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岡部平太の略歴とサッカー

略歴

岡部平太(1891-1966)は、1891(明治24)年玄界灘に臨む福岡県糸島郡志摩村生、1908年福岡師範入学、1912年同卒業し久留米市の小学校教師となる。1913年東京高師体操専修科入学、講道館入門初段を相手に5人抜きで二段、翌1914年7人抜きで四段に昇格、嘉納治五郎に付いて各地で模範演技を行う。1916年高師体操専修科卒、同研究科に進学。1917年高師研究科を卒業、神戸の実業家内田信也の援助により米国留学、シカゴ大学のAmos Alonzo Stagg教授の指導の下、アメリカン・フットボール、バスケットボール、水泳、陸上競技を学ぶ。1918年ペンシルバニア大学で運動生理学、ハーバード大学で女子体育、スポーツ史を研究。

1920年帰国し、東京高師体操科講師となる。米国のプロレスラーサンテルと柔道の異種格闘技試合の開催をめぐって嘉納と対立、講道館を破門される。1921年内田信也のフィランスロピーで設立された水戸高校のグラウンドを設計、同校講師に就任。同年突然講師を辞任し、満鉄に入社。1922年満州体育協会を創設、理事長なになる。1923年欧米体育事情の視察に出発、1924年のパリ・オリンピックを観戦。

1925年全日本陸上競技連盟(陸連)結成、同年マニラで開催された第7回極東選手権の陸上競技監督となるが、同大会の審判トラブルで日本チームがボイコット、それを批判した体協と決定的に対立する。著書『世界の運動界』刊行。

1928年皇太子御成婚を記念した日仏対抗陸上競技大会を大連で開催。張作霖の親分の遺児馮庸と親しくなり、奉天の馮庸大学教授となる。

1931年満州事変勃発、馮庸を欧州に亡命させようとするが、馮庸は上海で下船し蒋介石と合流、岡部は関東軍に逮捕される。満鉄を退社、体育関係の職も辞す。

1937年北京国立師範大学体育科教授に就任。

1945年帰国、福岡へ帰郷。1948年福岡国体事務局長に就任、競技場の新設に奔走、新競技場を「平和台」と命名。

1950年「オリンピック・マラソンに優勝する会」を結成。1951年ボストン・マラソンに監督として初参加、田中茂樹が優勝。1952年福岡学芸大学(母校・福岡師範の後身)講師に就任、1955年教授となる。

1961年『年齢別にみた水泳のエネルギー代謝』で久留米大学より医学博士号授与。

伝記として『日本スポーツを救え : 野人岡部平太のたたかい』(田中館哲彦著 平凡社 1988)と『岡部平太小伝 : 日本で最初のアメリカンフットボール紹介者 : 附改訂版関西アメリカンフットボール史』(川口仁著 関西アメリカンフットボール協会フットボール史研究会 2004)の2冊がある。

上記に記したように、嘉納治五郎からは破門され、「体協の国際陸連加盟の経緯」で記したように、1924年パリでは体協に対抗してパリで即席の「全日本陸上競技連盟」(竹内広三郎も発起人に名を連ねている)を結成して体協の面子をつぶし、さらに1925年マニラ極東選手権ではボイコット事件を起こし、岸体協と決定的に対立する、まさにスポーツ界の「野人」であった。

サッカーとの関係

サッカーとの関わりは、日本が復帰した第5回上海極東選手権大会で、蹴球委員会の委員長(委員に山田午郎、吉川準治郎)に就任している。この時点で大日本蹴球協会は設立されておらず、サッカーも体協直轄で、岡部が責任者となった。同年設立された大日本蹴球協会では「委員」の一員となっている。

柔道出身だが、米国留学中に様々な競技、特にフットボール(アメリカン・フットボール)を体験しており、当時体協内で「蹴球」を担当できるのは岡部しかいなかったのではないだろうか。

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