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日本サッカー通史の試み⑮ 大日本蹴球協会の創立(2)

15. 大日本蹴球協会の創立(2)

 協会創立の経緯については実務で奔走した内野台嶺自身が「協会成立の顛末」『大日本蹴球協会会報 大正10年度』p.3-5 に記している。東京朝日新聞記事の8日後の1919年3月20日に嘉納治五郎に呼ばれ、

“此の度英国大使を通して、英国の蹴球協会から我が蹴球協会へシルバーカップを寄贈して来たが、日本には未だそのやうな協会が無いから、是非此の際それを設立せよ”

と命じられた。カップは1919年3月28日嘉納治五郎が受け取り、蹴球協会ができるまで体協が預かることになった。1919年3月12日付『東京朝日新聞』記事では“新しく設立せらる徳川家達公及び英国大使を名誉総裁とする日本蹴球協会”とあり、ヘーグ氏はすでに手まわしよく名誉総裁を依頼していたようである。

“協会設立に関しては、ヘーグ氏は色々英国の協会の事情やら、シルバーカップ戦の規約やらを書いて送って下された。加之英国大使と我が貴族院議長徳川家達公とを名誉会長に仰いで、隔年に此のカップを」授与することの御承諾をも得て下さった。”

ヘーグ氏の尽力により、運営実務と名誉会長の人選はすんなりと進んだ。しかし、肝心の会長の人選が難航した。

“処が会長を得る段になると非常な困難に出会ってしまった。之が為に同志の者は何回となく会合した。蜂須賀侯爵、鍋島侯爵、後藤男爵、大谷光明氏、嘉納治五郎先生、岸清一博士と云ったやうな具合に、随分と所々方々にお願いに上がったが、何れも止むを得ぬ御事情で承諾が願へなかった。”

 内野はまったく言及していないが、「日本サッカー通史の試み⑧ 極東選手権と日本」で説明したように、この時期、大日本体育協会は、1919年第4回極東選手権マニラ大会の不参加をめぐって紛糾していた。

東京朝日新聞にFA銀杯記事掲載 1919年3月12日
体協理事会極東選手権不参加を決定 同3月17日
嘉納治五郎体協会長銀杯を受領 同3月28日

と蹴球協会設立準備と極東選手権不参加による体協の紛糾は同時進行していたのである。1919年12月には東京高師で大学昇格問題が勃発して学内が騒然とし、翌1920年1月9日嘉納治五郎は高師校長を辞任する。そして相次ぐトラブルに嫌気がさしたのか、1920年6月8日~1921年2月10日にかけて外遊に出かけてしまう。留守の間に体協は1921年以降の極東選手権参加に方針転換しており、帰国直後の1921年3月8日に嘉納は体協会長を辞任する。

 1917年第3回極東選手権東京大会で日本サッカーはフィリピン、中華民国に大惨敗であり、とてもオリンピックを目指すような水準ではなかった。蹴球協会が設立されれば、当然極東選手権参加が協会の方針となるはずである。体協会長が極東選手権参加反対派の嘉納であるかぎり、誰が蹴球協会会長になっても協会員と体協の板挟みになるのは目に見えていた。会長の引き受け手がなくて当然である。

 内野が奥歯にものの挟まったような書き方をしているのは、本当のことを書くと、東京高師の上司(校長)として1919年3月20日協会設立を命じ、体協会長として同3月28日にFA銀杯を受け取っておきながら、校長、会長の役割を放棄して長期にわたって外遊した嘉納の悪口になってしまうからだろう。

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