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日本サッカー通史の試み④ 大正期におけるスポーツおよびサッカーの定着とその背景

4. 大正期におけるスポーツおよびサッカーの定着とその背景

 明治末から大正期にかけてが、日本におけるスポーツおよびサッカーの定着期であるといえ、以下の事象がみられる。

1) 現在に続くスポーツ団体が設立される。
2) 現在に続くスポーツ大会・リーグ戦が始まる。
3) オリンピック、極東選手権のような国際スポーツ大会に参加する。
4) ナショナル・スタジアムというべきスポーツ施設が建設される。
5) 商業スポーツ専門誌が創刊される。

以上をざっと年表化すると以下のとおりである。

1911(明治44)年 大日本体育協会(体協)設立 『野球界』創刊
1912(明治45)年 オリンピック・ストックホルム大会に日本初参加
1913(大正2)年 日本陸上競技選手権大会開始
1915(大正4)年 大阪朝日新聞主催全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)開始
1917(大正6)年 第3回極東選手権東京大会開催 東京蹴球団設立
1918(大正7)年 大阪毎日新聞主催日本フートボール大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会および全国高等学校ラグビーフットボール大会)開始
1920(大正9)年 オリンピック・アントワープ大会に参加 『運動界』創刊
1921(大正10)年 大日本蹴球協会設立 第5回極東選手権上海大会に参加 全国優勝競技会(現・天皇杯)開始
1922(大正11)年 東京蹴球団主催東京朝日新聞後援関東少年蹴球大会(小学生のサッカー大会)開始
1923(大正12)年 第6回極東選手権大阪大会開催 東京帝大主催全国高等学校蹴球大会開始 『アサヒスポーツ』創刊
1924(大正13)年 サッカーの東京コレッヂリーグ(現・関東大学サッカーリーグ)開始 オリンピック・パリ大会に参加 大阪毎日新聞主催選抜中等学校野球大会(現・選抜高等学校野球大会)開始 明治神宮外苑競技場開場 阪神甲子園球場開場 明治神宮競技大会開始
1925(大正14)年 明治神宮野球場開場 東京六大学野球連盟のリーグ戦開始 第7回極東選手権マニラ大会に参加

 サッカー関連ではこの時期に小学校から大学まで各種大会・リーグ戦が揃い、国際大会(極東選手権)に参加し、日本代表チームが結成される。日本協会(JFA)が設立され、日本選手権も始まる。

 こうしたスポーツ興隆の背景には明治期と異なる大正期の社会的変化があった。

4.1 中・高等教育の拡大

 大正時代には中・高等教育進学希望者が増大し、進学競争の激化、進学浪人の増大が社会問題化した。1917(大正6)年に臨時教育会議が設置され、その答申に基づいて中・高等学校が大幅に増設されることになった。また、1918(大正7)年に帝国大学令に代わって大学令が公布され、従来の官立帝国大学以外に私立大学、単科大学の設置が公認された。 1917(大正6)年から1926(大正15)年にかけての中学校、高等学校、大学の学校数、生徒・学生数の増加を以下に示す(出拠:『学制百年史 資料編』(帝国地方行政学会 1972))。

1917年中学校学校数 329 1926年中学校学校数 518 増加率 +57.4%
1917年中学校生徒数 153,891 1926年中学校生徒数 316,759 増加率 +105.8%
1917年高等学校数 8 1926年高等学校数 31 増加率 +287.5%
1917年高等学校学生数 6,584 1926年 高等学校学生数 18,107 増加率 +175.0%
1917年大学数 4 1926年大学数 37 増加率 +825.0%
1917年大学学生数 9,044 1926年大学学生数 52,816 増加率 +484.0%

第一次世界大戦後10年間で中・高等教育人口は急激に拡大し、1920年代のスポーツ人口拡大の直接の要因となった。

4.2 鉄道網の整備

 この時期に日本の全国鉄道網が完成し、中等野球や中等サッカーの全国大会の開催が可能になる。また、都市交通網(路面電車)もこの時期完成し、東京では山手線内なら路面電車でくまなく移動できるようになる。数万人を収容するスタジアムが開場するが、短時間でそれだけの人数を運べる都市交通網が整備されていたことを意味する。

 中・高等教育の拡大と鉄道の整備は、当時の原敬政友会内閣の四大政綱のうちの2点であり、スポーツ発展の基盤はいわば「国策」で整備されたのである。

4.3 新聞社の成長

 この時期は新聞社が急成長した時期でもあり、今日の野球やサッカーの高校選手権大会は新聞社主催のスポーツ・イベントとして始まっている。現在のサッカーの高校選手権に続く日本フートボール大会を主催した大阪毎日新聞を例にとると、以下のとおりである。

1) 発行部数 1912(大正1)年の発行部数 283,497 1926(大正15)年の発行部数 1,230,869 増加率 +334.2% (出拠:『毎日新聞販売史. 戦前・大阪編』(川上富蔵編著 毎日新聞大阪開発 1979)の「発行部数一覧表」(p.604)) 大正末には発行部数100万部を越えている。

2) 資本金 資本金50万円の合資会社だった大阪毎日新聞社は、1918(大正7)年12月21日に株式会社に改組し、資本金を120万円に増資、1922(大正11)年5月10日250万円に増資、1924(大正13)年10月10日500万円に増資している。わずか6年間で資本金は10倍になっている。(出拠:『近代日本新聞小史 : その誕生から企業化まで 改訂版 』岡満男著 ミネルヴァ書房 1973 (p.203))

 大阪毎日新聞社は大正期に定期的スポーツ・イベントとして、サッカー、ラグビー、駅伝、野球、硬式庭球、オリムピック、競漕、陸上競技、水泳、バレーボール、バスケット・ボール、相撲、の大会を主催・後援している(出拠:『大阪毎日新聞社史』(小野秀雄著 大阪毎日新聞社 1925)「第二編 第五章 発行部数百万部を突破す」(p.149-150))。これらの中には、高校ラグビー、選抜高校野球、高校駅伝、浜寺水練学校などのように、今日まで毎日新聞社主催で引き継がれてきたものもある。

 大阪毎日新聞社には1925(大正14)年時点で「運動課」が存在し、スポーツを報道するだけでなく、これらスポーツ・イベントを取り仕切っていた。なお、大阪朝日新聞社に「運動部」が誕生するのは、第6回極東選手権大阪大会が開催された1923(大正12)年であり、同年にスポーツ総合誌『アサヒスポーツ』を創刊している。

 現在でも甲子園の春夏の高校野球、花園 の高校ラグビー、京都の高校駅伝のように、毎年関西で開催される全国大会が多いのは、大阪毎日新聞社とそのライバルである大阪朝日新聞社が当時の日本の新聞社中頭抜けて規模が大きかった名残である。

Further readings:
1) 「大正期における大阪毎日新聞の成長とスポーツ・イベント

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