「日本陸上競技連盟創立」『日本陸上競技連盟七十年史』より
“日本陸上競技連盟創立
1925(大正14)年3月8日、全日本陸上競技連盟が創立された。それは陸上競技のみならず、日本のスポーツ史を飾る画期的な快挙であった。
陸連の結成は、1911(明治44)年以来日本のスポーツを専制的に支配統制してきた大日本体育協会(体協)の民主的改革につながり、しかもその民主化運動の先頭に立ったのは早慶明3大学の陸上競技部員であった。
1911(明治44)年7月、日本初代のIOC(国際オリンピック委員会)委員、嘉納治五郎によって創立された体協は、1912年ストックホルムの第5回オリンピックに日本初参加を実現し、陸上競技に2人の選手を派遣したが、その後体協の運営に当たった役員は東京帝大(東大)や東京高等師範学校(高師)の出身者が大半を占め、陸上競技をはじめ、水泳、スキーなど、明治末期から日本で発達してきたスポーツを直轄支配していた。
私学のスポーツ関係者はこれに批判的であったが、1924(大正13)年、パリの第8回オリンピックに派遣する陸上競技の選手・役員の人選に対して、大学関係者の体協非難は頂点に達した。
早慶明3大学の陸上競技部員は、4月23日午後7時から慶大に集合し、「不徹底極まりなき大日本体育協会の改造を期す」として、次のような決議文を発表した。
「第6回極東大会2次予選大会において将来は反省するとの契約があるにもかかわらず、その後いささかの改革の実を認めず、かえって大日本体育協会の不遜不敗を認む。吾人は多年大日本体育協会の不公平なる屈辱に忍従し来たれり。しかるに今日ついに体育協会の根本的な大改革案を掲げて奮起するのやむなきに至れり。事態ここに至りしは、けだし当然の趨勢にして、吾人今日の提案は真に日本運動界の発達進運に貢献するの大なるものたることを信ず。よって決議す。
①不徹底極まりなき大日本体育協会の改造を期す。②吾人の正義絶叫に対し要求をいれられざるときは、断固として初志の貫徹に努め、今後いかなる理由あるも体育協会主催の競技会ならびに会合には一切参加出場せざることを決議す」
その夜遅く代表者が決議文を手渡すため、岸清一体協会長を芝伊皿子の私邸に訪ねたが、就寝中で面会を断られ、翌日京橋の体協事務所へ持参したが、面会した辰野保理事は、体協役員は数日後に迫ったパリ・オリンピックへの出発準備で、協議の時間がないという理由で、決議文の受取りも拒んだ。
3大学側は、体協に誠意がなく、このうえは体協と絶縁するほかないと決意を固めた。全国学生競技連盟の加盟高のうち、農大、中大、法大、東大農学部実科、立大、慈恵、拓大、日医、日歯、横浜高専の10校は、3大学の決議に賛成して同一行動をとることを決定した。
この年の秋、新設の明治神宮外苑競技場で、内務省主催の第1回明治神宮体育大会が開催された。しかし、大会の陸上競技の運営に当たったのは、依然として体協役員だったので、13校は結束して大会参加を拒否した。
一方、13校以外の東大、高師、一高、学習院、青山学院、水戸高、浦和高の7校は、13校決議の趣旨に賛成するが、神宮大会は体協主催ではなく、内務省主催で明治天皇をしのぶ大会であるから、参加拒否は過激であるとして、大会には出場した。
後にこの問題が「13校7校問題」といわれるゆえんだが、このため全国学生競技連盟も解体同然の状況に陥った。
パリ・オリンピックでは、体協が国際陸連(IAAF)に加盟を申請したのに対抗して、満州体協の岡部平太が、地方体協有志を代表して「全日本陸上競技連盟」を名乗り、IAAFに加盟を申し込んだ。しかし、IAAFは体協に陸上協議組織の実績が」あるとして、体協の加盟を承認した。
このとき、独自の服装と直立走法で、金栗四三の向こうを張り「マラソン翁」といわれた愛知一中の校長日比野寛も、岡部平太の同志に加わっていた。
パリから帰国した体協会長岸清一は、体協改革を主張する学生運動とこれを支持する世論にショックを受け、ついに体協を競技別団体の加盟組織とすることを決意し、東大教授(労働法)で水泳の代表役員だった末広厳太郎を委員長とする「改造案起草委員会」を設け、その答申を受けて、競技別全国組織(競技団体)を加盟団体とする新規約を作成し、新生体協が成立した。
陸上関係者は体協組織に対応する全国組織の結成について協議を重ねていたが、1924(大正13)年12月21日、まず関東陸上競技協会が生まれ、翌年2月21日に名古屋市の名古屋ホテルで、関東陸協、大阪、奈良、熊本、松江の体協役員20人が出席して、全日本組織の規約案を協議した結果、「本連盟は全日本陸上競技連盟と称し、本部を東京に置く」以下の規約を決定し、3月8日に東京日本倶楽部で創立総会、4月18日に神宮競技場で発会式を行った。
全日本陸上競技連盟規約
(略)
第3条 本連盟ハ前条ノ目的ヲ達スルタメニ左ノ事業ヲ行ウ
1 毎年1回陸上競技選手権大会ヲ開催ス
2 国際競技派遣選手予選会ヲ開催ス
3 前2号ノ大会開催ノ場合ハ本連盟ノ名ヲ以テ選手役員設備等ヲ考慮シ、本連盟加盟団体交互ニ行ウヲ以テ原則トス、但シ開催地ハ2年前ノ予告ヲ以テ之ヲ決ス
4 陸上競技ニ関スル指導奨励
5 陸上競技ニ関スル調査研究
6 其他本連盟ノ目的ヲ遂行スル為必要ナル事項
(略)
全日本陸上競技連盟の誕生は、日本におけるスポーツ組織の民主化成功を告げるものであった。民主革命の原動力となったのは、まさに若い力と情熱であった。
陸連創立と同じ年の4月「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、翌年から中学校以上大学まで軍事教練が正科となり、軍国主義教育が公然と体育科教育に浸入した。
さらに文部省は、「学生の思想善導のため体育運動競技を奨励する訓令」を出し、併せて大学高校生の社会科研究を禁止した。内務省の治安維持法と同時進行である。
このような情勢の中で、体協の民主化を推進し、そのために内務省が主催する明治神宮大会をボイコットした13校学生の自治精神は、衰えることなく次代に継承された。
1928(昭和3)年に創立した日本学生陸上競技連合は、その規約に「本連合は独立学生自治団体にして、その規約によりてのみ支配せらるるものとす」と明記して、あらゆる政治的・商業的・宗教的弾圧に抵抗する姿勢を明らかにしたのである。 (川本信正)”(p.153-155)
規約の第3条に
1 毎年1回陸上競技選手権大会ヲ開催ス
2 国際競技派遣選手予選会ヲ開催ス
があり、①日本選手権の開催、②国際大会日本代表の選考が陸連の主要機能と考えられていたようです。陸上競技の場合、この2つは体協が直轄していました。
1921年に誕生した大日本蹴球協会は1921年から日本選手権(現在の天皇杯)を主催し、1923年第6回極東選手権では協会が代表を選考しています。これは体協にサッカーに口を挿むほど関心のある人がおらず、体協がJFAまかせにしたものと考えられますが、サッカーは他の競技に先んじて体協から独立した競技団体としての先行モデルであったともいえます。
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