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日本サッカー通史の試み⑩ 東京蹴球団の創立と活動

10. 東京蹴球団の創立と活動

 第3回極東選手権の直後からサッカー界は急に活性化する。第3回極東選手権と同年の1917年、クラブチーム東京蹴球団が創立される。東京蹴球団は現存する最古のクラブチームというだけでなく、大正期におけるサッカーの普及に貢献し、大日本蹴球協会の基礎を築いた、日本サッカー史において重要な役割を果たしたクラブである。同団の活動については、団員原島好文(蹴球行進曲の作詞者でもある)が『運動界』誌10巻4号(1929年4月) p.36-45 に「ソッカー十年の思ひ出」で回想している。

10.1 東京蹴球団の創立

 兵役で知り合った青山、豊島両師範OBが、東京高師の内野台嶺が“此の競技を学生以外の者のやらないのは遺憾だから、東京在住の者で一団体作り度いと云っている”ことを知り、東京高師、青山師範、豊島師範OBでクラブを作った。初代団長は東京高師教授永井道明である。チーム名については、“クラブとしてでなく団の字を用ふるとなったのが栗山長次郎君の案で大勢は関東蹴球団と決りさうになった時、内野さんが東京の名を冠し度いと云ひ出したのでそれならと東京蹴球団が出来た”。蹴球団という名称は広島の鯉城蹴球団など他チームにも模倣されることになる。

10.2 サッカー選手としての活動

 当時関東でトップレベルであった東京高師、青山師範、豊島師範のOBチームであったので、草創期には日本有数のレベルのチームであった。1921年第5回極東選手権上海大会の日本代表に東京蹴球団から7名が選出されている(他は東京高師6名、東大の野津謙)。同年秋に大日本蹴球協会が創立され、第1回全国優勝競技会(現在の天皇杯に続く)が開催されるが、東京蹴球団は決勝で御影師範を1-0で下し、優勝している。

10.3 各種大会の開催

 OBチームなのでグラウンドがなく、“グラウンドを持たぬクラブ・ティームの停滞にお構ひなく学校ティームは伸びて行く”ので段々学校チームに劣勢になってきた。そこで学校チームにはできないことをやろうと、各種のサッカー大会を開催しはじめる。

 1918年東京蹴球団主催東京朝日新聞後援第1回関東蹴球大会を開催した。関東の中等学校を対象としたオープン参加の大会で、1~2月頃開催された。野球統制令の影響で主催団体が規制対象となった1933年第15回まで続きいた。決勝の結果は以下のとおりである。後援した東京朝日新聞はこの大会を最終回まで詳報している。

第1回 1918年2月 豊島師範A2-0豊島師範B
第2回 1919年2月 青山師範2-0佐倉中
第3回 1920年2月 豊島師範2-0佐倉中
第4回 1921年2月 豊島師範6-1埼玉師範
第5回 1922年2月 青山師範2-1豊島師範
第6回 1923年2月 青山師範2-0青山師範
第7回 1924年2月 豊島師範2-1青山師範
第8回 1925年2月 青山師範1-0豊島師範
第9回 1926年1-2月 青山師範2-0成城中
第10回 1928年2月 青山師範2-0東京府立五中
第11回 1929年1-2月 青山師範2-0茨城師範
第12回 1930年1-2月 東京府立五中4-1埼玉師範
第13回 1931年1-2月 埼玉師範6-1青山学院中
第14回 1932年1月 青山師範2-1東京府立五中
第15回 1933年1月 青山師範4-0茨城師範

 1922年には東京蹴球団主催東京朝日新聞後援関東少年蹴球大会を開催する。これは小学生のサッカー大会で、「関東」といっても実際に参加したのは東京府と埼玉県の小学校のみである。1940年第19回まで続いた。優勝校をみると埼玉県勢が圧倒的に多い。第1回大会は日比谷公園で行われ、有島武郎が長男、有島行光(後の名優森雅之)が出場した成城小学校を応援しに来場したことが東京朝日新聞に写真入りで報道されている。

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中央が森雅之、左が有島武郎、右が永井道明東京蹴球団長

2
メンバー表まで掲載 成城のLFに有島の名が 『東京朝日新聞』1922年10月16日付

 1923年には大学専門学校大会を始めるが、この頃には高等教育にサッカーが普及して翌1924年には東京コレッヂリーグ(現・関東大学サッカーリーグ)が始まっており、長くは続かなかったようである。

10.4 普及活動

 強豪チームであり、新聞の紙面にもよく登場したので、各地からサッカー指導を依頼されたようである。遠く北海道まででかけたようで、原島によれば、“北大から招かれたのを幸と渡道して旬日を札幌に送った。随分大袈裟な練習会であって、北海道殆どのティームの全員が参加した。(中略)翌年も招かれたがその時は山田君外三名が行って、主として理論方面の指導に力を尽したと云へば体裁はよいが、実は鈴の鳴る馬車に乗って中等学校大会を見たり、各ティームの練習振りを見たりして過ごした。”とのことである。

 「山田君」とは山田午郎で、日本最初の少年サッカー指導書『ア式フットボール』(杉田日進堂 1925)の著者である。原島も山田も青山師範卒の小学校教員であり、小学生にサッカーを教えたり、小学生サッカー大会を開催するのはお手の物であった。大正期にサッカーを底辺まで普及させたことは東京蹴球団最大の功績のひとつであろう。

10.5 大日本蹴球協会創立に貢献 

 1919年FAから銀杯が寄贈されてきたことをきっかけに1921年大日本蹴球協会が設立される。協会設立の実務に奔走したのも内野を中心とする東京蹴球団関係者だった。すでに各種大会の開催や普及活動など、東京蹴球団はプレJFAといってもよい活動をしてきたので、大日本蹴球協会の役員は東京蹴球団関係者が多数をしめることになった。初代理事7名中、永井道明(団長)、内野台嶺(団員)、熊坂圭三(団員)、吉川準治郎(団員)の4名が東京蹴球団関係者であった。理事以下の役員にも、原島、山田を始めとして多数の東京蹴球団員が名を連ねている。

10.6 サッカー・ジャーナリズムとの関係

 原島はサッカー・ジャーナリズムの始まりについても言及している。

“蹴球戦記を書き始めたのは東京朝日新聞の運動部であったらう。 第一回の関東蹴球大会までは、蹴球戦記が記事となって新聞紙に掲げられたことはなかったのを、兎に角数行或は十数行をそのために当て呉れた。『一進一退』、『敵前出の虚を衝いて奇襲を試み』などの文句がその頃は屡用ひられたやうだ。私などもその筆法を真似てやたらに戦記や妄評を書きなぐった。私が始めて稿料を戴いたのも此の『両軍技量伯仲にして一進一退』を並べた拙文であった。”

おそらく新聞社にはサッカー記事を書ける記者がいなかったので、大会の後援を通じてつながりのあった東京蹴球団員に記事執筆を依頼したのであろう。原島は教員を続けたが、山田午郎は記事執筆のアルバイトが本業になり、1926年朝日新聞社嘱託、1928年には正社員になる。さらにベルリン・オリンピックの年1936年に運動部次長、1939年運動部長となる。日本のサッカー・ジャーナリズムのパイオニアで、サッカー・ジャーナリストとして初めて日本サッカー殿堂に掲額された。

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