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日本サッカー通史の試み⑨ 1917年第3回極東選手権東京大会におけるサッカー

9. 1917年第3回極東選手権東京大会におけるサッカー

 前年1916年に大阪朝日新聞社主催の関西予選会には6チームが参加、御影師範が優勝したが、近畿外への遠征は認めない学則のため東上できなかった。東京高師と豊島師範が出場決定戦を行なう予定であったが、これも実現せず、東京高師が日本代表として出場することになった。当時、大学までサッカーが普及しておらず、唯一の高等教育機関である東京高師が選ばれたようである。

 成績は対フィリピン2-15、対中華民国0-5の惨敗であった。試合経過の詳細については、安達太郎(山田午郎の筆名)「極東の覇を目指して」『蹴球』第5号 1933年8月 p.7-14 や後藤健生著『日本サッカー史 : 日本代表の90年 : 1917-2006』(双葉社 2007)を参照されたい。

 1917年時点では定常的なリーグ戦、トーナメント戦はなく、普段から実力を磨く機会がなかったので、この成績は当然といえる。出場選手中8名が師範学校出身者であるが、師範学校出身者は小学校勤務を経て師範学校長の推薦で東京高師に進学するので、一般に高齢であった。

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 選手は「サッカー専任」ではなく、陸上競技が「本職」である選手もいた。主将竹内広三郎(写真後列右から4番目)は、織田幹雄が三段跳びで金メダル、人見絹枝が女子800mで銀メダルを獲得した1928年オリンピック・アムステルダム大会の陸上競技監督である。1924年オリンピック・パリ大会にも大阪毎日新聞から派遣され、サッカー決勝戦ウルグアイ対スイス戦観戦記「ウルガイ蹴球チーム」を『オリムピックみやげ 第八回巴里大会記念 第2輯』(大阪毎日新聞社 1924)に寄稿している。日本人最初の南米サッカー観戦記であろう。佐々木等(写真前列右から5番目)も陸上選手であり、広島一中生徒時代の織田幹雄を「発見」し、練習で日本記録を軽く跳ぶ中学生がいることを『運動界』誌で紹介している。サッカーとの関係は続き、おそらく戦前最も読まれたであろうサッカー図書『フットボール』(目黒書店 1922)の著者となる。体育学専攻の大学教授となり、多数の体育関係書を著し、『わが生立ちの記』(健寿学会 1976)という自伝も残している。フィリピン戦で2得点し、日本代表初のゴールゲッターとなった藤井春吉(写真前列右から2番目)は高師卒業後静岡師範に赴任してサッカーを伝え、静岡県サッカーの祖となる。武井群嗣(写真後列右から3番目)は高師卒業後京大法学部を経て内務省に入り、東条英機内閣時代に4年間厚生事務次官を務め、戦時中における労働力動員の重責を担った。1921年大日本蹴球協会結成時には初代理事の一人となる。サッカー日本代表から官僚のトップ事務次官になった異色の人物である。『厚生省小史 : 私の在勤録から』(厚生問題研究会 1952)という回想録を残している。

 惨敗はしたが、上記のように、出場選手から様々な形で日本サッカー界に貢献した人物が出ており、師範学校ではなく、東京高師を極東選手権初代表に選んだことは正解であったといえよう。

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