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日本サッカー通史の試み⑳ チョー・ディンの登場と日本サッカーの高度化

20. チョー・ディンの登場と日本サッカーの高度化

 サッカーが高等教育に普及するにつれて、高学歴の選手たちは単にロングボールを蹴りあったり、ドリブルで抜いていくだけの単純なサッカーにあきたらなくなっていく。しかし、パッシング・ゲームの戦術やそれに必要な技術を教えることのできる日本人指導者はいなかった。そこへタイミングよく現れたのが、東京高等工業学校(現・東京工業大学)のビルマ人留学生チョー・ディンであった。東京高師グラウンドでサッカーをしていることを聞き、1920年秋から東京高師に来て、附属中学の生徒と親しくなる。1921年極東選手権上海大会の日本代表となる全関東蹴球団は東京高師附中を相手に練習していたが、そのコーチを買ってでた。東京高師附中OBで早稲田高等学院生だった鈴木重義の紹介で早稲田高等学院コーチとなり、1923年から始まる第1、2回の全国高等学校蹴球大会を連覇させ、一躍コーチとしての名声を得る。ディンはまた、アストラ倶楽部のコーチとして同倶楽部を1923年第3回全国優勝競技会(現・天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝させている。

 1923年には『How to play association football』(平井武 1923)という本を著す(本文は日本語)。本書は図や写真を多用して、可能な限り技術や戦術を具体的に記したものである。エンジニアらしく、理路整然とした語り口で、例えばウイングが狭い角度からシュートを打つことの非を三角関数を用いて説明している(p.40)。本書の奥付は「大正十二年八月二十三日発行」となっているが、その9日後に起きた関東大震災により東京高等工業学校が被災し、暇になったディンは本書を指導書に日本各地に巡回コーチに出る。彼の理知的な指導法は日本の学生たちに感銘を与えたようで、戦前戦後を通して日本サッカーのテクニカル面での指導者であった竹腰重丸(1936年オリンピック・ベルリン大会代表コーチ、戦後2回代表監督を務める)はその著書『サッカー』(旺文社 1956)で、日本サッカーの発展におけるディンの貢献を以下のように記述している。

“大正十二年(一九二三年)一月に開始された第一回全国高校(旧制)大会に早稲田高等学院が優勝したが、同校の優勝によって、そのチームをコーチしたビルマの留学生チョー=ディン(Kyaw Din)氏の名が全国に伝わり、多数の者がその指導を受けた。いわゆるショート・パス戦法は、同氏の指導を受けた人たちによって普及され、拡充されたものであって、同氏がわが国サッカーの近代化に貢献したところは多大であった。

 同氏の教えたショート・パス理論は「むりにドリブルで抜かなくても、二人でパスを用いて一人の敵をたたけば、けっきょくゴール前で一人をあましてフリー・シュートできる」ということに要約されるもので、戦術理論としてはすこぶる単純なものであった。

 しかし、同氏にキックやヘッディング、ドリブリング、タックリングなどの正確な方法と、その理論を教示された結果、基礎技術が急激に進展したことは大きな収穫で、キック・アンド・ラッシュ式のやり方から、従来よりもはるかに確実にボールを保持して侵入する攻撃方法の技術的な裏づけができたわけである。

 大正十一年(一九二二年)の秋、山口高等学校で筆者もはじめて同氏の指導を受けたが、ペナルティー・エリア線付近からのキックで、十回中に六、七回ぐらいは確実にバーにあてる美技や、ヘッディングの正確さには目を見はったものであるが、それにもまして大きな収穫であったのは、キックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用して考えることを教えられ、 サッカーは考えることができるスポーツであることを知ったことであった。

 それまでのサッカー練習では円陣を作って蹴り、ドリブルをし、ゴール・シュートの練習をしてのち、練習試合をするといった、単に前から行われていた練習方法をまねるに過ぎないもので、バーを越すシュートをすれば「下げて、下げて」と主将なり先輩にどなられるだけであり、なぜバーを越したかまたどうすれば上がらないですんだかを反省し、くふうすることははなはだまれであったといっても過言ではなかった。それが同氏の指導を機として「精神力と慣れ」のサッカーから、フォームやタイミングなどと照らし合わせて原因・結果を追求する科学性を加えた練習方が進歩したので、種々の技術が飛躍的に向上していったわけである。”(太線は竹腰による)

 ディンの「直伝」を受けた早大の鈴木重義、東大の竹腰重丸らによって日本のお家芸となるショート・パス戦術が完成され、1927年極東選手権上海大会における初勝利(対フィリピン戦 鈴木主将 竹腰選手)、1930年極東選手権東京大会優勝(鈴木監督 竹腰主将)、1936年オリンピック・ベルリン大会でスウェーデンを破ってベスト8入り(鈴木監督 竹腰コーチ)、という戦前日本代表の躍進につながっていく。

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