« 日本サッカー通史の試み⑮ 大日本蹴球協会の創立(2) | Main | 日本サッカー通史の試み⑰ 初の代表アウェー戦 »

日本サッカー通史の試み⑯ 大日本蹴球協会の創立(3)

16. 大日本蹴球協会の創立(3)

 紆余曲折を経て、1921年9月10日大日本蹴球協会が設立され、初代会長に大日本体育協会理事今村次吉が就任した。

16.1 なぜ初代会長に今村次吉が選ばれたのか

 なぜ初代会長に体協理事が選ばれたのかを考察してみよう。1925年4月の体協改革(後述)の時点で体協に加盟していた7団体の設立年月日は以下のとおりである。

1) 日本漕艇協会 1920(大正9)年6月1日
2) 大日本蹴球協会 1921(大正10)年9月10日
3) 日本庭球協会 1922(大正11)年3月31日
4) 大日本ホッケー協会 1923(大正12)年11月18日
5) 大日本水上競技連盟 1924(大正13)年1月31日
6) 日本陸上競技連盟 1925(大正14)年2月7日
7) 全日本スキー連盟 1925(大正14)年2月15日

 実は大日本蹴球協会(JFA)は体協加盟団体中2番目に古い団体であった。最も古い日本漕艇協会でも前年の1920年創立である。従って、1919年3月20日に内野台嶺が嘉納治五郎から蹴球協会設立の命を受けた時点で、日本には全国的な競技団体はなかったのである。会長の人選が難航したのは、極東選手権不参加問題のほかに、そもそも競技団体の会長が何をすればよいのか、わかっていなかったこともあろう。

 当時陸上競技、水上競技の日本選手権と国際大会の代表選考は体協が直轄しており、体協としても新規に創立される競技団体との「距離感」をつかみかねていたようである。体協理事を新団体の会長にしておけば、新団体との接点となって、体協と新団体の意思疎通を図ることができる。サッカーと接点のなかった今村が会長に選任されたのは、主としてこの理由によると考えられる。なお、1年前に設立された日本漕艇協会の初代会長には体協副会長の岸清一が就任しているが、これもおそらく同様の理由であろう。

16.2 大日本蹴球協会が早期に創立されたことの意義

 1924年オリンピック・パリ大会の陸上競技代表選考をめぐって、体協はまたも大きなトラブルを抱えることになった。代表選手および役員選考が官学偏重であるとの批判をきっかけに、早慶明の3大学を中心とする13校が体協をボイコットする、いわゆる13校問題である。

“体協の運営に当たった役員は東京帝大(東大)や東京高等師範学校(高師)の出身者が大半を占め、陸上競技をはじめ、水泳、スキーなど、明治末期から日本で発達してきたスポーツを直轄支配していた。”(『日本陸上競技連盟七十年史』)

批判は代表選考のみならず、体協の運営のあり方そのものにも及び、13校は体協の組織運営改革も求めた。パリでは体協が国際陸連(IAAF)加入申請したのに対し、反体協側の陸上競技関係者が「全日本陸上競技連盟」を名乗って同時にIAAF加入を争う一幕もあった(体協の加入が認められた)。

 オリンピック後、体協は13校側に折れ、体協は競技を直轄しないで国内大会の開催と国際競技の代表選考は各競技団体に任せ、体協は競技団体の代表から構成されて競技団体の統括のみを行うことになる。1925年4月に組織改革が実施された。

 この段階で大日本蹴球協会は体協を構成する最古参の7団体のひとつとなり、体協内で一定の発言力をもつことができた。1925年にJFAを代表して野津謙が体協理事となる。野津は日本サッカーが参加していないもかかわらず、1928年オリンピック・アムステルダム大会に体協役員として派遣される。当時FIFAはアムステルダムにあり、野津は日本のFIFA加盟の下交渉を行ったことを「欧州のア式蹴球界」『大日本蹴球協会会報(昭和3年度)』所収において以下のように記している。

“殊に今回のオリンピック挙行地のアムステルダムは実にア式蹴球フェデレイションの本部である所。然も名誉秘書ヒルシュマン氏は大会の役員であった関係上、岸会長にもよろしくたのみ、余は幸に数度面会する折を得て、我国蹴球の歴史並びに現状次回オリンピック大会には出場の意志ある事等、細々と物語り、最後に、数年前より問題になってゐたフェデレイション加入の事にも及んだのである。ヒルシュマン氏は頗る喜ばれ、加入問題も来春五月マドリッドの会議に提出すれば、満場一致、可決は疑ひなしと語られた。”(p.16-17)

FIFAには翌1929年加盟するが、体協による野津のアムステルダム派遣がその一助となったことは間違いなかろう。大日本蹴球協会は、

1) 1921年の設立直後から全国優勝競技会(現在の天皇杯に続く)、すなわち国内選手権の主催
2) 1923年極東選手権大阪大会からの代表選考、すなわち国際競技の代表選考
3) 1929年FIFA加盟、すなわち国際競技団体への加盟

を順調に行うことができた。陸上競技では、上述のように陸連の誕生自体が体協との「バトル」であって、陸連が体協に代わって国際陸連に加盟できたのは1928年のことであった。1912年オリンピック・ストックホルム大会から参加している陸上競技は体協と陸連が「競合」関係にあったのに対し、歴史の浅いサッカーに干渉する体協役員はおらず、対体協関係における陸連のトラブル続きとJFAの順調さは対照的といえる。

 大日本蹴球協会は「ヘーグ氏の厚意」から誕生し、「13校陸上部の反乱」により体協内で地歩を固めることができた、まさに「棚からボタ餅」を地でいくラッキー・アソシエーションであった。

|

« 日本サッカー通史の試み⑮ 大日本蹴球協会の創立(2) | Main | 日本サッカー通史の試み⑰ 初の代表アウェー戦 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/45875/51748072

Listed below are links to weblogs that reference 日本サッカー通史の試み⑯ 大日本蹴球協会の創立(3):

« 日本サッカー通史の試み⑮ 大日本蹴球協会の創立(2) | Main | 日本サッカー通史の試み⑰ 初の代表アウェー戦 »