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日本サッカー通史の試み⑰ 初の代表アウェー戦

17. 初の代表アウェー戦

 1921年1月30日に体協と日本青年運動倶楽部との妥協が成立し、1921年第5回極東選手権上海大会には両団体が合同で参加することになった。大会は5月に開催されたので、この段階では大日本蹴球協会は設立されておらず、体協の蹴球委員会がサッカーの代表を選考した。委員長は東京高師の柔道出身で、卒業後米国留学し、シカゴ大学アメフト部の名コーチ、アモス・アロンゾ・スタッグ教授(カレッジ・フットボールの殿堂、バスケットボールの殿堂入り)に師事して最先端の米国コーチ学を学んだ新進気鋭の体育指導者岡部平太、委員は東京蹴球団の山田午郎、吉川準治郎であった。陸上競技のような個人競技と同様、予選会を勝ち抜いたチームが代表チームとなる方式で代表が選抜された。体協の蹴球委員長岡部平太が「私的」に結成した、東京蹴球団、東京高師、東大からのピックアップチーム、全関東蹴球団が関東予選を勝ち抜き、関西代表の関西学院と2試合代表決定戦を行い、6-0、5-0で完勝して代表となった。代表14名の内訳は東京蹴球団7名、東京高師6名、東大1名であった。

 この大会も対フィリピン1-3対中華民国0-4と全敗であった。試合経過の詳細については、安達太郎(山田午郎)「極東の覇を目指して」『蹴球』第5号 1933年8月 p.7-14 を参照されたい。東大の野津謙は後に第4代JFA会長になる。フィリピン戦で唯一のゴールを記録した東京高師の後藤基胤は卒業後新設の湘南中(現・湘南高校)の蹴球部指導者となり、同校を関東有数の強豪に導いた。東京高師OBの佐々木等は「監督」という名目で参加しており、形式的には「最初の日本代表監督」ということになる。

 対中華民国戦では、中華民国のラフプレーに負傷者続出であった。1921年6月10日付『東京朝日新聞』の「真実の力量からは我選手は敗けはせぬ 総ての条件が悪かつたのだ 野球は雨と球不足、非人道、非運動精神の支那蹴球選手の行為 我国は比律賓に鑑みよ 野口源三郎氏感想談」 と題する記事で、日本選手団の役員だった野口は以下のように述べている。

“蹴球は元来が支那の特技である上に応援の幾万は悉く支那人と来てる。之だけで多少気の挫ける所へ勝に乗じた支那選手の横暴は極まれりで過って倒れた我選手の頭部を蹴って昏倒させ負傷させる者も頻出した。而も我選手は隠忍よく純真なる運動家精神を発揮し、控え室に入って後始めて私達に縋りついて悲憤の涙をこぼした。大体は以上の如く支那選手には尚運動家精神の体得が不十分であると信ずる。”

以後1世紀近く、中国人は「運動家精神の体得が不十分」の伝統を大切に堅持しているようである。

 全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。

陸上:比 日 中
水上:比 日 中
野球:比 日 中
テニス:比 日 中
サッカー:中 比 日
バスケットボール:中 比 日
バレーボール:中 比 日

4年前の1917年第3回極東選手権東京大会と同様、サッカー、バスケットボール、バレーボールで日本は最下位であった。

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