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日本サッカー通史の試み⑧ 極東選手権と日本

8. 極東選手権と日本

 極東選手権は1912年マニラで開催されたカーニバルの国内競技会から発展したもので、1913年マニラで第1回大会が、1915年上海で第2回大会が開催された。中心人物は米国YMCAからフィリピンに体育指導者として派遣されたエルウッド・ブラウンであり、米国のフィリピン統治の成功を誇示するねらいがあったと考えられる。日本にも参加要請があったが、体協はいたって冷淡であり、その理由を大日本体育協会編『大日本体育協会史』(大日本体育協会 1936-37)は以下のように述べている。

“斯く本会が三回頃まで冷淡であったのは、大会の諸規約が在比支の米人が作製したものであること、然かもその米人が基督教関係でその宣伝に利用するといふやうな漠然たる輿論につられ、当時極東における唯一のI・O・Cメンバーを有してゐた日本としては極東大会よりは国際オリムピックと云ふ優越感も含まれてゐた。且つ本会の財政は創立間も浅く甚だ心細いもので、隔年毎に国際競技へ日本の面目を維持する大チームを出場させる見透しがつかなかったことなどに起因する。”(上巻 p.739-740)

 大日本体育協会は1909年嘉納治五郎がIOC委員に選出されたのをきっかけに、1911年、翌1912年オリンピック・ストックホルム大会参加を目的として設立された。会長は嘉納治五郎である。極東選手権の指導者はYMCA系の白人であり、会場もフィリピンでは米国統治下のマニラ、中国では上海租界であって、白人が有色人種を指導する性格のものであった。IOCにおいて欧米先進国と対等な立場に立つことを誇りとする体協(嘉納治五郎)は、極東選手権のこうした胡散臭さを警戒していたようである。しかし、第1、2回大会に日本はまったく関係しなかったわけではなく、大阪毎日新聞社がスポンサーとなって少数の選手を派遣している。

 ブラウンから第3回は日本で開催してほしいという依頼があり、フィリピン、中国で開催できたものを大国日本が開催できないというのは国辱であるとの意見もあり、1917年第3回極東選手権は東京で開催されることになった。1912年オリンピック・ストックホルム大会に参加はしていたが、陸上競技に2選手を派遣したのみで、その後第一次世界大戦のためオリンピックは中断していたので、日本にとって国際総合競技大会への実質初参加であり、かつ初開催となった。種目は陸上競技、自転車、水上競技、テニス、野球、サッカー、バスケットボール、バレーボールであった。なお、前年の1916年には大阪朝日新聞社は鳴尾運動場において「関西予選会」を主催しており、極東選手権に対する並々ならぬ関心を表している。

 各競技の成績はポイント制で表され、総合点を競う形で実施された。参加3国・地域中日本は陸上競技、自転車、水上競技、テニス、野球で1位、サッカー、バスケットボール、バレーボールは最下位であった。特に水上競技では圧勝しており、1930年代のロサンゼルス、ベルリン両オリンピックで世界制覇する「水泳ニッポン」の下地はすでにこの時点であったようである。球技でも明治期に普及していた野球、テニスは優勝したが、サッカー、バスケットボール、バレーボールは惨敗であった。日本が総合優勝し、開催国の面目をほどこした。

 体協は開催にあたって寄付金を募ったが、入場料収入により大幅な黒字となり、剰余金は寄付額に応じて寄付者に返還するほどで、大会運営は大成功であった。新聞はこの大会を大々的に報道し、大正時代のスポーツ・ブームの幕開けとなった。剰余金を次回大会への準備金としなかったことは、次回大会への参加可能性を否定するものであったが、多数の選手が国際競技会の興奮を経験したことは日本スポーツ史の転機となった。

 欧米で開催されるオリンピックには少数の種目・選手しか参加できないが、極東選手権には多くの種目・選手が参加できる。体協は極東選手権というパンドラの箱を開けてしまったのである。

 こうして1917年第3回極東選手権に初参加したが、問題は次の第4回1919年極東選手権マニラ大会に体協として参加するかどうかだった。体協としては、開催月の5月は学生主体の日本にはふさわしくないので、8月にしてほしいと要求し、拒否されたことを表向きの理由に1919年3月17日理事会で不参加を決定する。裏の理由は嘉納の反対と1920年開催のオリンピック・アントワープ大会参加優先を前提とする財政問題だった。創立の経緯からオリンピック優先を前提とする嘉納に対して、第3回極東選手権東京大会で自らの実力を知り、次回極東選手権を目標として練習していた現役選手は猛反発する。『読売新聞』の見出しを拾ってみると、

1919年4月21日  大日本体育協会 改善の声 極東大会不参加は専制的なり
1919年5月2日   運動団実行委員、嘉納校長を訪問して意見を述ぶ
1919年5月17日  十一校選手連名して体育協会と絶つ 極東大会脱退からの紛憂

などがあり、4月21日付け記事には「大日本体育協会に対する要求」として以下が掲載されている。

“体育協会は一般運動界の与論を尊重すべく一二少数者の独断を以て濫りに事を決せざる事、右の目的を貫徹せしむる為広く社会各方面より[?]に運動に理解ある識者並に常に運動家と接触を保てる士を選任して委員中に加入せしめ委員会の決議によりて事を行ふこと(慶、明、日歯、早、帝、駒場、一高、農大、高師聯合運動部委員)”

「一二少数者の独断」が嘉納をさすのはいうまでもない。嘉納が校長をしている高師学生も連名に加わっている。結局、大阪朝日、大阪毎日の両紙の支援をうけて結成された大阪の日本青年運動倶楽部(発起人総代:武田千代三郎大阪高商校長)が体協に代って第4回マニラ大会に参加する(サッカーは参加せず)。同倶楽部は大会後も解散せず、次の第5回1921年極東選手権に日本を代表する体育団体として、極東選手権を主催する極東体育協会側から認知されるに至る。体協は、極東大会不参加問題をめぐって、日本を代表する体育団体の地位を大阪の日本青年運動倶楽部に奪われかねない「存亡の危機」となった。

 東京高師の大学昇格問題で高師校長を辞任した嘉納体協会長はオリンピック・アントワープ大会参加を機に1920年6月8日~1921年2月10日にかけて「外遊」する。会長不在となった体協は副会長岸清一が中心になって日本青年運動倶楽部と交渉し、1923年日本開催の第6回極東選手権を大阪で開催することで、体協と日本青年運動倶楽部は嘉納の帰国直前の1921年1月30日合意(1921年は両団体合同参加。1923年以降は体協が日本を代表)する。交渉のプロ岸清一(本職は弁護士)は、日本青年運動倶楽部のバック大毎、大朝両紙がのどから手が出るほど欲しがっている極東選手権の大阪開催を決め手に見事に問題を解決し、体協の危機を救ったのである。カヤの外に置かれて完全に立場のなくなった嘉納は帰国後間もない1921年3月8日に体協会長を辞任し、岸が第2代会長に就任する。

 日本は1921年第5回上海大会以降、最終の1934年第10回マニラ大会まですべてに参加することになる。当時体協は陸上競技と水上競技の日本選手権を直轄していたが、陸連、水連の設立後はオリンピックと極東選手権の両国際競技会のみを管轄することになる。1924年に始まる明治神宮競技大会(現在の国体に相当)は神社行政を主管する内務省主催であった。

 発展途上の日本サッカーは極東選手権での勝利、優勝が当面の目標となる。

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