岡部平太のパリ・オリンピックサッカー観戦記⑨ 「ウルガイ選手の話」『世界の運動界』より
“ウルガイの小供に土産をもって行ってやるならば、蹴球のボールが一番喜ばれる。
それ程ウルガイの者は子供の時から蹴球がすきだ。小学校の子供達は学校の帰り道、三十分位は野原であろうが、処かまわず球を蹴って遊がので、自動車の運転手泣かせといふ綽名をつけられて居る。十五六才になると必ず最寄りのクラブかティームに這入ってそこで選手になる。今度の優勝選手達もそうした連中で年齢は大抵十九から二十六位迄の間である。ウルガイでは外のスポーツも無論盛んであるが、フットボールは全くウルガイの国技であって銀行会社官庁、の連盟があり、大学には各部中学校、小学校に到る迄それぞれフットボールのティームを持たぬ処は殆んどないと云ってよい位である。今度の選手の学歴は皆小学校を終ったばかりのものが多い。大抵は店員をやって居る。大会の花形であった、黒人のアンドラーデはピアノの修繕屋をして居る。
十二月二十一日から南米の夏が来る。三ケ月だけ蹴球のシーズンが休みになるが、他の季節は皆蹴球の季節である。ウルガイの人口は現在百十万であるけれ共田舎はあまり盛んと云ふ方ではなく首府のモンテビデオが最も盛んである。やって居るものの総数は二千人も居るだろう。其人数で、スエーデンの五万のプレーヤーに対せねばならなかった。
モンテビデオには大きなスタデウムが三つ、中位のが十二あって不足はしない。其上優勝テームは必ず独占のスタデウムを作るといふ約束になって居るので年々其数は増して行く。政府も今度の勝利前はあまり熱心にやってくれず、今度の派遣にも補助金を貰えなかったが、優勝の報を得てから、急に乗気になった様だ。六月九日の優勝日を以て国祭日と定めたそうだ。
スポーツの世界でも改造紛糾は免れぬものと見へる。ウルガイでも、ア式蹴球のフェデレーションと、アッソシエーションの二つに分立して居る。今度の選手は、全くアッソシエーションの方の選抜ティームで、若し両方が結合して選手を送って居たら、もっと強いティームになったかも知れぬ。
南米に於ける、吾々の強敵アルゼンチンでもやっぱり同様の問題の為妥協が出来ず、政府の補助金が出ず遂に大会にやって来る事が出来なかった。
ウルガイの蹴球の歴史は始まって丁度二十四年になる。1900年スコットランドからプールといふ人が来て、教へてくれた。其後英国のティームが模範試合に来たり、軍艦が来た時試合をやったりして居たが1910年から、アルゼンチンと国際競技をやり出した。1916年に南米全部のティームが集まって優勝試合をやった。アルゼンチン、ブラヂル、チリー、パラグワイ、ウルガイの五テームでウルガイが優勝した。
1917年に再び優勝したが1919年には1対0でブラヂルに敗れ第二位になった。1920年と昨年優勝する事が出来た。
ウルガイティームの強味は持久戦に慣れて居る事であった。南米ではタイムアップの時に同点であればそれから先は何時間でも打つ通しの試合をやって決して引分けと云ふ事をやらぬ。だから長時間のゲームには慣らされて居る。1919年の優勝戦には三時間の試合をやった。今度の試合の中、フランスとのゲームは実際を白状すれば最初の二十分迄は慥かに圧迫されて居て仏蘭西が有利であった。然しそれ以後仏蘭西は弱ってしまった。仏蘭西の時はあまりに相手を見縊った為油断した其かわり優勝戦には全力を挙げて闘った。やはり全試合を通じて、スイスが一番強かった。
技術作戦に就いて別に詭計を弄する様な事は考へなかった。ただ練習中パスには重きを措いた。パスを重んずるといふ事は、ドリブルを重んずるといふ事である。パスはドリブルの延長である。それ故ドリブルの出来ない者はア式蹴球の選手としては資格ないものと思ふ。敵の防御線までは出来るだけ低く球を運びそれから強くシュートする。
ホワワード、センターのペトローネは全くうまいプレーヤーである。今度のティームが編成されて満一年になるが、南米の選手権試合と国際的の試合を合せて、十七回の試合をした。其中、十六回の試合、に彼は必ずゴールした。そうして二十一点の得点をした。彼がスコーアーしなかった、ゲームはただ一回和蘭の試合があったばかりである。彼は国を出る時彼の父に誓って何の試合にも必ずゴールを入れると云って別れて来たので和蘭戦の後では其約束に違ったのを残念がって泣いて居た。”(p.296-299)
Comments
ウルグアイに行き独立100周年記念スタジアムと付属博物館に入ったことがありますが、サッカー強国時代の思い出の品が数々展示。一番感動したのは一瞬ですが、フィールドの芝を踏んだ時。アラブの富豪用ビップ席には、時代の流れを感じましたが。
Posted by: 藤大納言 | April 23, 2011 12:05 AM