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日本サッカー通史の試み⑦ 師範学校の雄、御影師範

7. 師範学校の雄、御影師範

 東京高師がYCACに初勝利した1908(明治41)年から東京高師蹴球部OBによる師範学校、中学校へのサッカー普及が活発化する。師範学校で最も早くサッカーを始めたのが青山師範で1906(明治39)年、青山師範が東京高師と日本最初の対校戦を行ったのが1907(明治40)年である。

 御影師範は1918(大正7)年に始まった日本フートボール大会(実質的には近畿大会)に第1回から第7回まで7連覇、全国選手権大会化した全国中等学校蹴球大会でも4回優勝している師範学校サッカーの雄である。兵庫県御影師範学校同窓義会編『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』(兵庫県御影師範学校同窓義会 1936)の「蹴球部」の項(p.677-683)の記述に従って戦前の師範学校サッカーの一端を紹介する。

 御影師範にサッカーを伝えたのは1909(明治42)年東京高師を卒業し同校に赴任した玉井幸助で、同年から野球部員の一部がサッカーを始めた。1912(明治45)年野球部から独立して蹴球部となり、神戸高商と初めて対校戦を行う。同年、神戸二中、姫路師範、明星商と対校戦を行っている。

 1915(大正4)年第1回関西聯合蹴球大会に参加するも京都師範に敗退。1916(大正5)年第3回関西聯合蹴球大会が御影師範を会場に行われ、奈良師範、明星商、姫路師範を破って優勝している。同年、翌年の第3回極東選手権の関西予選会が大阪朝日新聞主催で行われ、サッカーは6チームが参加。御影師範は姫路師範、関学高等部、奈良師範を破り、優勝したが、学内規定により関東遠征はならず、東京高師が日本代表となる。

 1918(大正7)年の日本フートボール大会は第1回から参加して7連覇、関西聯合蹴球大会とともに優勝の常連校となる。1921年には第1回全国優勝競技会(現在の天皇杯に続く)に関西代表として東上し、決勝で東京蹴球団に敗れるが準優勝となる。

 1925(大正14)年第8回日本フートボール大会決勝で、前年ビルマ人チョー・ディンのコーチを受けてショート・パス戦術を習得した神戸一中に0-3で敗退、初めて優勝を逃す。この頃から神戸一中と宿命のライバル関係になる。

 1926(大正15)年日本フートボール大会が全国選手権化した全国中等学校蹴球大会では、兵庫県予選決勝で神戸一中を破り兵庫代表として出場、決勝で広島一中を下して全国制覇した。さらに、1929(昭和4)年、1931(昭和6)年、1932(昭和7)年の同大会で全国制覇するが、それ以降優勝はない。

 1937(昭和12)年御影師範自体が姫路師範と合併して兵庫師範となり、蹴球部は解散する。それ以前の1935(昭和10)年の全国中等学校蹴球大会で第2次年齢制限により19歳以下とされ(1929年度の第1次年齢制限では21歳)、また師範学校の定員減により蹴球部員も減り、部活動は低調化していたようである。『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』の「蹴球部」の項の末尾は以下のように結ばれている。

“昭和十年度 吉村部長時代

 第十七回大毎の全国大会が始めて夏開かれる事になった。而るに又もや第二次年齢制限が加へられ、五年生二名の選手が出場不可能となり、遂に予選に敗れてしまった。しかし第二学期に行はれた県体協主催の大会に優勝戦で宿敵一中に会ひ、実に百十分に亘る延長戦を行ったが三対三のドロンゲームに終り、甲子園にて再試合を行ひ四対一で遂に優勝したのである。此の試合こそ御影師範の名をもって出場する最後の大会であった。二三年来御影のラストを飾れと叫ばれつつある中に、大きな汚点を印したりとはいへ、募集人員の漸減、運動部数の膨張、部員皆選手といふ状態で人選の往時の如く意の如くならない怒があり、時勢の然らしむる所である。”(p.683)

 ライバル神戸一中を強化したのは御影師範の附属小学校OBだったのは皮肉である。神戸一中の蹴球部は御影師範附小OBが創部し、同小卒のサッカー経験者が多数入部することによって強化されていった。田辺五兵衛は神戸一中の部史『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ 1966)に寄稿した「神戸一中のサッカー 私の見たその足跡」において、御影師範附小と神戸一中の関係を次のように述べている。

“ある時計算したら日本代表選手の六割余が一中出身者(その八割位が御影師範附属小学校出身)であった。小学校の一年坊主のときから、御影師範の先生に教えられた附属の卒業生が、神戸一中へ入って磨きをかけられた。この理想的な環境に加えるに、サッカーの技術革命が入った。サッカー史上における重要な存在はかくして生まれたのである。”

「御影師範附小→神戸一中」というサッカー日本代表育成システムは、御影師範と神戸一中の合作システムだったのである。このシステムは御影師範サッカーの終焉とともに崩壊する。戦後の高校選手権において兵庫県代表が優勝から遠ざかったのは師範学校サッカーが断続してしまったことが大きい。


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