の如し

◇第一部
 ▲第一回戦
  豊師附小A 1-0 赤土小
 ▲準決勝
  浦和尋小 2-1 豊師附小B
  豊師附小A 6-0 油面小
 ▲決勝
  浦和尋小 2-1 豊師附小A

◇第二部
 ▲準決勝
  浦和高小 2-0 豊師附小
  尾久高小 0-0 武蔵野高小
  (抽せんの結果尾久勝つ)
 ▲決勝
  浦和高小 8-0 尾久高小”

『東京朝日新聞』1928(昭和3)年5月27日付

少年蹴球大会

全国少年蹴球大会第一日は廿六日午後一時豊島師範球場で挙行、結果次の通り

◇第一部第一回戦
 浦和 1-0 2-0 豊師付B
◇第二回戦
 赤土B 0-0 1-0 油面A
 豊師付A 2-0 1-0 赤土A
 埼師付 2-0 1-0 油面B
 青師付 1-0 0-0 浦和”

『東京朝日新聞』1928(昭和3)年5月28日付

少年蹴球大会

第五回全国少年蹴球大会第二日は廿七日午前九時から豊師球場にて挙行。第一部第二部共埼師付属小学が優勝した。

◇決勝 第一部
埼師付小 0-0 1-0 豊師A

第二部
埼師付小 2-0 1-0 浦和小”

『東京朝日新聞』1930(昭和5)年6月8日付

全国少年蹴球(第一日)

全国少年蹴球大会第一日は七日午後一時から豊師球場で挙行、結果左の如し

△第一回戦
 豊師付A 7-0 油面A

△第二回戦
 豊師付B 1-0 油面B
 高田第二 1-0 赤土A
 埼玉師付 3-0 浦和
 豊師A 6-0 赤土B”

『東京朝日新聞』1930(昭和5)年6月9日付

全国少年蹴球

全国少年蹴球大会第二日は八日午前九時半から前日に引続き豊師校庭で挙行、結果左の如し

◇一部 準決勝
 豊師A 1-0(1-0 0-0) 埼玉師
 豊師B 7-0(2-0 5-0) 高田第二

決勝戦
 豊師B 1-0(0-0 1-0) 豊師A

◇二部 準決勝
 埼玉師 3-0(2-0 1-0) 浦和
 豊師不戦一勝

決勝戦
 埼玉師 6-0(2-0 4-0) 豊師付”

『東京朝日新聞』1931(昭和6)年6月2日付

全国少年蹴球大会組合せ

豊島サッカークラブ主催第八回全国少年蹴球大会は来る六、七の二日間豊島師範で挙行されるが、組合せは次の如く決定した。

◇第一部 豊師付小A対浦和小、埼師付小対青師付小、油面小B対豊師付小B(不戦一勝)油面小A
◇第二部 豊師付小対浦和中(不戦一勝)青山学院、早実、浦和小”

『東京朝日新聞』1931(昭和6)年6月8日付

少年蹴球大会

豊師主催少年蹴球大会は七日午前九時より豊師球場で挙行。豊師付小(第一部)浦和高小(第二部)優勝す。”

 


 

 

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富岡製糸場

18切符が残り1日分あったので日帰りで行ってきました。

初めて乗った上信電鉄。

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上州富岡駅と駅トイレ

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富岡製糸場

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内部も一部公開されており、実演もありました

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時間を定めてのツアーやボランティアの説明員の説明も充実しているようでした。比較的最近まで片倉製糸の「現役」の工場として明治期のまま使用されていたそうです。

高崎駅ビルの登利平でとりめしを喰い、駅弁の方のとりめしを晩飯に

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日本サッカー・リーグ発足を伝える『読売新聞』記事

『読売新聞』1965年2月20日付

日本サッカー・リーグ
    8実業団5月発足 6都市を回り持ち

 日本サッカー協会は十九日、昭和四十年度の事業日程を発表したが、今後の日本サッカーの主力となる「日本サッカー・リーグ」の発足が正式に決定、古河電工、八幡製鉄など八チームが初年度の参加チームに選ばれた。リーグは五月下旬-六月、九月-十一月上旬の約四か月間にわたって開かれる。全国的なリーグが組織されるのは、プロ野球以外のスポーツでは、はじめてのこころみ。

 「日本サッカー・リーグ」の参加チームは、古河電工、日立本社、三菱重工(以上東京)八幡製鉄(北九州)東洋工業(広島)ヤンマー・ディーゼル(大阪)名古屋相銀(名古屋)豊田自動織機(刈谷)の八チーム。それぞれの都市をフランチャイズとして、二回戦総当たりのホーム・アンド・アウェー方式(一つのカードを、それぞれの地元で一回ずつ、計二回行なう)で試合をする。このため一チームの試合数十四試合、総試合数は五十六試合となる。日本リーグの目的は、選手強化のため、強いチーム同士の試合をふやすとともに、よい試合をファンにみてもらって普及に役立てることだが、将来は地域のリーグ組織をつみ重ねて、ヨーロッパと同じサッカーの組織を作ることをねらっている。

 なおこれまでの都市対抗選手権と全日本実業団選手権は発展的に解消して、全国社会人選手権とし、その上位二チームとリーグの下位二チームの入れかえ戦をする予定。昭和四十年度のおもな日程はつぎの通り。

 (以下略)”

これまでの都市対抗選手権と全日本実業団選手権は発展的に解消”して新リーグが誕生したのですが、経済的な負担は選手権よりリーグの方が少ないことを以下の牛木素吉郎氏の記事が伝えています。

『読売新聞』1965年2月24日付

外野席

サッカー組織の革命

 「日本にプロ・サッカーができるんですか?」―サッカー関係者は、このごろ、こんな質問をよく受ける。日立本社、八幡製鉄など、実業団の強豪八チームを集めて、五月から「日本サッカー・リーグ」が発足するが、全国をまたにかけたリーグの組織は、これまでプロ野球のほかになかったからだ。だからサッカーの全国リーグがプロ、あるいは、セミ・プロをめざすものと思われても無理はない。

 しかし、リーグに加わった実業団チームは、セミ・プロ化するつもりは、まったくない。八幡製鉄のマネジャーは「プロどころか、八幡が地元でやる七試合については、入場料をとったら、お客さんが集まらない心配がある。タダなら電車賃をかけても見にくるが、有料では、隣でやっていても敬遠するのが、つましい地方の人の気風だ」という。八幡の場合、これまで都市対抗や、実業団選手権の予選、本大会に遠征する経費が百万円以上もかかっていた。それが、この日本リーグ一本になれば、十分予算内でまかなえる見通しだそうだ。

 協会の役員も、日本リーグの目的は「選手強化が第一。地方の人に良い試合をみせて、普及の役に立てるのが第二だ」といっている。だが、そのような当面の目標のほかに、この試みは日本のサッカー組織の革命のはじまりだ、ということを忘れてはならない。日本リーグの下に関東リーグ、さらに、埼玉リーグというように、全国のチームがリーグの積み重なりの中に包みこまれる―これが将来の姿である。

 イギリスでも、ドイツでも、サッカーの先進国は、みなそういう組織だ。そして、西ヨーロッパや南アメリカでは、頂点の全国リーグは、プロかセミ・プロである。だから、日本の将来に、プロの姿が描かれるのは、必ずしも見当はずれではない。国際オリンピック委員会のブランデージ会長が「サッカーでは、プロとアマがひとつになっている」と非難するのも、このこと。日本では、ブランデージ氏のいうことが絶対に正しいと思われているが、サッカーの組織には、ブランデージ氏の知らない長所もある。日本リーグの発足を機会に、そういうことを見直してほしいのである。(牛木)”

チーム力に差のあるチームが当る可能性があるトーナメント戦よりも、一定のレベル以上の強豪同士のリーグ戦の方が、“選手強化”に効果的であるのはいいうまでもありません。“八幡の場合、これまで都市対抗や、実業団選手権の予選、本大会に遠征する経費が百万円以上もかかっていた。それが、この日本リーグ一本になれば、十分予算内でまかなえる見通しだそうだ。”とありますが、マネジャーの立場からしても、勝ち進むほど経費がかかり、支出の予定が不明のトーナメント戦よりも、支出の予定を見込めるリーグ戦の方が合理的であったようです。

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戦時下で明らかになった「正確な」新聞発行部数

新聞の発行部数というものは「自称」であることが多く、実際より誇大に発表されがちです。皮肉なことに、戦時統制に伴う新聞の共販化によって新聞発行部数の実数が明らかになりました。『朝日新聞販売百年史 : 大阪編』(大阪本社販売百年史編集委員会編 朝日新聞大阪本社 1979)に記載された「全国主要新聞部数の推移(共販中央本部の集計による)」によれば、昭和17年2月10日の部数は以下のとおりです。(p.433)

朝日(大阪、中部、西部) 2,054,408
大阪毎日 1,653,248

大阪時事 46,686
神戸 80,222
合同新聞 97,620
中国 118,098
高知 51,174
福岡日日 266,810
九州日報 29,124
九州日日 38,479
九州新聞 12,802
鹿児島朝日 29,132
鹿児島新聞 22,091
新愛知 373,889
名古屋 269,974
北国 50,629

朝日(東京) 1,307,538
東京日日 1,418,125
読売 1,430,097

報知 271,569
中外商業 119,947
都 103,006
国民 81,351
北タイ 181,626
河北新報 48,719
東奥日報 39,893
秋田魁 27,356
信濃毎日 37,168
南信毎日 12,287

全紙数合計 11,866,099

100万部を超えているのは、朝日(西日本)、大阪毎日、朝日(東京)、東京日日、読売の5紙のみです。東西合同で朝日は3,361,946部でシェア28.3%、毎日は3,071,373部で25.9%になります。この時点で関東では読売が朝日と東京日日を抑えてトップになっており、全国シェアは12.1%です。地方紙では新愛知と名古屋の2紙が健闘していますが、この両紙が合併したのが現在の中日新聞です。

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『朝日新聞販売百年史 : 大阪編』における『アサヒスポーツ』に関する記述

『朝日新聞販売百年史 : 大阪編』(大阪本社販売百年史編集委員会編 朝日新聞大阪本社 1979)に以下の記述があります。

「アサヒスポーツ」 大正十二年三月一日、大朝編集局内に「運動部」が新設され部長に東口真平が就任、スポーツ取材のほかに「アサヒスポーツ」の編集発行もおこなうことになった。「アサヒスポーツ」は四六4倍判(B4相当)・表紙とも三二ページ・総グラビア印刷・定価三〇銭で全文横組みの新形式であった。毎月一日と十五日の二回刊、第一号は三月十五日発行、印刷は大朝の新鋭ロータリー式フォトグラビア機で印刷された。

 昭和十一年一月号から横組みは縦組みに変わり、十四年三月から編集の主体は東朝に移って十八年、戦時のため休刊、戦後二十三年一月十日号から週刊で復刊したが、日刊のスポーツ専門紙が各地で発行されるようになったため二十九年十月から週刊を月二回刊とし、三十一年一月十五日号を最後に廃刊した。”(p.309)

大阪朝日新聞編集局に運動部が誕生したのは1923(大正12)年であったことを確認できました。部長の東口真平は熊本師範、東京高師卒、第4回日本陸上競技選手権大会の100mで優勝しています。『朝日新聞』1945年8月11日付の死亡記事によれば、

“熊本県玉名郡玉水村出身、大正八年東京高師教育科を卒業、同九年七月大阪朝日新聞社社会部員として操[?]界に入り同十二年運動部長に就任、中等野球はじめ我国体育界のため尽[?]し昭和十四年二月大阪朝日新聞編集局次長、同十七年六月編集局長となり十九年取締役就任と同時にジャワ新聞社長として南方に赴きジャワ新聞会長を兼ね現地軍政の浸透に終始力を喝した。遺族としては、夫人、長男秀夫氏ほか四女がある。”

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無事だった本家旅館

岩手県田野畑村の本家旅館に泊ったことがあるので、津波でどうなったかを心配していましたところ、さるブログ記事で無事なのを知りました。田野畑村でも高台にあったので津波には直撃されなかったようです。料理が素晴らしく、刺身だけで満腹するくらいの量があり、松茸(10月に宿泊した)がたくさん出たのにびっくりしました。なにしろ横手の鮮魚店の団体が同宿していたくらいです。名物はドンコのうしお汁で、見た目はよくないドンコですが、身離れのいい白身の上品な味でした。帰りに寄った宮古の市場では3尾千円と下魚扱いでした。関西で獲れたら鯛、甘鯛、鱧と並んで京料理の頂点に君臨したでしょうに。

後で知ったのですが、吉村昭氏が『三陸海岸大津波』(初題は『海の壁』)の取材のため宿泊されていたそうです。

奥尻島の洋々荘にも宿泊したことがあったのですが、北海道南西沖地震で旅館ごと土砂に埋まり、女将さんも含めて十数名が亡くなりました。→1993年7月12日/北海道南西沖地震現地調査(防災システム研究所) 上から3番目の写真

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大正期における大阪毎日新聞の成長とスポーツ・イベント

はじめに

 現在の全国高等学校サッカー選手権大会は1918(大正7)年1月に開催された日本フートボール大会(大阪毎日新聞社主催)を起源としている。大日本蹴球協会の設立は1921(大正10)年9月なので、現存するサッカー大会としては、協会設立以前に開始し、現在まで存続している唯一・最古の大会である。この大会が競技団体でなく、新聞社主催で開始された背景には、大正期における大阪毎日新聞社の急速な成長があった。

1. 発行部数

 『毎日新聞販売史. 戦前・大阪編』(川上富蔵編著 毎日新聞大阪開発 1979)の「発行部数一覧表」(p.604)および『朝日新聞販売百年史 : 大阪編』(大阪本社販売百年史編集委員会編 朝日新聞大阪本社 1979)の「朝日新聞創刊以来の部数の推移」(巻末折り込み ページ付なし)によれば、1912(大正1)年~1926(大正15)年のの発行部数は以下のとおりである。

年          大阪毎日新聞(カッコ内は同年の大阪朝日新聞)の発行部数

1912(大正1)年 283,497(190,767)
1913(大正2)年 307,130(198,743)
1914(大正3)年 321,454(241,777)
1915(大正4)年 392,106(240,740)
1916(大正5)年 451,303(259,924)
1917(大正6)年 491,160(315,583)
1918(大正7)年 541,843(342,386)
1919(大正8)年 513,414(341,300)
1920(大正9)年 602,408(376,032)
1921(大正10)年 686,539(444,552)
1922(大正11)年 824,941(562,700)
1923(大正12)年 920,795(585,294)
1924(大正13)年 1,111,459(689,974)
1925(大正14)年 1,221,138(754,373)
1926(大正15)年 1,230,869(782,709)

大正年間に大阪毎日の発行部数は4.3倍に、大阪朝日は4.1倍に増加している。大阪朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が1915(大正4)年に開始され、現在に続いている。朝毎ライバル2社は大正期に右肩上がりで急成長し、争ってスポーツ・イベントに参入していたのである。

2. 株式会社化と資本金の増資

 『近代日本新聞小史 : その誕生から企業化まで 改訂版 』岡満男著 ミネルヴァ書房 1973 (p.203)によれば、

資本金50万円の合資会社だった大阪毎日新聞社は、

1918(大正7)年12月21日に株式会社に改組し、資本金を120万円に増資、 
1922(大正11)年5月10日250万円に増資、
1924(大正13)年10月10日500万円に増資、

している。わずか6年間で資本金は10倍になっている。

ライバルの大阪朝日新聞も資本金60万円の合資会社だったのが、

1919(大正8)年7月31日株式会社に改組し、資本金を150万円に増資、
1920(大正9)年4月2日200万円に増資、
1922(大正11)年5月23日400万円に増資、

している。

3. スポーツ担当セクションの独立

 『大阪毎日新聞社史』(小野秀雄著 大阪毎日新聞社 1925)の「第二編 第六章 現今の本社」には、大阪本社編輯局に以下の部門が記載されている。

“整理部、内国通信部、外国通信部(支那課)、社会部、経済部、中央連絡部、論説課、編輯課、校正課、運動課、エコノミスト部、英文大阪毎日、点字大阪毎日”(p.160)

1925(大正14)年時点で、社会部、経済部と並んで「運動課」が独立していたことを確認できる。

4. 新聞社のイベント中のスポーツ事業

 『大阪毎日新聞社史』(小野秀雄著 大阪毎日新聞社 1925)「第二編 第五章 発行部数百万部を突破す」には「定期的催し物」として以下が記載されている。


開催の月 種類          社との関係

一月 日本フット・ボール大会 主催
同  全国中等学校駅伝競走 後援

二月 大阪府下女学校音楽大会 主催

三月 梅若流能楽大会 後援

四月 全国選抜中等学校野球大会 主催
同  日本硬式庭球大会 同
同  日本女子オリムピック大会 後援

五月 春陽会美術展覧会 同
同  日本オリムピック大会 主催
同  関西短艇競漕大会 後援

七月(ママ) 全国専門学校野球大会 同
同       大阪府大学、専門学校陸上競技大会 後援

七、八月 浜寺海水浴場並に天幕村 主催
同     浜寺水練学校 同

七月 全国中等学校庭球大会 同

八月 京阪神実業団庭球大会 同
同  全国女子中等学校庭球大会 同
同  専門学校、中等学校水泳大会 同

十月 大阪府下中等学校陸上競技大会 後援
同  大阪市学童オリムピック大会 同
同  日本学童オリムピック大会 同
同  梅若流能楽会 同

十一月 女子ヴァレーボール大会 主催
同    同バスケット・ボール大会 同
同    全国学生相撲大会 同

十二月 慈善団基金募集慈善興行 同
同    乗馬練習会 後援”(p.149-150)

大阪毎日新聞社は定期的スポーツ・イベントとして、フット・ボール(サッカー、ラグビー)、駅伝、野球、硬式庭球、オリムピック、競漕、陸上競技、水泳、バレーボール、バスケット・ボール、相撲、の大会を開催・後援しており、サッカーだけを特別視していたわけではない。これらの中には、高校ラグビー、選抜高校野球、高校駅伝、浜寺水練学校などのように、今日まで毎日新聞社主催で引き継がれてきたものもある。

5. 「全国紙」へ

 大阪毎日は関東では東京日日新聞(1911年より)、大阪朝日は同じく東京朝日新聞(1888年より)を刊行し、関東に進出していたが、1923年の関東大震災以前の関東では報知新聞、時事新報、国民新聞の3大紙に続く4、5番手であった。『後楽園スタヂアム50年史』(後楽園スタヂアム, 1990)に読売新聞社名誉会長務台光雄が「後楽園球場はどうして出来たか 読売新聞の発展と巨人軍の関係」を寄稿しており、関東大震災前後の関東新聞販売情勢を以下のように記述している。

“私が、正力前社主の要請により、読売新聞社へ入ったのは、昭和4年の8月であります。ところで東京において発行された新聞は、大正12年の8月には、報知、時事、国民の三大紙が発行部数、30万部以上を出しておりましたが、朝日、毎日の両紙は20万部台で、3、4万部の夕刊紙を別にして万朝、やまと、中央、中外商業、都、読売、毎夕、ニ六など10万部台の新聞を合わせて13の新聞社が、それぞれ特徴のある新聞を発行し競合しておりました。それが大正12年9月1日に起こった関東大震災により、全部の新聞社が壊滅して、発行不能に陥ったのであります。

 この時、朝日、毎日の両社は、この時期を逸しては、と大阪本社と協力し、その援護のもとに資金にものをいわせて、あらゆる方法をもって東京の新聞社に大攻勢を加えたのであります。(大阪朝日は、明治12年の創刊、大阪毎日は、明治21年の創刊ですが、この時、両社は西日本全体に100万部以上の部数を確保し、多くの利益を挙げて磐石の地位を築いておりました。)これが、日本はもとより、世界においても例のない激烈な競争が行われた新聞戦国時代であります。その結果、東京の新聞社は、各社とも非常な経営難に陥り、経営者の交代が頻々として行われ、そのあと政財界の有力者が経営を引き受け、新たに資金を投入して、大勢を挽回しようと努力しましたが、何れも長く続かず、漸次凋落し、やがて、すべての新聞社が廃刊、合併の余儀なきに至り、日本の新聞界は、朝日、毎日の両社によって制覇されるに至ったのであります。”

 1923年の関東大震災を機に関東3大紙をはじめとする関東諸紙を軒並み駆逐し、毎日と朝日の2大紙が、戦後読売が台頭するまで、「全国紙」として君臨することになる。『毎日新聞販売史. 戦前・大阪編』(川上富蔵編著 毎日新聞大阪開発 1979)の「発行部数一覧表」(p.604)および『朝日新聞販売百年史 : 大阪編』(大阪本社販売百年史編集委員会編 朝日新聞大阪本社 1979)の「朝日新聞創刊以来の部数の推移」(巻末折り込み ページ付なし)によれば、1923(大正12)年に373,979部であった東京日日新聞の発行部数は翌1924(大正13)年には688,626部(84.1%増)、同じく東京朝日新聞は289,464部から410,221部(41.7%増)となっている。

 毎日新聞は東西合計で1921(大正10)年に100万部を突破、1924(大正13)年には大阪毎日単独で100万部を突破、1926(大正15)年には東西合計で200万部を突破、1930(昭和5)年には東京日日単独で100万部を突破している。1936(昭和11)年には九州(西部)と中部にも進出、1940(昭和15)年には全国で300万部を突破している。毎日とほぼ同時に朝日も九州支社(1935年)、名古屋支社(1936年)を設立して、朝毎2紙の全国制覇が達成される。


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またまた諏訪に

18切符の消化のため、どこかに行こうと思いましたが、北方向はヤバそうなので、結局西方向は中央線ということで上諏訪温泉に行ってきました。

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ゴシック建築の教会のような片倉館とその事務所

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片倉館前庭の池の鴨

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今回のうなぎはうな藤。前回の古畑から徒歩5分と離れていません。古畑の並びの帯川もうなぎや。写真でおわかりのように、うな藤は関西風でワイルドな感じ。うな重の上にある空の皿は肝焼きでしたが、これも量タップリでした。

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諏訪市は温泉を上水道のように給湯しており、町中に温泉タンクがある家が目につきます。→温泉の新設・廃止・名義変更などの手続き(諏訪市)。個人でも温泉が引けるのはうらやましいですが、そんなに安価でもないようです。 

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小淵沢で列車連絡待ちの間に途中下車した際、路傍にあった石仏

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帰りの竜王駅にいた東北向けに長大編成の貨物(ガソリンタンク)列車。機関車2連で引っ張ってました。


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